リレー講座:白井さゆり先生「ESG経営と投資ーコロナ危機以降の世界の潮流」ーーSDGsとESGに向けて行動を変えよう!

リレー講座の講師は白井さゆり先生。テーマは「ESG経営と投資ーコロナ危機以降の世界の潮流」。

ESG(環境・社会・ガバナンス)投資。ガバナンスを効かせて環境問題や社会問題の解決に向けて投資する。

SDGS(Sustainable Development Goals)。持続可能な開発目標。

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 世界は3つの危機の繰り返しだ:経済・金融。気候変動・地球環境。感染症。気候変動によって動物との接触や森林の喪失などが原因で感染症が発生する。気温の上昇と温室効果(CO2。化石燃料由来)は比例していおり科学的に証明されている。近年の自然災害の大きさはこれによる。

アメリカ大統領選はESG投資を巡る戦い:トランプは2015年のパリ協定から脱退。バイデンは富裕層への増税で環境問題へ投資すると言っており、大統領になればSDGsとESGが加速する。産業革命以来気温は1度上昇している。このままいくと3度上昇する。

SDGsとESGへの流れ:2000年に国連が10原則(人権など)からなるグローバルコンパクトを設定し企業に配慮を要請。世界の優良企業が参加。欧中心。アクセンチュア、日本は住友化学1社。中国2社。

2006年にESGという投資責任原則(6項目)を定めた。環境と社会への投資。17の目標。金融機関(年金基金・保険)にESGの観点からの長期投資を要請。2000社以上が署名。日本のGPIF(年金基金)も書名。高所得国は80%程度できているが、低所得国はまだできていない。北欧が達成度が高い。日本は男女平等、環境に問題があり17位。日本政府は2013年基準でマイナス12%というが、3・11の津波でもっとも少なかった年を基準にしているからだ。1990年基準では減っていない。先進国は減ってきている。途上国は増えている。先進国の生産は途上国で行っているという仕組みもある。

2015年にSDGsという目標を設定。国に要請。195ヵ国が採択。

2015年に気候変動に関するパリ協定。先進国だけでなく途上国も巻き込んだ。気温上昇を1.5-2.0度に抑えようという目標。すでに0.5度上昇済み。

企業は最近「サステナビリティレポート」を公開している。SGGs経営とESG投資に向けてビジネスモデルの修正に入っている。VWやFBなどの企業の不祥事はガバナンスの欠如が原因だ。

日本企業は収益力(稼ぐ力)が弱い:ROE(自己資本で純利益を割った数字)のアップが必要だ。日本は5%、3.9%、アメリカは17、18%、欧州は中間。日本は2013年から上昇中で2017年は10.7%。しかしオリンピックや円安の影響もあり、持続可能か。

日本企業が資本効率が悪かったのはなぜか:内向き体質(取締役・執行役員への内部昇進、男女差別)。社外取締役は監視・モニタリング機能をもっと発揮しなければならない(年金基金等からのプレッシャーも)。株式の持ち合いで外国人投資家がなかなか入れない。差別化された企業はガバナンスがしっかりしており、変化を恐れない。コーポレートガバナンスコードでEとSへの投資情報開示を。株主(特に少数株主)の権利に配慮が必要。川上から川下まで株主以外にも注意を向ける。年金基金などとの直接対話が必要。社外取締役の独立化も必要。

現在はカタチができてきたところだ。しかし女性比率の少なさ、2014年からのROEの高さは本当の実力か? 実行性の段階に入っている。

国連のSDGs:これに寄与する。ステイクホルダー資本主義(取引先、従業員、、、)SDGsとESGは企業の生き残りそのものだ。

投資家(カネを出す)の目線:機関投資家(年金基金、保険、金融、、)は長期的視点でESG投資を意識している。できていなければ名前に傷がつくから死活問題となる。企業の株主総会で反対や提案をすることも増えている。建設的対話(エンゲージメント)が必要だ。資産保有者(GPIFなど)は資産運用会社を選ぶ。運用会社は企業と対話を。国連のPRIに署名したから行動が必要になる。

