ミュシャ展(国立新美術館)とムットーニ・パラダイス(世田谷文学館)

連休は計画していた通りのことができた。

特に人物記念館についてはゴールデンウイークとなった。9人の人生に向き合った。

横尾忠則(町田)。吉田茂(大磯)。島崎藤村(大磯)。徳富蘇峰(二宮)。次郎長(清水)。歌川国芳(府中)。アドルフ・ヴェルフェリ(東京)。そして本日は六本木の国立新美術館ミュシャ展と世田谷文学館のムットーニ・パラダイスをみてきた。

 ミュシャ(1860ー1939年)はチェコに生まれ、大女優・サラベルナールノデザイナーとしてパリでアール・ヌーボーの旗手として栄光に包まれるが、スメタナの「我が祖国」」を聴き、50歳で故郷に帰り、16年間かけて「スラブ叙事詩」という超大型の連作画20枚を完成させる。他民族による圧迫の歴史と、民族の悲哀をあらわす人々の目が印象的だった。詳細は別途。

f:id:k-hisatune:20170507204109j:image f:id:k-hisatune:20170507205238j:image

f:id:k-hisatune:20170507204100j:image

 世田谷文学館がリニュアルオープンになった。その企画の第一弾が「ムットーニ・パラダイス」である。本人の言によると、「カラクリ・モーション・BOX」となる。ムットーニ(武藤政彦1956年生)本人による45分間の実演を楽しんだ。アナログのよくできた動くカラクリボックスをみながら、ムットーニの語りが流れる。中原中也。摩天楼。萩原朔太郎。ジャングルパラダイス。生と死をテーマとした独特の世界を堪能。詳細は別途。

f:id:k-hisatune:20170507204314j:image

 夜はスタートレックを2本。

 

「名言との対話」5月7日。本居宣長「志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5) は、江戸時代国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。

本居宣長(1730-1801年)は、34才で伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。35歳で着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。

 宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。

「才のとぼしいこと、学ぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい」

日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長尊い人生は教えてくれる。

大学院:修士論文予備審査会・教授会。インターゼミ:4つの班が始動。東京ステーションギャラリーで「アドルフ・ヴェルフリ」展。

 品川と九段の仕事の合間に、東京駅のステーションギャラリーで「アドルフ・ヴェルフリ」展。アウトサイダーアート。

f:id:k-hisatune:20170506173719j:image

「副学長日誌・志塾の風」170506

  • 9時半:修士論文予備審査会:徳岡先生と河野先生。院生4人のテーマは、「二宮町」、「企業人事と行政」、「稼ぐこと」、「ノンアルコールビール」。院生は大企業のビジネスマンと起業家。それぞれコメントをしたが、日本の産業社会の現実と課題がわかるのでこの時間は面白い。
  • 12時10分:大学院教授会:修士論文予備審査会の報告。自己点検・教務分科会。入試広報分科会。院生分科会。データサイエンスコース。ルール形成コース。ポラリスユニバーシティ。ロビースペースリニュアル。AED。

16時:インターゼミ

荻野先生「二宮尊徳」。久恒「人物記念館:吉田茂島崎藤村徳富蘇峰横尾忠則清水次郎長歌川国芳」、、、

学長講話

・アジア:トルコのマッソス以東の得体の知れない存在、西欧の対置概念。多摩学:思想、食と農の現場に立つ、大学が地域の課題解決にあたる。サービス:脱ものづくり国家、サービス産業の高度化。AI:人間とは何か。4つのチムのシナジーで何がみえるか?

北朝鮮の空気。70数年前の日本。再びならないともいえない。朝鮮半島は35年間日本の一部。アジア的退嬰。同胞感覚を持つ人がいるだろうか。絶望からの戦争。日本をターゲットとするオレンジ計画は日露戦争後から。北朝鮮を対象とするブラックスワン計画。不人気政権は対外緊張で人気取りに走る。カーボーイメンタリティ「追い込んで先に拳銃を抜かせ、反撃にでる」。海上封鎖をやると必ずコンフリクトが起こる。中国には褒め殺し作戦。ロシアの存在。近代戦はサイバー情報戦争へ。情報網を遮断し機能不全に。専制体制は弱い。「メジャー・コンフリクトいなる」。核・化学兵器・ミサイルで反撃してくるから金政権は崩壊する。このシナリオは20-25%しか描けていないとティラーソン国務長官。中国・ロシアは韓国主導の統一は好ましく思っていない。核を持った統一朝鮮の出現も。日本にとっては分断は有利という判断も。朝鮮情勢はヒトゴトではない。

