大学。水曜日は会議の日。いろんな人に会った。コロナゥイルス対策。
・志賀、中庭、今泉先生。
・ラウンジ:杉田、小林、趙、長島先生。
・高野課長。
・事務局:川手事務長、水嶋総務課長。水谷IR室長。水盛先生。
知研:3月の総会の件。八木会長、高橋副理事長、福島事務局長と電話で相談。
電話:中津の松田君、藤田君。
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「名言との対話」3月4日。保利茂「百術は一誠に如かず」
保利 茂(ほり しげる、1901年(明治34年)12月20日 - 1979年(昭和54年)3月4日)は、日本の政治家。
衆議院議員、内閣官房長官、衆議院議長、労働大臣、農林大臣、自由民主党幹事長、自由民主党総務会長を歴任した。
高等小学校を卒業し唐津鉄工所につとめる。14歳での出発だった。その後、専検に合格し、苦学の末、中央大学や幹部を卒業。報知新聞入社、東京日日新聞の政治記者、大阪毎日新聞。9年半の新聞記者生活に終止符を打ち浪人。
43歳で衆議院議員に当選。13か月の追放解除後、46歳の保利は70歳の吉田茂と出会い、自由党を誕生させる。48歳、吉田内閣の労働大臣として初入閣。以後、8ヶ月を除いて内閣に列し、吉田を補佐した。内閣官房長官就任時には吉田から「総理大臣だったらどうするか、そう考えて官房長官の仕事をしてもらいたい」と言われている。
吉田の後継となった池田勇人と対抗し、佐藤栄作を支持し、落選も経験した1。10余年の雌伏の期間を堪えている。「落選がわたしを変えた。高い授業料だった。大変な勉強になった」と述懐している。佐藤栄作内閣の農林大臣として13年ぶりに入閣、大番頭の官房長官もつとめた。福田赳夫をかつぎ田中角栄に反対したが、田中内閣では角福の接着役として入閣する。田中金脈追求で極まった田中に退陣の引導を渡している。三木総理の後継として大平・福田提携による福田一本化の証人となった。75歳で衆議院議長に就任。「内閣は福田、党は大平、国会は保利」と評された。保革伯仲国会の運営パターンは保利議長の仕事であった。
岸本弘一『一誠の道 保利茂と戦後政治』(毎日新聞社)によると、保利の座右の書は「西郷南洲遺訓」である。「事大小無く、正直を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用ふべからず」と保利はよく口にしていた。そして号は風貌のように鈍重な牛が横になっている姿の「臥牛」だった。「政治家は宗教心を持たなければいけない」。「私は分を心得ています」と述懐している。
そして保利茂の信条は「百術は一誠に如かず」であった。この言葉は、平安時代前期の歴史書『日本三大実録』の信濃守・橘良基の言葉からきているらしい。吉田松陰の叔父である玉木文之進がこの橘を慕い、座右の銘にしていた。政治家でこの言葉を座右の銘にしている人は多い。小沢一郎、愛知揆一、鈴木俊一、経済界でも細谷英二などがいる。この言葉は長い時間をかけて人間同士の信頼関係が熟成されることを意味している。私も同感する。
保利茂は分を心得た脇役として裏方に徹する。そのため若い頃から策士、謀将などのそしりを受けたことがあったが、一誠をもって仕事をし、その人柄と人望はしだいに大きくなっていった。最後は与野党双方からの信頼も厚く、名議長と呼ばれている。