楠木新『定年後』(中公新書)--60歳から75歳は人生の本当の黄金期

 楠木新『定年後』(中公新書)を読了。

今、話題の書。60歳から74歳を対象とした書。人生の本当の黄金期はこの期間。

定年後 - 50歳からの生き方、終わり方 (中公新書)

 男性の2割は70歳になるまでに健康を損ね、重度の介護が必要になる。7割は75歳から徐々に自立度が落ちていく。1割は90歳近くまで自立を維持する。(全国高齢者調査)。女性は9割近くが70代半ばから衰えていく。

元気な人の共通項は若い人に何かを与えている人、次世代に継承している人だ。教育関係に取り組んでいる(大学で教えている)。若い人に役立つことをやっている(NPOなど)。若い頃の自分を呼び戻している(楽器演奏)。、、。そして現役であることがすべてに勝る。

以上がこの本の結論だが、参考文献に以前読んだ城山三郎『部長の大晩年』と内舘牧子『終わった人』が挙げられていた。以下、読書記録から。

『部長の大晩年』。 三菱製紙高砂工場のナンバー3の部長で終えた永田耕衣(1900-97年)は若い時から俳人であった。55歳で定年を迎え、毎日が日曜日の40年以上に及ぶ「晩年」の時間を俳句や書にたっぷりと注ぎ、そして97歳で大往生する。城山三郎の傑作「毎日が日曜日」を豊かに生きた人物の伝記小説だ。以下、常の生活ぶりを記す。句作とエッセイや評論の執筆。主宰する俳句誌の編集。東西の哲学、宗教、文学の読書。書画の制作と収集。骨董と古物の収集と観賞。謡曲と、能の観賞。美術展、美術館めぐり。「大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダを排除し、秀れた人物に接し、秀れた書を読み、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない」。

内舘牧子『終わった人』は、最後のどんでん返しが印象的である。89歳のお袋が団塊世代の息子に「66か、良塩梅な年頃だな。これからなってもできるべよ」と言う。「終わった人」どころか、「明日がある人」だったのだ。

 

「名言との対話」9月25日。田中光顕「死すべき時に死し、生べき時に生くるは、英雄豪傑のなすところである」

田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日天保14年閏9月25日) - 1939年昭和14年)3月28日)は、日本武士土佐藩家老深尾氏家臣、官僚政治家栄典従一位勲一等伯爵

口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(新版が大和書房のち河出文庫)では幕末には長州の高杉晋作、その後は土佐の中岡慎太郎、維新後は長州系の傍役として数々の要職についたと書き「いわば典型的な二流志士」であると自認し、それゆえに西郷、木戸、大久保、坂本など一流の志士とはべつな視点を持ったとしている。

天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
土佐藩武市半平太尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに動いた。
田中は1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町の別荘で没した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(新版が大和書房のち河出文庫)がある。85歳の光顕は「幸いにして生きながらえている私どもの事業としては、国家の犠牲となって倒れたこれら殉難志士の流風余韻を顕揚することにつとめねば相成らぬと深く考えている」と書いて終わっている。
昭和43年(1968年)の日付で孫によれば、田中は志士たちの遺墨、遺品、写真などを収集し、各命日にはその遺墨を出して香をたき、冥福を祈っている。それらが散逸しないように、高知の佐川文庫、大洗の常陽明治記念館、東京都北多摩郡桜ヶ丘の多摩聖蹟記念館に寄贈したのである。多摩の聖蹟記念館のある公園の入り口から少しのところに、明治天皇御製の碑があった。「正二位勲一等伯爵 田中光顕 謹書」とある。

生きるときに生き、死すべきときに死す、それが英雄豪傑の証明だ。そういう述懐をする田中光顕は、自身を二流の人物だと考えていたが、生涯を追うとやはり見事な人生だったと感じる。維新前夜から昭和まで、96歳まで生き延びた田中は、「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている」と語ったように、その気力と体力を使って英雄豪傑たちの顕彰に晩年を捧げたのだ。こういう人生もある。