町田市立博物館ーー「町田発! 噺家・とり・こんちゅう 理科をそだてた挿絵画家 天木茂晴」展。

町田国際版画美術館。まちだゆかりの作家展。

赤瀬川源平(1937-2014):前衛芸術運動。

岡崎和郎(1930生):複数性。マルチプル思想(複数制作作品)。

中里斉(1936-2010):アメリカを拠点。最小限の色と形で構成した絵画と版画

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町田市立博物館。本町田遺跡公園(縄文と弥生の竪穴住居がある)の隣。

「町田発! 噺家・とり・こんちゅう 理科をそだてた挿絵画家 天木茂晴」展。

 幼児・児童向けの観察絵本や教科書、学習参考書・百科事典等に、植物や鳥の挿絵を20代の終りから40年という長い時間と膨大な量、描き続けた挿絵画家が天木茂晴だ。徹底的な観察と熟達した水彩画報で、正確な植物精密画を描いた。40歳ころにようやく生活が安定する。1986年、76歳で逝去。

1963年、50歳から都内から町田市に転居し、自宅近くの植物を描いた作品は、貴重な学術的資料にもなった。

日本画家・川端玉章の私設美術学校、川端画学校(1909年設立)で日本画を学んだ。1947年以降の図鑑ブームに乗って膨大な仕事をこなしていく。

児童向け科学雑誌『キンダーブック』(フレーベル館)、『学研の科学』(学研)などで、私もよく手に取った。現代でいうボタニカルアートだ。

「原稿控」というタイトルをつけたノートが展示されていた、依頼を受けた挿絵の、政策年月日、書籍名、挿絵内容(動植物)、寸法・掲載ページ、などが記されている。ちなみに1973年3月分を数えると44件の絵だ。怒涛の仕事量だ。

年譜をみると、「、、か」という表現が多く、この人物についてははっきりしたことがよくわからないようだ。忘れられた画家である。

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 「名言との対話」11月25日。國弘正雄「とても橋にはなれなかったが、橋げたの一つぐらいにはなれたのではないかな」

國弘 正雄(くにひろ まさお、1930年8月18日 - 2014年11月25日)は、日本の同時通訳者翻訳家文化人類学者、政治家。

英語の同時通訳の草分け的な存在。1969年のアポロ11号の月面着陸を伝えるテレビ中継番組における同時通訳などで有名になった。1965年からNHK教育テレビで「英語会話中級」講師を務めたから、私もよく知っている。1971年からは同じくNHK教育で「トーク・ショー」の司会者として人気を集めた。しかし同時通訳は「口先労働者」ではないかと考えるようになる。三木武夫外相秘書官、文化放送にて「百万人の英語」講師を務め、1978年からは日本テレビの「NNNジャストニュース」のキャスターを、1983年からは「NNNきょうの出来事」のキャスターをそれぞれ務めた。 そして1989年、旧社会党から参議院議員選挙に出馬し当選、1期務めた。

自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』を読むと、同時通訳という職業を通じて得た人脈の豊富さに驚かされる。賀川豊彦。木川田一隆。キッシンジャー。トインビー。ラルフ・ネーダー。ファハド。サダトケネディ。フォード。マンスフィールドフルブライト。トフラー。オッペンハイマー。、、。

「同時通訳の神様」「日本のライシャワー」「日本外交のキッシンジャー」「ミスター護憲」などさまざまの名前で呼ばれた。著書は100冊以上ある。エネルギーの塊だった。

 父は77歳で他界するのだが、自伝『國弘正雄の軌跡 烈士暮年に、壮心己やまず』は78歳で刊行している。父の年齢を超えて自伝を書くことにしたのであろう。享年84。

 新渡戸稲造は、東京帝大の面接試験で「太平洋を架ける橋になりたい。日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及する仲立ちになりたい」と答えた。國弘は中学時代に、このエピソードを知りに感動し、国際人となることを決意する。そしてその志を英語という武器を携えて、新渡戸を師匠として生涯かけて追求した。その総括が「橋」ではなく「橋げたの一つ」という謙虚な言葉になった。この人の八面六臂の活躍を眺めると、若い時代に得た「志」に沿って一貫した人生を送ったのだとの感慨を覚える。 

 

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡

烈士暮年に、壯心已まず―國弘正雄の軌跡