・人の本音を引き出す力をどうつけるか。質問の内容。課題解決のためのインテリジェンス。相手を本気にさせるものをもっているか。

・ワシントンの空気は一変した。ジャパンハンドラー・ジャパノロジストなど窓口がいなくなった。東アジアの専門家が政権にいなくなった。

・どういう夏になるか。メモをつくりながら一人一人がこの夏に対峙しなければならない。

 

本日から班のメンバーが正式決定。

  • 多摩学班

f:id:k-hisatune:20170506173701j:image

  • AI班
  • サービス・エンターテイメント班

f:id:k-hisatune:20170506173705j:image

  • アジア・ユーラシアダイナミズム班

f:id:k-hisatune:20170506173708j:image

「名言との対話」5月6日。井上靖「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

井上 靖(いのうえ やすし、1907年明治40年)5月6日 - 1991年平成3年)1月29日)は、日本小説家文化功労者文化勲章受章。代表作は「敦煌」「孔子」など。

山崎豊子は新聞記者をやりながら朝5時に起きて出社する前に小説を書いていた井上靖の情熱と姿勢に打たれている。「井上さんは午前五時に起きて、作家として世に出るまで四千枚の原稿を書きためねばならぬと、自分に課した目標に向かって、ペンを執っておられるのだと思うと、粛然とした気持ちになった。」「記憶に残る言葉といえば、「絶えず勉強しなさい」という平凡にして、至難な言葉である。」

旭川自衛隊駐屯地に程近い場所に井上靖記念館があり、2006年に訪問した。この人の姿勢には見習べきものが多くある。

 「人生は使い方によつては充分長いものであり、充分尊いものであり、充分美しいものである。」

「自分で歩き、自分で処理して行かねばならぬものが、人生というものであろう」

「何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方の中で、一番いいようだ。」

「これまでとまったく違った新しい人生というのは、十五年ぐらいかけてチャレンジすると、かなり達成できるものなんですよ。」

勉強家・努力家であった井上靖の言葉には深い叡智が宿っている。15年かければまったく新しい人生をつくることができるという言葉も井上靖だから説得力がある。君は不満を語るか、希望を語るか。

長池公園自然館のボタニカルアート展を楽しむ。八王子古本まつりで11冊購入。

 長池公園の自然館。ボタニカルアート展。安江梅子「野の花・蘭の植物画展」。

定年退職後、NHK学園で学び、ボタ二カルアートの世界に入った安江さん(79歳)は、賞をもらったり個展を開いたりするまでになっている。高齢社会のモデルだ。

ボタニカルアートにはいくつかの約束がある。等身大に描く、根元まで描く。一つの作品に4ヶ月かかる。見事な作品群。写真はもっとも気に入っている「ミズキ」の絵画。こういう作品は自宅に飾ってみたい。来年東京で頒布会があるので、小さな作品を手にしたい。

f:id:k-hisatune:20170505173314j:image

ミズキ

f:id:k-hisatune:20170505173350j:image

 八王子古本まつり。春と秋に開催。

20いくつの古本屋が斜めに走るユーーロードで長い古本市を開催している。中央線沿線には古本屋が多い。八王子には3軒。秋にも開催するそうなので、また来たい。

f:id:k-hisatune:20170505173514j:image f:id:k-hisatune:20170505173538j:image

  11冊で4000円ほど。古本は安いなあ。

f:id:k-hisatune:20170505173704j:image

  早速、津村節子「書斎と茶の間」(毎日新聞社)を読了。

津村節子芥川賞作家であり、夫君はファンでもある亡くなった吉村昭

作家の配偶者など家族が書くエッセなどには日常の姿やクセ、信条などが語られることが多いので、吉村昭のことも知るべく四だ。

「神経質」「思い立つと待ったのきかない夫」「決めたことは守る」「カボチャが好き」「旅先での買い物は食べ物に限られる」「鍋ものが好き」「自分の足で歩いて取材しなければ気がすまない」「書きたいことが限りなくあって1年でも長生きしたい夫「新宿、上野、浅草あたりをうろついている」

東北の美しい海岸線を一望に見渡せる小さな岬を買って、仕事場を建て、ここの住人になる予定だとあるが、実現する前に、吉村昭は世を沙去った。

書斎と茶の間 (1976年)津村節子「書斎と茶の間(1976年)」(毎日新聞社)