G20の2017年安定理事会で気候変動を含めた行動を要請する目標(「ガイドライン)がでた。TCFDの賛同。情報開示をする企業が増えてきた。

日本の金融庁は2014年にスチュワードシップコードを作成。機関投資家は方針を出す。投資先が持続可能な成長となるような対話を。サステナブル、、。

アメリカには意識の高い企業が多い。日本は3分の1と小さく真ん中あたり、これから大きくなる。株、債券、不動産、、、。世界では30兆ドル(3200兆円)規模だがまだ10%未満。行動を変えよう! でなければ、持続できない。

日本の株主総会みずほフィナンシャルグループに、株主NGOから「気候変動」について脱炭素を定款で明示せよとの提案があり賛成は34%あった。こういう時代だ。きちんとした計家が必要だ。報酬、資本コスト、総会で社長が議長でいいのか、、。変えていかなければ相手にされない時代になってきた。気候変動、政府も企業も変わらなければ持続できない。コロナ危機によってこの流れは強くなってきた。行動を変えよう!

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・松本先生・長島先生

・杉田先生

・電話:中沢さん

・帰宅後、11月分の「名言との対話」用の人選と本の注文。

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「名言との対話」10月15日。横松宗「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした」

横松 宗(よこまつ たかし、1913年大正2年7月19日- 2005年10月15日)は、近代中国思想の研究者教育学者

八幡大学(現九州国際大学学長魯迅の研究者、および同郷の福沢諭吉研究の第一人者である。

大分県中津市生まれ。旧制中津中学、広島高等師範を卒業。埼玉青年師範学校講師、中支那振興株式会社社員として中国へ赴任し、農村政策・管理の仕事に就く。帰国後、1956年九大大学院を修了後、八幡大学講師、教授、法学部長。1958年ロンドン大学に留学。1975年から八幡大学学長を二期つとめる。中津市在住。

中津に住む横松宗先生とは、帰省する旅に訪問する関係となり、四半世紀に及び指導をいただいた。以下は、亡くなった後の「追悼集」に投稿した私の文章である。タイトルは「宿命を使命にかえて」。

