予定を鳥瞰し整心へ。整頓から整理へ。ワクワクする未来へ。

「副学長日誌・志塾の風」180319

研究室

・秘書とスケジュール打ち合わせ。毎週月曜日に予定を立て直し、心を整える。

・書棚整理:捨てる本の整頓が終わったら、分野別の整理も必要だ。

・多摩大総研の松本先生:多摩大出版会と今後の総研の方向。未来を見据えて。

ラウンジ

・杉田学部長・大森学生委員長:表彰

・杉田学部長:フットサル部

--------------------

「名言との対話(平成命日編)」3月19日。夏樹静子「この本を、私に心身の健康を取り戻して下さった平木英人先生に捧げます」

夏樹 静子(なつき しずこ、1938年12月21日 - 2016年3月19日)は、日本小説家推理作家

大学3年時に江戸川乱歩賞への応募(最終候補)がきっかけとなって、NHKテレビで人気の「私だけが知っている」のレギュラー執筆者になる。結婚して沈黙の後、1969年に『天使が消えていく』で江戸川乱歩賞の最終候補に残る。以後、ミステリーを量産していく。弁護士朝吹里矢子シリーズ。検事霞夕子シリーズ。長編小説。中・短編小説。アンソロジー。エッセイ・ノンフィクション。翻訳。また、作品は日本テレビ・TBS・フジテレビ・テレビ朝日テレビ東京などでテレビドラマになっているから、この人の名前はよく知られている。ミステリーは300本ほど書いている。1984年の『妻たちの反乱』はベストセラーになった。

趣味の囲碁ではドライアイを和らげるためにグリーン碁石を開発し普及した。これで日本棋院から大倉喜七郎賞を授与された。2007年、日本ミステリー文学大賞を受賞。

二冊目の単行本『見知らぬわが子』では、7編の短編が収められており私も読んだ。ここには夏樹ミステリーのルーツがある。家庭を媒介とする男女の葛藤のドラマであり、女性と母性の視点が特徴だ。

夏樹静子は福岡に住んでいた。夫君は石油の出光の関係者で新出光の会長であり、夏樹の本名は出光静子である。

1997年の『腰痛放浪記 椅子がこわい』は、日本での心療内科が広まるきっかけをつくったと言われている。54歳の夏樹静子は1993年からの約3年間腰痛に悩まされた。「遺書」「死」「真暗闇」などの言葉が踊る。その克服の記録である。多くの読者の共感を得て、今なお売れ続けている作品である。良い評判を聞くとすぐにかかり絶望するという遍歴と放浪を重ね、最後に行き着いたのは自身の心の問題であり、夏樹静子を捨てて本名に戻るというミステリー仕立てになっている。

この本の中で、私の知り合いが3人登場していて驚いた。彼女が二ヶ月入院した中津市の病院長川嶌真人先生(50前後)は私の母の友人。JALの塩田年生福岡支店長(夫の親友)は私の広報課長時代の広報部長。九大教養部心理学科の藤原勝紀教授(50歳)は私の九大探検部時代の先輩。

内科と心療内科の医師である平木英人は「典型的な心身症」という診断を下し、自律訓練法森田療法、絶食療法などで、自身の心では支えきれなくなったワーカホリック夏樹静子から別れ、出光静子への再生を図り、ようやく平穏な日々が訪れる。そしてまた本の執筆が始まる。冒頭の感謝の言葉には、万感の思いが凝縮されている。

腰痛放浪記 椅子がこわい (新潮文庫)

中津の文化総合誌「邪馬台」2018年春号--連載「読書悠々」は5年目に入る。

中津の文化総合誌「邪馬台」2018年春号が届く。通巻206号。

私の連載が17回目になる。季刊だから5年目に入ることになる。今回の「読書悠々」は「モンゴル」の二回目。主に、モンゴルの旅の前に読んだ6冊の本の紹介だ。

井上靖蒼き狼』。司馬遼太郎『韃靼疾風録』(上巻・下巻)。司馬遼太郎『モンゴル紀行』。司馬遼太郎『草原の記』。岡田英弘世界史の誕生--モンゴルの発展と伝統』。杉山正明モンゴル帝国と長いその後』。

f:id:k-hisatune:20180318221447j:image

 相良照博の「福沢諭吉西郷隆盛--『丁丑公論』(上)。西南戦争で希代の英傑が賊名を負わされるのを憂えて、隆盛の処分に関する建白書を中津藩士族の名で京都の行在所に提出したものが『丁丑公論』となった。「隆盛は学識に乏しく、寡黙と雖も老練の術あり、武人なりと雖も風采在り、粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、如何なる大事変に際するもその挙動は悠然として余裕あるは、人のあまねく知る所ならずや。、、」「西郷は天下の人物なり。日本は狭いと雖も、国法厳なりと雖も、豈一人をいれる余地あらんや。日本は一日の日本に非ず、国法は万代の国法に非ず、他日この人物を登用の時あるべきなり。これ亦惜しむべし」。

