東京富士美術館『旅路の風景 北斎、広重、吉田博、川瀬巴水』展。
- 「俺が70になる前に描いたものなんぞ、取るに足らねぇもんばかりだ。73を越えてようやく、禽獣虫魚の骨格、草木の出生がわかったような気がする。だから精々、長生きして、80を迎えたら益々画業が進み、90にして奥意を極める。ま、神妙に達するのは100歳あたりだろうな。百有十歳にでもなってみろ。筆で描いた一点一画がまさに生けるがごとくになるだろうよ」
- 江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。勝川春章に師事して役者絵、美人画、絵本、さし絵などを描き、さらに狩野派、土佐派、琳派や、中国風、洋風の画法を修める。人間や自然を厳しく探求し、構成的で力強く、動きのある筆法により、人物画や風景版画に独自の画境を達成。その影響はフランスの印象派にまで及んだ。代表作「北斎漫画」「富嶽三十六景」「千絵の海」など。宝暦一〇〜嘉永二年(一七六〇〜一八四九)。5月10日、寂す。
- 「この世は円と線でできている」「来た仕事は断るんじゃねえ」「たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る」
- 大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。広重は37歳年下で61歳で死去。北斎は90歳。
- 北斎が代表作「富嶽三十六景」に取り組み完成し大評判をとったのは、大病が癒えて後の70歳を過ぎてからだった。「毎日、獅子図を描くのを日課にしている。毎日、描く、これが大事なのだ」と北斎は語り実行した。一つの道に精進する人にとって、長寿には大きな意味があることがわかる。
歌川広重(1797年ーー1858年)は、北斎より37年後に生まれた。13歳で定火消同心の家督を継ぐが、15歳で歌川豊広に入門し、27歳で家督を譲り制作に専念する。大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。ゴッホ(1853--1890年)は、広重の晩年の作に強い影響を受けている。
代表作である「東海道五十三次之内」は、北斎の富嶽三十六景と比較されるが、広重は道中の臨場感を出すために人物を大胆に配し、観る人に旅の疑似体験をさせようとする意図が見てとれる。
オランダ・アムステルダムの国立ゴッホ美術館には500点近い浮世絵版画が所蔵されているが、1880年代のヨーロッパはジャポニズムが開花した時期だ。ゴッホの「花咲く梅ノ木」は、浮世絵そのものの模写に近い。「雨中の橋」は油絵で描いた浮世絵である。有名な「タンギー親父の肖像」は、よく観ると背景に花魁、役者絵、富士、桜などを配しているのは面白い。ゴッホは「私の仕事の全てはある意味で日本美術を基礎としている」とも語っているから、広重の西洋の遠近法である透視図法を充分に消化してすっきりとした整理された作風は、絵画の世界において後の世に与えた影響は非常に大きいことがわかる。
北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。
吉田博。「近代風景画の巨匠」。「帆船」シリーズ。
吉田 博(よしだ ひろし、1876年(明治9年)9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した
吉田博は「絵の鬼」「早描きの天才」「煙突掃除屋」「黒田清輝を殴った男」「反骨の男」などの異名がある。一種の快男児だ。
博本人もそうだが、義父嘉三郎」も晴野家から吉田家に養子に入っている。晴野家は豊前中津藩の藩主につながる御用絵師の家系である。
17歳で博は上京し小山正太郎の不同舎に入る。「絵の鬼」と呼ばれた。[「殆ど無限とも言うべき精力を以て、かつ働き且つ制作した」(小杉放菴)。
明治美術会では新派と呼ばれた洋行帰りの10歳年上の黒田清輝率いる白馬会が優勢となり、1896年に東京美術学校に西洋画が新設されて、黒田や久米が教授となり門下生が国費留学生となった。小山正太郎、浅井忠らが中心の旧派となった明治美術会は旧派と呼ばれてしまう。
博と中川八郎はその黒田一派に対する対抗心をたぎらせ、23歳でアメリカへわたる。デトロイト美術館での展覧会で成功する。絵が売れて日本の小学校教師の13年分の売り上げを博は得た。次に訪れたボストン美術館でも大成功し、売り上げはデトロイトの2倍となった。そして最終目的地であるヨーロッパに向かう。それからアメリカに戻り、ボストン、ワシントンでのも成功をおさめ、2年間の大冒険旅行を閉じた。帰国した博は、明治美術会を太平洋画会へとし、改革を進めた。
