多摩センターの京王プラザホテル内にできた「KEIO BIZ  PLAZA」を見学。

多摩センターの京王プラザホテル内にできた会員制サテライトオフィス「KEIO BIZ PLAZA」を見学。10月17日から営業開始。

京王電鉄沿線価値創造部の、澤課長と古屋部長に案内していただいた。ホテルの施設を使える、特に隣がコーヒーラウンジなので、使い勝手がいい。落ち着いた雰囲気、、。

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13時:湘南キャンパスの学部運営委員会に出席:教授会日程。ホスピとインンターの希望の割合。離学の状況。キャリアサポーターズ。450。

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 「名言との対話」10月11日。飛鳥田一雄「「タイじゃなくて、マスを釣ってこい」

飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年4月2日 - 1990年10月11日)は、日本政治家衆議院議員横浜市長日本社会党委員長を歴任した。

5歳、小児麻痺を契機に一雄をイチオと読むようになる。中学2年から杖をつく。中学時代からマルクス・ボーイ。弁護士、市議と県議を3年。代議士を4期10年。

1963年、「厚い壁がさえぎっている。厚い壁が砕かれるだろう。厚い壁のこなごなは、やがてきれいに除かれるだろう」と挑戦の決意をあらわし、横浜市長に当選。全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、その会長となった。 4期15年。際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げた。

飛鳥田市長時代は六大事業が中心だった。みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業、これと連動した金沢地区埋め立て事業、港北ニュータウン事業、幹線道路事業、地下鉄事業、ベイブリッジ事業。外にも横浜スタジアムの完成に漕ぎつけ、1978年には日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている。

『生々流転 飛鳥田一雄回想録』の最後にある関係者の座談会では、「市政を身近なものにした」「自治体に自信をつけさせた」「横浜方式」「時代の教師」という高い評価をもらっている。私の記憶でも革新市政を担った飛鳥田一雄は、華々しい革新市政の代表だった

「ボクの政策は、マルクスがウエーバーを着て歩いているようなもんさ」「行政の職人としてものを言うけど、こっちは市民の常識、素人の発想でいくわけさ」「保守と革新じゃあ、同じ首長でも困難さが違う」「抜擢して喜ばれても三ヶ月だけど、恨まれたら一生だからね」((人事は難しい)「市政をうまく進めるためには市民の間で多数派を占める必要がある。、、広報の充実とマスコミ対策だよ」

1977年、「原則は松の木の根の如く、対応は柳の枝の如し」と名言を吐いた成田知己委員長の説得で、社会党委員長に就任。横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円のみ受給し、市長としての特別手当分1億2,888万円を返上した。

全党員による委員長公選で委員長に就任し、5年九ヶ月その職にあった。1979年、総選挙で東京一区でトップ当選。しかし社会党改革は難しかった。清新な党を目指したが派閥の存在に負けたのである。1983年、参院選の途中で「もう引き時だ」と決心。委員長を辞任し、石橋政嗣が後継となった。「いま一番気になるのは、人々が情熱を失ってしまっていること。政治は理論であると同時に、情熱なんだ。それを高度成長の中でみんな失ってしまった」。そして政界から引退。その後は市民派の弁護士として活躍した。1990年10月11日、75歳で死去。

心残りのない横浜市長時代と、内心忸怩たるものがある社会党委員長時代。地方の仕事は突破と創造がテーマであったが、中央の仕事は均衡とまとめることが課題だった。冒頭の「タイとマス」は、希望と決意の違いだ。「やりたい」ではダメだ、「やります」という仕事をせよ。この言葉は庁内で語り継がれているようだが、課題解決に向けての気迫の重要さを示している。 

飛鳥田一雄回想録―生々流転

飛鳥田一雄回想録―生々流転

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(川島勝)

井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』(川島勝)を読了。

著者は44年の間、編集者として関わった人であるから、井伏鱒二という人物がよく見えている。エピソードも愉しい。

 ・良農は深く耕す(好きな言葉)

・「小説はウソも書くが、随筆はおおむね本当のことを書く」

甲州が第二の故郷。定宿は甲府の甲運亭。信州富士見町高森に山荘。

・定住と漂白の人。

・改行と接続詞の工夫

・自宅は荻窪清水町。8畳の応接間兼書斎。

・作品においても、交友においても、マンネリを自戒していた。親みて狎れず。

佐々木久子編集の「酒」の「文壇酒徒番付」では、西の正横綱を張っていた。心技体は、酒品、酒量、時間(持続力)。みち草、よしだ、秋田、樽平。新宿くろがね。荻窪の東信閣。はちまき岡田。辻留。宮うち。

「男性で最後まで現役作家でいられたのは井伏さんだけではなかろうか」。多くの作家が筆を断つ80代から、『荻窪風土記』など密度の濃い回想記を完成させている。95歳の天寿を全う。

 

井伏鱒二―サヨナラダケガ人生 (文春文庫)

井伏鱒二―サヨナラダケガ人生 (文春文庫)

 

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・志賀先生:書物。テーマ。

・椎木先生:キスカ島撤退作戦

・杉田学部長

・飯田先生

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「名言との対話」10月10日。中村元「老人が真っ先に立って、新しい学問を開拓する必要があると考える」

中村 元(なかむら はじめ、1912年大正元年)11月28日 - 1999年平成11年)10月10日)は、日本インド哲学者、仏教学者。勲一等瑞宝章文化勲章。

東大退官後に自身が「寺子屋」と称した東方学院を開設し、学院長に就任し没するまで続けた。国籍も学歴も年齢も問わず、真に学問を目指す人のための講義を行った。

今まで 中村元のメディアでの発言、いくつかの書籍を手にしたことがあり、本物の学者の言として心に留めたことが何度もある。今回、『中村元 学問の開拓』という学問人生論を読んで、改めてこの碩学の「志」を追う機会を持てた。