団塊」の自分史--中津北高校20回生の軌跡は、猪俣範一中国国営企業買収と運営顛末2」。

中山盛男「耶馬溪に生きた山本艸堂翁の掲げたもの5」。山本艸堂(1882-1959年)は『下毛郡史』を書いたジャーナリスト。新聞事業と出版事業。「八面山の南と北に「山本艸堂翁」の顕彰碑がある。著作では、中津古文書大分県人乃東洋耶馬渓百年誌耶馬渓案内記昭和維新と郷土之人物中津教育史 : 上。中津古文書などがある。

「時間は万物を征服すると云い、時間は最大の改革家なりとも云ふ」

久恒啓子「邪馬台歌壇」の選者詠。次の世もこの二男一女の母でいたし古きアルバム捲りつついて  「お母さん来世も私を産んでね」と娘のメールあり雪降る夜に

「編集後記」では、「読書悠々」と「北高20回生の回想」が取り上げられていた。

4月には前市長でこの邪馬台編集委員の新貝さん(北高の先輩)が上京するので、北高同級生数人と会うことになった。

-----------------

「名言との対話」。3月18日。稲森俊介「一人ひとりの能力を最大限に発揮しよう」

稲森 俊介(いなもり しゅんすけ、1930年8月29日 - 2011年3月18日)は、日本実業家

大学卒業後、味の素につとめ代表取締役専務となる。1990年経営不振のカルピス再建のため出向し翌年社長。反対を押し切って大規模な設備投資と新製品カルピスウオーターのヒットで経営再建を果たす。1995年、古巣の味の素社長に就任。

初恋の味・カルピスは子どもの頃は愛飲した。その後、大人になってカルピスウオーターの登場でまたファンになった。それをヒットさせたのが稲森社長だったのだ。

味の素社長になったときには創業一族のトップに指揮系統の混乱をさせないため今後経営会議に出席しないように要請している。また創業一族の経営介入を断ち切るために会長や取締役名誉会長の退任と自身の社長退任・会長就任と差し違えた。初めての見合いで結婚を決めているなど、出処進退のすっきりした、筋を通す人物だったようである。

冒頭に掲げた言葉は、業績不振に陥ったカルピスを立て直すときの社員に対する明快なメッセージだ。経営の再建にあたっての急所を抑えたマネジメント、トップとしての引き際の見事さなど、この人の人生観などはもっと深追いしたい。

 

 

日経「私の履歴書」ライターが語る自分史の書き方---「場面(シーン)を書け」

知研セミナー(3月16日):中沢義則(日経新聞編集委員。日経「詩歌教養」欄で「俳句 言葉の宇宙探訪」を連載中。)

テーマ:日経「私の履歴書」ライターが語る自分史の書き方。

私の履歴書」執筆で心がけていること。

・メインテーマ(大見出し)を決める:人となりや業績を一言で表す見出しを決める。「SFに恋して半世紀」「三代目ぼんぼん奮戦記」「プレハブ住宅を背負って半世紀」「テレビを愛して50年」「仏蘭西料理こそ我が人生」「マンガは芸術だ」。30回分の見出し案をつくる。

・その人らしさを出す:一人称。僕、俺、水木さん。「その人語」「口癖」「姿勢や座標軸を表す言葉」を大事に。「ロードマップをつくるんです」「結局大事なのは人なんです、人材が宝物だよなあ」「僕はね、嫌いな奴は優雅に無視するの」「○○なわけで」「そうそう、そうなんだよ」「師匠の言うことには、、どんなに理不尽なことでも従うんです。理不尽だと思うのは私の芸が未熟だから」「私はリレーの走者なんです。いい形でバトンを次に渡せばいいんですよ」