日経新聞の「私見卓見」に多摩大入試課の高部大門さんが投稿している。テーマは「アクティブ・ラーニング」だ。アクティブラーニングブームへの警鐘。「多摩大職員」という肩書きでの投稿であり、こういう動きは素晴らしい。

 

「名言との対話」5月5日。塙保己一「命かぎりにはげめば、などて業の成らざらんや」

塙 保己一はなわ ほきいち、延享3年5月5日1746年6月23日) - 文政4年9月12日1821年10月7日))は、江戸時代国学者。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位
7歳で失明。菅原道真公を守護神。賀茂真淵門下。36歳から41年かけて「群書類従」670冊(25部門)を刊行。76歳で死去。群書類従の完成によって貴重な書物の散逸がまぬがれたから功績は大きい。塙保己一史料館(社団法人温故学会)にある桜の版木は17.244枚に及ぶ。彫師・刷師、、。「群書類従」は塙保己一の死後200余年も事業が継続しており既に蒐集は70万冊に及ぶ。温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを目的として1909年公益法人化した。渋沢栄一は発起人の一人で、この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一の援助をしている。

3重苦のヘレンケラーが1937年に来館。視覚障害者教育に携わっていたグラハム・ベル博士(電話の発明者)から塙保己一のことを聴いて頑張ったという逸話がある。ヘレンは「子どもの頃母親から塙保己一先生をお手本にしなさいと励まされた」と述懐している。1冊でも頒布している。

群書類従』の作成にあたり、20字X20行の400字詰に統一していた。これが400字詰め原稿用紙のになった。

塙保己一は本を人に読んでもらってそれをすべて覚えていたという。15歳で江戸に出て、衆分、29歳勾当、37歳検校、75歳総検校に進む。盲目でこのような事業を完成させたことに感銘を受ける。

夜に講義をしているときに「目あきというのは不自由なものじゃ」と言ったいいう逸話も残っている。塙保己一は、身の不幸を嘆き自殺を考えたが、命の限り励めば、出来ないことはないと思い直し、盲目の身でハンディをものともせず大事業を完成させたのである。

「歌川国芳 21世紀の絵画力」展(府中市美術館)--公式図録が素晴らしい

午後から府中芸術の森にある府中市美術館にでかける。

歌川国芳 21世紀の絵画力」展。

混んでいたが、この美術館はじっくりと観賞できるように、入場制限をしながら人を順次入れていく。あせらずにじっくりと観ることができた。「これぞ国芳!」決定版とあるだけあって、量と質とも充実していた。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展も見ている。10代で歌川豊国の弟子となり、30代で人気絵師になるという遅咲きの人という薄い印象しかなかったが、7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。

歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。

美術館などの企画展では必ず厚い「公式図録」を買うことにしている。その図録もずいぶんとたまってきた。今回の「国芳」展の図録は、今まで手にした中で、もっとも力が入ったものだった。通常は、最初と最後に若干の論考があり、後は絵画作品を並べて終わりというものが多いが、今回は全く違う。説明文が実に多いのだ。企画展を企画した人たちの意気込みを強烈に感じさせる。おざなりの企画展ではなかった。美術王国・日本でもこのようなスタイルが浸透してくれば、さらに日本人の芸術鑑賞力はアップするだろう。

 

17時からNHKBSで「ヒトラー 最後の日々」を観た。2016年6月9日の再放送。

1945年4月にヒトラーが自殺を遂げるまでについて側近たちが語ったインタビューが米国の図書館に眠っていた。孤独な独裁者と、将校、愛人、忠臣たちの最後の日々。

ヒトラーの死体は側近たちの手で焼かれたため、「実は生きているのでは」といった陰謀論が消えなかった。ニュルンベルク継続裁判の判事・ムズマノは、独裁者の死を立証するため側近たちの証言を記録していた。地下壕に隠れたヒトラーソビエトのベルリン侵攻に怯え、忠誠を貫いたゲッペルス一家は服毒自殺を遂げ、自殺を決意したヒトラーは愛人のエヴァと結婚式を挙げる。ヒトラー最後の日々が、証言とドラマによって浮かび上がる。」

