中江藤樹の旅--中江藤樹記念館、藤樹神社、藤樹書院、清水安三記念館

京都から高島市安曇川へ。中江藤樹の旅だ。

まず、10分ほどのビデオで中江藤樹の全体像を頭に入れる。「あかぎれこうやくの話」(親孝行よりも勉強せよ)。「馬方又左衛門」(忘れものの200両を届けお礼をもらわない)「農夫の道案内」(服を改めて案内する)など、いずれも藤樹先生の偉さがわかるのエピソードだ。

次に記念館の女性職員が資料を使いながら、丁寧に説明種しれくれたので、藤樹のことがよくわかる。自宅の庭に藤の木があり、弟子たちが尊称として藤樹先生と呼んだ。

11歳で「論語」。17歳、「四書大全」30余巻を独学で読み朱子学に傾倒。27歳、辞職願いが受け入れられず脱藩し、京都滞在の後に小川村に帰郷。塾を開き住民を感化し、尊敬を集め、世間は「近江聖人」と呼んだ。小川村は、住民が手習いをし、行いを慎んだので、よい風俗になった。それが、数々の逸話になって残っている。37歳、「陽明全書」を読み、疑念が解けて陽明学を信奉するようになる。

林羅山らが代表する朱子学を、藤樹は「俗儒」、にせ学問、と呼び批判。

私塾での14年間では、備前岡山の池田光政に仕え治山治水に活躍した熊沢蕃山や、渕岡山などの逸材が出て藤樹の名声が高くなる。主な著書は「翁問答」(武士向け。ビジネス書として読まれている)、「鑑草」(女性の生き方)などがある。

 

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明治初年から1945年までの旧教科書に登場する近江の偉人のランキングがある。これによると 、井伊直弼35回、石田三成29回、山内一豊の妻28回、最澄24回を抑えて、88回と圧倒的な一位だ。科目別では「修身」51回、「歴史」25回、「国語」11回、「唱歌」1回。

戦前は、「修身」の先生としては、二宮尊徳以上に国民に知られた人物だった。戦後の民主主義の世の中で忘れられた。

大塩平八郎佐藤一斎、なども藤樹の学問が影響を与えた。

今でも亡くなった3月7日は「立志祭」として子ども達が作文を書く。「勉強をすれば、聖人といわれるほど徳の高い人になれる」と藤樹が11歳で志を決めたことに由来する。

 

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 朱子学は、身分という形から入り、知識を詰め込むことから限界を感じ、陽明学に転向する。自分の心を磨き続けると形は自然に整っていく。行動に移して学んだことになる。

中国の陽明学では「良知を致す」と読むが、藤樹は「良知に致る」と読む。生まれ持っている良知を生まれついて知っている良知に到達する。そして天と地が一致するのである。藤樹は、陽明学を基礎として、仏教、道教を取り込み、独自の陽明学をうち立てたことから、日本陽明学の祖となる。

藤樹の儒学とは、朱子学の「理学」に対して「心学」である。良知心学。

聞いたことをすぐ口に出す「口耳の学」であってはならない。

心のけがれをきよめ、身のおこないをよくする。四書五経を読むのは、自分に内在している良知に致るための手段だ。まず主体的に「志」を立てよ。心学にととめれば、平人から聖人にいたる。聖学である。

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 藤樹書院は、塾生たちの寄付で建てられた。

藤樹の学問は、渕岡山(1617ー1686)らの努力によって、全国に広まる。京都学派、美作学派、熊本学派、大阪学派、伊勢学派、江戸学派、会津学派。

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「当下一念」。くやむなよありし昔は是非もなし ひたすらたたせ当下一念

 

 藤樹神社

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 内村鑑三『代表的日本人』の中で、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳日蓮とともに中江藤樹を紹介している。この中で、真の先生、真の弟子、真の教育を、みることができると述べている。 童門冬二『小説中江藤樹』上下巻も合わせて読みたい。

 

藤樹書院。

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 新旭町清水安三記念館は、残念ながら開いていなかった。

清水安三(1891-1988)は桜美林大学創立者

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 清水安三誕生の地。新旭町の名誉町民。清水安三育英基金

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 約され器にあれど 聖たれ聖たれよと聲うちに聞く、と清水安三は67歳の時に、歌を詠んでいる。中江藤樹を師と仰ぎ、粗衣粗食して聖人の道に励んだのだ。

