「うるう年」の2月29日が誕生日の人ーーー兼高かおる「旅は女性を美しくする」

6年目に入った「名言との対話」(「大正から昭和へ」誕生日編)ですが、うるう年もあり、2月29日は人選が難しく毎年苦労しています。単純に計算しても人物は4分の一になるからです。

命日:法然石川淳。岩崎福三。鏡里喜代治。

誕生日:岸本水府。マキノ雅弘羽仁未央ロッシーニ。

今日は兼高かおるを取り上げることにしました。

「名言との対話」2月29日。兼高かおる「旅は女性を美しくする」

 兼高 かおる(かねたか かおる 1928年2月29日 - 2019年1月5日)は、日本ジャーナリスト。

兵庫県神戸市生まれ。父親はインド人。香蘭女学校を卒業後渡米し、ロサンゼルス市立大学に留学。帰国後、英字新聞の記者として活躍する。1958年に世界一周の早周り世界記録を達成したことがきっかけとなり、1959年12月13日から1990年9月30日まで30年10か月続いた『兼高かおる世界の旅』(TBS系)でナレーター、ディレクター兼プロデューサーをつとめた。

海外旅行がまだ珍しかった時代から、テレビを通じて海外旅行の魅力を伝え続けた。ロケでは企画、交渉から演出までを一手に手がけ、帰国後は編集からナレーションまで一人何役もこなした。

番組を通じて日本人の目を海外へ開かせただけでなく、新時代の「働く女性」のシンボルとしても注目を集めた。毎週日曜日の朝に放映されたこの番組を私もよくみたが、世界の多様さを感じることになった。そして勇気ある美人女性が「わたくし」「、、、ですのよ」など上品な語り口で語るスタイルにも興味を持ち、すごい女性がいるものだと感心していた。
今回、『兼高かおる わたくしが旅から学んだこと』(小学館文庫)を読んだ。

最初は自分を育てるために学ぶ、次は社会に尽くすこととし、31歳以降は世界のために人生を費やした。62歳からは自分のために自由に使う。人生3分割主義である。

番組を始めたころは、国連加盟国は90ヵ国であった。30年間で地球を180周まわる距離を移動し、取材した国は150ヵ国を数えた。世界の旅を始めた1919年頃は地球の人口は30億人、2013年は70億人を超えている。

人には誰しも一生に1度、大きな運がある。運のいい人はそれを逃さずに良い波が来たときに上手に乗る。アメリカ留学が第一の運であり、第二の運は「世界の旅」のオファーだった。どちらも飛び乗っている。番組をやめる時も、本人は休止のつもりだったが、自分の失言もまた運命だと思ってしたがっている。

1年の半分は海外取材という生活だったこの人の武器は、英語と笑顔だ。ゴム草履、ウィンドブレーカー、世界史の本、英語とフランス語の辞書、スケジュール表、地図、ゴムベルトにはさんだ取材ノート、懐中電灯、手袋、ポケットが多いバッグ。これらが旅の必需品だった。「世界の旅の仕事をしているときは、毎年衣装を変えていました。人を見る目が違ってきます」とも語っている。

第3の人生の「世界の旅」が終わってからは日本中を旅し、日本は地球上で数少ない恵まれた国だと改めて感じると書いている。そして1986年から2005年まで「横浜人形の家」館長を務めた。また淡路ワールドパークの「兼高かおる旅の資料館」の名誉会長をつとめたが、2020年2月28日にこの資料館は役割を終えて閉館している

 外務大臣表彰、菊池寛賞文化庁芸術選奨国土交通大臣特別表彰等を受賞しており、1980年には紫綬褒章を受章している。

「いばらの道を行くもよし。行かずに済めばもっとよし」(魯迅)を信奉した体験主義だった兼高かおるは、「旅は女性を美しくする」という。旅に出て自分を再発見して新しい女性に生まれ変わることができる。だから女性よ、旅をしようというメッセージだった。 旅と結婚した90年の生涯だった。

 

わたくしが旅から学んだこと (小学館文庫)

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・「全集」第2巻に見本が職場に50部到着。クラウドファンディングで支援いただいた方々に送付することにする。

・ 今週から来週にかけてのスケジュールの仕込み。野田先生。寺島先生。ゼミ生だった永野君。

・3年生の佐保君から就職活動の様子を聞く。

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「名言との対話」3月1日。原田泰夫「「自在流」(内藤國雄)、「さわやか流」(米長邦雄)、「自然流」(中原誠)、「光速流」(谷川浩司)」

原田 泰夫(はらだ やすお、1923年3月1日 - 2004年7月11日)は、将棋棋士

10歳のころ、13世名人関根金次郎の立派な指導対局姿に心を打たれ棋士を志す。14歳で当時異色だった初の大卒棋士加藤治郎五段(その後名誉九段)に入門。26歳でA級八段に昇りつめた。A級在位は通算10期。優勝3回。38歳から6期にわたり日本将棋連盟会長を務め、1961年の旧将棋会館の建設に尽力している。その後も、請われて2度副会長をつとめている。

玉損の攻め」といわれるほど攻撃的な棋風で知られ、おだやかな人柄と全く相違しているため驚かれた。「三手の読み」(こうやる、こう来る、そこでこう指す)で知られる解説第一人者としても知られた。

1965年にB級2組に陥落。B級1組を経て、1971年には、14期ぶりに48歳でA級に復帰して、石川達三の同名小説に準え「四十八歳の抵抗」といわれ話題になった。

愛棋家として知られた医事評論家の石垣純二は、原田を一番の贔屓としていた。その理由は以下の四つにあったという。「一つ。自分の利益より、他人や集団の利益を考える数少ない人。同郷の田中角栄に欠けている、長の長たるべき男性。二つ。相手のイス(地位)に絶対負けることがない。たとえ相手がだれであっても、相手を認めて堂々と話す。三つ。他人のいい所をみてよくほめる。若い人を育てるためにしており大きなものにしっぽを振ってはいない。四つ。男一匹、生きていくんだという気概にみちている。腕一本で生きてきた自信と努力が達意の文を書かせ、味のある講演をさせる。温かい、心の広さがある」。

著書に『よくわかる将棋』(東京書店)、『名棋士81傑ちょっといい話』(講談社)など多数がある。1996年の師匠の加藤治郎の死去後、将棋ペンクラブ名誉会長を引き継いだ。俳人書家でもあり、泰風と号した。

将棋の普及活動に熱心だった原田泰夫は、将棋に関する格言も多く作っており、今日知られる格言の多くは原田によるものである。「桂の高跳び歩の餌食」、「三桂あって詰まぬことなし」、「歩のない将棋は負け将棋」など、将棋においての戒めや教訓の意味合いを短くまとめた格言を多く創作している。

いまなお人口に膾炙している 「自在流」(内藤國雄)、「さわやか流」(米長邦雄)、「自然流」(中原誠)、「光速流」(谷川浩司)などトップ棋士たちの棋風の名付け親でもある。将棋の本質や、棋士の特徴をつかむ能力に秀でていた原田九段は素人の上達に力を貸す名解説や格言の創作などを通じて、将棋の普及に大きな貢献をした人である。