明治40年の東京府勧業博覧会の褒状返還騒動でリーダーとなった博は結婚し身を固め、第1回文展で受賞する。夏目漱石の「三四郎」に岡田と妻になったふじをの絵が登場する。森鴎外もこの文展会場で会い親しくなっている。文展での連続受賞が続き、第4回文展からは審査員になる。弱冠34歳であった。
自然に溶け込み、山紫明水の姿を借りて美の極致を示すことこそが芸術家の使命である、とする信念を持っていた博は専門家並みの用意周到さで登山をし、毎年夏には1-3カ月の間山にこもり絵を描いている。「味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められている」。1936年には日本山岳協会を結成し画壇の一勢力を構成している。
1923年の3度目の欧米旅行では、川瀬巴水や伊東深水らの木版画や程度の低い浮世絵が売れていたのに刺激を受け、49歳から木版画の世界に入る。絵師、彫師、摺師の分業システムを尊重するものの、絵師の創造性を最高位に置くという考えだった。その作品には「自摺」という刻印が入っている。20年間で250作品を完成させている。日本アルプス十二題、瀬戸内海集、富士拾景、東京拾二題、日本南アルプス集、などの連作が人気だった。
欧米以外にも博は出かけている。55歳ではインド、セイロン、ビルマ、マレーシア、シンガポール、香港、台湾。60歳では韓国・中国を旅し、作品を描いているが、生涯の夢である「世界百景」は果たせなかった。
博の木版画の特徴は3つある。大判とよばれる大作、平均30版以上という版の多さ(陽明門」は96度摺り、「亀井戸」は88度摺り)、「帆船」シリーズのような時間帯別の色替え摺り技法だ。「職人を使うには自分がそれ以上に技術を知っていなければならむ」という考えの博はすべて自分一人でできるまで研究している。ダイアナ妃の書斎、フロイトの書斎にも博の木版画が飾られている。
落合の吉田御殿と陰口をいわれる自宅の2階のアトリエは50畳あった。戦後は米軍将校ら関係者が多数訪ねている。1950年死去。享年73。絵の鬼、近代風景画の巨匠と呼ばれた硬骨漢・吉田博は、「冬の精神を描き込むなら、画家は寒さの中にいなければならない」というほど徹底した現場主義者だった。この人を今まで知らなかったことを恥じる。
川瀬巴水。「昭和の広重」。「東海道風景選集 日本橋(夜明け)」
川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年(明治16年)5月18日- 1957年(昭和32年)11月7日/ 11月27日)は、日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家。
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『ユージン・スミス』展が開催されていた。
ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。享年59。
ユージン・スミスは1918年、アメリカ・カンザス州⽣まれ。母からもらった14歳から写真を撮り始め、16歳で地元紙に写真が掲載される。18歳になった37年、プロの写真家を⽬指しニューヨークへ移り、『ニューズウィーク』誌のスタッフ、『ライフ』のカメラマンを経て、1943年、『フライング』誌の戦争特派員として太平洋に向かう。その後『ライフ』誌と契約し、サイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄などの戦場を撮影する。しだいにたたかいの渦中のおかれた人間を撮るようにある。沖縄では砲弾の破片をうけて負傷する。この負傷でユージンは生涯で32回の手術を受けることになる。戦いで名翻弄される人間を撮った写真によって、40年代から『ライフ』専属のの花形カメラマンとなっていく。「医学」「科学」「芸術」をテーマとしたフォト・エッセイと呼ばれる報道スタイルは高い評価を得ていく。1958年には「世界でもっとも偉大な十人の写真家」に選ばれた。
1961年には日立の仕事で日本に滞在。31歳年下のアイリーン・美緒子を妻としたユージンは1971年からは熊本県⽔俣市に移り住み、3年にわたり有機⽔銀による公害を取材する。後の「水俣病」である。「水俣でくりひろげられている、公害をめぐるドラマがおわるまでこの土地をはなれない」と決意する。1972年に東京駅近くのチッソ本社まえに坐り込む。それは1年8ヶ月にわたった。チッソ五井工場で暴行を受けて負傷する。1972年6月2日号の『ライフ』での「排水管からながされる死」、続いて「アサヒカメラ」10月号の水俣特集で写真を発表する。