中江藤樹清水安三に影響を与え、その影響力が桜美林大学をつくった。その大学で多くの若人が学んでいる。全国各地の学派もそうだが、ここにも一人の人物の影響力の大きさを感じる。中江藤樹の偉さを改めて思った。

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 「名言との対話」10月2日。大滝秀治「自信の上に自惚れがある。謙虚の下に卑屈がある。自惚れは自信過剰、卑屈は謙虚の下、だけど、自信と謙虚のあいだでもって、一生懸命にやっていればいんじゃないか」

大滝 秀治(おおたき ひでじ、1925年大正14年6月6日 - 2012年平成24年10月2日)は、日本俳優ナレーター文化功労者

若い頃より老け役を演じることが多かった大滝秀治は、 名優の一人として舞台・テレビドラマ・映画・テレビコマーシャルと60年以上にわたり幅広く活躍した。民藝創設に参加し、民藝の看板俳優のひとりとして、演劇賞も多く受賞している。

師匠の滝沢修からは、「熱演という言葉は、過不足でいえば過である」「きみの芝居は勢いでやっている。表現は意志であって感情ではない」と教えらえた。また、もう一人の師匠の宇野重吉からは「活字が見えなくなって初めて台詞が言葉になる。舞台は言葉だ」との教えを受けて愚直に取り組んだのだが、稽古中に宇野からもらった言葉を全部清書して持っていいたという。

 「飄々ひょうひょうとしつつも時には激昂する」という独特の芸風の大滝は、「ぼくらの職業(役者)は人間を見る商売」、「役者としての存在が、いつか人に認められる時期が来るのかなど、何度考えたかわからないぐらいあるんです」、「この借り(役をもらう)は舞台で利子をたくさん付けて返すことが、役者の仕事だと思うんです」「一個の人間として生臭く死にたい」と、『大滝秀治写文集 長生きは三百文の得』で語っている。

  自惚れ。自信。謙虚。卑屈。この段階はわかりやすい。自惚れず、卑屈にならず、自信と謙虚の間を上下しながら一生懸命やっていこう。

大滝秀治写文集 長生きは三百文の得

大滝秀治写文集 長生きは三百文の得

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良県自治研修所

奈良県自治研修所で、丸一日の研修講師。30人弱の受講生。

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以下、受講者の業務。

統計。防災。まちづくり。文書。税務。観光。地域生活。保健。介護保険。地域医療。医療管理。薬務。女性活躍。自然環境。企業立地。農業水産業振興。森林技術。森林管理。土木。下水道。幹線道路。公園。建築。県立大学。広域医療。教育委員会。教育研究。

私の著書を読んでいる人が2人いて挨拶を受けた。受講生の中では歳が上の課長補佐と係長。「ドラッカー」と「文章論」の本。

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 夜は、京都駅の「接方来」で、九大探検部時代の先輩の藤原先生と食事。京都大学教授、放送大学の京都の責任者を経て、現在は臨床心理士の財団のトップ。ノーベル賞の本庶佑先生の話も。「生身」。「イメージデザイン」。

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「名言との対話」10月1日。 米澤嘉博「森ではなく木を見なければなりません。そして、木が枯れれば、森は衰えてゆくのです」

 米澤 嘉博(よねざわ よしひろ、1953年3月21日 - 2006年10月1日)は日本漫画評論家、大衆文化評論家、編集者コミックマーケット準備会の第2代代表である。

明治大学には、まんがとサブカルチャー米沢嘉博記念図書館がある。このまんが図書館は、総所蔵数は14万冊。現在は半分の7万冊が閲覧できりる。開架は6000冊。閉架64000冊。数年後には明治大学国際マンガ図書館に発展していくという。米沢嘉博という名前は知らなかったが、まんが業界では有名人だ。ヨネヤンと愛称で呼ばれていた。有限会社コミケット社長。