・人物を動かして書く:飽きられる履歴書には動きがない。社長室のでっかいイスに座った人の話を聞き書きしている感じでは読まれない。「現場での話を極力大事にする」「人とのやり取りや会話を多く混ぜ込む」「大人の目線で子ども時代を書かず、子どもの世界に人を放り込む」「色、匂い、手触りを聞く」「泣いたこと、笑ったこと、怒ったこと、恥ずかしかったことを取材する」「左脳より右脳を使うよう心がける」

・失敗、挫折、不遇をどう書くか:企業トップだけでなく、文化人や芸能人も話したがらない。失敗談や下積みの話を延々と読まされても読者は退屈する。成功の糧としての失敗、人間味を彷彿おさせる挫折体験、不遇なときに支えとなったことを聞き出すように努める。劣等生が最後に成功を収めるストーリーが読者に快感を与える。起伏。

・代筆者の立場をわきまえる:本人の書いてもらいたい事に寄り添って書く。「ライバルとの関係」など、、。

 

「自分史の書き方」私見

・書き始める前に:題名を決める、主題の提示。時系列で書くか、ハイライトが先か。俺か、僕か、私か、おいら(タケシ)、我が輩か、、。書く分量を決めておく。

・どう書くか:気取らず、自分の言葉で、簡潔に。エピソードを具体的に、会話と人の言葉を織り交ぜる。場面(シーン)で書く、自分と人を動かす。泣いたこと、笑ったこと、怒ったこと、恥ずかしかったことを書く。世相、時代、風俗、映画、ラジオ、テレビ、遊び。失敗は明るく、自慢話は面白く。匂い、色、味、音を忘れずに(色気)。誕生、巣立ち、死、別れはさりげなく(子ども、夫婦論へ)。下手でもいい、借り物ではない自分の文体で。自分史は知的活動のベースになる。

 

人生の折々のシーンをあげて振り返ってみようか。

--------------------------

長池公園の自然館で明日から開催する「八王子の風景」展。

f:id:k-hisatune:20180318062106j:image

 f:id:k-hisatune:20180318062058j:image

 

「名言との対話(平成命日編)」3月17日。「教育の主役は、幼稚園から大学院までの教師だ」

永井 道雄(ながい みちお、1923年3月4日 - 2000年3月17日)は、日本教育社会学者文部大臣第95代)。

京都大学助教授。東京工大教授。朝日新聞論説委員。八王子セミナーハウスなどで教育の実際的な改革に取り組む。1974年には三木内閣で文部大臣に就任し、中学校における主任制の導入、国連大学の誘致に尽力。その後、朝日に戻り、客員論説委員国連大学学長特別顧問、六本木の国際文化会館理事長を歴任した。私も多くの著書やマスメディア、また文部大臣としての活躍を記憶している。

永井文教行政の報告でもある『永井道雄 教育の流れを変えよう』(朝日新聞社)では、大学入試改革、高等教育の格差是正と多様化、ゆとりある充実した小中高の教育、学歴偏重の打破という「四頭立ての馬車」政策を掲げた制度改革にどう立ち向かったが記されている。この報告によると大学入試センター試験の実施、専修学校制度の導入などの高等教育の多様化は進んだとのことである。永井の「富士の峯より 八ケ岳」というスローガンは新鮮な気持ちで聞い記憶がある。

高度成長期に学校教育体系は手段の色を濃くし、マンパワーの要請に走ったという。永井は人間回復をはかる道の幅を広げようとし、トータルな人間となる教育を志向したのである。二年余の文部大臣時時代を振り返り、「こんなにできたというよりも、これしかできなかった、という感が強い」と語っている。

永井のメッセージは、制度改革は教育現場の教師を支援するものであり、主役たちが力一働ける姿を取り戻すためだった。幼稚園から大学院までの教師たるものの果たす役割は大きい。

 

 

 

 

 

 

 

目黒:多摩大目黒高校卒業式で来賓挨拶。九段下:出版の仕込み。荻窪:知研セミナーの講師は日経新聞の中澤編集委員。

 9時半から多摩大学目黒高校第79回卒業式に来賓として出席。

f:id:k-hisatune:20180317071039j:image

 349名の高校卒業者。1クラス38-39名で9クラス。厳粛な気持ちになる。

「教育」という仕事の尊さを思う。やはり教育は聖職である。自分の高校卒業時と、その後の有為転変の人生航路を思い出だす。高校卒業生の顔を眺めながら、前途に幸あれと願う。どんな人生が待っているのだろう。