ライフワークは、「比較思想」という新分野の開拓だ。そして『世界思想史』7巻を書く。比較思想学会をつくり初代会長になる。「思想というものは、人間生活の場との連関において理解されなければならない」「世界平和の実現のための手がかりを供する」「「世界が一つになるには、理解と寛容が絶対必要である」。しかし、この本を上梓した74歳時点では「自分が研究してきたことを組織し体系化することも、まだ果たしていない」と語っている。

そして、今から取り組むべきテーマとして「新しい論理学」を提起している。西洋の論理学と仏教の論理学(因明)とを比較考察し、両者を総合して根底から考え直すという課題だ。それから10数年、「比較思想」と「新論理学」は体系化されたのだろうか。

 仏教は「順縁」と「逆縁」はたえず転変すると説く。神聖な壇に仏・菩薩を配置し、真理を表した図絵。災難や災害、挫折や失敗などを象徴する悪魔も存在する。逆縁は順縁として生かす。それを中村は「マンダラ(曼荼羅)的思考」と呼んでいる。

やさしい言葉で語ろうとした中村は、「涅槃」を安らぎと訳している。心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろうとも注釈する。こういう姿勢が多くのファンを生んだのであろう。そして人文科学は、「自分自身がどのように生きたらよいのか」という問いに対して何らかの教示を与える使命を持っていると考えている。だから、社会、世界、地球を問題にしなければならないのだ。生きる指針を提示するのも学者の仕事なのだ。

エピソードを一つ。中村元が20年かけ執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近になった時、ある出版社が原稿を紛失してしまった。中村は再び最初から書き直して8年かけて完結させ、全3巻で刊行。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版である『広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され、没後全4巻が刊行がされた。この気力には頭を下げざるを得ない。

1999年7月、『中村元選集』全40巻が完結。10月死去。戒名は「自誓院向学創元居士」。生誕100年を記念して2012年、命日の10月10日に故郷の島根県松江市中村元記念館が開館する。論文・著作1500点が生涯の作品である。

ユーチューブで本人が語っている「ブッダの一生」を聞く。出家とは海外留学のようなもので、それは修行の生活をいう。、、、、。 

中村元という大学者の人生観、学問観を拾ってみる。

・わたくしの人生は、長いといえば長いし、また短いといえば、やはり短いといえるような気がする。・生涯を「短い」とも感じてしまうのは、時間があればやってみたいと思うことを山ほど抱えているからであろう。・「日暮れて道遠し」の感を深くしている。・わたくしは死の直前まで机に向かい、自分のほそぼそとした研究をまとめ続けたいと願っている。・わたくし自身の精神的探究は、本当の意味では、ようやく始まったといえるであろう。

中村元にとって86年の人生は短かった。取り組みたいテーマが次から次へと眼前に現れてくるからだ。翻訳で鸚鵡返しに書くというような日本の学者の精神的奴隷根性を唾棄し、コツコツと一歩づつ研究を積み重ねていく姿は神々しい。老人は後輩を育てるよりも、率先して新分野を切り拓けという強烈なメッセージを受け止めたい。 

 

 学問の開拓

学問の開拓

 

 

巨人・筒井康隆---その全貌と正体

世田谷文学館の「筒井康隆展」。

小学校時代にIQ187で特別クラスに入れられる。同志社大学舞楽芸術学専攻に入学し、同志社小劇場に入部。21歳、青猫座の新人として「東の仲谷昇、西の筒井康隆」と新聞に書かれる。卒業後、野村工芸社に入社。

26歳、「作家になろう」と決意し、同人誌「NULL」を創刊、翌年退社。29歳で結婚、仲人は小松左京。1968年、34歳で1月「ベトナム観光公社」で直木賞候補、続いて7月「アフリカの爆弾」でも直木賞候補となるが、落選。これ以降、間断なく書籍を刊行していく。2018年現在で84歳になるが、この間の書籍出版は300冊を軽く超えている。

文学館の一階で関西テレビの人気番組「ビーパップ・ハイスクール」の600回記念の「筒井康隆の正体」が流れていた。「面白がることの天才」(直木賞三度落選もパロディー化)、「世代を超える」」(「時をかける少女」は国民文学)、「未来の予言者」(「48億の妄想」)、「小説の垣根を取りはらった」(マンガ、実験小説)と分析していた。この巨人の正体をよく説明している。この番組には私も二度出演したことがあり、レギュラーの筒井さんとは言葉を交わしたことがある。私のコメントに対して「面白かったですよ」と言っていただいた。筒井康隆は2005年からずっと出演しているが、テレビの中では行き詰まった感のあるときに若い漫才師たちとの交流で刺激を受けたと語っていた。70代に入ってややマンネリになっていたのだろうか。筒井康隆の「中年の危機」は、全く世界の違う、若い人たちとの交流と刺激で克服したのかも知れない。

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筒井康隆『創作の極意と掟』から。

・小説を書こう、あるいは小説家になろうと決めた時から、その人の書くものには凄みが生じる筈である。小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある。

・蘊蓄と情報の違いは、作者がそれとどれだけ長期にわたり情熱をもってかかわりあってきたかどうかにかかっている。

・文体というものは作品内容に奉仕するものである。、、、小生の場合、作品によって文体を変えている。

・登場人物が多ければ多いほど物語は必ず大きくなる。

・酔っ払って原稿を書くことだけは控えている。

この本では、ヘミングウェイがたびたび登場する。ヘミングウェイの乾いた文体に大きな影響を受けたようだ。乾いた文体で、一人称で書く。ヘミングウェイの文章を手本としてるうちに書けるようになったのだ。

小説家の幸福について簡単に書いている。ここに本音も入っている。

「食通と思われ、料理店ではいい席に案内され、料理も旨い。、、気難しいと思われ、だいたいは丁重に扱われる。社会的発言力ができた。多少の非常識が許して貰える。我儘を言うと喜ばれることがある。本が無料で贈呈されてくる。映画の試写会や芝居に招待される。編集者を通じて偉い人や専門家に取材ができる。夜更かし、朝寝坊をいくらしてもいい。作家同士の交際ができ、小説に関する知識がどんどん増える。厄介な資料集めを編集者がやってくれる。ラフな服装でどこぬでも行ける。背広を着なくていい。莫迦なこと言っても笑われず感心される。自分をいじめた連中を見返してやれる。自分を莫迦にした奴らを莫迦にできる。いい着想がなくてもその時の大事件を作品に書いても、かえって話題になり評判がよい。見知らぬ人とも話ができる。家族から尊敬される。そして何と言ってもプロの小説家になれたのだという満足感。、、、」