2、3歳頃から漫画を読み始め、小学生になる前から近所の貸本屋に通い詰める。中学時代から同人活動。自分でも漫画を多数発表している。明治大学工学部時代からマンガ誌の編集やライターをする傍ら、まんが評論活動を行い、そのままこの業界で過ごし、日本初のまんが同人誌即売会を立ち上げ、コミックマーケットコミケ)を開催する。米沢は数十万人が訪れる巨大イベントに育て上げた。1979年に準備会を立ち上げ、肺がんで亡くなる直前の2006年9月まで代表をつとめている。1980年から「戦後マンガ史三部作」を刊行。1999年「別冊太陽・発禁本」で日本出版学会賞、「藤子不二雄論 FとAの方程式」で日本児童文学学会賞を受賞。2001年からは立ち上げた日本マンガ学会理事。1997年から2002年まで、朝日新聞主催「手塚治虫文化賞」の選考委員をつとめた。
没後、2007年には星雲賞特別賞、2010年には「マンガ研究の基礎資料の収集と評論活動などの幅広い業績に対して」という理由でこの賞の特別賞を受賞している。まんが分野に大きな貢献をした人物だ。その米沢は以下の言葉を残しており、それがこの図書館の目的と叢書の特質になっている。

以下、友人の人物評。「一つの時代一つのジャンルだけでなく漫画の全体を把握していた「百科事典みたいな人」であった」「米澤は漫画の百科事典だった。漫画のことでわからないことがあると、彼に聞けばすぐ答えが返ってきた」

この人は、幼年からの志をそのまま育てた人だ。53才と言う若さで亡くなり、その間大きなそして多くの仕事をしたが、もっと時間があったら物凄いことになったと思う。米沢の志がこの図書館として実り、さらに国際まんが図書館として発展していくのだろうが、どんな偏屈なマニアでも頼まれれば応じたという米沢の人柄が大いに関係しているのだろう。

 

 

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台風24号に向かって南下。奈良へ。

大型台風24号で日本列島は大混乱。明日の奈良県での研修に備えて、少し早目に出る。

新横浜で、9時19分の「のぞみ」に乗車。東海道線新幹線が動かなくなる、そして空の便も動かないから、車内は混雑している。昨夜のうちに予約変更をしていたので座れた。

11時11分に京都着。今度はJR西日本がストップしているので、反対側の近鉄で奈良へ。中国人観光客多し。

近鉄奈良からタクシーでJR奈良駅直結のホテル日航奈良に着く。やれやれ。

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オール沖縄玉城デニー沖縄県知事誕生。翁長知事の後継。

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「名言との対話」9月30日。吉田直哉「新しいこと発想はどこから生れるか? きのうをなぞって安易に生きることを潔よしとしない姿勢、人と同じきを恥じる気概からであろう」

吉田 直哉(よしだ なおや、1931年4月1日 - 2008年9月30日)は日本の演出家テレビディレクターである。

NHK入局。 日本の素顔』と『現代の記録』シリーズは映像による日本人論であり、『NHK特集』などのドキュメンタリー番組を多く手がけた。そして大河ドラマ太閤記』、『源義経』、『樅ノ木は残った』などのドラマ番組で、優れた作品を制作した。

NHKスペシャル「太郎の国の物語」などでつき合いの深かった司馬遼太郎は、吉田直哉という人物を愛情のこもった目で次のように評している。

「卒業制作をしなければならないんです」「今さらそんなことをする必要はないでしょう」と私あどけないほどの貌を持った創造的人間にいった。ついでながら、創造は人間の中の高度に少年的な部分がやるのである。音楽、絵画、詩、もちろんテレビ制作もそうだろうし、恋愛もつねにそうである。かれの中の「少年」は、テレビの勃興とともにすごしてきて、その新しい表現の場で思いきった主題を展開してきた。そのいちいちが卒業制作だったのではないか。

吉田直哉座右の銘は「良い問いは、答えより重要だ」である。根源的に問うという意味だ。その精神で、テレビの創世記を突っ走った。またこの根っからの創造的人間は「ジョナリアの噂」で芥川賞候補にもなっている。「日本人とは何か」「現代とは何か」が、吉田直哉の問いだったのではないか。その答えを新しいメディアで負い続けたのだろう。安易に生きない、人と同じことはしない、という創造の精神に溢れた少年のまま人生を送った吉田直也の大河ドラマはよく見たが、改めてドキュメンタリー作品を見ることにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中央大学草加白門会創立40周年記念式典で記念講演。

中央大学草加白門会創立40周年記念式典で記念講演を行った。埼玉県草加市

テーマは「センテナリアンに学ぶ、人生100年時代のヒント」。12時から13時までの1時間。駅前のアコスホールにて。中央大学の酒井総長、草加市の田中市長らも参加する120名ほどの中央大学関係者、川口、三郷、越谷、などの白門会代表。そして、慶応、早稲田、立教、明治のOB会の代表の名前がある。地域における大学同窓会のひとつの姿を見た思いがする。白門は中央大学のこと。

