「釈宗演と近代日本」展(慶応義塾大学)

慶応義塾図書館等で開催されている釈宗演遠諱100年記念特別展「釈宗演と近代日本」展。

釈宗演(1860-1919年)は、1893年のシカゴで行われた第1回万国宗教会議(コロンブスアメリカ発見400年記念)に福沢諭吉の援助を得て参加し、初めて世界に「ZEN]を紹介した。日本仏教、仏教を世界宗教地図の中で位置づけながら「近代」と格闘した。欧米、東アジア諸国を精力的に巡り、グローバルに活躍した禅僧である。

27歳で慶応義塾に入学し、51歳の福沢諭吉と出会う。3年間、西洋学問を学び。卒業後にセイロンに留学し2年半滞在。32歳、円覚寺管長(北鎌倉の円覚寺北条時宗が蒙古襲来による戦没者供養の寺)。翌年1893年、万国宗教会議に出席。「仏教の要旨並に因果法」「戦ふに代ふるに和を以てす」と題して講演。1897年、弟子の鈴木大拙を渡米させ、オープン・コート出版社でケーラスや宗演の著作の翻訳に従事させる。1903年建長寺管長を兼任。1904年、日露戦争勃発に際し従軍布教師として満州に渡る。1905年、渡米しルーズベルト大統領と会見。1906年、欧州諸国を歴訪。セイロン、インド、香港、上海を経て帰国。1911年、朝鮮。1912年、夏目漱石参禅。満州巡遊。1915年、台湾。1914年臨済宗大学(後の花園大学)学長。1914年、円覚寺管長に西院。1915年、漱石の葬儀で導師。1916年、朝鮮、満州、中国。1919年、61歳で没。

セイロンでは、小乗仏教大乗仏教が交流・連帯しながらキリスト教の西洋諸国に向き合うという理想を描く。

人は神によって罪が許されるのではなく、自らが為した行いによって罪が生まれ、自らの行いによってのみ罪は清められる・この「縁起の教え」はアメリカの宗教者には驚きであった。因果の理は宇宙を支配する。釈迦はこの自然の法則の最初の発見者である。

1897年に渡米した鈴木大拙(号の大拙は宗演から贈られた)は英語に堪能で仏教に精通。10年以上、大拙は西洋との窓口となった。

二度目の渡米ではルーズベルト大統領と会見。大拙の通訳で、日露戦争、武士道、女子教育、世界平和、宗教問題を語り合った。仏教が欧米化し、耶蘇教が日本化、東洋化することで、世界の平和がもたらされる。

日露戦争で従軍布教師となった宗演は、精神講話、慰問、戦没者の葬儀を行った。野戦病院では敵兵にも情を抱いた。国家鎮護の円覚寺管長の使命であった。一ヶ月以上「不沐不浴。又不浣濯。土灰満頭」という状態であった。「心の平和を与ふる宗教は戦時に於いもっとも必要に候」。

参禅者は、山岡鉄舟夏目漱石、原三渓浜口雄幸河上肇、石栗陸軍軍医総監、藤山雷太、後藤新平明石元二郎、九鬼隆一、平沼騏一郎夏目鏡子、、、。

漱石28歳、宗演35歳での邂逅。『門』、『行人』、、、。

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・八木会長:日経の中澤さんの講演記事録。

・事務局との定例ミーティング

・「邪馬台」。「知研フォーラム」。「遅咲き」

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「名言との対話」6月13日。村田英雄「足がなくても歌は歌える」

村田 英雄(むらた ひでお、1929年昭和4年1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本演歌歌手俳優

4歳で初舞台、13歳で浪曲師・酒井雲坊の名でデビューし、天才少年浪曲師と呼ばれた。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名する。

1958年、古賀政男に見出され、『無法松の一生』で歌手デビュー。1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将が戦後初のミリオンセラーとなり、翌1962年第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。以後、数多くのヒット曲を飛ばし、国民的歌手となっていく。

