多摩:授業。九段:戦略会議・運営会議。代々木:知研幹事会。

夜は代々木で「知研」の幹事会と懇親会。

・来年のセミナー日程(基本:第4金曜日)。100年時代とSNS時代。総会(3月22日)。ゲストスピーカーの人選(岡田・小野・久米・井上・福島・力丸・・・・地研著者・若い人)。幹事FB。全国スケジュールの開示。会員管理。幹事の担務(セミナー小野。会員増強小林。編集根岸。単行本池淵。図解力丸。、、。)

・出版:小野さん「前立腺がん患者が放射線治療法を選択した理由」(1月)。知研編「新・深・真 知的生産の技術」(3月)。

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午前

・久米先生

・立志人物伝の13回目の授業。以下、久米先生の実況中継。

#多摩大学 久恒 啓一先生 #立志人物伝 181221
 自惚れろ>青島幸夫、孫正義、ジョブス、ドラッカー

今日の講義は「自惚れる」才能に恵まれたイノベーターたちの名言。経営者の中でおなじみでないのは、元都知事の青島幸夫さんだと思います。しかしよくよく鑑みると...【1960年当時、「僕は、運転免許を取って、美容師の免許を取って、映画も撮って、主演もし、作詞作曲をして、直木賞を取り、国会議員になる」と豪語して、植木等からも正気を疑われる。しかし、8年後までにすべて実現することになった。】というのはスゴイこと!言葉もいちいち納得です。

▼青島幸夫

「才能はみんな同じなのに、やらないだけですよ。気力の問題ですね。ボクは才能は傑出していないが、ウヌボレだけは人一倍です」

「面白がってやっているヤツと、苦労してやっているヤツと、どっちが勝つかな。やっぱりさ、面白がってやっているヤツにはかなわないんだよ。」

「オレはね、何か選択するときは厳しい方を選ぶ。だって、そっちの方が面白そうなことが待ってそうだもん。」

久恒先生の青島幸夫さんへのコメントは....

石原慎太郎から才人と言われた青島幸夫は、人からは「ほら吹き」と呼ばれ、自身は「ウヌボレ」を自覚しながら、そういう自分を面白がって明日に向かって邁進したのだ。ウヌボレほど大事なものはない。

>>>詳しくは
https://note.mu/hisatune/n/n358547ca4d75

他にも、自惚れる才能に恵まれたイノベーターたちの名言

スティーブ・ジョブス
「我々は宇宙に衝撃を与えるためにここにいる」
https://note.mu/hisatune/n/n8cc12dc84feb

孫正義
「最初にあったのは夢と、そして根拠のない自信だけ。そこからすべてがはじまった。」
http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20140723

ピーター・ドラッカー
「未来を予知しようとすることは、夜中に田舎道をライトもつけずに走りながら、後ろの窓から外を見るようなものである。一番確実な未来予知の方法は、未来自体を作り出してしまうことである。」
https://note.mu/hisatune/n/n330fcfccdf84

アンドリュー・カーネギー
「職業はなんでもいい、ただ第一人者たるを心がけよ」

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午後

・大学戦略会議:「研究」

・大学運営会議:人事。

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大川慶次郎私は競馬で3億得しています。そして4億損しています」

大川 慶次郎
(おおかわ けいじろう)
誕生 1929年2月6日
東京府北豊嶋郡王子町
(現:東京都北区王子)
死没 1999年12月21日(70歳没)
茨城県稲敷郡阿見町[1]
職業 競馬評論家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学文学部心理学科卒業。
主題 競馬
子供 大川智絵(長女)
親族 大川義雄(父)・大川平三郎(祖父)
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大川 慶次郎(おおかわ けいじろう、1929年2月6日 - 1999年12月21日)は日本の競馬評論家

オーナーブリーダーであった父・大川義雄(高千穂製紙社長)の二男で、渋沢栄一の曽孫にあたる。慶應義塾大学卒業後、会社員となるが競馬をあきらめらず、明治座社長だった新田新作の競馬担当秘書となる1957年から日本短波放送の解説者となった。『ホースニュース・馬』を発行するホースニュース社と予想家契約を結ぶ。1961年9月3日、同紙上で予想家としては初となるパーフェクト予想を達成するが、その後、極度のスランプに陥る。1994年に『ケイシュウNEWS』を去った後はフジテレビスーパー競馬』の解説者・日刊スポーツ専属評論家として活動した。1981年に設立した競馬予想会社ホースメン会議の総監督も亡くなるまで務めた。ファンへの仁義としてみずからも予想の通り馬券を買うのを常としていた。私は競馬には関心がないが、テレビで大川の顔は知っている。