横松宗先生と初めてお会いしたのは英国のロンドンだった。昭和五三年か四年だった。当時私(昭和二五年まれ)は日本航空の派遣員としてロンドンヒースロー空港に勤務していた。私はまだ二十代だった。あれから既に四半世紀以上の時間が経っているから、当時の先生は六十代の後半だったことになる。中津在住の父や母からの情報で横松先生の学識や人柄については既に知識があったから、初対面という感じはしなかった。郊外のウインザー城を案内したり、ロンドンで観劇や食事をしたりして、当時の英国事情や私が関心を持っていることをお話した記憶がある。夜になって食事を済ませた後、私のボロ車が動かなくなって、先生に押してもらう羽目に陥った。「航空会社にいるのに自動車の整備が悪い、あれで腰が悪くなった」とおっしゃっていたと後で聞いて申し訳なく思った。
帰国後、ほぼ同時期に結婚した私と弟の中津での披露宴にお招きした時、先生からは「なんだか、恩師になったような気がするなあ」との言葉をかけてもらった。
東京勤務の私は年に数回、帰省する折、父や母と一緒に横松先生ご夫妻を訪問することが決まりのようになっていった。父はなかなか語り合う知己を持てない人だったが、横松先生とは肝胆相照らす仲だったようだ。
一度父が「横松先生が、お宅のお子さんは気宇壮大でいいですなあと言ってたぞ」と愉快そうに伝えてくれたことがあって、恐縮したおぼえがある。
毎度、訪問する度に、中津の歴史、中国や魯迅研究のこと、時事問題に対する考え、人物論、福沢諭吉論などを聞いて、その学識とものを見る眼に、私は自然に熟成するように尊敬の念を抱くようになった。
私は高校卒業と同時に中津を出ているから、中津という町のことは何も知らなかった。先生との交流の中から、福沢諭吉への関心が湧いて福沢諭吉協会にも入ったり、多くの偉人の出た郷里・中津という町の不思議さなどに目が開かれていった。このことはいくら感謝してもし過ぎることはないと思っている。
先生は『大正から昭和へ---恐慌と戦争の中を生きて』(河出書房)という自伝を昭和六四年に上梓された。私は『魯迅--民族の教師』(河出書房新社)という先生の著作も読んで、四半世紀以上の歴史を持つ中津の優れた同人誌「邪馬台」百一号に「福沢・魯迅そして横松」という小論を書いた。以下、その一部を引用する。
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横松は福沢を高く評価する一方で、その限界にも言及している。しかし、明治という時代の中で生きる福沢の限界には優しい目で対応している。
横松は批判的精神の旺盛な人物であるが、本人が背負う組織などの制約や生きる時代の空気、時節の中にある限界などには暖かい目を向けている。福沢の場合も時代の子である部分、後世において批判の対象となった言説、行動などについては、それもある程度仕方のないものとして容認する度量を持っている。
横松が福沢にひかれたのは、福沢は学者は政権に従属すべきではなく、むしろ政治の指導と診断に当たるべきだという信念をもっていたことに共感を覚えたからであろう。
横松は、権力というものに常に深い懐疑を持っている立場を補強する考えを、福沢の著作に見出したからである。
そういう意味では横松は自分の人生を福沢に重ね合わせているといえよう。
福沢にとっての中津への郷土愛と較べると、横松の場合はその深さが深刻であることは間違いないであろう。十七、八才まで中津で育ったという点では同じだが、生涯を通して七回しか中津に帰ることのなかった福沢と、その後四十年以上にわたって郷土の政治、思想、文芸、教育などにかかわった横松とは愛憎の深さが違うと思う。自分を育てた郷土への愛着とそしてそれ以上に自分を絡めとっている郷土への憎悪の量はケタ違いにおおきいと推測できる。
その横松は郷里から脱出できない横松自身の生き方の回答を、福沢や魯迅の著作や実践に求めようとしたのだと思う。
横松がこの本の中で指摘している福沢の原点ともいうべき「郷土愛のパラドックス」は、より以上に横松に当てはまるキーワードなのである。
また、横松は自身の思想形成に大きく影響を与えた二人の巨人、福沢と魯迅の共通点を『魯迅--民族の教師』(河出書房新社)の中で次のように指摘している。
魯迅の故郷である紹興と中津は社会環境が酷似していた。水田工作の田園的風景に囲まれた旧い城下町。そしてその中で、封建的人間関係の強く残っている旧い街並み等など。
魯迅にとっての紹興はふる里であり中国そのものであったのと同じように、福沢にとって中津はふる里であるが、それはまた日本そのものであったのである。
そういった育った社会環境に加えてさらにふたりの共通点として合理的科学精神をあげている。それは個人の自覚、個人の確立に大いに関係がある。また官僚主義反対という点でも両者は符節を合している。
まさに魯迅と福沢は横松の鏡である。