1981年頃、ビートたけしが自らの番組で取り上げた事から、若年層のファンが急増し、三橋美智也のミッチーに対抗し「ムッチーブーム」と言われるようになる。

 1988年、同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。

村田英雄の歌で私の耳に残っているのは、王将、皆の衆、姿三四郎、夫婦春秋、祝い節、男の一生、人生劇場、無法松の一生、夫婦酒、空手一代、、などだ。野茂英雄は、実父が村田英雄のファンだったことから、英雄と付けられたという。

没後の2004年に故郷の佐賀県唐津市に「村田英雄記念館」がオープンした。年に1回の「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。

NHK紅白歌合戦には1961年に初出場、1989年までに通算27回の出場を果たしたのだが、村田は野菜嫌いで肉食であったこともあり、その人生は「糖尿病との闘い」でもあった。35歳で糖尿病を発症。1996年には右膝下12センチで切断。2000年1月には左足も同様に切断し、車椅子生活となる。「足がなくても歌は歌える」は自ら鼓舞をした言葉である。生涯現役のまま、村田英雄の豪快な「人生劇場」は73年の幕を下ろした。

東京ステーションギャラリー「イザベラ・バード展」--イギリス人女性旅行家の先駆者が旅した明治初期の日本

東京ステーションギャラリーで開催中の「TRAIN SUITE 四季島」運行開始1周年企画「イザベラ・バード展」。

140年前の明治初期にイギリス人女性旅行家の先駆者イザベラ・バードが周遊した東日本・北海道の各地を四季島の運行ルートと結んで、日本の原風景を探訪する旅へ誘う展示だ。

イザベラ・バード(1831-1904年)は、英国ヨークシャー生まれ。1871年明治11年)に初来日。6がつから約3ヶ月間にわたり東京から、日光、会津、山形、秋田、青森、函館、室蘭、平取まで旅をした。東京に戻り、同年10月からは関西、伊勢神宮を旅した。徒歩以外には、人力車、馬、船を交通手段とした。1880年に『日本の未踏の地--蝦夷の先住民および日光東照宮伊勢神宮訪問を含む内地紀行の報告』として英国で出版されている。文章と挿絵による詳細な旅の記録は、明治初期の日本を汁貴重な記録となった。

バードの旅のスタイルはヴィクトリア朝のファッションと日本の服装を組みあわせ折衷スタイルだった。外套スカート、編み上げブーツ、蓑、鉢型の笠。荷物は50キロ。旅行行李2個。

支援した人物は、パークス公使(1828-1885)。ヘボン博士(1815-1911)。

日光カッテージ・イン(金谷ホテルの前身)。伊藤鶴吉(1858-1912)は通訳・案内人・料理人。

新潟「最も整然とした最も清潔な」

山形・米澤盆地「アジアのアルカディア桃源郷)である。盆地はまさにエデンの園である。日本の農作物の種類の多さに驚き」。

青森黒石:ねぷた祭り。

函館:アイヌ。顔の形といい表情といい、これほど美しい顔は見たことがないように思った。その表情には気品があり悲しげで、、、優しさと知的な感じもあった」。アイヌの小屋に3日間泊まった。

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本日の昼食は、GINZA PLACEの「ビストロ・マルクス」で、弟と妹夫妻と。

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昼食後は、慶応義塾大学図書館と慶応アーツカレッジで開催中の「釈宗演と近代日本」展。詳細は別途。

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「名言との対話」。6月12日。木村次郎右衛門「責任の重さみたいなのを痛感している。1日でも長く元気でありたい」

木村 次郎右衛門(きむら じろうえもん1897年明治30年4月19日 - 2013年(平成25年)6月12日)は、京都府京丹後市に在住していた長寿男性である。

2012年平成24年12月17日より死去するまで存命人物のうち世界最高齢であった。また、同年12月28日にはクリスチャン・モーテンセンの115歳252日の記録を抜いて、死去した人物も含めた年齢が検証済みの歴代最高齢記録の男性となった。116歳。

20歳から65歳までの45年間、郵便局に勤めた。90歳頃までは農業に従事していた。晩年は孫の妻との2人暮らしで、毎日午前5時半に起床し、午後8時に就寝する生活を送った。朝はヨーグルトサツマイモ梅干しを食し、夜は牛乳を飲むことを習慣としていた。好き嫌いはなく、食べる量も自分で決めていた。

