筆債をひとつ処理。原稿のチェック。

筆債をひとつ処理。11月8日の分を済ます。あと一つ。

 横山 隆一(よこやま りゅういち、1909年5月17日- 2001年11月8日)は高知県高知市出身の漫画家アニメーション作家。

 母が西郷隆盛を好きだったことで隆一という名前がついた。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成。そして戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年、新聞連載の4コマ漫画「フクちゃん」が始まる。この連載は戦前戦後を通じ、およそ35年間、5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になった。始まった翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞。

NHKアーカイブスでは 「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き。遊びの天才。収集物では、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなどが変なものが紹介されている。この人は忙しい時ほど遊ぶのが信条のユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業であると考え、職業漫画家の道を選ぶ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は「ナンセンス漫画」で世に出ようと志す。ナンセンス漫画の風刺は相手が気がつかなければ、単なるナンセンスにすぎない。しかし隠された小さな針に気がつく人だけが読者でいいとの思いだった。その実例をあげてみる。

手術の風景を描いた漫画と「お医者を怒らせたバカ「よし ますいなしで手術しよう」の言葉。首つり自殺をしようとする漫画と「失敗したときの予備もつくるバカ」の言葉。海で水かけをする男女の漫画と「たのしく大腸菌をかけあうバカ」という言葉。、

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関加藤芳郎、前頭に手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名がみえる。2002年には、郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたのだが、残念なことに本人はその前年に亡くなった。

1997年発刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、大いに共感する言葉で締めくくられている。「「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。、、海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらをみがいて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、捨てるのもおしいなと思われるような作品を作ることを画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。 

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

横山隆一―わが遊戯的人生 (人間の記録 (17))

 

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・ほとんど丸一日かかって「読書悠々」の原稿の最終チェック。

・ヨガ1時間・ジム35分ウオーキング

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「名言との対話」11月12日。宇野収「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」

宇野 収(うの おさむ、1917年5月29日 - 2000年11月12日)は日本実業家東洋紡績社長や関経連会長を務めた。

東洋紡社長、会長。関西経済団体連合会会長に就任し副会長時代も含め11年にわたり、関西国際空港、学研都市、大阪ベイエリア構想などビッグプロジェクトを手掛け、関西の活性化に尽力した。7年間の任期中に822件、事業費にして計41兆円のプロジェクトが生まれている。また地方制度調査会会長として地方分権を推進した。

「なにわ塾」というビジネスマンの会の塾生との問答をまとめた『呼ばれてこの世の客となり』を読んだ。中で「運」について何度か語っている。「5度ほど会社を辞めようと思ったが、上司や友人に止められたことは結果的に運がよかった」「あるところまでは自分でやって、あとは運を天に任せる」「運は努力することを前提として開けるものだ」。、、、。

宇野は一浪して三高、一浪して東京帝大入学する。3歳年下の梅棹忠夫のことがでてきて驚いた。飛び切りの秀才で、小学5年から京都一中、中学四年から第三高等学校。しかし登山に熱中して三高に5年いたと紹介している。

宇野収には財界人としての顔と、もう一つ『「青春」という名の詩』の共著者(作山宗久)、訳者という顔がある。今となっては有名になった詩である。以下に示す。

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青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。

薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。

青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。

ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。

年を重ねただけでは人は老いない。

理想を失うときはじめて老いる。

歳月を皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ、

苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、人生の興味への歓喜がある。

君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。

人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、20歳であろうと人は老いる。

頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む。

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1982年、宇野収が日経新聞に「青春」の一部を紹介し大きな反響を呼ぶ。1985年、「青春の会」が発足、財界のトップたちの共感を呼び、大きなうねりとなった。その2年後、財界人200名による「青春」と作者を讃える大会が開催され、著者のウルマンの遺族も来日。1992年にはサムエル・ウルマン賞が制定された。各界から浄財が募られ、ウルマンゆかりの地バーミングハムにサムエル・ウルマン記念館が開館した。

 宇野収は、「呼ばれて、、」の中で、「倫理観が甘くなってしまった。政治、行政、司法。何かあった時にしたの人だけが責任をかぶることは問題外。 個人個人の倫理観をいかに高めていくか。教育の原点に倫理観を据えよう。」と社会に警鐘を鳴らしている。

 「その場その場で手を抜かずに全力を出し切ること、それが大事だ」と語る宇野収は、自然体でどの職場でも全力を出す。だんだんと人物が大きくなっていく。そして高い地位で大いなる仕事を遂行していく。座右の銘とした「青春」の詩のとおり、理想を掲げ、希望の波をとらえ続けた青春の人だったように思う。 

呼ばれてこの世の客となり (なにわ塾叢書 (68))

呼ばれてこの世の客となり (なにわ塾叢書 (68))