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宮城県の佐沼出身の酒井総長の隣で話をしながら、記念写真におさまる。

 懇親会にも参加。窓口になった幼馴染みの久恒三平弁護士と歓談。

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 九段サテライトにて。

学長と面談

インターゼミ。

 学長講話:

・日本人の海外へのアウトバウンドは2000年に1700万人。その後も増えていない。複数回の人もいるから実際は500-600万人か。若い女性と高齢者が中心。壮年層は出張。偏っている。ハワイ、グアム・サイパンアメリカの東海岸・西海岸。マルドメ派の逆襲。内向する日本。

・中国は「中華民族」と「社会主義」で束ねようとしている。ロシアは「ロシア正教」という宗教で束ねようとしている。ロシアの30万人の軍事演習に中国とモンゴルが参加、モンゴルは日本への失望からロシアに接近、中ソの狭間再び。 

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「名言との対話」9月29日。鬼塚喜八郎「あなたの人生の目標は何ですか、と尋ねられたとき、明解に答えられないようなことではいけません」

鬼塚喜八郎(おにつか きはちろう 1918年大正7年)5月29日 - 2007年平成19年)9月29日)は、日本実業家。

無一文から創業し、「アシックス」を世界のスポーツ用品メーカーに育て上げた。戦後、青少年の健全な育成に一番必要なものは、スポーツであり、スポーツシューズをつくる靴屋に萎えることを決心する。31歳で鬼塚商会をスタート。もっとも難しいバスケットシューズにタコの吸盤にような底つけて始める。次にマメのできないマラソンシューズに挑む。一つに絞って徹底的にニーズを分析し、解決策を探し出す「キリモミ作戦」と「頂上作戦」を信条に進んで行く。

4年ごとのオリンピックに照準を合わせて、商品開発を続けていく。メルボルン、東京、ローマ、ロサンゼルス、メキシコ、ミュンヘンモントリオール、、、。1964年の東京オリンピックでは、オニツカの靴を履いた選手が体操レスリングバレーボール、マラソンなどの競技で金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の合計46個を獲得。 多くの金メダリストとライバルメーカとのエピソード『念じ、祈り、貫く』という書に紹介されている。それは国際化の道でもあった。寺沢徹、アベベ円谷幸吉ラッセ・ビレン、高橋尚子野口みずき、、、。

 1977年、三社合併で従業員2000名の「アシックス」が誕生し、総合スポーツ用品メーカーとして発展していく。それはナショナルブランドからインターナショナルブランドへの道であった。

一代の起業家・鬼塚喜八郎によれば、高い志を実現するには相応の能力が必要で、それは、知性・学習・経験・創意工夫・特技・指導力・人徳の足し算である。そして、成功の方程式=目標X考え方X能力X情熱X忍耐力X健康、と定義している。

1918年という100年前に生まれた鬼塚喜八郎の語りには「志」という言葉が数多く登場する。その志を具体的に表現したものが目標だ。青少年の健全な育成という「志」、それを具現化するスポーツシューズをつくる「靴屋」の起業。健全な肉体と精神を大事にするオリンピック選手の活躍には、鬼塚喜八郎という人物の支えがあったのだ。 

念じ、祈り、貫く―求める心が成功を導く (なにわ塾叢書)

念じ、祈り、貫く―求める心が成功を導く (なにわ塾叢書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授業(多摩)と会議(九段)の日。

多摩キャンパス

・10時:久米先生と懇談。

・10時40分:授業「立志人物伝」:登録は220名ほど。エニアグラムの性格分析を行った。来週から本格的な授業を行う。

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九段サテライト

・13時30分:教学マネジメント会議:IR報告。上位層対策。

・14時30分:大学戦略会議:アクティブ・ラーニング。

・15時30分:大学運営会議

・・補正予算。人事。大学戦略会議報告(「学生」)・国際化ビジョン報告・教学マネジメント会議報告(私から報告)。改革総合。規程。

・・学長:主体的に。実体化。上位者の参画。ジョロントロジー。都市郊外型高齢化は戦後日本の行き着いた先の問題。シルバーデモクラシーの逆説。戦後社会。社会不安の解消。常温社会(なんとなく不安)。社会革命。プラットフォームへの参画。