2013年6月の時点で7人の子(5人が存命)、さらに孫が14人、ひ孫25人、玄孫が15人いた。新聞は天眼鏡を使いながら1から2時間、長いときには3時間かけて読む。愛読紙2紙は、朝日新聞赤旗だった。テレビは「時代についていけないようではいけない。」と国会中継や大相撲を欠かさず視聴した。

2012年10月16日には、ギネス・ワールド・レコーズの編集長クレイグ・グレンディが京丹後市の自宅を訪れ、ギネス世界記録の認定証を手渡している。

「食べ物に好き嫌いはない。食細くして命長かれ」「苦にするな嵐のあとに日和あり」「楽しみは、毎日が楽しみです。ありがたい世の中に生を受けまして、本当に感無量の至りでございます」「てんとうさまのお恵みのたまもの。毎日、空を仰いでいますから、サンキュー」

以上を総合すると、この人の長生きの秘訣は、体を使う農業、規則正しい生活、旺盛な好奇心、細い食の習慣、感謝の精神、、、などか。この人の肩書きに「長寿者」という肩書きがついているにのはびっくりした。生まれたのは19世紀の明治、15歳で明治が終わり、大正、昭和、そして終戦が48歳。それから戦後、平成、21世紀と生きぬく。存命人物のうち日本最高齢の男性になったとき、、冒頭に掲げた言葉を語っている。抜群の長寿者には長生きせねばならないという責任が生ずるのであろう。

 

 

 

「大名茶人 松平不昧」展--「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」

日本橋三井記念美術館で開催中の「大名茶人 松平不昧」展。

松江松平藩7代藩主。2018年は没後200年。1751年生まれ、1918年没。

17歳で藩主となった松平治郷(不昧)は、殿様時代は武芸や禅の修行を行い、家老・朝日丹波郷保と藩財政の立て直しを図り(支出の半分をしめていた江戸屋敷の支出を3割に抑えた。役職を減らし1000人を減員)、産業の発展を促した名君である。その中にはたたら製鉄(出雲地方の鉄生産は全国の40%9も含まれる。松江藩の黄金期。40年間の治世で参勤交代は19回。不昧の「御立派の改革」によって、天明の大飢饉でお松江藩は一人の餓死者も出してない。

56歳で隠居してから江戸・品川大崎の2万2千坪の敷地に11の茶室を持つ下屋敷をつくり、最も気に入っていた茶室「独楽庵」を側に置いた。「佗茶」の精神を持つ茶聖利休を讃えていた不昧のメッセージは「利休に帰ろう」だった。後に「不昧流」と呼ばれる「自分を高める茶道」であった。

江戸後期は人々がライフワークに目覚めた趣味の時代だった。不昧は金魚、相撲などにも興味を持った。名物茶道具の収集では900点を超える所有の茶道具をまおとめた「雲集蔵帳」、名物茶道を解説した「古今名類じゅう」などを残した。増田鈍翁は不昧を尊敬する茶人。「お茶は湯を沸かして飲む。ただそれだけ」。江戸の古典落語の「そばの殿様」、「目黒のさんま」のモデルも不昧らしい。

「習にかかはり、道理にからまれ、かたくるしき茶人は、田舎茶の湯と、笑ふなり」。

松江が京都、金沢と並ぶ茶どころとなったのは不昧の存在が大きい。文化人サロンを主宰するプロデューサーだった。不昧は68歳で逝く。「人生70年古来まれなり 苦40年 楽15年」と不昧は言った。隠居の時代は「楽」の時代だという意味だろう。