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筒井康隆作品マップ」(平石滋)という図がある。この企画展の本の中にあるから、筒井本人も了解しているのだろう。この巨人の全体像が一望できる図解だ。

SFが中心にある。ナンセンス、ブラックユーモア、エロ、グロ、ピカレスク、ファンタジー、リリカル、ジュブナイル、童話・ライトノベル、ホラー、歴史小説、音楽、mステリー、実験小説、言語実験小説、メタフィクション、新傾向、純文学、風刺、パロディ、スラップスティック、と分類されて、それぞれの代表作が並べている。

 

創作の極意と掟 (講談社文庫)

創作の極意と掟 (講談社文庫)

 
読書の極意と掟 (講談社文庫)

読書の極意と掟 (講談社文庫)

 

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大学

・研究室

・杉田学部長

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「名言との対話」10月9日。飯沢匡「元気におやりなさい。元気に」

飯沢 匡(いいざわ ただす、1909年7月23日 - 1994年10月9日)は、日本の劇作家演出家小説家

父は台湾総督をつとめた伊澤多喜男。伯父の伊沢修二は有名な文部官僚で吃音矯正教育に貢献した人物。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。台湾に記念館がある。弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。その人の血を引いているのだ。

本名は伊澤 紀(いざわただす)。朝日新聞社在職中、上司に隠れてNHKラジオのために台本を書いた際、アルバイトが露見しないようNHKの担当者に「印刷しては別人に見え、アナウンサーが発音すると本名のように聞こえるという名を考えてください」と頼んだところ飯沢匡と勝手に命名されたものだそうだ。

1943年「再会」でNHKラジオ賞、1944年「鳥獣合戦」を初演。勤務先では、戦後『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を務めた。1954年退社。同年、文学座初演の「二号」で第一回岸田演劇賞、『ヘンゼルとグレーテル』でサンケイ児童出版文化賞1957年NHK放送文化賞、1968年『五人のモヨノ』で読売文学賞、1969年「みんなのカーリ」で斎田喬戯曲賞、1970年「もう一人のヒト」で小野宮吉戯曲平和賞、1973年紀伊国屋演劇賞受賞、1979年「夜の笑い」の脚本・演出で毎日芸術賞1983年日本芸術院会員。こうした劇作家としての業績以外にも、直木賞候補となる小説も書いている多才の人であった。

今回、『飯沢匡の社会望遠鏡』(講談社)を読んだ。1975年から4年間『小説新潮』に連載したエッセイをまとめた時評だが、ロッキード事件を中心に世相を鋭い批判的なタッチで書いている。田中角栄の「法は解釈である」の行く末、芸道家と芸術家、民放とは自民党の民、専門家の情報源、麻酔銃のすすめ、独裁者と道徳、チャプリンの慧眼、ノンポリの吸収、、、、など、今でも通用する警世の書になっている。

冒頭の「元気」は「ヤン坊ニン坊トン坊」以来師弟関係にある黒柳徹子が、台本をどう演じればよいかを聞いた時の回答だ。後に、黒柳は「どんなに才能があっても、結局、元気でなきゃダメなんだということが分かるんです」と述懐している。健康を土台にした体力と精神の元気さが、才能の芽を育て、大きく開花させる。

 

 

 

 

「千人千言」--名言との対話、本日で1011日。

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 2016年1月1日から始めた「名言との対話」が、本日で1011日となった。

2016年は命日編、2017年は誕生日編、そして2018年は平成命日編だ。平成の30年間に亡くなった同時代の人の事跡と言葉と私の感慨を記す「行」も後数ヶ月となった。松岡正剛の「千夜千冊」ではないが、私のこの修行は、「千人千言」とでも言おうか。1000人を超える人物の生涯を私なりにみたことになる。貴重な財産となりつつある。

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「名言との対話」10月8日。大沢啓二「喝!」

大沢 啓二(おおさわ けいじ、1932年3月14日 - 2010年10月7日)は、プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者評論家

 立教大学では後輩の長嶋茂雄らと東京六大学野球リーグ優勝を果たす。1956年に南海に入団し、好守巧打の外野手として活躍する。引退後は、1971ー2年ロッテ監督、1975年ー1984日本ハム監督(1981年パ・リーグ優勝)。球団重役から復帰し、1993年ー4年日本ハム監督をつとめた。

監督としての戦績は、39歳から62歳まで通算13年で、725勝723敗、勝率は5割1厘とわずか2つの勝ち越しだった。今なお、江夏投手など、ファイターで熱血漢の大沢親分を慕う選手も多い。愛称は「親分」「大沢親分

悪童だった大沢は野球一筋で「野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れない」と後年語っている。IQが非常に高かったという高校時代の友人の証言もある。

日本ハム監督退任後はフリー評論家、解説者などを務めた。TBSの「サンデーモーニング」で張本勲とともに球界の御意見番として出演し、「喝!」と「あっぱれ!」で人気を呼んだ。「喝!」は、禅宗僧侶が用いる叱声で、参禅者を励まし導くのに用いる。同番組で一緒だった江川紹子は「 大沢さんの「喝!」は、相手への激励が込められた温かいものでした。誰かが不当な非難をされていると、すっと話題を変えたりする配慮をされたりして、スポーツや選手たちへの愛情を感じました。残念でたまらない。ひたすらご冥福をお祈りします。合掌」とツイートしている。

大沢亡き後も、「喝とあっぱれ」の決めぜりふは、この番組では継続して使われている。「喝!」という言葉を聞くと、今でも大沢親分を思い出す視聴者も多いのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

