NHKスペシャル「未解決事件」FILe10「下山事件」。須賀敦子論。

 

NHKスペシャル「未解決事件」ーーFILe10「下山事件」の再放送。第1部はドラマ、第2部はドキュメンタリーで、午後1時から3時近くまでだった。

終戦直後のアメリカ占領時代に労使紛争にゆれる国鉄を舞台に起こった未解決事件の一つが下山事件だ。国鉄での10万人の解雇という圧力を受けていた下山総裁が謎の死を遂げる。その真相は今もって闇の中である。

東京地検主任検事の布施健を主人公に、国鉄労組、共産党ソ連、日本政府、GHQ、アメリカ、スパイ、二重スパイ、右翼の大物、小説家、新聞記者らが織りなす複雑怪奇なストーリーを描いた傑作だ。ソ連説、アメリカ説をめぐって生存者の証言やアメリカ公文書館の文書が明らかになっていく過程は息をつかせない。

朝鮮戦争の勃発をにらんで、当時共産主義勢力の伸長に危機感を抱いたアメリカが、下山総裁殺害の犯人を共産側になすりつけるために仕組んだい陰謀という結論が示唆される。

主任検事の布施健は政治によってこの事件から手を引かされるが、最終的に検事総長にのぼりつめていく。そして田中角栄元首相を逮捕することになる。最後に、これも大きな陰謀の肩を担がされているのかも、という述懐を残して消えていく。NHKスペシャルらしい力作だ。主役の森山未来の演技が印象に残った。

森山未來

NHKスペシャル 未解決事件

ーーーーーーーーーーー

高橋源一郎飛ぶ教室」で須賀敦子について取り上げていた。 

須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日] - 1998年3月20日)は、日本の随筆家・イタリア文学者。18歳で洗礼を受ける。24歳で渡欧、以後日欧を往き来する。32歳ペッピーノと結婚。34歳、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』のイタリア語訳を刊行し、以後日本文学のイタリア語版を刊行していく。谷崎作品のほか、川端康成『山の音』、安部公房砂の女』などをイタリア語翻訳刊行する。長く大学の非常勤講師を務めた後に、53歳、上智大学国語学助教授。60歳、比較文化学部教授。

須賀敦子の名は、ビジネスマン時代に同僚の女性から名前を聞いてはいたが、本を読むまでには至らなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで、須賀自身のエッセイに興味が湧いた。

翻訳を長く仕事とし、生前はエッセイを書いた。翻訳は自分をさらけ出さないで、責任をとらずに文章を書く楽しみを味わえたから須賀は好きであり、いい仕事をし、イタリア共和国カヴァリエール功労賞を受章している。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。また、エッセイでは女流文学賞講談社エッセイスト賞を受賞している。2014年にはイタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

少女時代から「書く人」になりたいと願った。書くということは「息をするのとおなじくらい大切なこと」という須賀は、『ミラノ 霧の風景』から始まる完成度の高いエッセイ群によって、たどってきた時間を生き直したと『須賀敦子を読む』の著者・湯川豊はいう。信仰と文学の一体化を実現する小説の道を発見した須賀敦子が語った「書くべき仕事が見つかった。、、」は、死の直前の1998年2月4日の言葉だ。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(孔子)を彷彿とさせる。孔子の言う道は真理という意味であるが、須賀敦子の場合は自分の進むべき道であったろう。

以上は2018年に私がブログに書いた文章だ。ラジオの刺激を受けて、手元にある『日本文学全集』(池澤夏樹個人編集。全25巻)の「須賀敦子」を手に取った。

池澤の解説によれば、須賀敦子のイタリア語は母語の域に達していた。そして日本人としての主体性を失うことなく、ヨーロッパ思想を最も深いところから身体化していた。母岩としての13年に及ぶイタリアの日々の観察と記憶を精錬して貴金属を抽出し、人物単位でまとめるという仕事をしたのである。

ラテン語の詩を読んだ時に漢文の詩を思いだして、ああ同じだ。という感じを持ちました」

この全集の中に「マルグリット・ユルスナール フランドルのうみ」というエッセイがあった。ユルスナールは大傑作『ハドリニアヌス帝の回想』の著者だ。この本を昨年読んで感銘を受けている。

この本の内容、つまりハドリニアヌス帝が述べる生涯に出会う、多彩な人物、遭遇する事件とそこから引き出す教訓、旅の過程での発見、皇帝であることを活かした猛烈な仕事ぶり、人生についての深い知見、、、など、感銘を受ける箇所が随所にある。この本は手元に置いて、座右の書の一つにすることにしている。

69歳になっていた須賀敦子は「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなものだから」 と死の直前の2月に覚睡しているのだが、3月に帰天する。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」4月29日。牧伸二「漫談芸は格闘技である」

牧 伸二(まき しんじ、本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月29日)は、日本のウクレレ漫談家。色モノ芸人の集まりである東京演芸協会の会長。

牧伸二は芸能界の「色モノ」ウクレレ漫談の創始者だ。色モノとは非正統という意味である。泉ピン子は弟子にあたる。最初の芸名は漫談の先駆者・徳川夢声一門から出た師匠の牧野周一からつけてもらった「今何度」である。高校卒業後、温度計を製造している東亜計器に勤めていたからだ。

ウクレレをひきながら「あーあやんなちゃった、おどろいた」で始まるやんなっちゃった節は一世を風靡した。今でも私の耳にも残っている。「フランク永井は 低音の魅力 神戸一郎も低音の魅力 水原弘も低音の魅力 漫談の牧伸二 邸能の魅力 ああやんなっちゃった ああ おどろいた」は、1300番以上も続く歌詞の最初である。

1963年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、5秒に1回笑わせるテレビ的な番組となった。この人気番組は1978年まで続き15年にわたり司会をつとめた。牧伸二が偉いのはこのままではまとまった芸ができなくなり芸が枯れると考え、この間もキャバレーなどのステージを増やし芸を磨き続けたことだ。

「つかみ」を盗み、「間」を盗み、達人たちのいい部分を盗み、自分のセンスに加え、長い年月をかけて熟成させる。そうしてやっとオリジナルの格闘スタイルが完成させていった。そして「長い休みを取らず芸をやり続ける」ことで芸をさび付かせず、最高のコンディションを維持していく。これが牧伸二の芸の磨き方だった。

牧伸二ビートたけしを「化け続ける芸人」と呼ぶ。タモリは「緊張感のないお笑いスタイル」でテレビで遊んでいると批評する。ダウンタウンには師匠のいない芸人の欠点の修正法をアドバイスしている。永六輔大橋巨泉はテレビが生んだ「不思議業」と規定する。これが芸の格闘家・牧伸二の確かな目である。

時事ネタを取り入れて漫談を行うには時代の流れに敏感でなければウケナイ。また政治や宗教の風刺、下ネタ、その土地土地に存在するタブーなどはやらない。自分の足で街を歩き、見て、聞いて、観じた「いま」をネタにしなければ、お客さんが笑うような面白いものは出来上がらない。これが牧伸二のポリシーだった。優れた芸人は「時代」を表現し、今を生きる人々の心に共感のさざ波を起こし、笑いをとる。牧伸二は油断できない、隙を見せられない、真剣勝負の格闘技の世界を生き抜いた人だったのだ。