中学・高校と6年間の皆勤賞が8人いたのに驚く。理事長賞をはじめ様々な賞で多くの生徒が表彰される。歌は、「君が代」。「仰げば尊し」。「蛍の光」。そして「学園歌」。

私の来賓代表挨拶。10分強。

・「外的世界の拡大と内的世界の深化」「世界はアジアダイナミズム」「時代は、人生100年・80歳現役」。「新しい人生観。キャリア3期。人生6期」。

・以下、贈る言葉。「エルバート・ハバード」「鈴木大拙」「中野孝次」「安岡正篤」「石坂洋次郎」「頭山満」「ジャン・パウル」「臼井吉見」「手塚治虫」「トルストイ」「ドラッカー」。 

f:id:k-hisatune:20180317070936j:image

 

14時:九段下のホテル・グランドパレスでS出版社と企画の相談。

大手出版社の出版部長だった時代に知り合った古屋さんと久しぶりの邂逅。また彼が起業した現在の出版社の松浦副部長と愉しい時間を過ごす。提案した企画の線で検討することに。

f:id:k-hisatune:20180317070920j:image

 -----------------------

 17時:荻窪の日本地域社会研究所・

・知研の八木会長、福島事務局長と打ち合わせ。4月の第3木曜日18時に地研に集合して6月以降のセミナーの人選を行おう。

・18時半から知研の3月セミナー。講師は日本経済新聞の中澤編集委員。テーマは「日経「私の履歴書」ライターが語る自分史の書き方」。

f:id:k-hisatune:20180317070901j:image 

 中澤さんの人柄の滲んだ講義を20名ほどのメンバーが真剣に聴き入った。内容は明日のブログで書く予定。

終了後は、そのまま立食懇親会。懐かしい顔も。

f:id:k-hisatune:20180317070847j:image

-----------------------

「名言との対話」3月16日。笠智衆「地道な努力というものも、だれも気が付かないようでいて、結局は、次第に人の目にも立つようになるものらしい」

笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年明治37年)5月13日 - 1993年平成5年)3月16日)は、日本俳優

俳優としてなかなか芽が出なかったが、30代に入ったばかりの頃に、「笠さん、老けをやったことがあるかい。いっぺん、やってみるか」と小津安二郎監督から声をかけられ「一人息子」に出演する。それがきっかけとなって笠智衆は日本の父親像を演じることになった。

映画の最盛期は、俳優笠智衆の最盛期だった。32歳では14本、そして戦後は50歳でフリーになった。51歳は13本、56歳では13本に出演している。

山田洋二監督の名シリーズ・渥美清主演の「男はつらいよ」は1969年からで、笠智衆は実生活では熊本の浄土真宗の寺に生まれながら継がなかったのだが、第1作からずっと柴又帝釈天の住職「午前さま」として毎回出演していい味を出している。

60代からは、紫綬褒章、男優助演賞、旭日小授章、特別功労賞、放送文化賞、菊池寛賞、東京都文化賞などを、もらうようになった。

「映画俳優が映画の中で自分を語ればいい」というのが持論だったが、日本経済新聞の「私の履歴書」に1986年に登場して多くの読者を得た。それが『俳優になろうか』(朝日文庫)という文庫になっている。その本の「あとがき」では「いま振り返ってみると、私は俳優にしかなれなかったのではないか」とある。たまたま就いた仕事に没頭しているうちに、ある日これが天職だと思うときがある。天職はそういうものではないか。

笠智衆自身の自己診断は「下手、不器用、素質もなく、要領も悪い」である。その笠を五所平之助木下恵介岡本喜八山田洋次小津安二郎ら巨匠がよく使った。地道な努力の積み重ねが、次第に薄皮をまとうことになり、いつかその衣を人が気づいてくれるということなのであろう。笠智衆は日本最高の老け役となって私たちのまぶたに生き続けている。

俳優になろうか―「私の履歴書」 (朝日文庫)

 

 

T-Studio「名言との対話」第29回をリリース。「日経ビジネスアソシエ」の取材。

多摩大TーStudioの「名言との対話」の29回目がリリース。

平成命日編。スポーツマンシリーズの第一弾。

大相撲:出羽の海。大鵬柏戸。ボクシング:金子繁治。

www.youtube.com

 「副学長日誌・志塾の風」180315

12時:新宿の東宝ビルにあるお好み焼き「京ちゃばな」で橘川先生と情報交換。

ゲーム。e-learning。産休。女子大。自治体。スクーリング。八代。セゾン美。本物。検定。美術館・博物館。地域。原子力。知のカルテ。記名情報。人が保証。学び。学習。100問。コンテンツ。無限。1000人。エキスパート。ユーチューバー、、、。