馬の体型を一目見ただけで他の予想家や競馬記者が気づかなかった体調や故障、先天的障害を言い当てることもあったそうだ。予想家としては通算4度パーフェクト予想を達成し、「競馬の神様」と呼ばれファンに親しまれた。「神さまに戒名なんか要らない」という家族の意向により、大川に戒名はつけられなかった。死の5日後の「生前最後の予想」も的中させている。

「後編でバテる分の少ない馬が勝つ」というなにやら人生訓めく言葉もある大川慶次郎は、事前に用意されていたとしか思えない「競馬」という天職を手にした。天職には就くことが大事なことであって、収支は関係ない。1億の損、それがどうした、ということだろう。

 

野田先生を囲む若い人の会。

午前:大学で事務処理。

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午後:九段の文庫で企業幹部と学長を訪問。

トランプ政権の内情。ビッグダディメンタリティ。ロシア疑惑。訴追。上院議員。空気が変わった。キーマンが不明。ケネディ大使がボーイングの役員。変数が多い。異次元高齢化。退職者ソサイアティAERP。dispute aging ジェロントロジー研究。DNA。、、

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夜:野田先生を囲む会。多摩大、宮城大、知研を中心とした若い人の会。柳名誉教授、日経の中沢編集委員も。

高橋茂人さんの名インタビューで創業型経営者の人物論がよかった。「ドラッカー松下幸之助本田宗一郎城山三郎堤清二小林陽太郎大前研一孫正義。南部。沢田。堀、、」。

最後の挨拶は私が指名されたので、「志」をテーマに話をする。鬼塚喜八郎浪越徳治郎村上信夫塚本幸一、笹崎龍雄、、、、。

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 「名言との対話」12月20日。青島幸夫「才能はみんな同じなのに、やらないだけですよ。気力の問題ですね。ボクは才能は傑出していないが、ウヌボレだけは人一倍です」

青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年昭和7年〉7月17日 - 2006年平成18年〉12月20日)は、日本作家作詞家タレント俳優放送作家映画監督政治家

映画監督・主演の『鏡』でカンヌ映画祭で批評家賞を受賞。

テレビの放送作家として流行語を大量につくる。「お呼びでない。あ、そう、失礼しやした」「ハイそれまでョ」「カッコいい」、、。

タレントとしては「青島だァ!」が印象に残る。

作詞では植木等の「スーダラ節」が大ヒット。「チョイと一杯のつもりで呑んで、、」

政治家にもなる。1968年参院選全国区で2位。ライバル視していた同年の石原慎太郎がトップ当選。佐藤総理への「財界の男メカケ」発言、中曽根内閣全閣僚への「あんたらは全員アホだ」発言、、。田中角栄は「いまの若手議員の中で見込みがあるのは、河野洋平と青島幸雄」と言っていた。1974年には「カネ0円、選挙運動なし」で海外で過ごし当選。

作家としては初の小説『人間万事塞翁が丙午』で狙いどおり1981年の直木賞をとった。

1999年には東京都知事選に出馬し、組織選挙を戦った石原信雄を破って都知事に就任。

娘は死に方も父らしく「おしまいチャンチャン」と、木くずを振り払うようにさっさと死んでしまったと語っている。

以下、青島の言葉から。

 ・面白がってやっているヤツと、苦労してやっているヤツと、どっちが勝つかな。やっぱりさ、面白がってやっているヤツにはかなわないんだよ。

・自分の得意に、邁進しろ!

