「諸文明における宗教の層序学」

梅棹忠夫著作集」の以前つくった荒メモ図解を、再度本文と見比べながら仕上げていく。数枚の図が描けた。最後は「諸文明における宗教の層序学」に取り組んだが、これは簡単ではない。明日には、完成させたい。

 近所のヨガ教室で1時間。今日は8人だった。私以外は全員が若いお母さんだ。

「名言との対話」2月18日。和田夏十 「亭主は事業の一部にしか係わりのない仕事をしているにすぎないけれど、主婦は全体を取り仕切るから、これはもう事業である」

和田 夏十(わだ なっと、1920年大正9年)9月13日 - 1983年昭和58年)2月18日)は、兵庫県姫路市出身の脚本家

映画監督・市川崑の妻。本名は市川 由美子(いちかわ ゆみこ)。「和田夏十」(わだなっと)というペンネームは、東宝撮影所時代に共同執筆するために考案したペンネームだ。「和田」は茂木がNHK和田信賢アナウンサーのファンであることから、「ナット」はイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことに由来している。しだいに妻専用の名前になっていった。

2018年に渋谷の市川崑記念室を訪問した時、市川崑の足跡には、妻の和田夏十が欠かせない人だったことがわかった。東京女子大英語専攻部を卒業し東宝撮影所に通訳としてつとめていた和田は、脚本の校正を頼まれたがきっかけで結婚した。結婚して市川崑が発見したのは、妻のシナリオ書きの能力だった。

・あの人はシナリオでも何でも書くのが早いんですよ。ほんとうに神業みたいに早いんです。

・ここのセリフをちょっと変えたいなと夏十さんに言ったら、サラサラっと書いてくれた。1行か2行のセリフでしたが、僕は神の啓示であったのかといまでも思うほど、素晴らしいセリフだったんですよ。この人はこんなのを書けるんだと思った。

ビルマの竪琴」でシナリオ賞。「炎上」でシナリオ賞、キネマ旬報脚本賞。「野火」でシナリオ賞。「破戒」で毎日映画コンクール脚本賞。「私は二歳」でシナリオ賞。「太平洋ひとりぼっち」でシナリオ賞。「私は不器用でもありますので、一作毎に全力をこめて書くということしか今のところできないのです」とも言っているが、以上の受賞歴からわかるように優れた脚本家だった。

市川崑の映画作作品が称賛されると、市川は「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。また市川は「僕が日本映画に誇れるとしたら、和田夏十という素晴らしいシナリオライターを世に出したこということじゃないか。ほんとうに、そう思っています」と語っている。オシドリ夫婦だった。こういう夫婦もあるもあるのか。

和田夏十は亡くなる5年前に、自分の一生を第一章はケオス(混沌)、第二章の前半は亭主とシナリオ、後半は病気と亭主、そして第三章は透明としている。そして一生を振りかえって、自分の腹に落ちるのは「酔生夢死」という言葉だといいう。酒に酔ったような、夢を見ているような心地で死んでいくという意味だ。

記念室では、和田夏十の主婦をこなしながら脚本を書くすさまじい姿が印象に残っている。自分用の書斎はない。食堂、応接、台所などどこででも仕事をしている。『和田夏十の本』で編集をした谷川俊太郎は霊前に捧げた「魂の戦場」という詩の中で、「、、なじんだ椅子にまっすぐに座り 愛する者にも鋭い批評を忘れなかったひと ひんやりと小暗い台所に立って 日々を倦きずに満たした人、、」と描いている。

44歳で乳がんをは発症。18年間の闘病生活を送る。この間も「東京オリンピックなどの作品も手がけている。62歳で逝去。

「亭主は事業の一部にしか係わりのない仕事をしているにすぎないけれど、主婦は全体を取り仕切るから、これはもう事業である」と和田は語る。主婦という事業にとって亭主もシナリオ書きも一部に過ぎない。自分は家庭全体をマネジメントいるという考えだった。だから、ジェネラルマネジャーとして脚本家、母、妻という役割をこなしていけたのだろう。

 

和田夏十の本