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代々木:NPO法人知的生産の技術研究会

・17時30分幹事会:編集体制。ホームページ更新。幹事会(小林・力丸も)のFB。来年のセミナー日程。

・18時30分:セミナー(小林直衛):JAL・スカイフライヤー・エアドゥ・スカイマークを経験。B777のビデオ。

・19時30分:懇親会:小野さんの『前立腺がん患者が放射線治療法を洗濯した理由』の出版企画。福島さんから新著『人はのどから老いる のどから若返る』をいただく。 

人は「のど」から老いる 「のど」から若返る 最強ヴォイストレーナーの最速の鍛え方

人は「のど」から老いる 「のど」から若返る 最強ヴォイストレーナーの最速の鍛え方

 

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「名言との対話」9月28日。マイルス・デイヴィス「ジャンルというヤツは嫌いだ。そんなもの、音楽には関係ないだろう」

マイルス・デューイ・デイヴィス三世Miles Dewey Davis III, 1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国ジャズトランペット奏者。作曲家、編曲家。

クール・ジャズハード・バップモード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。 「モダン・ジャズの帝王」。

この天才は、演奏もいいが、思想がいい。

 ・そこにあるものではなく、ないものをプレイするんだ。知っていることではなく、知らないことをやる。変化しなければいけない。それは呪いのようなものだ。

・音楽における自由というのは、自分の好みや気持ちに合わせて、規則を破れるように規則を知っている能力だ。

・必要なのは才能じゃない。練習、練習、練習、それだけだ。

・オレは、楽な生き方には興味はない。

・オレみたいに何か新しいことをやろうとする人間は、無視されるリスクをいつも背負っているんだ。

・人生は変化であり、挑戦だ。

 ・オレは現状に甘んじる人間は好きじゃない。常に前進し、変化を求める人間が好きだ。

 ・オレは、地球上で最高のサウンドは人間の声だと思っている。だからシンガーが歌うようにトランペットを吹いている。

・毎日一歩ずつ前進するように、がんばり続けるだけだ。そうだ一歩ずつだ。

・自分は自分のやり方でやらないと。誰のコピーもしちゃいけない。

・すべてが目標に向かっての勉強なんだと自分に言い聞かせていた。

・ふり返るな。謝るな。説明するな。同じことを繰り返すな。

・いちばん大切なのは、自分だけのサウンドだ。それがない限り、どんなメロディを演奏しても意味がない。

・同じところなんかにずっといたくない。クリエイティブなことができないなら、死んだ方がましだ。生きてる意味がないじゃないか。

・立派なジャズを演奏するには、実際の生活や経験を通じてはじめて身につく、人生に対する理解とか感情といったものが必要なんだ。

表現したいことを思う存分に実現すると、既存のジャンルを超えていることがある。ジャンルの中で小さく活動しないことだ。このマイルス・デイヴィスの姿勢は革命家、挑戦者の言葉だ。共感する。

 

 

 

『効く「ビジネス書」徹底ガイド』(宝島社)で、8冊の本を紹介。落合陽一「魔法の世紀」。外山滋比古「知的生活習慣」。坂村健「IOTとは何か」。水戸岡鋭治「あと1%を大切にやってみよう」。大村智「一億人を病魔から守った化学者」。寺島実郎「ユニオンジャックの矢」。コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」。中村修二「考え方、やり方、私の方法」

『効く「ビジネス書」徹底ガイド』(宝島社)が届いた。

 この中で、総勢34名の書籍選者の一人として8冊のビジネス本を以下のように紹介した。

効く「ビジネス書」徹底ガイド (TJMOOK)

効く「ビジネス書」徹底ガイド (TJMOOK)

 

クリエイティブ力を高めたビジネス書 落合陽一「魔法の世紀」

20世紀は情報が平面に展開する映像の世紀であり、21世紀は映像の中の出来事が実世界に踏み出していく時代である「魔法の世紀」である、と著者は主張する。情報が情報世界から染み出していく。それを実現するのは、魔法の箱であるコンピュータだ。魔法とはアートと技術を包括しながら、どちらとも異質の存在だ。今後、誰でも人は魔法使いになっていく。

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 毎日の習慣に影響を与えたビジネス書 外山滋比古「知的生活習慣」

90歳を超えた外山節がさく裂。知的生活習慣を身につけてよりすぐれた人間になることを志すことが新しい生き方だという考え方である。日記を毎日つけて、日々のゴミを出して壮快な毎日を送ろう。図書館は本を読む場所というより、ものを書く場所として活用しよう。