ベルリンの地下壕での独裁者・ヒトラーの最晩年が側近たちの証言によって臨場感あふれうタッチで描かれている。盟友ムッソリーニが捕まり、処刑後にミラノの広場で逆さづりに吊されていることをヒトラーは知っていた。そういう姿を見せたくなかったため、エヴァと一緒に自殺した遺骸をあとかたなく周到に焼いてもらう。

 

「名言との対話」5月4日。森繁久彌「「芸人とは、芸の人でなく芸と人ということではないか、、、、」

森繁 久彌もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本俳優歌手コメディアン、元NHKアナウンサー昭和の芸能界を代表する国民的名優。

この人はただの俳優ではなく、極めつけの文化人だった。44歳で処女作を発表以来、主要著書は54冊にのぼっている。そのうち、還暦を過ぎた63歳以降の著書が43冊と多いのも特徴だ。

「女房やセガレがどんなにボヤこうが、私はあくまで一世一代で、すべてが私と共にあり、私と共に無くなるのである。」

「目下開店中の八百屋のような万うけたまわりの芸術屋(アルチザン)を整理して、新しい冒険に船を漕ぎ出さねばなるまい。このまま立ち枯れるには、まだチット血の高鳴りが邪魔になる人生五十年である」

冒頭の言葉の言葉の後には、「なべて『人』」を失っているかの感なきにしもあらずだ。人が人たるを失って、世の中に何があろう」と続く。映画や芝居などより、実際の人生の方がおかしく、切ない。その人生から学びながら人をつくっていく。どのような職業も「人」が重要だが、人生を表現すことを生業とする役者は、見る人が役と人とがないまぜになってみているから、特に「人」が重要なのだ。遅咲きの国民的俳優・森繁久彌はその機微を知っていた。

「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展

町田市立国際版画美術館で開催中の「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展。

 「版画」の枠を超えた横尾忠則の作品群を「HANGA]と呼んだ横尾の創作活動の全貌に迫る企画展だ。「絵画的表現の一変種」である250点のHANGAを展示している。

f:id:k-hisatune:20170504064544j:image

 西洋では裸体を多く扱っているが、性行為そのものを扱っているものは存在しない。横尾の作品は見るものに邪心や欲望を引っ張り出すという特徴があり、強烈な印象を与える。

f:id:k-hisatune:20170504064431j:image

 会場で「横尾忠則自伝 ぼくなりの遊び方、行き方」(ちくま文庫)と「横尾忠則対談集 芸術ウソつかない」(ちくま文庫)を購入、やっと読了した。全貌がなかなかつかめない横尾のことが少しわかった。

「自伝」は1960年から1984年までの24年間の詳細な記録である。年齢的には24歳前後から48歳までで、不安におびえながら上京し、同時代の天才たちに出会い、時代の寵児になっていき、ピカソの影響で生まれかわるところまでが、描かれている。1936年生まれの横尾は現在では80歳を越えているのだが、いまなお芸術界に新鮮なメッセージを送り続けている。

サラリーマンから出発した横尾はイラストレーター、画家、俳優、アニメーション監督、写真家、テレビタレントと移り変わる。舞台も日本から海外へと拡散していく。世界の天才たちと仕事を重ね、大きくなっていく。三島由紀夫高倉健田中一光寺山修司ジョン・レノン、ヨーコ、細野晴臣

横尾は人とのコミュニケーションが苦手なのだが、ある種の図々しさも持ち合わせていて、出会いをつくり、ごく自然に出会いを生かしていく。彼に触れた天才たちは不思議に彼の面倒をみることになる。狂人的ではるが、ある種の人徳を備えているのだろう。

28歳で出会った40歳の三島由紀夫とは三島が事件を起こす直前まで深くつきあっており、三島の肉声と自決の直前の様子がよくわかる。「何という低俗のきわみの色彩であろう。、、何という無礼な芸術であろう。このエチケットのなさ!」という三島は「狂人の芸術から救っているのは、彼の外部への関心である」とも評価している。横尾は「三島さんと一緒にいるだけでぼくは創造的な人間になっていくのが実感できた」と述べている

幽体離脱体験、夢、空飛ぶ円盤、インド体験、坐禅、、、、。

電通藤岡和賀夫に企画で、横尾は阿久悠浅井愼平池田満寿夫、小谷正一らと南太平洋に出かけた。帰国後、それぞれが南太平洋を素材にした作品を作ったが、阿久悠は「UFO」というピンクレディ最大のヒット作品を書いたという。