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「喝」とは、全身全霊から発する叱声。絶対の真理を表す。

「茶禅一如」。

「不昧」の号は、「意志が強く、物欲に惑わされることなく、身を滅ぼさない」という意味の「不落不昧」から取っている。

茶の湯の本意五ヵ条。

「世の中はまめで四角ででやわらかでとうふのようにあきられもせず」は自画賛。

  参考「今に生きる不昧--没後200年記念」(山陰中央新報社)。

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多摩大出版会編集委員会準備会合。

私。松本多摩大総研副所長。杉田学部長。下井研究委員長。総研の池淵客員主任研究員。

今後の進め方。編集委員会のメンバー。、、、、。

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・池淵さん:各種プロジェクトの意見交換

・金先生:入試の「質」向上対策

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「名言との対話」6月11日。原田利勝「?」

原田利勝(1938年2月10日-2007年6月11日)は、明和地所創業者。

北海道砂川市の出身。東洋大学に進学。特待生として柔道を続ける。主将を務め、東京オリンピック強化選手としても名前があがる。 大学を卒業後は、博報堂を経て大京(当時、大京観光)に入社。オイルショック後、徹底した地域密着型の経営を行い、厳しかった同社の経営を立て直し、大京の黄金時代の立役者となった。次期社長が確実視されていたが、原田専務は1996年、矢を持て追われるように退社する。 「一生、大京のために尽くす」と考えていた原田氏は、やむなく大京時代の元横浜支店のメンバー数人とともに「明和地所」を設立。1996年に東証二部に株式上場、1998年に東京証券取引所市場第一部に指定 するなど業績をあげた。

通夜には2500人が会葬し盛大だった。「推進役となって東洋大柔道部の隆盛期をつくりあげた」「心の大きな方だった。」「人間の生き方、男の生き方を、仕事の基本を学んだ」、、、、。原田が大京観光に入社した当時を知る人は「何しろ那須の別荘を売っていた時代、有象無象の集団だった。原田さんは、そんな中で〝掃き溜めに一輪の花〟のような存在だった」と語っている。

思い出すのは、私がJAL広報時代にオーストラリアのケアンズブリスベン線開設時に、デベロッパーとしてブリスベンのリゾート開発にあたっていた大京の方々と接触したことだ。バブルの時期でもあり、景気のいい歓談だったが、当時は原田利克勝にも勢いのあった時期だったのだろう。

明和地所設立から数年後、東京都国立市の「大学通り」沿いに明和地所が建設した高層マンションが景観権を侵害するとして、周辺住民らからマンションの部分撤去と損害賠償を求められた訴訟が「国立マンション訴訟」として有名になった。東京地裁は高さ20mを超える部分の撤去を命じたが、東京高裁明和地所逆転勝訴の判決を言い渡し、2006年3月に最高裁で確定した。 建物の高さ制限を20mとする国立市の条例はマンション建設を妨害する目的で違法だとして市に損害賠償などを求めた訴訟でも、2008年3月に最高裁で勝訴が確定した。明和地所は勝訴で得た損害賠償金と遅延損害金計約3120万円を全額国立市に寄付するという粋なことをやった。「訴訟は市の違法性を確認したかっただけ。賠償金は市民の血税から払われており、受け取れない。学校内の楽器や福祉センターの充実に充ててほしい」とのコメントを出した。

このような事実をみると、この企業には一論の花といわれた創業者・原田利勝という人物の創業の精神が生きている感じがする。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ベスト・キッド』とyoutubeドラマ『コブラ会』--指導者のあるべき姿とは? 日大アメフト部事件、、。

日曜日は、映画とドラマを観た。

映画『ベスト・キッド』。1984年制作。

少年が沖縄出身の空手の名人である日系人に空手を習い、成長していく物語。空手の大会で空手集団コブラ会メンバーから準決勝でコーチの命令で反則の左足を狙われ主人公はケガをさせられる。決勝での相手も同じコブラ会であり、コーチはケガをした足を執拗に攻撃される。最後に右足で放ったケリが決まり優勝を勝ち取る。

 

 youtubeドラマ『コブラ会』の10回連続のドラマの最終回。2018年。

それから30年後、主人公の少年は社会的に成功しており、主人公に決勝で敗れた相手はすさんだ人生を送っている。そしてコブラ会のコーチになっており、多くの少年を指導している。空手の大会の決勝で、成功してる方に学んだ相手のケガをしている足を狙わずに堂々と戦えと命令するが、コブラ会の少年は意図的にその足を攻めて優勝する。このコーチの心は晴れないが、自分が学んだ指導者からはそれでいいと言われ、呆然とする。