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教養を高めたビジネス書 坂村健「IOTとは何か」

30年ほど前からトロンの開発者として有名な著者だが、トロンの思想は実は現今のキーワード「IoT」そのものだった。「組み込システム開発環境」TRONは「IoT」のコンセプトを世界で最初に提示したのだ。具体的なプロジェクトに沿って実践者として説明してくれている貴重な書だ。

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売り込む力、セールス力を高めたビジネス書 水戸岡鋭治「あと1%を大切にやってみよう」

デザイナーの仕事は、多くの人が望んでいる事、考えている事をしっかり取材して、正しく通訳、翻訳して、それを色、形、素材、使い勝手、サービスに置き換えていく仕事である。オリジナルであればオンリーワンになると主張。それがセールスにつながるのだ。

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「お金」の考え方に影響を与えたビジネス書 大村智「一億人を病魔から守った化学者」

大村は微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究で優れた業績をあげ、感染症の予防・撲滅に顕著な貢献をしたノーベル賞受賞者。学術研究で稼いだ特許ロイヤリティ収益250億円を北里研究所に還流させた。ビジネスになった場合は特許ロイヤリティを大村に払う仕組みを開発したのが素晴らしい。

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思考力を高めたビジネス書 寺島実郎ユニオンジャックの矢」

著者の1975年以来40年以上にわたる文献研究とフィールドワークによる英国の観察と考察の集大成。生きてきた時代を通じて構築した英国が持つ大英連邦というネットワークの奥の深さ、そして常に「全体知」を目指そうという著者の姿勢に感銘を受ける重厚な書である。

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 マネジメント、リーダー力を高めたビジネス書 コリン・パウエル「リーダーを目指す人の心得」

レーガン大統領はジョークの収集家だったが、パウエルは逸話の収集家であった。そのエピソードがパウエルにとっての人生やリーダーシップの教科書となった。その逸話の主人公たちのおかげでパウエルの人生が形づくられた。すべては人である、これが結論である。

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自己啓発でおすすめのもの 中村修二「考え方、やり方、私の方法」

冒頭の「ノーベル賞に最も近い男」というマスコミ評、最後は「ノーベル賞は通過点」という記述。そして2014年に本当に受賞。この人の魅力は、「独学」という点だ。独力で学び、自分の頭で考え、試行錯誤して問題を解いていく。この姿勢に学ぶべきである。

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・長島部長:杉田学部長と面談。

・松本先生、長島部長と懇談。

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「名言との対話」9月27日。ヒュー・ヘフナー「人生は人の夢を生きるには短すぎる」

ヒュー・ヘフナーHugh Hefner1926年4月9日 - 2017年9月27日)は、アメリカ実業家雑誌PLAYBOY』の発刊者。享年91。

1953年12月に『PLAYBOY』誌を創刊する創刊号はマリリン・モンローのヌードというデビューだった。若い男性の都会的ライフスタイルを提示しようとし、性をタブー視していた当時のアメリカでの「セックスは善である」とする性革命を先導した。1970年代には発行部数は最高の700万部に達する。バニーのロゴを用いたプレイボーイブランドによる事業、「プレイボーイ・ペントハウス」というテレビ番組、会員制の「プレイボーイクラブ」、カジノなどを手がけ、プレイボーイ帝国を築く。

また、自身もプレイボーイとして謳歌した人生の中で、結婚を3回している。23歳で初婚、33歳で離婚。63歳で再婚、年の差は36歳、9年で別居。そして3度目の結婚の年の差は60歳という剛の者だった。『PLAYBOY』の「哲学」を身を持って体現するライフスタイルを続けた。亡くなったときにはモンローの墓の隣に埋葬された。

あらゆる既存勢力の標的となりながら、いちはやく公民権運動に共鳴し、マイノリティーの起用と言論によって、人種差別と毅然と戦った気骨ある正義漢だった。

バブリの頃、日本に進出した六本木のバニーガールがいるプレイボーイクラブには時々顔を出したことがあるが、それをつくったのが、ヘイ・ドナヒューだったのだ。

 ・私は決して成長するつもりはない。若いままでいることは、全て私のためである。

・一部の人々は、これからの人生プランを持っていない。彼らは、ただ諦め、それを乗り越えることができない。

冒頭の言葉の原文は、Life is too short to be living somebody else's dream.である。91年の人生を謳歌したヘイ・ドナヒューは、「私は、不可能な夢を見た。しかし、その夢は、私がおそらくイメージできたであろうものを超えて叶った。私が思うに、私は、地球上で最も幸せな男だ」と述懐しているが、まだまだやりたかった夢はあったのだろう。人生100年時代は長すぎるという人が多いが、逆に夢やテーマをもっている人にとっては、あまりにも短いのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「名言集」の録音に立ち会う--声優の語りで、言霊の存在を感じる時間