・オレはね、何か選択するときは厳しい方を選ぶ。だって、そっちの方が面白そうなことが待ってそうだもん。

明日があるさ明日がある 若い僕には明日がある いつかきっといつかきっとわかってくれるだろう 明日がある 明日がある 明日があるさ(作詞。歌は坂本九

子供の頃から親に「ほら吹き」と呆れられたという。都庁の建築現場を見た時には、「あそこで仕事をするようになるんだ」と思った。1960年当時、「僕は、運転免許を取って、美容師の免許を取って、映画も撮って、主演もし、作詞作曲をして、直木賞を取り、国会議員になる」と豪語して、植木等からも正気を疑われる。しかし、8年後までにすべて実現することになった。石原慎太郎から才人と言われた青島幸雄は、人からは「ほら吹き」と呼ばれ、自身は「ウヌボレ」を自覚しながら、そういう自分を面白がって明日に向かって邁進したのだ。ウヌボレほど大事なものはない。

昭和に火をつけた男 青島幸男とその時代

昭和に火をつけた男 青島幸男とその時代

 

 

 

 

 

「ムンク展ーー共鳴する魂の叫び」(東京都美術館)ーー「私は見えるものを描くのではない、見たものを描くのである」

東京都美術館で開催中の「ムンク展ーー共鳴する魂の叫び」を先日みた。

ムンクノルウェーの国民的画家である。20世紀における「表現主義」の先駆け。代表作は「生命のフリー図」の中核をなす「叫び」。現代人の不安や疎外感を表す普遍的なシンボルになっている絵画だ。ムンク自身、憂鬱、病気、」アルコール依存症、孤独、狂気、不幸、女性嫌悪、などに苦しんだ。

ムンクは80年の生涯を通して自画像を描き続けた。カメラでも腕を伸ばして自身を撮影した。「自撮り写真」の先駆者ともいえる。ムンクは自身が老いてゆく過程を記録することに興味を持っていたのだ。「汝、自らの人生を記せ」と唱えた革命的思想家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアンの影響を受けていた。

ムンクの言葉

「私は見えるものを描くのではない、見たものを描くのである」

「読書する人や編み物する女のいる室内画を、もう描いてはならない。呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」

「自分の絵に囲まれているとき、私は最もよい仕事ができる。絵が一同に並ぶとそれらが含意するものによって互いに連関していくにを感じたーーーそれらが不意に共鳴し始めたのである。個々に展示されるのとはまったく違う。それは交響曲となった。

「私の芸術は、人生の不均衡を解明しようとする思索から生まれた。何故、私は他の人と違うのか? 頼みもしないのに、なぜこの世に生を受けたのか? この呪いと、それをめぐる思索が、私の芸術の礎となった」

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「夕暮れに道を歩いていたーー一方には町とフィヨルドが横たわっている。私は疲れていて気分が悪かったーー立ちすくみフィヨルドを眺めるーー太陽が沈んでいくーー雲が赤くなったーー血のように。私は自然をつらぬく叫びのようなものを感じたーー叫びを聞いたと思った。私はこの絵を描いたーー雲を本当の血のように描いたーー色彩が叫んでいた。この絵が「生命のフリーズ」の「叫び」となった」。

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大学

・センター入試説明会

・学部運営委員会

・教授会

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「名言との対話」12月19日。大東隆行「リーダーは指導者でなくてはならんと思っています。支配者でも管理者でもいけない」

リーダーは「湯気が出ている背中」を下の人間に見せなければいけません」

大東 隆行(おおひがし たかゆき、1941年3月8日 - 2013年12月19日)は、株式会社王将フードサービス代表取締役社長。

義兄の加藤朝雄が1967年に創業した「餃子の王将」1号店へ1969年に入店。2000年に社長へ就任した。不動産投資の失敗などで有利子負債470億円、倒産寸前だった。

社長就任後は毎朝6時前には出社し、本部のある会社の玄関を自ら開錠しては、玄関駐車場を掃き清めて散水していた。昼には自身でトイレ掃除をしていた。社長就任の翌年から黒字に転換した。

王将には、4つのこだわりがある。王将の魂・餃子、手づくり料理、安全・安心、おもてなしの心。看板商品は餃子で国内のあらゆるところから食材を調達する。手づくりのオリジナル料理をつくるスタッフは高い調理技術を持つ料理人だ。私も何回か王将で食べたことがある。