-------------

14時半:新宿のサザンタワーで「日経ビジネス・アソシエ」の高島さんから2時間ほど取材を受ける。4月10日発刊。安藤百福田中久重公文公本田宗一郎。レイ・クロック。サンダース。ヲルトン。フロットン。、、、

-----------

17時半:荻窪の日本地域社会研究所。宮城大時代の私のゼミ一期生のゼミ長の力丸君を紹介。

 ----------------------- 

「名言との対話(平成命日編)」3月15日。清水一行「なぜ、ぼくに声をかけてくれないのか。 雑巾がけでもなんでもするから、仲間に入れてくれ」

清水 一行(しみず いっこう、1931年昭和6年)1月12日 - 2010年平成22年)3月15日)は、日本小説家

東京・向島生まれ。早稲田大学法学部を中退し労働運動に入る。熱心な共産主義者であったが、1952年の血のメーデー事件をきっかけに訣別し、物書きとして生きていく。「東洋経済新報」や「週刊現代」の記者を経て、1966年、証券界の内幕を描いた『小説兜町(しま)』でデビュー。 株を扱った『買占め』『東証第二部』などがヒットし、経済小説の草分けとして活躍した。 『動脈列島』で日本推理作家協会賞。『悪魔祓い』『頭取の権力』な企業小説と呼ばれる作品が多い。高杉良城山三郎らと並ぶ経済小説トップランナーとして知られている。

『小説 財界』を読んだ。1960年に大阪商工会議所会頭のポストをみぐる大商南北戦争と呼ばれた騒動を題材とした小説である。大阪商工会議所の次期会頭最有力候補の死によって風雲急を告げる会頭選。現会頭は、四期にわたる長期政権の間に会議所を私物化していく。五選を狙う現会頭と人事一新を画策する反対派の熾烈な選挙戦が繰り広げられる。権力闘争の実状を迫真の描写で描いた傑作だ。老人の最後の欲「名誉欲」をモチーフに財界トップの座に執着する執念の闘いの表と裏が生々しく描かれている。

清水は証券、銀行、自動車、鉄鋼、商社などの広範な企業社会を舞台に、地位、名誉、金銭、女などを巡る「業」に身を灼く人間ドラマを描いた。最盛期の1970年代は66冊、1980年代は54冊と厖大な作品を書き続けた。若い頃に共産主義者だったことからわかるように、世の中に対する義憤、正義感が小説を書く動機となっていることをうかがわせる作品群だ。

森村誠一によれば、角川事件の発生に際して、作家仲間、俳壇、ファッション業界、棋会、法曹界、出版業界などに広く呼びかけ、「角川書店を守る会」を結成したとき、清水一行氏に呼びかけなかった。冒頭の言葉は、清水一行からの電話であり、森村は感激している。角川から多くの書物を刊行している清水は、この会では受付を担当したそうだ。

 

小説 財界 (徳間文庫)

 

 

 

 

出版企画の仕込み。脳波測定。新メンバーの学部運営委員会。

「副学長日誌・志塾の風」180314

9時半:人事委員会:非常勤。学科所属。

10時40分から13時まで:学部運営委員会の第0回。新委員長ら。

・金先生:アクティブラーニング。新担当者の仕事について。

・趙先生:離学対策の意見交換。

・良峯先生:脳波に関する共同研究の件の企業との関係を相談。先日購入した脳波測定器で試し中。

f:id:k-hisatune:20180315063123j:image

---

確定申告の内容が確定。

ーーーー

16時:市ヶ谷のN出版社を訪問。

雑誌編集部の方と書籍出版部長と2時間ほど出版企画を巡る意見交換。持って行った企画とは少し違った形になるだろうが、前向きに検討してもらうことになった。

---------------------

「名言との対話」(平成命日編)」3月14日。円城寺次郎「椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」

圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年4月3日 - 1994年3月14日)は日本のジャーナリスト日本経済新聞社社長

「現状の新聞経営はムダだらけ。魚に例えればおいしい真ん中の身しか食べていない。頭から尻尾まですべて食べるようにしなければ」と総合情報機関を目指した円城寺は、経済部長、政経部長、編集局長、主幹を歴任後、社長8年、会長4年と中枢で長く日経新聞社を牽引した中興の祖である。