首都大学東京の国際交流センター「ルヴェソン ヴェール」でランチコンサートを楽しむ

南大沢の首都大学東京の国際交流センターの「ルヴェソン ヴェール」で昼食。

アンサンブル・カンフリエのランチコンサート「フランスの作曲家の作品を集めて」をやっていた。ピアノ、バイオリン、フルートの3人組。

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 フルートは、フィルハーモニックに所属。バイオリンは、薬学専門の医学博士でメディカルライター。フルートは京大音楽研究会で活動し、現在は埼玉在住、関東各地で演奏活動。それぞれ仕事を持ちながら、音楽活動を続ける、これは素敵な人生だと思いながら音楽を楽しんだ。

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午後は、原稿書き

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 「名言との対話」10月7日。三木鶏郎「辛うじて 人生八十 たどりつき」

三木 鶏郎(みき とりろう、1914年大正3年〉1月28日 - 1994年平成6年〉10月7日)は、作詞家作曲家放送作家声優、歌手、構成作家演出家、コピーライター、である。

2浪して東京帝大法科入学、2留して卒業。兵役後、「どうせ餓死するならやりたいことをやって死にたい」と音楽の道に進む。NHK「歌の新聞」、「日曜娯楽版」、「ユーモア劇場」など社会風刺を中心とする「冗談音楽」で放送界で活躍した。「僕は特急の機関士で」、「田舎のバス」がヒット。CMソングの元祖になる。「明るいナショナル」「ワ・ワ・ワが三つ」「ジンジン仁丹、ジンタカタッタッター」「牛乳石鹸、良い石鹸」などを作詞作曲した。これらのCMソングは、今でも私の耳に残っている。

門下からは歌手(楠トシエ中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼなべおさみ左とん平など)、永六輔野坂昭如いずみたく、など多くの異才を世に送り出している。1993年には、三木鶏郎音楽賞が創設された。ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎実弟で、この人のスマートな姿と語りもよく覚えている。

午前は創作、午後は経営者、夕方は教育者、夜は外食、夜明けまで飲み歩きという超売れっ子生活を送る。その結果、40代半ばで糖尿病を患う。「功なり名をとげて糖尿を知る!!」と三木鶏郎は言い、「長病」と命名。覚症状がない病気であり、養生を怠りがちになる。その闘病を描いた『私の愛する糖尿病』(ちくま文庫。1994年4月21日発行。1981年の書籍の加筆版)を読んだのだが、ユーモアあふれる筆致に脱帽する。1958年、 44歳で糖尿病。これ以降検尿日誌をつける。当時は「人生50年」が少しづ伸び始めた時期だった。76で平均寿命に追いつき、77の喜寿で追い抜く。その頃は「昔は人生五十、今や人生八十、世界一の長寿国」といわれていた時代だ。それから3年後の80の傘寿直前では「生き抜いて 人生八十 大団円」。「辛うじて 人生八十 たどりつき」は、1994年、死を間近にして改訂版としてマウイ島の山荘で詠んだ句である。短命といわれる糖尿病に打ち勝った人の感慨だろう。

私の愛する糖尿病 (ちくま文庫)

私の愛する糖尿病 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

 

 

「筒井康隆展」始まる

世田谷文学館で本日から始まった「筒井康隆展」をみた。

表現者としての、間断のない、膨大な仕事に驚いた。クラリネット奏者、SF作家、小説家、テレビタレント、、、など活動の舞台は広い。29歳で小説家になる決心をしてから、著書は300冊を軽く超えている。中年の危機は、関西テレビの人気番組「ビーパップ・ハイスクール」へのレギュラー出演で乗り切っている。この番組には私も二度呼ばれて、「面白かったですよ」と声をかけられたことを思い出した。本も何冊か購入してきたので、それを読んでから詳細を書くことにしたい。

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午後は、九段でインターゼミ。

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「名言との対話」10月6日。安田幸吉「コース造りは庭造り、下手な人でも楽しめるように」

安田 幸吉(1905(明治38)年3月1~2003(平成15)年10月6日)。日本のプロゴルファー。

日本オープンで2位が連続3回(1928年、1929年、1930年)。日本プロで2位1回(1929年)。関東プロ2位3回。

日本プロゴルフ殿堂では、以下のように紹介されている。

子供のころから東京・駒沢にあった東京GCでキャディーをしており、17歳からレッスンなどプロとしての活動をスタート。関東ではプロの先駆けであった。クラブの製作や修理にも長けており、1927年には昭和天皇へ献上するクラブ製作の任を受けている。勝利には恵まれなかったが安定した成績を残し、1929年には宮本留吉とともに日本人プロ初の海外遠征メンバーに選ばれてハワイアンオープンに参戦、17位に入っている。その後、2度の米国本土遠征メンバーにも入り、1935年には全米オープンにも出場した。1957年に組織された日本プロゴルフ協会の初代理事長(現在の会長職)に就任。1991年にはプロゴルフ界初となる叙勲(勲三等瑞宝章)の栄誉を授かった。また、コース設計家としても手腕をふるい、小樽CC(北海道)など50を超えるコースの設計や監修、改造に携わっている。

実力的には互角と見られていた宮本留吉日本オープンだけで6勝しているのとは対照的に、「無冠の帝王」と呼ばれた。優勝がないのが不思議な実力者だった。昭和32年に結成された日本プロゴルフ協会の初代理事長。平成3年にはプロスポーツ界初の勲3等瑞宝章。享年98。レッスンや、クラブ製作でも人気を集めた。TVレッスンにも出演。

プロ引退後は、北海道の旭川国際カントリークラブから、鹿児島のインタナショナルGR京セラまで、50コース以上を設計・監修している。やわらかい表情のコース設計が特徴だ。私がプレーしたことのあるコースでは、  表蔵王国際ゴルフクラブ多摩カントリークラブがある。いずれも気持ちのいいコースとの印象がある。千葉県の長南パブリックコースには「お隣のメンバーコース 長南カントリークラブとともに 小湊鉄道 経営 安田幸吉 設計」と名前も刻まれている。