2013年12月19日早朝、京都の王将本社前で自分の自動車の近くで倒れていて死亡する。銃弾4発を急所に打ち込まれていた。いまだに未解決の事件である。

・料理は魂、食は雰囲気

・ピンチにしないように早めに手を打っているんです。数字を毎日細かくチェックして、ちょっとした変化を見逃さないようにしている

・本社ビルはご覧のとおりボロボロです。ビルはカネを生みません。しかし、コンピュータにはカネをかけました。

・正直に言うと、『再建した』というよりも、『勝手に再建していった』という方が正しいな。毎日無我夢中やったからな。どんなときでも、自分にやれることはそんなに多くない。問題に対して考えられる策を、ただ実行するだけなんや。

・商売は人です。僕の目標は王将の仕事を通して人を残すことです。

・人間の値打ちは優しさと愛嬌だ。

中退した経理専門学校で身につけた数字を見る目と、人を大事にする姿勢が、倒産の危機を救った。大東隆行は 「「湯気が出ている背中」を下の人間に見せなければいけません」というリーダー像も語っている。料理の現場を彷彿とさせる「湯気が出ている背中」は言い得て妙だ。支配者という勘違い、管理者という誤解は、ちまたに多い。それがパワハラになり、部下からの信頼不足になる。未来を指し示し、率先垂範する指導者の姿をみることができる。こういう人がなぜ殺されたのだろうか。この事件は追いたい。

年末年始に向けて

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自宅にて年末年始に向けての準備:収録準備。本の注文。執筆。企画。

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夜は、多摩信金の長島部長と多摩センターの「ラ・パーラ」で食事。

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「名言と対話」12月18日。加藤仁「一点突破で道は開けるんです」

加藤仁(1947年5月3日〜2009年12月18日 )は、ノンフィクション作家。

雑誌編集者を経て、作家として独立。3000人以上の定年退職者に取材するなど生活者の視点に立ったルポルタージュや日本人論を執筆した。著書に「宿澤広朗 運を支配した男」などがあり、私も若いころから本や雑誌記事などをよく読んだ。だが、圧巻はながく続けた定年退職者への取材をもとにした大量のルポだ。

『定年後―豊かに生きるための知恵』 『

人生、後半からが面白い

』。

『待ってました定年

 定年後の8万時間に挑む』。『

生き場所死に場所―定年が見えてきた、さあどこに住むか

』。

『「自分史」を書いてみませんか』。『

定年前後の「自立」事始め

』。『

定年前後の「自立」事始め

』。『

人生を楽しむ―50歳からがゴールを決める

』。『

定年後の居場所を創る―背広を脱いだ61人の実践ファイル

』。『

たった一人の再挑戦―早期退職者55人行動ファイル

』。

『定年百景』。『

定年からの旅行術

』、、、。

『定年百景』には、「万葉集の歌碑巡り、青空の下で土を踏む楽しさ」というタイトルで園部達郎という元銀行マンが紹介されている。90代に突入した私の母が万葉歌碑巡りをライフワークとしているので興味を持った。70歳から本腰を入れた歌碑巡りは、江戸期から建碑された始めた歌碑943(平成3年まで)のほとんどを、10年後の80歳までにすべてをまわっている。万葉集4516基の歌のうち、もっとも多いのは山上の憶良の「しろがねもくがねもたまもなにせむにまされる宝子に如かめやも」である。「あとがき」で加藤は、定年で喪失しかけた「役割」を独自に獲得していった退職者の姿を描いたと語っている。紹介された67人に共通するのは「もうトシだから」と言わないことである。ふとした折に出会ったものにのめり込むことで新たな自己を形成していく。

加藤仁は若くして「定年」というテーマにはまり、「定年後の教科書」を数多く書いて、多くの人を励ました。「定年後を充実して生きるヒントは?」とは、という問いに加藤は、「一点突破」ですね。つまり、自分がこだわりたいテーマに徹底的にこだわる事で、そこからすべてが開けてくると思います、と答えている。「定年後」というテーマは、「人生100年時代」という今日的な課題に直結している。加藤の本は今後も読まれ続けるだろう。

ここまで定年というテーマにのめり込んだのは、使命感もあっただろうが、自身の人生をどう過ごすかという面でヒントを得たいと思ったからであろう。その加藤は「取材をして書くという仕事を、できれば一生続けていきたい」と語っていた。自身は弱冠62歳でこの世を去って、豊かな老後には届かなかった。しかし「一点突破で」生涯を全うしたとはいえる。これも運命だろう。