 『ベスト・キッド』はいくつかのバージョンがあり、またyoutubrドラマも最初から見たいものだ。スポーツにおける指導者の重要さがわかる。正しく優れた指導者に学んだ少年は人生の極意を身につける。邪悪な心を持った指導者から学んだ者は生涯にわたりその影を引きずっていく。日大アメフト部の監督・コーチと反則を行った選手との関係を念頭にみると、深く考えさせられる。あらゆる分野の指導者のあるべき姿を考える素晴らしい教材だ。このシリーズは、すべてみることにしたい。

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「名言との対話(平成命日編)」6月10日。塚本幸一「一刻一刻、一日一日、一年一年を大切にして、やらねばならないことを完遂することが、『生かされている者』の義務だ」

塚本 幸一(つかもと こういち、1920年9月17日 - 1998年6月10日)は日本実業家ワコール創業者。

宮城県生まれ。仙台市の片平尋常高等学校に入学。その後、近江八幡に移る。大宅壮一が「近江商人士官学校」と評した八幡商業を卒業し家業の繊維の卸商を手伝う。インパール作戦に参加、九死に一生をえて復員し、1949年アクセサリーやブラジャーを扱う和江商事を創業。一代で「ワコール」を女性下着の国内トップメーカーに育てた。1974年に実質上社長業を長男・能交に譲って、会長兼社長となり、1977年から会長に専任。この間、50歳で京都経済同友会代表幹事。62歳、京都商工会議所会頭。66歳、関西経済連合会副会長、長男の能交が社長に就任。私はこの能交とは友人の渡辺幸広さんのグループで面識があり、京都の凝ったつくりの豪邸で桜の観賞の宴に招かれ、また京都祇園で能交さん主催で友人たちと一緒に遊んだことを思い出す。その時に、父・幸一の住んだ自宅でこの人の書斎などで偲んだ。

塚本幸一には二つの誕生日がある。二つ目は敗戦で戦地から帰還した1946年6月15日である。悪名高い地獄絵そのものであったインパール作戦に従事する。飢餓と豪雨、マラリア赤痢など悪夢のインパール退却行で、55名の小隊のうち生き残ったのはわずか3名という悲惨さだった。未曾有の国難を糧として新しい日本を創造する。そのために神が命を残したとしか考えられない。25歳から二つ目の人生が始まる。

「生かされている」者としての使命感が、刹那的生き方ではなく、神のように純化した心を抱かせた。生まれ変わってから50年余、自らの持ち場で「一刻一刻、一日一日、一年一年」を大切に戦友の分を生き、新生日本の国造りに命を捧げ英霊を慰めた。それが戦争に参加した者の一つの責任の取り方だった。 

 

 

塚本幸一―わが青春譜 (人間の記録)

塚本幸一―わが青春譜 (人間の記録)

 

 

 

 

多摩未来創造フォーラム---小池百合子東京都知事の基調講演と、市長・学長・社長のシンポジウム

多摩未来創造フォーラムが玉川大学にて行われ参加した。

元々は公益社団法人「学術・文化・産業ネットワーク多摩」が主催する多摩の大学の理事長・学長会議だった会合がフォーラムに進化した。

名刺交換の時間に懇談:ネットワーク多摩の細野専務。八王子市の木内容子副市長。キャリアマムの堤代表。いなげやの成瀬社長。立飛ホールディングスの村山社長。法政大学の増田副学長。学生情報センターの清藤常務。

小池百合子都知事を迎えての昼食会:気候変動と飢饉、革命。23区の定員厳格化。首都大の100年人生講座。東京オリンピックのオランティア。、、、。小池知事とも名刺交換。