9月の教授会。冒頭、交換留学生の紹介があった。中国、韓国、台湾からで総勢12名。

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・大森先生

・学長室の渡辺さん:大学戦略会議の資料説明を受ける。

・バートル国際交流センター長、寺山さんから、大学運営会議での報告の説明を受ける。

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拙著 『偉人の命日366名言集』の名言の録音に立ち会う。声優二人で、感情を入れて毎日の「名言」を読み上げてもらう。「書く、読む」という目を使う場合には、声で聞くという感覚がないので、実際にやってみると、不具合がでてくる。同音異義語の存在、音で読むか訓で読むか、アクセントをどこに置くか、、、しまいには誤字脱字まで発見する。「む」「七十」「根」「生者」「13日」「四時」「降る」「奥」「黄金虫」「男子」「御国」、、、。表現のプロたる声優が語ると言葉が生き生きとしてきて言霊の存在を感じる時間となった。

 

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電車の中で、今年卒業した藤森さんに遭遇。医療機関などへ向けてHPやシステムの構築・ソルーションを主軸としたウェブサービス企業。近況を少し聞く。

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「名言との対話」。9月26日。ポール・ニューマン「成長できるのはひとりでいる時だけだ」

ポール・ニューマン(Paul Newman, 1925年1月26日 - 2008年9月26日)はアメリカ合衆国俳優である。

3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ俳優だが、それにとどまらず、映画監督、食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者、レーサー政治運動家としても活躍した人物である。

1945年に、空母・バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加。 オハイオ大学、ケニヨン・カレッジ、イエール大学大学院に進学。演技が認められ、1952年ジェームズ・ディーンマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学し、俳優として活躍を始める。主な作品は、『傷だらけの栄光』。『ハスラー』。『ハッド』。 明日に向って撃て!』『スティング』。『タワーリング・インフェルノ』。『スクープ 悪意の不在』。『アパッチ砦・ブロンクス』。『評決』。『ハスラー2』。『ノーバディーズ・フール』。『ロード・トゥ・パーディション』、、、。世界的トップスターだ。私は『タワーリング・インフェルノ』、『評決』などでの演技が印象に残っている。

1960年代から1970年代にかけて反戦運動公民権運動を展開。ウオーターゲート事件で押収されたニクソン大統領のメモではニューマンを敵としていた。ブッシュ大統領の富裕層減税にも批判的で「私のような富豪から税金を取らないのは馬鹿げている」と語ったている。

44歳にしてレーサーとしてプロフェショナルデビューを果たし、ル・マン24時間レースで総合2位という戦績を持つ。日本では日産自動社の6代目R30スカイライン1981年-1985年)のTVCMに出演している。レーサーとしての実績もあり、この広告は納得感を与えた。

1978年には、息子スコットが酒とドラッグに溺れ命を落としたことを契機として、麻薬撲滅運動の展開を決意し、「スコット・ニューマン基金」を設立している。

自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982年、食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、世界規模での事業拡大に成功し、四半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2000万ドルの純利益全額を貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。

2007年オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大学に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約10億円)の寄付。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人マイノリティーの学生らに支給された。

 おしどり夫婦としても有名だったニューマンは、 「家でステーキを食べられるのに、わざわざ外でハンバーガーを食べる必要はないさ」とも言っている。さらに「夫婦が長続きする秘訣だって? それは、一緒にいる時間をなるべく少なくすることさ」とも語っている。

俳優、監督、レーサー、事業家、慈善家、政治運動家、と八面六臂の活動を生涯にわたって展開したポール・ニューマンは、超多忙であったはずだ。しかし、一人でいる時間を大切にしていたのだ。外に出ればたくさんの刺激を受ける、それを一人で反芻し、意味を探り、次の戦略を練っていく。華やかな外交と沈潜する孤独の意識的な往復運動がこの人物を大きくしたのであろう。