日本プロゴルフ界の創成期を牽引した安田幸吉は、いつの間にか姿を見かけなくなったと思っていたら、ゴルフ場設計・監修のプロとして大活躍していたのだ。ゴルフ場設計は庭造り、と安田はその信条を語っている。日本庭園は、池を中心にして、土地の起伏を生かし、庭石や草木を配し、四季折々に観賞できる景色を造る。滝、石を組合せることによる石組、池や流れを渡る通路には太鼓橋、飛び石が使われるのが特徴である。ゴルフ場設計は、広大な土地をキャンバスにして、土地土地の特色を生かし、プレイヤーの目を四季折々に楽しませる仕事だ。安田幸吉は、現代の庭師になったのだ。

 

品川の大学院で「立志人物論」の授業--「仰ぎ見る師匠の存在」

夜は品川の大学院で「立志人物論」の講義。登録者は、日本人5名、留学生10人(中国、イタリア、ベトナム)。

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 ・本日の講義では、我々日本人にとっては周知の福沢諭吉吉田松陰森鴎外に加えて岡倉天心渋沢栄一などの歴史上の人物を学ばせて頂きました。時代が幕末から明治、大正、昭和と推移して来ていますが、大きな変革が起きる時には必然的に偉人が出てくるものだと感心させられます。また、今回は一般的には知られていない人物、鬼塚喜八郎と古野清孝を取り上げて頂いた事は、戦後の物作りに大いに貢献した人物として興味を持ちました。オニツカタイガーバスケットシューズを実際に愛用していた年代としては懐かしく、鬼塚喜八郎の偉業に改めて感心させられました。一方、古野電気の魚群探知機は業界では画期的な製品で海の魚の資源を有効に活用することで漁業に大いに貢献しています。その後、レーダ技術なども加わり優良会社となっています。それぞれの分野で多くの人のたゆまぬ努力が成功を生み、日本の発展を支えてきたと言えます。歴史に名を残す人物は、小さな積み重ねを長年にわたって続けて来てやり遂げています。自分自身にも変革を起こさなければ、何も変わらないと痛感させられました。歴史って面白いですね。

・日本人なら知らない人はいないと言っても過言ではない人物、福沢諭吉。名著である「学問のすすめ」もさることながら、数々の名言を残したことでも有名であるが、本日講義の中でその言葉ひとつひとつを聞くうちに、改めて懐の深い人物であることを
再認識しました。今回、数ある名言のうち、「理想が高尚でなければ、活動もまた高尚にならない」この言葉が一番、胸に刺さりました。高尚とはすなわち、気高くて、立派なことであり、高い志を意味します。この言葉を聞いた時、高尚な理想をもって、活動をしているかと自分自身に問いかける良いきっかけとなりました。私自身、多摩大学大学院に入学した理由は、故郷である高知県四万十市に帰郷し、地元の地域活性化、地方創生というテーマに取り組みたい一心で、そのためのノウハウ、スキルを学ぶために入学を決意しました。高尚な理想、また、活動であるためにも、自分自身の志が、己の利益のみ考える利己ではなく、常に他人の利益、幸福を考える利他の考えに即したものでなければならないと今回の講義を通じ、切に思いました。

・幕末に活躍した久坂玄瑞高杉晋作には、吉田松陰という師匠がいた。 慶應義塾大学創設者で思想家・教育者の福沢諭吉には、緒方洪庵という師匠がいた。 著名な画家である横山大観には、岡倉天という師匠がいた。 軍医と小説家という二刀流でありながらそれぞれで一流になった森鴎外には、渋江抽斎というお手本がいた。 など、歴史に名を残す人物には、優れた師匠・お手本がいたということを学びました。 また、講義の中で出てきた福沢諭吉の言葉。「努力は『天命』さえも変える」胸に響きました。自分の人生ついてない、と嘆くことが多々ありますが、それは、「おまえなんてまだまだ努力が足りてない。もっと努力をしろ」という天の声である。嘆く前に、もっともっと努力をすべきなのだと自省しました。 では、どのように努力をすればよいのか。今は多摩大学大学院で学ぶことだと考えます。同じく福沢諭吉の言葉。「人間に貴賤の差はない、しかし、勉強したかしないかの差は大きい」。その通りだと考えます。将来に向けて力を蓄えるために、今は全力で学びます。 師匠について、ひるがえって自分には師匠と呼べる存在がいるかを考えたところ、2人思い浮かびました。 1人は、前職の上司・K次長。社内での出世競争にはやぶれ、それ以上昇進することなく関連会社に転籍となってしまった方ですが、人の心をよむことが非常にうまい方でした。落ち込んでいる社員に良いタイミングで声をかける。仕事で結果を出した日の夜にお祝いのメールを送ってくれる。チームの雰囲気が盛り上がり始めたときに、チーム全員を飲みにつれていき団結力を高める、など人の心に寄り添った巧みなマネジメントをする方でした。当時の私は一匹狼タイプ。自分は自分、他人は他人と線引きをしていましたが、それではいい結果が出ない。1人の力などたかが知れている、しかし、心と力をあわせてみんなでチームになれば、大きなことを成し遂げることができるのだ、ということを、K次長は身をもって教えてくれました。 自分が部下をもつ立場になったら、K次長のような人の心を慮る上司になりマネジメントをすべきである、個人事業主となった今でもそう思っています。 そしてもう1人は、ごまをするわけではなく、多摩大学大学院の徳岡晃一郎教授。現役のコンサルタントでありながら大学院の教授として後進の育成にも注力している二刀流。コンサル業務に携わる私にとって、徳岡先生はあこがれです。多摩大学大学院に入学したのも徳岡先生の教えをうけたいと考えたからであり、そして実際に教えをうけると、徳岡先生のようになりたい、と望むようになりました。私はかねてより、自分自身が第一線で活躍できる時間は長くない、と考えていました。せいぜい10年、長くても20年、たったそれだけの時間です。では、何をすべきなのか、それは後進を育成することだと考えます。師匠から私が学び、私が第一線で活躍しながら、あるいは第一線を退いた後に、私が師匠となって後進を育成する。そして弟子たちがやがては師匠となり、さらに後進を育成する。このようにして、歴史に名を残すことはできないとしても、自分たちの魂が脈々と受け継がれていく。それこそが私がこの世に生まれてきた意味なのだと考えます。 師匠と呼べる存在がいる、この世に生まれてきた意味についても自覚をしている、そのうえで、今は何をすべきであろうか。繰り返しになりますが、今は多摩大学大学院で学ぶことです。そして近い将来、第一線で活躍する一方で、後進の育成にも力を注ぐ、他人から師匠と呼ばれる存在になれるよう、今は全力で学びます。