定年百景 (文春文庫)

定年百景 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭島市まちづくり企業サミットでコーディネーター役。

昭島市まちづくり企業サミットでコーディネーターをつとめた。

国連アジア極東犯罪防止研究所の国際会議場A。

臼井市長。木崎市議会議長。昭島観光まちづくり協会。国連アジア極東犯罪防止研修所。

パネリスト:昭島市商工会。公益財団法人アジア刑政財団。(株)IHI。(株)エコス。昭和飛行機(株)。(株)タチエス。東京グリコ乳業(株)。日本航空電子工業(株)。日本電子(株)。フォスター電機(株)。フランスベッド(株)。HOYA(株)。

第一部「企業が目指す姿と昭島市のまちづくり」--官民が連携する昭島市のまちづくり。

第二部:意見交換「今後の市や地域社会の関わり。地域防災力。職員の人事交流」

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私のコメント。官民が連携したまちづくり

勝海舟「内でケンカをしているからわからないのだ。一つ外から見てごらんネ。直にわかるよ」

西本幸雄「いわしも大群となると力が出る。みんなが心底から力を合わせることによって、何かが可能になるんや」

川上哲治「中途半端だと愚痴がでる。いい加減だと言い訳がでる・真剣にやれば知恵がでる」

まとめの私のコメント。

・後藤慶太「ものごとは大きく考えること。おじけづいていては成功しない」

井上靖「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

佐藤栄作「問題は何といっても一つ一つ対策を立てて実効あらしめること、議論ではない」

ゲーテ「仲間が仕事をつくるのではない。仕事が仲間をつくる」

出光佐三「愚痴をやめよ。ただちに建設にかかれ」


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国連アジア刑政財団会長の堺屋太一会長。

・明治は強い日本。戦後は豊かな日本。新しい日本は楽しい日本。多様性、意外性。

・2025年の大阪万博。プロジェクトを建てよ。昭和の森にパビリオン。

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昭和館での懇親会。

堺屋太一先生とはJAL広報部時代に韓国ソウルでの文化講演会でご一緒して以来。

・私の締めの挨拶「昭島は多摩の一部。多摩とは多摩川流域と相模川流域の挟まれた地域。昭島は多摩大の領土。5年前の官・学・金、から本日で産と民(議会)が加わった。大いなる多摩へ!」
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「名言との対話」12月17日。南博「日本人ほど自らの国民性を論じることを好むl国民は他にない」

 
1954年

南 博(みなみ ひろし、1914年7月23日 - 2001年12月17日)は、日本社会心理学者。

医師であった父親の希望により医師を志すが、激務に恐れをなし東京帝国大学医学部を中退。京都帝国大学文学部哲学科卒。1943年にアメリカのコーネル大学で博士号を取得。終戦後帰国し日本女子大学教授。一橋大学教授。成城大学教授。

アメリ社会心理学を日本に導入し、国民性から大衆文化まで様々な社会現象の背景にある心理を解き明かし「日本人論」ブームをリードした人。また、伝統芸能や映画、テレビ番組においても幅広く活躍した。フラストレーションの訳語に欲求不満という言葉をあてた。この言葉は当時話題になり、今では普通名詞になっている。

父から「勉強しすぎて死んだ奴はいない」と教えを受けたといわれ、勉強も仕事にも熱心で、生涯無休だった。亡くなる直前まで口述筆記で著書を遺した。

大学のゼミ出身者は、高野悦子加藤秀俊、辰野和男、山本コウタロウ、杉山隆男石原慎太郎、太田弘子、など実に多彩だ。

南博の日本人について書かれた書物は何冊か読んでいる。1994年に80歳で集大成として書いた『日本人論』は、代表的著作500点を総覧した大著だ。千数百点にのぼる国民性に関する論著の中から,代表的だと考えるものを選び,明治期80強,大正期約30,昭和戦前期約100,占領期30強,現代(一)約70,現代(二)約130点について歴史的に位置づけ,簡潔な紹介が付されている。日本人の生活・文化・心理についてさまざまな角度から考察した。日本人の自意識の近代史である。この本は手に入れなくてはならない。