日経流通新聞日経産業新聞の創刊で経済の現場のミクロ情報の取材体制を確立した。

日経BP社を設立し、1969年には『日経ビジネス』、1971年には『日経エレクトロニクス』、その後も専門誌を次々に創刊し、専門記者を多く育てた。マクロ経済は日経本紙、ミクロ経済は専門誌という独特の体制を整備した。2006年からは創刊130周年記念でエコノミストを励ます円城寺次郎賞が設けられている。

1963年には社団法人日本経済研究センターを設立し、初代理事長をつとめている。経済を巡るシンポジウムなどを頻繁に開催し、多くの人材を世に出した。

また、円城寺は美術への造詣が深く、インド古代美術展、東山魁夷展などを成功させ、経済だけでなく芸術にも強みを持つ新聞としてのブランドを確立した。2011年に福岡市美術館で開催中の「安宅コレクション 美の求道者・安宅英一の眼」をみたとき、円城寺が安宅英一の最大に理解者だったことを知った。東山魁夷の『唐招提寺への旅』を読んで唐招堤寺御影堂障壁画も円城寺の仲介だったことを知った。

私はビジネスマンだったから、日経新聞を軸に、朝日・毎日・読売・産経・東京・琉球新報など1紙を回しながら自宅で詠むというスタイルを長年とってきた。特に愛読しているのは、文化欄だ。毎日変人が登場する欄(私も2008年に出た)、「私の履歴書」、美術情報、そして連載小説など、実に多彩でいい記事が多い。経済新聞なのに、優れた文化欄を維持しているのは、円城寺次郎の功績だろう。

円城寺次郎は経済審議会会長などの公職も務めるなど、叙勲の対象だったがのだが、「新聞記者は勲章を欲しがってはならない」と、叙勲を辞退しているのもすがすがしい。

その円城寺は「日経は新聞も出している会社にしたいんだよ」と言った。その相手は新聞のコンピュータ化のプロセスで親しくなった日本IBMの椎名武夫だった。

 

 

 

 

「改善と改良」。「進歩と進化」。

「副学長日誌・志塾の風」180313

・研究室:事務局との定例ミーティング:杉田学部長。宮地局長、川手課長、水嶋課長。「来年のFD/SD合宿の来年に向けて」「卒業式のライブビューイング」「アクティブラーニングの進め方」、、、、。「改善と改良」。

・ラウンジ:学長室の山本さん:来年度のT-Studioでの録画について意見交換。「進歩と進化」。

--------------

「名言との対話」。3月13日。川村勝巳「会社の経営は、ある意味で不況の方がやりやすいこともある」

川村勝巳(かわむら かつみ。1905-1999年)は、東京商大卒業後、三井物産に入社。その後退社し化成品の会社をつくる。大日本インキ(現DIC)社長。

1908年(明治41年)に父が創業した川村インキ製造所は、関東大震災東京大空襲などで壊滅的な打撃を受け、あるいは石油ショックなどで苦境に立ったが、その都度立ち直った。

長男の勝巳は、三井物産につとめたが、32歳、「トコトン自分を追いつめて自分の運命を試してみたい」と自営の路を歩み出す。52歳、父の死で大日本インキの社長に就任。「化学で彩りと快適を提案する」DICは印刷インキ、有機顔料、PPSコンパウンドで世界トップシェアの化学メーカーとなっている。現在では資本金966億円。従業員数は連結 20,628名 単体 3,503名。売上げ高7894億円の大企業に育った。1978年に20年間つとめた社長を退任するときには年商は2570億円となっていた。「なんとかオヤジとの約束は果たしかな」と思った。

千葉県佐倉市の総合研究所敷地内にDIC川村記念術館が1990年5月に開館した。川村が1970年代初頭からピカソ、ブラック、カンディンスキー、マレーヴィッチ、コーネルなど20世紀美術を中心に収集したコレクションが中心の美術館だ。よく手入れされた庭園や緑豊かな自然の中を散策でき、寛げるレストランも併設されている。佐倉に住んでいた40代の前半に私も何度か訪問したことがある。

 不況はチャンスであると川村は言う。好況時は実力以上に業績があがり、組織は膨張し、社員は興奮し勝手な行動をとるようになる。不況は広がり弛んだ組織を引き締めるよい機会になる。減量し付加価値を高め、来たるべき時期に備えることができるのである。個人においても同様で、不遇の時は実力を蓄える時期と考えるべきなのだ。

 (参考)『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社