「副学長日誌・志塾の風」170630
多摩キャンパス
・橘川先生
・授業:3回続けて都議会議員選挙がテーマ。前回は読売新聞記事、今回は東京新聞の記事の公約比較を配布し図解に挑戦。政治意識の高まり。以下、アンケート結果速報。
- 都議選に行く 81名 66%。都議選に行かない 41名 34% 。 合計 122名
- 投票先:自民 26名 31%。 都民 16名 19%。公明 18名 22%。共産 5名 6%。民進 5名 6%。ネット 1名 1%。その他 6名 7%。無回答6名 7%。
九段サテライト
・13時半:第1回教学マネジメント会議:教学ポリシーについての意見交換。
・14時半:大学戦略会議:今回は「教務」がテーマ。カリキュラムの課題。輪郭を際立たせる施策。前回の報告「地域」:研究内容の可視化。産学官民連携。全学連携。
・16時:大学運営会議:学長「教授陣の質(研究者)。離学。雲南民族大学(雲南の戦略的重要性)。知の再武装」
帰りは、杉田学部長の車で話をしながら帰る。
「名言との対話」6月30日。アーネスト・サトウ「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人間を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーの『黄金虫』の中の暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、初代駐日大使となった。イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。
サトウは高校時代に「エルギン卿遣日使節録」で日本を知り、「ペリー遠征記」を読み、イギリス外務省に入り、あこがれの日本に渡った。幕末から明治にかけての1862年から1883年(一時帰国)と、イギリス駐日公使としての1895年から1900年までの、合計25年間の日本滞在となる。この激動の時代に、多くの英雄に会っている。そして、以下のように彼らの人物評を残しており、興味深い。
「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」(西郷隆盛と面会した時の感想)。
「結局江戸を政治の中心とし、その名を東京(トウキョウ)、すなわち東の都と改称することに決定したのだが、それには大久保(利通)の影響力が大きかったことを私は疑わない」(薩英戦争では通訳として活躍)
「イギリスの議会制度は、京都における侍階級の指導者連中、ことに後藤象二郎などが大いに興味を持った問題であった。日本の新政府の基礎を代議制度の上におくことが、彼らの希望だったからである」
「小松帯刀は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」
「伊藤(博文)には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった」(長州ファイブといわれていた伊藤博文と井上馨が、急遽ヨーロッパ留学から日本に戻る時には、サトウが長州まで送り届けた。下関戦争の長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手の通訳をつとめた)
「勝(海舟)は、将軍家の崩壊以来、常にわれわれに政治情報を提供してくれた大いにありがたい人だった」
ポーが『黄金虫』の中で述べているのは換字式暗号(かえじしきあんごう)である。平文を、1文字または数文字単位で別の文字や記号等に変換することで暗号文を作成する暗号である。ともかくも暗号のような日本語を一から学ぶ困難の中、それを駆使して、明治という時代の一翼を担ったアーネスト・サトウの行動と観察には教えられることが多い。