「日本人ほど自らの国民性を論じることを好むl国民は他にない」という名言は、頭に残っていたが、これは「日本人学」の構築をライフワークとした南博の言葉だったのだ。 

日本人論―明治から今日まで (岩波現代文庫)

日本人論―明治から今日まで (岩波現代文庫)

 

 

「何になるか」はパンの問題である。、、、「どう生きたいか。どんな人間になりたいか」は魂の問題であるーー「三浦綾子 366のことば」より

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 多摩センターの丸善で、母親の著書『万葉歌の世界』を発見。

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 今日の収穫『三浦綾子 366のことば』。

・言葉は、ある時一度共鳴すると、長いこと心の中に住みつくものだ。

・言葉は人格の所産である。

・人間の言葉は、本来おざなりであったり、真赤な虚偽であったり、裏切りであったりしれはならないのだ。人を力づけ、慰め、励まし、希望を与えるものでなければならない。いつもそのような真実な言葉を出せたらと思う。

・言葉は生きものなのだ。心に撒かれた言葉は、どんな形にか成長する。悪い言葉は悪い実を、よい言葉はよい実を結ばせる。

・すなおとは、真理に従順であるということである。

・「何になるか」はパンの問題である。、、、「どう生きたいか。どんな人間になりたいか」は魂の問題である。

・人間は「何になるか」を考えるまえに、まず、「どのように生きるべきか」を考えるべきではないだろうか。

・成功者というのはな、自分がなりたいと思った者になれたら、それで成功者だ。

・自分でえらんだ道を歩くことは、快いことだよ。だが、思いもかけない道を、立派に歩むことは、さらにすばらしいことかも知れないよ。

・失敗を恐れて何もしない人間こそ、全生涯が失敗となる。

・人間にはな、なくてはならない存在とされることが、一番うれしいのです。

・わたしは夢がかなうかどうかというよりも、夢を持ちつつ生きることが尊いと思うわ。

・今日を喜べぬ人間は、一生を喜べぬ人間なり。今日を愚痴る人間は、生涯を愚痴る人間なり。

 三浦綾子366のことば

三浦綾子366のことば

 

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「名言との対話」12月16日。桂信子「表現は平明に、内容は深く」

桂 信子(かつら のぶこ、1914年11月1日 - 2004年12月16日)は、大阪市出身の俳人

1938年、女性のエロスを主題とした句や無季俳句で新興俳句運動を主導した日野草城主宰の『 旗艦』」を知り投句。1939年、桂七十七郎と結婚。1941年、夫が喘息の発作のため急逝。 1949年、草城主宰の『青玄』創刊に参加。1954年細見綾子加藤知世子らと「女性俳句会」を創立、1970年、『草苑』を創刊、主宰。

2010年、財団法人柿衞文庫によって桂信子賞が創設された。俳句に功績のあった女性俳人に授与される。 「俳句創作に加え、地道な研究活動を怠らなかった女性俳人・桂信子を顕彰し、女性俳人の活動のさらなる発展を願って、柿衛文庫が創設した賞」だ。第1回受賞者は「日本列島桜花巡礼」を発心し、30年かけて全国の桜を巡り「桜」俳人としても知られる黒田杏子だ。黒田はテレビ「クレパト」では、俳句ブームを起こした夏井いつきが尊敬する俳人である。

りんご掌にこの情念を如何にせむ  紫蘇しげるなかを女のはかりごと

窓の雪女体にて湯をあふれしむ   賀状うづたかしかのひとよりは来ず

外套のなかの生ま身が水をのむ   ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜

27歳で寡婦となり、以後会社員として自活する。苗字は嫁ぎ先の桂を名乗ったままだ。56歳の定年で辞めて、自ら主宰する『草苑』を創刊する。それから34年の歳月があり、寡婦としての喜怒哀楽を詩情ゆたかに詠んだ。「夫を失い師が逝かれ、母が亡くなり続いて唯一人の兄が逝き、昨年末は長い間共に過した義姉も他界した。あとは俳句だけになった。俳句は自分のよみたいようによむしかない。(略)俳句は唯一私の心のよりどころである。私にとってそれ以外の何物でもない」。そういった心情を読んだ「父も夫も師もあらぬ世の寒椿」には心を動かされる。