横松の自伝『大正から昭和へ』(河出書房新社)には、『福沢諭吉 中津からの出発』(朝日新聞社)で述べている福沢論を解く鍵があるように思う。
中津の山国川と金谷の土手、白堤防、水源地を愛する横松、気分のふさいだ時など、寸暇をみて金谷の土手のクローバーの上に仰臥する若き横松。こういった環境は私たちの時代(筆者は昭和二五年生まれ)とはすっかり変わってしまったと聞いてはいるが、同郷の私にも同じような体験がある。この本には実際に中津で育った者として望郷の思いを強くする記述がちりばめられている。
この『大正から昭和へ』は、大正デモクラシー、軍部の台頭、太平洋戦争などが横松の人生とオーバーラップしており、まさに生きた大正史、昭和史という内容になっている。
驚くべきことにこの本には書物や歴史の中に登場する偉人・賢人・豪傑などがきらめくように多数登場する。歴史上の人物が横松の人生行路にぞくぞくと現れてくる。この書を読み終えて、私は大正から昭和の時代を横松という一人の知性と一緒に旅した気持ちになった。読者としての私は、横松を通して中津を中心に歴史の中を紀行しているという感慨を持った。
歴史というものは本来こういう学び方をすべきものだろう。大正から昭和にかけての激動期に、これだけのひとかどの人物達に会いまくった横松には感嘆するのみだが、本人も言っているように「何でもみてやろう」という野次馬精神が旺盛な人である。書物で考え方を知るだけでなく、実際にその人に会うことによって理解をきわめようとする好奇心多き態度は参考になる。自分と異質の人物、はるかに優れた人物と会い続けるには多大なエネルギーが必要であるから、その総量も横松の場合多いのであろう。
その意味で横松の学問は書斎主義と現場主義を兼ね備えているのが特徴であると思う。自分より優れた国はないという不遜さが見えかくれする国家としての精神の鎖国、知的怠惰にも警鐘を鳴らし続ける横松の原点には、このような精神と行動がある。
また、同時代の人物だけでなく、ありとあらゆる書物をひもとき過去の時代の偉人や思想家と対話し、エッセンスをコンパクトに説明してくれている点もこの本の価値を高めている。
横松は自分の信念と相反することに煩悶をいだきつつ、しかしその中で自身の考え方を通していこうとする。常に自分の環境を利用、活用し知識を増やし、本来あるべき姿を模索し続けている。
横松は中国大陸においては侵略者の側に結果的に手を貸すことになるのだが、福沢の晩年における朝鮮、中国への強硬姿勢、日清戦争への支援などの行動は、時代の背景や空気、限界を考慮すべきであるといっている。
福沢の脱亜論の弁護は、自身の弁護でもある。

同人誌の使命は商業ベースをはみ出したものの中にいい質のものがあり、そういうものを育てることにあると横松は自伝『大正から昭和へ』の中で語っている。横松が四半世紀の歴史を持ち百号を迎えた地元の同人誌『邪馬台』に力を入れているのもうなづける。このすぐれた同人誌への関わり方は横松の中津への関わりかたの一つの象徴でもある。
また、横松は、数年おきにあらわれる飛躍のチャンスを自分以外の要因のため見送ってきた。可能性をひたすら捨て続けた人生であったといえよう。
まことに無念であろうと思うと同時に、その環境の中でもくさることなく精進、努力した点は見習いたい点だ。それは人間・横松宗の特徴でもある。
「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした。」と横松は自伝の中でその真情を吐露しているが、ここに横松の壮絶ともいえる心構えが見て取れる。
人間の一生は短い。しかし、その人間の書いた文章の寿命は長い。その寿命を信じて横松はこのような表現をしたのであろう。
書物を著す目的は、人のためではない。自分の疑問点を晴らすため、自分と対話するため、自分を説得しあるいは自分で納得するために書くのである。私は『魯迅』『大正から昭和へ』『福沢諭吉 中津からの出発』という三つの横松の著作を読む中で改めてそういう思いを強くした。
今大きく地殻変動を起こしつつある世界、ひとり繁栄の極みにありながら歴史への参画にためらいを見せている日本、そのような状況の中で「福沢が生きていたら大正、昭和(そして平成)を何と見たか」という横松の問いは、いまこそ大きな意味を持つのである。
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この小論を先生が読まれて「自分をこれほど理解してくれた人はいなかった」と、当時住んでいた千葉の家に電話までもらったことも思い出深い。

いつの頃からか、先生は私にしきりに「研究者になりなさい」と勧めるようになった。企業に勤めながら本を書いたりしている私の動きを見ておられてそう勧めていただいていた。その頃はそういうことができるのかどうか半信半疑で聞いていた。その後、四十代の半ばになった頃、思いがけず宮城県の県立大学創立に当たって声がかかり、平成九年に早期退職して仙台で宮城大学に奉職することになった。このことを先生はことのほか喜んでくれた。そして、折に触れて、教育・研究のことや大学での役職の心得や処世術について学長経験者としての有益なアドバイスをいくつもいただいた。