ニューヨークでの「ピカソ展」が一大転機になる。入り口に入ってから2時間後、突然「画家」になることを決心する。ピカソが自己の想いや感情に忠実に従っているその無垢な正直さに打たれ、開放感を味わった。そしてグラフィックデザインという分野に興味を失ってしまう創造と人生の一体化されたピカソのような生き方に従うことになった。

この画家への転向を10年前に予言した人がいた。美輪明宏である。「あなたは職業を変えるわよ。絵を描くようになるわよ。すごい大きな絵でいろんなものを画面にくっつけたキラキラ光るような絵を描くはずよ。」

この転身事件に野田一夫先生が登場するのには驚いた。阿久悠の知人で、当時玉川学園(多摩大の間違い)の学長の野田一夫氏からニューヨーク近代美術館ノ「ピカソ展」に誘われたのだ。条件は鑑賞後食事でもしながら感想を語ってもらえばいいという寛大なものだった。この中で横尾は「野田先生」と呼んでいる。この自伝の中で先生と呼んでいるのは野田先生だけだ。

 「対談集」の横尾忠則の発言から。

  • 鳥瞰的な、全体が見える視点をもっていないとね。超越者にはなれないけど、ある程度、超越者の視点を獲得したいと思うよね。(吉本ばなな
  • 僕は逆に、音楽に近いと思って絵を描いている。(細野晴臣
  • 「個人」というものは宇宙意識と結びつかないような気がすうけど、「個」というものは非常に結びつきがあって、何か宇宙軌道のに乗っかってるイメージがあるの。(中沢新一
  • 食べることも遊ぶことも刹那的でしょ。本当の快楽は「持続」するものだと思う。快楽は自然や宇宙の原理原則の軌道に上手く乗れたとk、何もかもがうまくいく状態なんです。(瀬戸内寂聴
  • 遺影、、。60年代から、70、80、90年代と、それぞれの年代でいいやつをダーッと並べる。それで僕とかかわった人が、そのつきあいの年代の前へ行って焼香する。(河合隼雄
  • 滝を通して、見えない存在である神というか宇宙原理を感じる、、(鶴見俊輔
  • 宇宙には、、、秩序立った一つの原理があるにではないか。それは実は「意識」ではないか、と。(福田和也
  • 僕は魂に接続するものというのは、むしろ心というよりも肉体だと思うんですよ。肉体の習練を通して、初めて魂とか霊性と接触できるのではないかと。(福田和也

 ぼくなりの遊び方、行き方: 横尾忠則自伝 (ちくま文庫)横尾忠則「ぼくなりの遊び方、行き方:横尾忠則自伝」(ちくま文庫)

横尾忠則対談集 芸術ウソつかない (ちくま文庫)横尾忠則横尾忠則対談集 芸術ウソつかない」(ちくま文庫)

「名言との対話」5月3日。柴五郎「中国人は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」

柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日万延元年5月3日) - 1945年昭和20年)12月13日)は、日本陸軍軍人軍事参議官台湾軍司令官東京衛戍総督第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。

「扶清滅洋」を掲げた1900年の北清事変義和団の乱)鎮圧のために英米露仏独など列強8カ国は軍を派遣する。6月21日清朝は列強に対する宣戦を布告。北京にいた外国人は籠城を余儀なくされた。2か月後の8月に連合軍は北京を占領し、西大后は光緒帝とともに脱出する。この籠城にあたって英仏中国語に精通する北京公使館付き武官・柴五郎砲兵中佐は、実質的な指揮を担い寄り合い所帯をよくまとめ、外国人から多くの賛辞が寄せられた。

この柴五郎が維新時に故郷・会津が朝敵として嘗めた辛酸を描いた少年時代の記録が石光真人「ある明治人の記録--会津人柴五郎の遺言」(中公新書)である。

会津23万石は、1870年に3万石に減じられて下北半島斗南藩として再興を許される。今の青森県むつ市である。恐山のふもとであり、原子力船・むつ (原子力船)の旧母港として知られている。火山灰台地のやせた土地である。しかし、この最果ての地は気候厳しく実質7千石しかなかった。このため移住した会津の人々が嘗めた辛酸は筆舌に尽くし難いものだった。この間の事情をしたためて眠りにつこうと考えていた文書を、石光が筆写したものである。肉親の菩提を弔うために書いたもので、自らもこの文書とともに眠りにつこうと考えていた。肉親と自分のために書いた自分史である。

 寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇をとらず、はだぬがず。道は目上にゆずれ片寄りて通るべし。門の敷居を踏まず、中央を通るべからず。客あらばぬ奴僕はもちろん、犬猫の類にいたるまで叱ることあるべからず。おくび、くさめ、あくびなどをすべからず、退屈の体をなすべからずと、きびしく訓練されたり。

会津の人々の苦難を述べたものであもあるが、一方で明治の男子のあり方を教えられる。この人は立派な顔をしている。

  • 挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
  • 陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き抜け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。吹きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
  • 官界は薩長土肥四藩の旧藩士に要職を占められて入り込む隙間なし。会津のものにとりては、東京もまた下北の火山灰地に似て不毛の地というべきか、人々日々の生活の業に疲れ、過ぎたること忘れがちなり。

北清事変で、見事な指揮ぶりと高潔な人格で各国の尊敬を集めた柴五郎の活躍によって、英国はこのような素晴らしい軍隊を持つ日本と同盟を結ぶ。日英同盟の親とも言うべき人物だ。そして柴五郎は中国をよく研究していた。その柴五郎は中国を敵とせずに、友とせよと述べている。耳を傾けよう。

5月の連休は、体勢の立て直しの期間。

5月の連休は、毎年体勢の立て直しの期間。正月に立てた計画の進捗状況のチェックと修正。

  • 修正・立案:人物記念館。読書。執筆。講演準備。健康、、、。
  • 「邪馬台」の「読書悠々」の原稿:「青春記」を題材に。
  • 横尾忠則自伝」を読了。次は「横尾忠則対談集」。

 「名言との対話」5月2日。松本望「無鉄砲なくらいのチャレンジをさせなくては企業の若さは保てない」

松本望(1905-1988年)は、音響メーカー・パイオニアの創業者。

松本望はアメリカ製のダイナミックスピーカーを聴き「いつか必ず自分の手で純国産のスピーカー(ユニット)を作りたい」と、1937年に初の純国産ダイナミックスピーカーを自らの手で開発した。そこからパイオニアの歴史が始まった。牧師であった父の影響を受けた松本望は、福音電機製作所をつくり、1966年に社名をパイオニア株式会社と命名する。

「わが社は音の専門メーカーである。音をもって社会に貢献することを忘れてはならぬ。そのためには最高の技術を生かして、大衆が喜んで利用できる価格でなければ事業の意味を失う」

レーザーディスクを世界に先駆けてつくった時、全く売れなかったが、松本望は「全くの新製品だから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と当時の社長を励ましている。

「望」という名前をもらったことによって、松本はいつもひと筋の希望を持ち続けていられた。人は名前のようになるから、命名の意味は大きいことの証左の一つだろう。

組織の内外には知恵を持った人は多い。この人たちに創造の喜びを感じさせることがリーダーの役割だ。松本望のいう「無鉄砲なくらいのチャレンジ」とは、パイオニア精神そのものだ。パイオニアと命名された会社は、パイオニア精神と若さにあふれた企業になっていくはずだ。

清水の次郎長

清水、今は静岡市に組み入れられている。この街の著名人は、清水次郎長である。

次郎長翁の菩提所・梅蔭禅寺の「次郎長遺物館」を訪問。

f:id:k-hisatune:20170502055304j:image

この遺物館には次郎長の波乱の生涯の名場面が、絵と文で描かれていて、わかりやすい。その解説と年表で次郎長の生涯を概観。

  • 米屋を営む養父・次郎八の子の長五郎から「次郎長」と呼ばれる。
  • 15歳、百両余りを持って家出。浜松の米相場で巨利を得て家人を驚かす。
  • 26歳、侠客デビューを果たした仲裁事件:甲州の紬の文吉と駿河の和田島太右衛門の庵原川での大げんかを単身仲裁。
  • 47歳、荒船山の血闘:手勢400人を引き連れ伊勢に乗り込み、安濃徳らは頭を剃って陳謝。
  • 49歳、咸臨丸事件:明治元年。清水港に幕府軍軍艦・咸臨丸の勇士の遺骸を収容。「死ねば仏だが、咎めがあれば自分一人で責任を負う」。巴川畔に「壮士の墓」。一大法要。駿府山岡鉄舟「壮士の墓」と揮毫。以後、深い交わり。駿遠三の治安維持。積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。
  • 55歳、富士大開墾(明治7年ー17年)
  • 57歳、英語塾を開設(川口源吉はハワイで成功)
  • 58歳、西南戦争の西郷に意見をしようと鉄舟に持ちかけ、「精神満腹」の書をもらう。
  • 61歳、静隆社設立に尽力:茶のみなと清水港の基礎を気築く。(日本一のお茶の輸出港へ)
  • 65歳、養子・天田五郎「東海遊侠伝」が出版される。
  • 67歳、船宿「末廣」を開業
  • 68歳、咸臨丸殉難者記念碑除幕式。
  • 73歳、山田長政顕彰碑建立のため、駿府城で大相撲興業
  • 74歳、死去。葬儀参列者は3000人を越える。