 1977年、第1回現代俳句協会賞受賞、『新緑』で現代俳句女流賞受賞。1992年、第8句集『樹影』で第26回蛇笏賞受賞。同年第11回現代俳句協会大賞を受賞。2004年、第10句集『草影』で毎日芸術賞

第4句集『新緑』以降の句集では自然をさりげなく視野においた句を多く収めるなど、平明な表現のなかにたたえられた滋味を感じさせる奥行きの深い作風となった。その成果は60代以降の、以上に掲げた数々の受賞に結実している。

 

 

 

 

 

大学院教授会。インターゼミ最終発表会。

品川:大学院教授会。

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九段:インターゼミ(社会工学研究会)の最終発表会。

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以下、学長コメントから。

サービス・・エンタメ班:2000年頃、百貨店からショッピングモールへ。時間消費、車社会、、、。多摩には国際ブランドの観光地があるか、サンリオ、アニメ、、。

AI班:ポテンシャル。障害者・高齢者の補完。血液分析、100人の専門医のノウハウ、15分。「ホモ・デウス」のいう無用者階級。人間中心主義への疑問。人間は何をやるのか。

地域班:定住と交流。関係人口を増やしていく。物語が要る、定期・安定・成功体験、受け皿、システム。社会的投資研究所でソーシャルキャピタルファンド、、。

多摩学班:リバースモーゲッジにもリスク。「無子・高齢化」。団塊ジュニアには子供は生まれなかった、貧困化、未来への不安。40代の高齢化が問題、資産形成なし。都市郊外型高齢化が問題。異様な個人主義、私生活主義、社会に無関心、無宗教団塊世代、工業社会の人、、

アジア・ダイナミズム班:モンゴルという目線から世界史を見る。広い視角。長期、広域、非ヨーロッパ。聖と俗。宗教を許容、多様性。紙幣の発明(フビライ)、権力と権威。ソ連の弾圧、ソ連崩壊で日本に接近(相撲、、)、中露に接近中。

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「名言との対話」12月15日。小宮山正九郎「「喫茶店」ではなく「喫茶室」」

小宮山 正九郎 (こみやま・しょうくろう 1920年10月22日〜2013年12月15日)は銀座ルノアール 創業者・社長

株式会社銀座ルノアール東京都神奈川県を中心に「喫茶室ルノアール」などの喫茶店チェーン展開する会社である。

小宮山が戦後、復員する時に持ち帰った砂糖が高く売れ、その資金を元手にせんべい屋を始める。そして喫茶事業を開始する。その時つけた名前が「ルノアール」だ。

出店戦略は、兵隊時代の迫撃砲がヒントになっている。数多く撃つことで、その地域をせん滅させる、というもやり方だ。同一地域にいくつも出店し、店舗の多用化や、貸会議室の提供といった工夫で、差別化をした。貸会議室は利益率自体は小さいが、早く来た人がお茶を注文したり、会議後に話し足りない人が場所を変えてお茶をするなどして利益があがるというしかけだ。

ルノアールの特徴ともいうべきロビー風喫茶室のスタイルは、「絨毯に金をかけすぎて資金不足となり、苦し紛れに椅子をまばらに配置したところ意外と客に好評だったため始めた」ことがきっかけだった。怪我の功名のヒットだった。

1964年10月、日本橋に第1号店を開店、1971年2月、有限会社銀座ルノアールを設立。1983年には、100店舗の出店を達成。2018年3月の決算報告では、資 本金7億7千1百万円。従業員数正社員241名、 契約社員1,617名。店舗数は120店舗(内2FC店舗)となってりる。

コーヒーを飲みに行くのではなく、あくまで何かを行う場所という意味が「喫茶室」という名前に込められている。私が1980年からかかわっているNPO法人知的生産の技術研究会のスタッフ会議は、ほとんどの場合は都内の喫茶室ルノアールだった。ゆったりとしたスペースでくつろぎながら仲間と企画を練ったことを思い出す。今でも、ルノアールの看板を見かけると懐かしい気持ちが湧き上がってくる。「オヤジのオアシス」と言われているのはうなずける気がする。今でも同世代の友人と待ち合わせると、「懐かしいなあ」と青春時代を思い出す人が多い。当時は気が付かなったが、ルノアールは喫茶店ではなく、「喫茶室」という考え方だったのだ。やはり事業においてはコンセプトが大事だ。