平成十三年に父(久恒照智)が亡くなった時は、弔辞を読んでいただいたことも忘れられない。父の数少ない友人として、父のことをよく理解された弔事は本当にありがたく思い、その内容はすべて私のホームページに入れてあり、時折読んでいる。(http://www.hisatune.net/html/05-career/private/titi.htm
以下、その一部を引用する。
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そのうち久恒さんは、生来持っていた向学の意欲おさえがたく、私たちの集まりにも出て、八六年(昭和六一年)からは「福沢諭吉を英語で読む会」に参加するようになった。この会は、福沢先生の唯一人の孫(当時)の清岡瑛一氏が、福沢の著書を英訳したものを学ぶ会で、まず福沢の教育論を学び、ついでに女性論を終え、十五年を経た今日は『福翁自伝』を輪読している。久恒さんは、始めて間もなく加わっていたように思う。
やがて、約二十人の仲間たちは、会合のあるごとに、久恒さんの博学と見識の深さにひきつけられるようになった。
だが、不幸にして、中途で突然脳こうそくにかかり病の床に臥すこととなった。その後は、夫人の看護を受けていたが、ときどき夫人の介助によって私の家にも訪ねてくれていた。私達のことばは十分に聞きとってくれていたが、みずからは自由に話すことができなかったことが残念であった。
久恒さんは、もともと多くの書物を読破されていながらも寡黙で、かつ文章を発表することもきわめてひかえ目であった。その中で、夫人も編集委員として協力している同人誌「邪馬台」に二度だけ文章を寄せている。その一つは七三号(八四年冬号)で、他は七九号(八六年夏号)であった。実はこの二つとも私の著書と論文に関する貴重な感想であった。その中には、中国文学中最も難解とされている魯迅についてのものもふくまれている。それは矛盾多きがゆえに、それだけ深い人間性をもつ久恒さんでなくては不可能のことであるといえる。
ここに私自身の文章にふれることは、いささかおこがましくもあるが、久恒さんの評論を今改めて読み返してみて驚いたことは、私の文について語っているところが、そのままご本人自身を語っていることである。文中にはしばしば私のことばを引用してくれているが、それらは、一つづつ久恒さんの人間理解の深さと広さをもって私の文の意味を補ってくれているとさえいえる。しかも久恒さんを知っていなかったということを教えられたのである。
「人生、一の知己を得れば足る」という諺がある。まことに人間にとって、己を知ってくれる友を得るほど尊いことはない。これからこそもっと深いお付合いをしてもっともっと互に啓発してもらいたいと念願していた矢先、かけがえのない友を失ったということは、何という悲しいことであろう。
久恒さんが役所でどんな生活をしていたかは、私はほとんど知らない。だが、少し立ち入ったことにふれることを許してもらえば、職場の中では、久恒さんの人間性をほんとうに理解してくれる同僚は少なかったのではないかと想像される。それだけに、その余命を十分に花咲かせてもらいたかったと思うのは私だけであろうか。
だが人間の運命というものは、予め考えていたシナリオ通りに進められるものではない。人びととの別れもまた同じであろう。とくに肝胆相照らす人との出会いは、それ自身すばらしいことだが、別れることは、それにも増して何と苦しいことであろう。
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平成十六年に、先生の九十歳の卒寿のお祝いの会が中津で催され、私も仙台から駆けつけた。そのとき先生は一時間ほどの講演をされて、その中で長寿の秘訣のようなものも話された。それは、仕事や人との交際を続けること、そして軽い運動と適度な飲酒というようなことだった。当日、新刊本『福沢諭吉 その発想のパラドックス』(梓書院)を参加者に配ったのには心底驚いてしまった。九十歳で著作を世に問うということの凄みを感じた。かくありたいものである。
その記念講演で「丸山真男君らと一緒に研究会をやっていた」という君づけ発言があり、丸山氏よりも年上であるということも大変驚いた。丸山真男といえば日本の政治学の最高峰で、私自身すでに歴史上の人物として認識した。横松先生は、一九一三(大正二)年生まれだが、激動の二十世紀を生き抜き、平成の世の中のいま、高い峰にあって見晴らしよく歴史の流れをみているのだと感銘を受けた。
当日のお祝いの会には中津の各界の名士が多数参加されて、その影響力の大きさを改めて感じることとなった。この会では思いがけず乾杯の挨拶を頼まれた。
『人間の偉さは、人に与えた影響の大きさの総量で決まるのではないか。横松先生は、広く影響を与え、深く影響を与え、そして卒寿のお祝いの会が示すように今日まで長く影響を与え続けているから、もっとも偉い人である。先生が中津にずっと留まったことは先生ご自身にとっては良かったかどうかはわからない。しかし中津という町にとっては明らかに僥倖とでも言うべきことだった。今後もお元気で自伝の続編の「昭和から平成へ」を書いていただきたい』と挨拶をした。
昨年(平成十七年)の秋に中津に帰る機会があった折、母とともに金谷の新居に先生を訪ねた。体調が思わしくないと聞いていたが、当日はややお疲れの様子はあったものの、いつものように話の輪に入ってくださり、夕刻になった帰り際には玄関の外までわざわざお見送りいただいた。それが最後のお別れという予感が私にはあった。先生ご自身もそのように感じておられたのではないだろうか。
そして先生は十月に永眠された。私は仙台から弔電を打った。
『横松先生のご逝去の報に接し、巨星墜つ、の感を深くしております。先日の帰省の折に、母ともども先生の謦咳(けいがい)に接することができましたが、今となっては最後のお別れができたとの想いがあふれております。奥様には、心からお悔やみを申し上げます。遠く仙台より先生のご冥福をお祈りいたします。』