・【良き師をもつべし、学ぶべし】①良い師に学び続け、それを自分の力としてアウトプットし、仕事(事業)に活かすことで運命が拓ける。②役立てることのない学びは、学ばないことと同じ。③自信と謙虚の間に立つ。噛めば噛むほど学びの多い講義でした。貴重なお話をありがとうございます。短い言葉ほど覚えている、長い言葉は忘れてしまうというお話がありましたので、今日の学びのエッセンスを3つにまとめて本文として投稿し、詳細は添付ファイルとして別途添付することにします。今日の講義は、「師」と「教育」を軸に構成され人選も人を育てた人物として、大きくは吉田松陰福沢諭吉岡倉天心の3名を学びました。吉田松陰は、山口県の萩で松下村塾を開き、明治維新への大革命を主導する多くの偉人を輩出した人物です。その松下村塾がたった2年間という短い期間しか開かれていなかったこと、松陰自信は30歳で亡くなったことに驚きました。人が人に影響を与えるために、それほど長い時間はいらいのかもしれません。福沢諭吉は、日本の近代化を支え、多くの名言を残した人物です。学問の勧めは
当時160人に一人が読んだベストセラー。私も学生の時に福翁自伝とともに学んだ
記憶があります。実学の言葉の通り、事業として世のため人のためになる学問を重視しました。西洋の学問を輸入し自由と平等の人という印象ですが、実は子供の結婚相手を自ら選び子供に自由を与えなかったという話を聞き、人間の二面性と儘ならなさを感じました。岡倉天心は、日本美術を守り再興した人物です。帝大の政治学科で論文を書いたものの、当時の同棲相手と喧嘩し論文を燃やされてしまい、テーマを美術の変えた
ことから文科省へ就職し、偉大な仕事を成し遂げるに至ったという話に運命の不思議を感じました。福沢諭吉の二面性と言い、私の興味は本筋からややずれているようです。主要な3名以外では、大滝秀治(先生は「しゅうじ」と発音されていましたが「ひでじ」さんでしょうか。)の言葉がもっとも印象に残りました。人間の態度として、うぬぼれ、自信、謙虚、卑屈 の段階があり、うぬぼれもいけないし卑屈もいけない。自信と謙虚の間にいることが大切だろうとのこと。自分に自信を持ち、謙虚な姿勢で学び続けることを60になっても70になっても続けられる人間でいたいと思います。まずは今日から。今日も生涯の一日なり。その他にも、アシックスの鬼塚喜八郎が日本人を健康にという思いからスポーツシューズをつくった話も印象に残りました。いい仕事をするには、高い志が必要で、戦後の日本では多くの人が鬼塚氏と似た考え方で様々ないい事業を起こした、その先に日本の高度成長があったというお話。いま日本が抱える様々な課題に対して自分自身も高い志をもって仕事に向かいたいと思います。具体的に言えば、私は人事をやっていますので、「100年人生を生涯現役で豊かに幸福に生き抜ける社会・会社をつくりたい」と思う次第です。

・本日の講義では吉田松陰久坂玄瑞高杉晋作のお話があり、吉田松陰の猪突猛進、学問を学ぶ事の目的は暴力も辞さない主張を通す事。その為の武装であり、暴力に訴えた為に命を落としたのだと思いました。この思想は歴史上、混乱期に現れるものであり、久坂玄瑞高杉晋作はこの思想を受けて短命だったであろうと感じました。これに対して、福沢諭吉は合理的に物事を捉え、学ぶ事で武装し、スキルセットを使って資金を作り、自立せよと説いています。恐らく、この考え方も師匠である適塾緒方洪庵から引き継いだ点においては久坂、高杉と同様ですが、福沢は学び舎を作り、永続的に学ぶ人間を作り続ける事を適塾の規模から文部大臣として飛躍的に拡大した事が日本に対する最大の貢献だったのだと思いました。最終的には官僚主義が進み崩壊するのですが、この国風形成があったことによって日露戦争勝利後の国際的地位の形成に繋がったのではないかと考えています。余談ですが、福沢諭吉が戦時中は評価が低かった事に関しては自由度の高い学びは当時の軍部に都合が悪かったのではないかと思います。軍部に都合の良い人物は東郷平八郎楠木正成の様な忠義を尽くし、奇襲で大勝した人物であり、世論形成に歴史が都合よく権力者に使われてしまう絵図は現代と変わらないと思います。個人的には東郷平八郎老害と化した後半生はその後の戦争の惨禍の遠因となっていると考えています。講義の後半、映像を見せて頂いた岡倉天心は非常に興味深い人物であり、幼少期の英語習得がその後、彼の活動範囲を海外に広げて、結果としてその見識が日本の芸術を救ったという点が彼の使命であったのだろうと感じさせられました。日本の特徴として他国から入ってきた文化の方が高尚であり、学ぶべきと考える傾向があります。この考え方には長短ありますが、当時の絵画は黒田清輝印象派を持ち込み、日本絵画を駆逐する局面があったと思います。新しいものが優れ、古いものが劣り、消えて行くべきであるというのは典型的なアングロサクソンの考え方でzero-sumです。その理論を日本に持ち込もうとした多数派に対して、岡倉天心の存在は天の配剤だと思いました。共存共栄は日本の八紘一宇的な考え方です。岡倉は両方の文化背景を理解していた為に何が起きていたのかを理解していたのだと思いました。これこそが歴史を学ぶ本来の意味だと思います。本日も学ばせて頂きました。

 