帰国したユージンはアリゾナ大学で教鞭をとることになる。そして大学ではユージンの写真を保存する機関をもけてくれた。
第41回産経児童出版文化賞を受賞した『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』(佑学社)に加筆した偕成社の新装版を読みながら、ユージンというカメラマンの生涯を追う中で、東京のチッソ本社で座り込むシーンをみつけた。1972年から翌年にかけてのことである。私が1973年に就職した日本航空の本社はチッソが入っている同じビルだった。確かに最初に本社を訪ねた時から何度か、水俣病の患者側の人たちの抗議ともめている様子を覚えている。あの中にユージンがいた可能性がある。
若い頃、「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」と決意したユージンは、人間の生のユーモラスな面や悲劇的な面を、かっこうをつけずに現実的に撮ることをめざした。テレビ時代になって速報性で勝負できなくなった写真家たちは苦悩する。「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」(ユージン・スミス写真集1934-1975)というユージンは人間の素顔の表情をとるために、長い時間をかけて被写体と接することで、人間を描きだしたのだ。ユージンが亡くなったとき、世界中の50以上の新聞が死を報じているころからわかるように、写真という表現方法の革新者だったのだ。
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「名言との対話」5月30日。辰巳浜子「十数年以前から食品公害の予想を心配して、事ある毎によびかけつづけていたこと」
辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 1977年6月11日)は主婦、料理研究家。本名は辰巳ハマ。
東京都千代田区神田錦町生まれ。1924年結婚。料理は独学だった。食材の野菜は自ら畑を作って育てていた。一般の婦人や栄養士向けの料理講習会も行った。1959年9月 テレビ初出演。日本テレビで「お年寄りのためのもてなし料理」を実演する。1962年12月 NHK『きょうの料理』に出演する。以後、1971年までほぼ毎年数回出演。『娘につたえる私の味』婦人之友社(1969)があるが、長女の辰巳芳子も料理研究家、随筆家として一家をなしている。
1973年刊行の辰巳浜子『料理歳時記』(中央公論新社)を読む。
1962年から7年間、毎月『婦人公論』に書いた文章を、まとめて1973年に出版した。春夏秋冬の旬の食材を使った料理の方法を説明した本で、まさに「歳時記」と呼ぶにふさわしい内容である。その中で、ときおり自身の人生観がにじみ出てくる。
・私は戦争という一世一代の修練に相逢うて乏しさのなかから自然を見直し、家族の命を守ろうとして野草を食べる目が開きました
・三度三度の食事も「一期一会」と考え、ゆるがせにはできません
・女と生れ、庖丁を持ちはじめてから死ぬまで数十年の積み重ねの結果、なにか結論に到達するのが当然です。それを祖母、母から受け継ぎ、また自分の時代に更新させることこそ、女性としての生き甲斐であると思うのです
・食べものは命の養い、、命の養いに叶うことが第一に考えられなければなりません
・一方で、「〝まあ失礼ね〟といやがりなさるけれど、大根足といわれる時代がまこと人生の花、だれにも意識されない「たくわん足」になってしまってはミもフタもありません」「いも、たこ、 南京、芝居、こんにゃく、女性の大好物の代表」「桃栗三年、柿八年、梨の馬鹿野郎十六年、 柚子 の大馬鹿三十年」など時折ユーモアの味をつけている。
「春」の項だけでも、「金柑 杏 林檎」「蕗」「野草」「薺 芹 土筆」「韮」「筍」「昆布 天草」「蛤 浅蜊 赤外」「栄螺」「春の和えもの」「鱈子 真子」「明石鯛」などのタイトルに並ぶのは壮観だ。日本は食材の宝庫だと改めて感じ入った。
以下、知恵と工夫の言葉から。
「鍋は土鍋か瀬戸引き鍋」「胡麻和えは相手によって摺り加減の工夫」「にら粥は下痢の妙薬」「「あらめ、ひじきは油揚と煮合せる」「たたきごぼうも乙」「お惣菜にも四季の風情」「鱈ちり等になくてはならぬ果実酢」「刺身の醤油のなかに酢をしのばせる」、、、、、、、
「あとがき」では、「十数年以前から食品公害の予想を心配して、事ある毎によびかけつづけていたこと」がしだいに理解され、きびしく是非がとわれるようになったことをれしく感じていると記している。半世紀前の言葉であるが、料理の現場からの視点での「食品公害」についての警告は貴重で、説得力がある。