先生は私が中国東北部吉林大学(長春市)の客員教授になるなど中国に関心が傾斜していくこと、福沢諭吉を中心に中津という町に関心が深まっていくことを喜んでおられたように感じている。
先生はさまざまな文化活動を実践したが、素晴らしいのはそれぞれの分野に後継者を育て上げたことだろう。包容力があって暖かい人柄の先生の市民への教育活動は、「塾」のような趣きがある。先生に薫陶を受けた多くの「横松塾」の塾生の存在は、文化の香りを強みにすべき中津という町にとっては、かけがえのない大きな財産だろう。
「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」とは福沢諭吉の偉さを語った当時の人々の言葉だが、横松先生は同じような存在だったのではないか。
私はここ一年以上、主として明治生まれで、明治から大正、昭和にかけて各界で活躍した人物を顕彰した人物記念館を訪ねる旅をしている。具体的には明治維新の前に生れた後藤新平から大正生まれの司馬遼太郎までというイメージだが、大分県では、朝倉文夫・瀧錬太郎・重光葵広瀬武夫といった人物群である。全国各地を訪ねてみると、風土が育んだ人物を風化させることなく、その仕事や精神を地域の財産として残そうとする動きも多いように感じている。
金谷の居宅の隣に建った先生の研究生活を支えた蔵書を収納した重厚な書庫は、中津の文化の光を消さないために、横松宗先生の点した松明(たいまつ)を引き継ぐための基地として残す手立てをいずれ考えるべきだろう。

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以上は先生への弔辞であるが、この「名言との対話」では、もっとも真剣に書いたものともいえる。ここに記して長く先生の遺徳を偲びたい。

「私の小さな生命はこの書を通して、わが国の大地に投げ棄てておくことにした。」と先生は自伝『大正から昭和へ』の中でその真情を吐露しているが、ここに先生の壮絶ともいえる心構えが見て取れる。人間の一生は短い。しかし、その人間の書いた文章の寿命は長い。その寿命を信じてこのような表現をしたのであろう。
書物を著す目的は、人のためではない。自分の疑問点を晴らすため、自分と対話するため、自分を説得しあるいは自分で納得するために書くのである。私は『魯迅』『大正から昭和へ』『福沢諭吉 中津からの出発』という三つの著作を読む中で改めてそういう思いを強くした。横松宗先生が亡くなってから、すでに15年経った。 

魯迅―民族の教師

魯迅―民族の教師

 
大正から昭和へ―恐慌と戦争の中を生きて