以下、留学生。

・今回の講義で、久恒先生は日本の教育史先駆者の吉田松陰さんから、近代日本の発展に欠かせない大人物たちの紹介を行った。吉田松陰先生の思想は日本の明治維新後、一部の対外政策や吉田松陰が計画した発展の道を参考にしたのも、日本帝国の拡張主義や植民地主義軍国主義の根幹になった、志は自分の力を変えて、国の力を変えることができると思います。私の志はなんですか?またどのような環境の変遷のために初志を変えましたか?今日私が深く感じたのは、日本の教育家の福沢諭吉先生の 1, <あまり人生を重く見ず 捨て身になって 何事も一心になすべし。>2.<独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。>という 2つ名言である。優雅な音楽を流れて伴った<あまり人生を重く見ず 捨て身になって 何事も一心になすべし。>という字幕が出てくると、ちょっと眠くなった私は、急に悲しさが湧いてきた。何故ならば、いつか、私も志を持っていたのですが、時の流れによって淡くなってきていたからです。この名言を見たことがなくて、私は失った志をここでただ残念に思いました。2つ目は福沢先生から人生の独立と自尊を教えた名言である,自分で考え、自分で行動し、他人に頼らない精神を持つことが必要である、国でも、社会でも、個人でもう同じ独立と自尊の事を失わせよ!「一身独立、一国独立」ということで、全体(ここでは国)がしっかりと独立を維持して、外部から尊厳を保って見られるためにはそこに帰属する一人一人が独立精神がないといけない、という言葉を紹介しました。同じ事はもちろん会社という組織にも言えます。もし、私たちが何か外に対して依存していればきっと、いざ、なにかあった時には、その相手に気兼ねしてしまう。そして、その気がねすることが常態化すると卑屈になり媚び諂ってしまう。ひとりひとりに置き換えてみましょう。もし、自分の仕事のスタイルが自己解決型ではなくて、この部分は○○さん、この仕事を終えるには○○さん、と思いながら依存してやっていく癖がつきすぎると、どうなってしまうでしょう?これから私の残る人生で自分の鞭撻を刻々と刻みつける必要性がある。まだ、同じgroup の日本人方丁寧に、色な歴史的な知識を教えくれて、もう日本の文化を勉強になる。ありがとうございました。今日の授業が 将来の就職と人生計画を指導することになると思う。

・本日の講義では、吉田松陰福沢諭吉について、人生の経歴と高い志を持つことが分かってきました。特に松陰は遊学の時に民の苦難を痛感し、幕府改革の必要性が自分の志になり、一生を貫きました。最初は黒船事件に老中暗殺の計画が失敗し投獄されました。しかし、驚いたのは松陰は道半ばで倒れず、松下村塾を創ったことです。逆に柔軟な発想で、国の改革を優秀な若者たちに頼みます。さらに、教育を徹底することで、なんと僅か2年で、卒業した学生達がそれぞれ歴史に名を残しました。ここで、私は范仲淹の「岳陽楼記」を思いつきました。彼はそういう話を言いました。「士たるものは天下の人々をの心配事に先だって、いち早く心配しなければならぬ。しかも楽しみごとのほうは、天下の人々の楽しみにおくれて楽しむべきである」と。彼は権利を持つ人が必ず国や国民の利益を一位に置き、不安点や不測の事態に備えた準備を心に刻むべきだと表れました。二人共国民生活の改善を前提として、国の改革に至って高い志を持っているところは共通点です。そう言えば、確かに夢や志を追いかける方は困難にも負けず、進むしか考えないですね。私も志を常に持っている人間になりたい、今日の講義を通じてすごく勉強になります。ありがとうございます!

・今回の講義を受け、印象に残っている言葉は「どんな偉人でも、先生がいる」。また人間の偉さというと、後世の人への影響力が非常に大事であることだ。本日の講義で鬼塚喜八郎福沢諭吉吉田松陰久坂玄瑞高杉晋作渋沢栄一の話がありました。福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が有名で、人間は全て平等で、人の差は生まれつきにあるのではなく、「学問したか、しなかったか」によるものです。人間は一生勉強で、学問に年齢は関係ないです。勉強したいことがあるなら、考慮せずに挑戦した方がいいと思います。福沢諭吉の名言「ペンは剣よりも強い」も頭の中に残っています。文字によって書かれた学問、思想は武力より強い力を持っています。自分が経験したことだけでなく、他人の思想から勉強できるものもたくさんあります。また、今の時代でマスコミの報道は国民の心を動かす力を持っているので、真実を伝えることも重要だと思います。「今日も生涯の一日になり」も胸を刺されるような言葉です。ぶらぶらして一日を過ごすより、ちゃんと自分のスケジュールを管理して毎日が充実したいです。『福翁自伝』を読んでもっと勉強させていただきたいと思います。

・今日の授業では吉田松陰福沢諭吉岡倉天心の日本人の人物に関して学ばせていただきました。本当に勉強になったと思います。特に気になる人物は福沢諭吉の名言です。「学問の本質は学問を自分がどう活用できるかにかかっている。」とか 先生に教えて頂いた「今日も生涯の一日なり」などの福沢諭吉の名言を理解できるようになりました。又はグループワークした時、素晴らしい人物の吉田松陰について、教えてくださって、ありがとうございました。先生のおかげで、自分の生涯の一日を無駄にしないで よく分かりました。

・今日は様々な分野の師匠の思想や貢献やなどを学びました。彼らが特定の歴史的な条件のもとで、それ以降の世代にプラスの影響を与えて、国、さらには全人類にとって有益な思想を編み出した。大変勉強になりました。特に、福沢諭吉は単なる1万円の人物ではなくて、思想家、教育者であることがわかりました。「人は他人に迷惑をかけない範囲で自由である」。この名言を聞いて、現代の日本では、他人に迷惑をかけないのが文化の一つだと感心しました。もしかしたらその時から、今までずっと日本人に影響を与えているではないでしょうか?やはり、人がいなくなっても、思想が残ると感じました。そして、動乱時代では、吉田松陰のような偉大な思想や抗議の勇気をもって、指導者として国を守る人物が時代の宝物だと思います。鬼塚喜八郎は日本の実業家で、日本人に健康にしたいという夢があって、ASICSを創業した。現在では国内の同業界内で、業界屈指の総合スポーツ用品企業です。ですから、高い志というのが非常に大切なことと思いました。

