「昭和の怪物」松前重義の波乱万丈人生

敗戦の一年前に42歳の時に、通信院工務局長という勅任官であった松前重義は、東條内閣を公然と批判していたため懲罰召集をかけられ、陸軍二等兵として南方に送られる。この時、もう一人の内閣打倒の工作を練っていた政敵・中野正剛を東條首相は自決に追い込んでいる。死地に送り込まれた松前は、何回もの危機を脱するのだが、その都度「私は実に運が強かった」「「大変な幸運だったと言える」と語っている。この人のその後の活動を眺めてみると、天が殺さなかったのだという感慨が湧いてくる。

二等兵召集のきっかけとなったのは大政翼賛会だ。逓信省公務局調査課長だった松前は、その総務部長を引き受ける。翼賛会は、本来亡国の道を突進する軍部の独裁政治を食い止め、日本の進路を正常にするために発足した国民連合だった。ここで軍部と対立し、憲兵特高に目をつけられることになった。

頑固一徹で武骨な性格をあらわす「肥後もっこす」の典型であった松前重義は、細川護煕首相が政界に出るとき、その父・護定を説得する。細川は「松前さんは正真正銘のもっこすだ。スケールの大きなもっこすだと思う」と証言している。

東北帝大工学部電気工学科を卒業し、逓信省に技官として入省した松前は、役人生活に失望する。この時、内村鑑三の聖書研究会でその講義に接し、「この人こそわが人生の師だ」と心に決める。ダルガス父子による復興を描いた「デンマルク国の話」とともに、グルントウィヒというデンマークの宗教思想家・教育者を知る。グルントウィヒは国民高等学校という私塾的な場を設け青年の教育を行った。これが松前重義が教育を生涯の分野と定める動機となった。

松前は生涯を通じて柔道に関係した人生を送り、国際柔道連盟会長などを歴任したが、山下泰祐を発見し育てた人でもあった。ロサンゼルスオリンピックで金メダル、全日本選手権9連覇、203連勝のまま引退という記録を打ち立てた山下を東海大相模に入れて鍛えた。山下は学業にも励み、全校で一番の成績もあげている。

柔道は嘉納治五郎が日本古来の柔術に創意工夫を凝らしながら体系化した近代武道である。柔道は知育・徳育・体育の三位一体の教育理念に基づいた教育的武道である。世界各国で柔道が盛んになったのは、戦後の日本の発展の原動力がこの武道ではないか、武道が日本人の勤勉さを作ったのではないか、と思われたからである。

松前重義東海大学の創立者である。この大学の発祥の地が東海道清水市にあったためにつけた名前のように誤解されるが、東海とはユーラシア大陸の東の海を指している。それは太平洋のことだ。
懲罰召集から帰り終戦になって、戦後通信院総裁になった技術者・松前は理科系を中心に文科系も併設する総合大学の建設にとりかかる。しかし、1952年にはこんどは公職追放に遭い、教育界にも携わることができなくなり、40代後半の数年間を雌伏の期間とせざるを得なくなる。

年譜では、1946年4月に通信院総裁を辞任し、5月に旧制東海大学を発足させる。翌年1947年1月に公職追放。1951年6月公職追放解除。

松前重義の死後も、開発工学部、健康科学部、電子情報学部、そして2010年には観光学部の設置に至っており、創業者の精神は引き継がれているように見える。

今日、東海大学は20学部・10キャンパスに規模となる日本有数の規模にまで発展している。この大学の特色は、海洋学部など日本にはあまりない学部・学科が多いことだ。また松前自身が、「現代文明論」という科目で数千人の学生に講義をしていたそうである。
これだけの大学を一代で築き上げたことは快挙以外のなにものでもない。
若き日に内村鑑三を通じグルントウィッヒに触発を受け、教育を志し、それを全うした人生に頭が下がる。

長い間の社会党代議士、柔道を通じたソ連など世界各国との交流により貢献などでの志の高い活動に感心させられる。この本に出てくる松前重義をめぐる人物も実に多彩で華やかだ。

今日の日本が、この人物の恩恵にあずかっているとの感を深くする。
まさに「昭和の怪物」である。

わが昭和史

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