小池知事の基調講演。「新しい東京の実現に向けた多摩地域の可能性--2020年のその先を見すえて」。

・現在の東京をつくった偉人たち:後藤新平(幹線道路)。安田善次郎日比谷公会堂)。渋沢栄一井の頭公園)。

・セーフシティ。ダイバーシティ。スマートシティ。

・多摩は人口の3分の1。面積の2分の1。昨年、多摩振興プランを作成。多摩は2020年の人口422万人が2040年に398万人。都の予算は7兆円。予算の総合交付金490億円から550億円に。製造業5兆円は東京都の6割。2015年の観光インバウンド1000万、2017年1379万人。多種多様な農産品・加工品。みどり率は67%(都は50%)。鳥の目・虫の目・魚の目。

・セーフシティ:人に着目:子育て。受動喫煙児童虐待。医療。多摩ニュータウンの再生。防災。。無電柱化推進条例。

ダイバーシティ:幹線道路6割。南北・東西7割。公共交通ネットワーク。モノレールの延伸調査費。・産業:イノベーション。VR。都市農業。ブランド化。8つの自然公園の総合ビジジョン。

・スマートシティ:ゼロエミ。EV充電設備。燃料電池車。二輪車

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細野専務司会のシンポジウム。

細野:大学を核として次の時代を準備する。集積のメリットを出せているか?交通の問題が大きい。

立川市清水市長「南北の渋滞」。町田市の石坂市長「モノレール延伸を期待」。いなげやの成瀬社長「人出不足」キャリアマムの堤社長「職住近接。サテライトオフィス」。京西テクノスの臼井社長「人材が課題。4%しか就職しない」。創価大学の馬場学長「留学生8%。留学生対応が課題」。帝京大学の沖永学長「留学生3.5%。留学生対応が課題」。桜美林大学の畑山学長「留学生7%。国際化とキャンパス拠点化」

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 創価大の馬場学長「生涯教育の拠点に」。帝京大学の沖永学長「日本人だけではやっていけない。留学生。新産業と自治体の有機的連携」。桜美林の畑山学長「国際線パイロット育成事業」。うなげやの成瀬社長「社員は多摩から取りたい」。キャリアマムの堤社長「サテライト。ジョブカード」。京西テクノスの臼井社長「日本にいながらグローバルマーケットを相手に。IOT。メンテ。インターンシップ採用」。立川市清水市長「モノレール90キロ計画。今16キロ。隣接の8つの市で首長勉強会、そろそろ」。町田市の石坂市長「町田と立川をつな雲のレール」、、、。

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 玉川学園創立者・小原國芳の言葉が、全学共通の実践目標となった。

「人生の最も苦しい、いやな 辛い 損な場面を 真っ先に微笑を以って担当せよ」

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 「名言との対話(平成命日編)」6月9日。塚本邦雄「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」

塚本 邦雄(つかもと くにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本歌人詩人評論家小説家

学校卒業後、商社に勤務。転勤した松江で鳥取在住の杉原一司と「日本歌人」を通じて知り合い、1949年に同人誌『メトード』を創刊。1951年、杉原一司への追悼として書かれた第一歌集『水葬物語』は中井英夫三島由紀夫に絶賛された。

1960年代の前衛短歌運動の先頭にたって、 寺山修司岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と称された。また近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。

歌集は80冊を残した。また俳句小説評論なども多く発表している。死後には蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている。

絢爛たる語彙と強烈なイメージを駆使した短歌を残し、後進に影響を与えた。塚本の歌は難解であるが、以下比較的わかりやすいものをいくつかピックアップしてみよう。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ

百年後のわれはそよかぜ地球儀の南極に風邪の息吹きかけて

 五月祭の汗の青年、病むわれは火の如き孤獨もちてへだたる

青年の群に少女らまじりゆき烈風のなかの撓める硝子

少年発熱して去りしかば初夏の地に昏れてゆく砂絵の麒麟

日本脱出したし、皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも

人生いかに生くべからざるかを憶ひ朱欒(ザボン)を眺めゐたる二時間

あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす

急速に日本かたぶく予感あり石榴をひだり手に持ちなほす

ほととぎす啼け わたくしは詩歌てふ死に至らざる病を生きむ

乳房その他に溺れてわれら存る夜をすなはち立ちてねむれり馬は

父となり革(あらたま)る莫(な)しぬかるみに石油の虹のみだるるを喩(こ)ゆ

台風は冴え冴えと野を過ぎたれば再(ま)た綴るわが片々のこころ

逝きしもの逝きたる逝ける逝かむもの疾風(はやて)ののちの暗き葉ざくら

二十世紀と言ひしはきのふゆく秋の卓上に梨が腐りつつある

人に告げるざることもおほかた虚構にて鱗(いろこ)きらきら生鰯雲

日清日露日支日独日日に久米の子らはじかみをくひあきつ

秋の河ひとすぢの緋の奔れるを見たりき死後こそはわが余生

 塚本邦雄の名前と業績については、恥ずかしながら全く知らなかった。今回作品に接してみて、跳躍する驚くべき発想、絢爛たる豊かな語彙、冷え冷えとした眼差しなどに深く感銘を受けた。「人間の愚かさ。『人間の』は、よけいだ。愚かなのは、人間以外にない」と塚本邦雄は言う、冒頭の歌「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼 」は、戦争の悲惨さと人間の愚かさをわずか31文字であますところなく伝える衝撃の作品だ。

 

 

 

授業「図解文章法」:文章を書くことに抵抗が減ったという感想が多かった。

10時:橘川先生:ピリオ(名言)。無限教師。移民、、、。

10時40分:授業:テーマは「図解文章法」。文章を書くことに抵抗が減ったという感想が多かった。

12時半:山本さん:T-Studioでの録画企画。女性教授シリーズ。

12時45分:高野課長:インターゼミ、、、。

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「名言との対話(平成命日編)」6月8日。青木定雄「常識的なことをしっかりやることが、これが革命なんです」

青木 定雄(あおき さだお(通名)、1928年6月23日 - 2017年6月8日)は、日本実業家在日韓国人1世。MKタクシー創業者。

15歳で韓国から渡日。23歳立命館大学中退。32歳、ミナミタクシー創業。41歳、MKシステム(コストカットで浮いた利潤の83%を乗務員に還元。銀行支店長並の給与を目指す)を採用。49歳、桂タクシーを吸収しMKタクシーを設立。66歳、代表取締役会長を退任。73歳、経営破綻した3つの信用組合の事業を引き継いだ韓国系近畿産業信用組合代表理事会長に就任。青木定雄は交通と金融の革命児となった。

1972年、急病・急用・出産対応の深夜ステーション。1975年、学士ドライバー採用。1978年、救急タクシー(赤十字の救急員資格)。1983年、身体障害者割引制度。1992年、全車両禁煙。1995年、阪神・淡路大震災に救援無償タクシー派遣。2割が英語で観光案内。ライセンスがあればサービス料として10万の追加収入、ライセンス獲得者のうち年間5人をイギリス留学、20万円の追加収入。動く情報デパート。待合室。運賃値下げで運輸省を提訴し勝訴、、。「教育がすべてなんです」という青木定雄は、月に9回の社員向けセミナーを実施。大学教授やお寺の管長などが講義するなど、自身の講義も含め教育に全精力を傾けた。

MK精神とは奉仕と親切の精神であり、人本主義を標榜する世直し企業を一代で創業した。結果的に、日本のタクシー業界を一段階グレードアップした。京都のタクシーではトップ。全国で9番。「エレガント・カンパニー」。いい商品、いいサービス。9位。日経流通新聞の「商品ブランド」では、3位。、、というように社会的評価も高かった。MKタクシーの斬新な経営改革は、メディアで大きな話題になった。東京への進出時には街で見かけて、私も試したことがある。

消費者からみて当たり前の常識を、自らの企業で徹底して工夫を重ね、実現していったという印象が深い。それが社内の意識を改革し、さらに業界と地域を越えて波及していき、世直しが実現しているという思いが青木定雄にはあった。経営手法や評価には、嫉妬も含めて賛否両論、そして毀誉褒貶があるのは当然だが、「経営は一つの総合芸術である」と考えた交通の革命児、風雲児であったことは間違いない。

 

韓流 人が動く―MKタクシー青木定雄の成功哲学

韓流 人が動く―MKタクシー青木定雄の成功哲学

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中村元一・ノグチ幸一『ハイ、MKタクシーの青木定雄です』(ダイヤモンド社

