詩画作品は自分たちの子供のようだ−「星野富弘 ことばの雫」から

k-hisatune2010-05-17

結婚ゆび輪はいらないといった
朝、顔を洗うとき
私の顔をきずつけないように
体を持ち上げるとき
私が痛くないように
結婚ゆび輪はいらないといった
今、レースのカーテンをつきぬけてくる
朝陽の中で
私の許に来たあなたが
洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から
金よりも 銀よりも
美しい雫が落ちている

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花から
とりのぞける
ものはない
花に
付け加えられる
ものもない
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ちかごろ
花をふたつ描くことが多くなった
妻よ
ひとつは
おまえかも
しれないね
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絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。
欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、
調和のとれた作品になるのです。これは私達の家庭も社会も
同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、
助け合うのは自然な事です、
、、、
−−−−−−
、、
畑も田んぼも山も一つの美術館で、
村の人たちがつくる作物が
村の人たちの作品だと思う。
−−−−−
、、
苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、
動けない者には、動くものや変わりゆくものが
良く見えるようになり、、、
変わらない神の存在を信じるようになる。
十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを
知っておられるのだろう。
−−−−
、、
たった一度しかない人生ですから、社会がどうあろうと、
人が何と言おうと、そんなことにひるむことなく、
大切な自分の人生を、志を持って進んでいけたらいい。
志という言葉の中には、日本人らしさ、まわりに流されない
生き方というものが含まれている気がします。
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「「詩画」という独自の表現方法を編み出した星野富弘には、ファンが多い。1946年生まれ。群馬県勢多郡東村に生まれた富弘は群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になるが、新任で赴任した直後の6月17日に器械体操のクラブ活動を指導中に首から落下し頚椎を損傷、手足の自由を失う。大学時代に登山やスポーツに明け暮れたように、体を使う仕事をしたいとの想いを抱いた富弘は、体を使えなくなるという悲劇に見舞われる。

体も首も動かせない、言葉も使えない富弘は2年後、筆を口に加えて母が動かしてくれて「お富」という文字を書く。横向きになって口で絵筆を噛みながら文字を書くという表現手段を得た富弘は、「あ」という文字を書くのに5秒かかった喜びをビデオの中で語っている。そうすると今まで見てきた作品の味のある達筆は、その後の練習によって勝ち得たのかと胸が詰まった。ビデオの中の富弘は、ゆっくりかみ締めるように話す姿は、やさしく誠実な人柄を感じさせる。5年後、スケッチブックをベッドの横に固定する工夫ができて、今まで手で持っていた母の両手が空いた。母がパレットを持てるようになり、絵に色がつけられるようになり、絵に言葉を添えて手紙を描き始める。富弘美術館の作品には花をモチーフにしたものが多い。お見舞いの花が唯一の接することができる自然であり、花が友達だったという言葉に納得する。毎日花を見つめる富弘は、その色と形に驚く。自然の姿をそのまま写しとればいいと思い、絵とそれに言葉を添えた作品をつくり続ける。9年目、思いがけず展覧会を開くことになる。それまでにかきためた10冊のスケッチブックは、1979年5月 15日に展覧会で多くの人の目に触れ、深い感動を与える。その年に退院した富弘は詩画作家としての道を歩む。入院中に聖書を読みキリスト教の洗礼を受けた富弘は、1981年には伴侶も得ている。」

星野富弘 ことばの雫」の奥付には「著者 星野富弘  写真 星野昌子」とある。その伴侶こそ昌子さんである。この本では「詩画作家」というこの人にふさわしい肩書きがついていた。星野富弘の美しく微妙な色彩は、富弘の繰り出す細かい指示と、その指示に忠実に絵の具を混ぜ合わせ忠実に反映しようとする昌子さんの感覚から生まれてくる。「詩画作品は自分たちの子供のようだ」と星野は言う。