 

次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわる。清水の恩人である。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。

 「侠客次郎長の墓」。大政、小政など子分等と埋葬されている。

f:id:k-hisatune:20170502055311j:image

  清水港船宿記念館(次郎長の船宿・末廣)。

f:id:k-hisatune:20170502055328j:image f:id:k-hisatune:20170502055404j:image

 田口英爾「清水次郎長伝」(みずうみ書房)を購入。田口は梅蔭寺の住職の二男。序文は路地裏の経済学者として知られる竹内宏。同級生だ。

山岡鉄舟「剣禅話」(たちばな出版)をも購入。

 清水の印象。

静岡市と合併し政令指定都市になったときに県庁の公務員研修で静岡を訪問したことがある。清水は街並も淋しいし、人口も減っているようだ。静岡市の人口は70万を切ったというニュースも最近聞いた。次郎長商店街通り。港にはASUKAが入っていた。そのためか、観光客や外国人も歩いている。この街には次郎長と港という観光資源があるが、港は閑散としていた。梅蔭寺の人に聞くと大型船が入ると賑やかになるとのことだが、うまく使えていないようだ。タクシーの運転手も、「清水には何もない。合併していいことはなかった」と言っていた。東海大学はある。電車で10数分静岡に戻って新幹線で帰る。

 

「副学長日誌・志塾の風」170501

高野課長の車で富士宮へ。8時出発。8時30分愛川で圏央道。8時40分東名。9時15分新東名。裾野、沼津、9時半新富士インター。富士宮10時15分着。施設見学。清水へ。

 

「名言との対話」。5月1日。吉村昭「事実を主にしても、私は小説を書いている」

吉村 昭(よしむら あきら、1927年昭和2年)5月1日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本小説家。妻は作家の津村節子

戦史、歴史、医学、動物、地震津波を書く。入念な取材には定評がある。この人の書いた小説はずいぶん読んだ。前野良沢杉田玄白を書いた「冬の鷹」、尾崎放哉を書いた「海も暮れきる」、小村寿太郎を描いた「ポーツマスの旗」、、、、。「三陸海岸津波」「関東大震災」の二つは、3・11の後に読んでいる。「自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる」。

「小説とは、文章ですべてのストーリーをつむぐ文字の芸術。小説の一文字一文字に小説家の魂が込められている。つまり小説の名言とは小説家の言霊であり、小説家の肉体は滅びても、魂は我々の中で生き続けている証でもあるのだ!」

亡くなった2006年の新聞では「同世代で同じような経験をしていて、ひどい目にも遭っただろうけど、ついぞそういう話をしない人でした」(城山三郎)との談話が載っていた。

吉村昭の小説はスキがないが、講演ではユーモアあふれた話しぶりであるのは意外だった。講演テープを聴いて、ますますこの人のファンになった。「今日もまた 桜の中の遅刻かな」という句を大学時代に詠んで先生を感激させた逸話が津村節子のエッセイにある。厳しさと同時にやさしい目で歴史上の人物を見ていたのだろう。

18歳の昭和20年8月15日に敗戦を迎えた吉村は、「思いもかけぬことで呆然としたが、最も驚いたのは、それまで戦争を遂行と戦意高揚を唱えつづけていた新聞、ラジオ放送の論調が一変したことであった」とマスコミと軍部を痛烈に批判している。

吉村昭は丹念な取材で事実を明らかにしていくが、それはノンフィクションではなく小説であるという。事実と事実のすき間を主人公たちの想像上の名言で埋めていく、それが小説である。小説を書き遺すことで、肉体は滅びても魂は生き続ける。吉村昭の小説が読者を引き込むのは、鍛え抜かれた名言を絞り出す魂の迫力である。

自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせ
自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。
自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。