・各業界である仰ぎ見る師匠には数人のことを少し習得しました。ビデオを見て、福沢諭吉さんの沢山名言を勉強になりました。その中で、一番印象を残ったのは「時には二人の意見が異なることがあっても、自分の意見が是か非か、自ら心の中で裁判すれば、他人に判断してもらうような面倒を掛けなくとも、早速に落ち着くところに落ち着くであろう」という言葉であり、自分と相手の双方の主張を冷静に見比べてみることが大切だと理解しました。福沢さんを代表として教育家は西洋の文化と先進技術を国に引き込む一方、岡倉天心さんが「歴史の中に未来の秘密がある」という本土の文化を誉める思想家もいました。文化の融合と継承両方も達成しました。異なる側面から日本近代発展に関する学習を一歩前進しました。「今日も生涯の一日なり」。

・仰ぎ見る師匠の存在をみて目の前に思い浮かべるのは吉田松陰ですが、留学生である私は正直きいたことがありませんでした。先生の授業の中の動画を見ることと先生の話を聞くことでこの人のことを少しだけ理解できました。吉田松陰は平民のため国のために、一君万民論を唱えました。この思想が明治維新を作り上げたのだと思います。松下村塾を作り、その中で明治維新を行う多くの若者を送り出しました。明治維新という歴史的出来事は吉田松陰の教えをのちの多くの人々に影響を及ぼすものとなりました。師匠になれるのはやはり人々の力を引き出せるような思想を説く人物であると思いました。思想家は時代を動かすような人たちにとっての原動力となるでしょう。私はもっと多くの思想家の人たちの考えについて知りたいと思いました。この授業を通してもっと知ることが出きればいいなと思います。

・本日の講義を通して、たくさん日本歴史の中に偉人のライフストーリーを学んでいました。これらの偉人は各業界の仕事に従事しているが、当時の日本にたくさんの影響を与えていました。最も関心があるのは岡倉天心です。彼は芸術家の身分と共に、現代の日本で最も重要な人物である。福沢諭吉と反対思想を持つ、西洋より東洋のほうが文明が深い、提唱するはずです。彼は近代西洋文明は物質的に強いが、工業化により人々は機会の奴隷になります。最近、中国人の考え方も徐々に変化されています。昔には欧米の物事を憧れていた人が、最近、自国の文化を新たに重視になっています。

・今日の講義は簡単ではない。内容はいっぱいです。はずかしいですが、今日紹介された人物の中 福沢諭吉以外は初めて聞きました。福沢さんは学問を強調した、特に実学を重視するべきだと。これは多摩大学大学院の理念もマッチと思います。吉田松陰は29歳なくなった、本当に「昔から英雄が少年を出す」ですね。 早めに人生の志を確立しましょう。「今日も生涯の一日なり」。 

 

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・9時:授業準備

・10時:久米先生と歓談

・10時40分:学部の「立志人物伝」の授業。

・昼休み:出原「名人」の囲碁教室。

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 13時:事務局との定例ミーティング

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「名言との対話」10月5日。三鬼陽之助「人生は晩年の方が充実する。過去の失敗から知恵が、それまでの蓄積から先見力が生まれるからだ」

三鬼 陽之助(みき ようのすけ、1907年8月3日 - 2002年10月5日)は、日本経済評論家

 三鬼陽之助は法政大卒業後、ダイヤモンド社に入社。経済記者となり、「投資経済」編集長などを経て1953年、財界研究所を設立。雑誌「財界」を創刊し、戦後の経済復興に取り組む企業経営者を取り上げた。 創刊と同時に三鬼が設定した『財界賞』は、現在も続いている。 日経連会長を務めた桜田武、経済同友会代表幹事や日本商工会議所会頭を務めた永野重雄ら4人を「財界四天王」と命名。著書は「東芝の悲劇」「日産の挑戦」など101冊に上る。

「経営トップは常に現場に立て」と説いた三鬼は、自らの経営評論・経済評論でも、この現場主義を貫き通している。 経済記者は、まずトップによく会い、経営の現場をよく見ることが大事というのが持論でそれを実践した。 70歳で病に倒れた後も、リハビリに打ち込み、95歳で亡くなる最期まで執筆活動を続けた人だ。経営評論家一筋50年、大企業から中小企業まで数多くの経営者に接し、その経営観、人物、戦略、内情に精通していた三鬼は正しいと思った事は歯に衣着せずズバリいう、財界のご意見番だった。

計算力や暗記力、集中力、状況に反応し判断する知的反射神経のような知能は流動性知能と呼ばれる。受験時に活きる知能だ。この流動性知能は、18~25歳くらいがピークで、その後は年齢とともに落ちていく。一方、知識や知恵、経験知、判断力など、経験とともに蓄積される知能である結晶性知能は、年齢とともに伸び続け、60代頃にピークを迎える。70〜80代にはなだらかに低下するものの、それでも高いレベルを持続していけると脳科学は教えてくれる。「情報と情報がつながる」、「そういうことだったのか」と目からウロコの体験が増える。そして理解力が増したり、いいアイデアが生まれたり、判断力に磨きがかかる。 努力し続けた人は晩年になっても、結晶性知能は維持向上できるのだ。

私自身の経験でも、若い時代は知識は増え続け脳細胞はタテに伸び続けるが、それぞれは孤立していて、脳はスカスカな感じがしていた。ところが、時間をかけて多様な体験を重ねてくると、孤立していた脳細胞同士がヨコにつながってくる感じを持っていたが、それは結晶性知能が向上してくるということだったのだ。下がっていく流動性知能と上がっていく結晶性知能の総合力が、その人の知力ということになる。三鬼陽之助は、現場主義に徹した姿勢で、高い結晶性知能をフル回転させて、総合知を維持し続けた人なのだろう。三鬼が知恵と先見力を身につけた高齢者だったすれば、それは人生100年時代のモデルの一人だということだ。