 

 

「去年今年貫く棒の如きもの」--ブログ「今日も生涯の一日なり」、連続5000日目。

このブログ「今日も生涯の一日なり」が、2004年9月28日以来、本日で連続5000日を達成した。13.7年かかっている。生まれてから本日で24992日であるから、人生の5分の一はブログを書いていることになる。

ブログは毎日コツコツと一歩づつ積み上げていく感じがあるから、野球で言えばヒットを打つ感覚に近い。最初はファンである松井秀喜の連続試合出場記録1768を目標にすると冗談で言っていたのだが、その数もとうに超え、いつか名球会資格のヒット数2000を超えた。4位の松井(日米通算)を超え、長島(2471本)、王(2786本)、野村(2901)、そして日本トップの張本の3085という数字を過ぎた。メジャーリーグ2位のタイ・カップの4191本、1位の4256本のピート・ローズも、そしイチローの日米通算4367安打も越えてきた。5000日達成には、少し感慨がある。

宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。鍛錬とは千、万の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。

この考え方でみると、練れるのは一万日であるから、そこに達するのは生まれてから約3万日あたりで、私は82歳になっているはずで、その時点では人生の3分の一はブログを書いていることになる。1万5千日は95歳あたり。ブログが2万日になるのは109歳。その時点では人生の半分はブログを書いていることになる計算だ。以上は空想と妄想。

「去年今年貫く棒の如きもの」と虚子が詠んだように、生涯にわたって棒の如く日々少しづつ進んで行こう。

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 「名言との対話(平成命日編)」6月7日。日高六郎「自由からの逃走」

日高 六郎(ひだか ろくろう、1917年1月11日 - 2018年6月7日)は、日本社会学者 

1941年東京帝国大文学部卒業。戦後、東大新聞研究所助教授を経て同教授。1969年、東大紛争の機動隊導入に抗議し、教授を辞職した。

市民運動家として「人間の解放とは何か」を問い続け、ベトナム反戦水俣病日米安保条約問題など現実の問題に積極的にかかわった。宿泊客らを人質に旅館に立てこもり注目を集めた1968年の金嬉老事件の際は、背景にある在日コリアン差別を指摘し、金氏を擁護した。戦後民主主義憲法擁護の立場から60年安保改定の問題点を論じたほか、ベトナム反戦の国民行動を呼びかけ、革新市民運動をリードした。戦争加担を拒否して脱走した米兵を援助する活動も、作家の小田実(まこと)や評論家の鶴見俊輔らと進めた。その後も、雑誌「市民」を創刊するなど、平和や教育、社会問題について発言し続け、市民運動の拠点として創立された「国民文化会議」の代表も務めた。
1980年代後半からはパリに住み、「九条の会」などの招きでたびたび帰国、講演やシンポジウムに出席した。

恩師の尾高邦雄教授は「日高君は思いつきと構想力の天才である。それなのに、まだ自分の仕事らしい仕事を発表していない」と不満を語っていた。鋭いジャーナリスティックな感覚があり過ぎて、社会学から離れて現実の市民運動に深入りし過ぎたという思いであろう。

日高六郎という名前は戦後のいわゆる進歩的文化人の一人であり、マスメディアで発言する勇姿はよく見かけたものだが、本日までその後もずっと生きて101歳の長寿を全うしたセンテナリアン(百寿者)である。

  ドイツ社会心理学者エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を訳したことでも知られる。「人間の解放」を問い続けた日高は、自由を見つめていたのだろう。前近代社会の制度からの解放は「--からの自由」にとどまり、次の段階としての個人の諸能力の表現という「ーーへの自由」にまでは届かなかった。「--からの自由」は得たが、孤独や責任という新しい恐怖に直面することになり、自由を手放したくなる。それがヒトラーを生んだのだ。日高六郎は高い次元の「ーーへの自由」の存在する社会を夢見た。それは自我の確立した市民が自由に表現できる社会であり、それを実現する運動に生涯を賭けたのであろう。