必要があって、初歩的なテーマだが、「です・ます」調の文章を、「だ・である」調の文体に変換したいので、ChatGPT4で試してみた。指示が甘く「せり・ぬ」調の文語体も出てきたが、最後はうまく転換してくれた。これで、変換が容易になった。以下、ChatGPTとのやりとり。
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私:以下の文章を「だ・である」中心の文語体に直してくれますか。(「文語体」という指示が間違っていた。「です・ます」も、「だ・である」も口語体。)
- 「日本航空に勤務していた30代の頃、オーストラリアへの新しい路線の開拓のため、当時広報部員だった私は、雑誌の編集者、ライター、カメラマン総勢20人ほどで2週間のプレスツアーを企画したことがあります。この時、ある実力派カメラマンの行動に強い印象を受けました。ヨットでは必ず一番高い場所に陣取っていますし、バス旅行では運転席に接近した席を確保してしました。 その理由を聞くと、一番見晴らしがいい所で仕事をするのだという答えであり、感心したことを思い出します。」
ChatGPT:文語体に変換しました。(指示とは違うが、文語体は独特の趣があり魅力がある。)
- 日本航空に勤務せん時、30代の頃、オーストラリアへの新しい路線の開拓のため、当時広報部員であった私は、雑誌の編集者、ライター、カメラマン総勢20人ほどで2週間のプレスツアーを企画せんことがありぬ。この時、ある実力派カメラマンの行動に強く印象を受けたり。ヨットでは必ず一番高い場所に陣取り、バス旅行では運転席に接近した席を確保せん。その理由を聞けば、一番見晴らしがいい所で仕事をするのだとの答えであり、感心したことを思い出すに至る。」
私:この変換は古すぎる文体です。語尾を「です」」「ます」から、「だ」「である」に変えたいのです。
CahatGPT:了解いたしました。指定いただいた「だ」「である」調の文体に文章を変換いたします。
- 「日本航空に勤務していた30代の頃、オーストラリアへの新しい路線の開拓のため、当時広報部員であった私は、雑誌の編集者、ライター、カメラマン総勢20人ほどで2週間のプレスツアーを企画したことがある。この時、ある実力派カメラマンの行動に強い印象を受けた。ヨットでは必ず一番高い場所に陣取っていたし、バス旅行では運転席に接近した席を確保していた。その理由を聞くと、一番見晴らしがいい所で仕事をするのだという答えであり、感心したことを思い出す。
私:素晴らしい!
ChatGPT:ありがとうございます!お褒めの言葉、大変嬉しく思います。これからも何かお手伝いできることがありましたら、どうぞお知らせください。お手伝いさせていただきます。
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「名言との対話」10月8日。下田歌子「社会風潮の清濁は、その源男子にあらずして女子にあり、、、まことに揺籃を揺るがすの手は、以て能く天下を動かすことを得べし」
下田 歌子(出生名:平尾 鉐(ひらお・せき)、1854年9月30日(安政元年8月9日) - 1936年(昭和11年)10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者・歌人。女子教育の先覚者。
幼い頃から学問に触れ、和歌や漢詩を詠んだ。1872年(明治4年)、18歳で江戸の儒学者・東条琴台に学ぶ。翌年1872年に宮内省に出仕した。皇后陛下に詩歌を献上したところ、その文才を認められ、歌子の名を賜った。
その後、女子教育の道に進み、実践女子学園、女子工芸学校を創設し、校長となるなど、明治・大正時代を代表する女子教育者となった。
和歌・俳句・漢詩・日本画に才能に優れ、容姿にも恵まれた歌子は「昭和の紫式部」と呼ばれたりした話題の多い女性だった。
「ときはなる 色も深めて ことくさに たちまさらなむ やまとひめ松」は、1908(明治41)年に財団法人帝国婦人協会実践女学校の理事に就任した歌子の歌である。節操を守り信念をもって毅然と生きてほしい。外国の女性にもまけないで、日本のおとめたちよ」と、教え子に呼びかけた。教育者らしい次の歌も詠んでいる。
くれたけの ふしどのうちに 学び得し 道を伝ヘむ 待てや教ヘ子
まよひなき 正しき道は 見ず聞かず 言わずむなしき 空にみちたり
2014年11月1日に正式にオープンした渋谷の実践女子大の120周年記念の新校舎に「向田邦子文庫」を訪問した。17階建の実践女子大の渋谷キャンパスの図書館の一部が「向田邦子文庫」になった。同じ1階には1899年にできた学園の創立者として下田歌子のレリーフが飾ってあった。学祖・下田歌子の号に由来する「香雪記念資料館」があったが、残念ながら閉まっていた。
「何によらず、臨機の方法を求むる場合に於て、倉皇事を執れば、必ず損失ありと知るべし」。「倉皇事(そうこうごと)」とは「慌てふためく様子」の意味である。泰然自若、心に迷いがない状態で、あわてることなく、冷静にさまざまの事にあたろうと下の人だ。
下田歌子は「社会風潮の清濁は、その源男子にあらずして女子にあり、、、まことに揺籃を揺るがすの手は、以て能く天下を動かすことを得べし」と語っている。その主旨は、揺りかごを動かす女性の手は、実は天下を動かす人物を育てている、社会風潮は、男子がつくっているように見えるが、本当は母親である女性の手に握られているのだ、ということなのだ。
私は今まで近代女子教育に功績のあった教育者も調べてきたが、皆同じような言葉を残している。
日本女子大を創設した広岡浅子(1849-1919)は「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」と語っている。広岡浅子の主張は、女性自らが主人公になることもいいが、家庭を持っても日本婦人は男子を日常的に感化し、無駄なことをやめさせ、社会のために働くように仕向けることである、との主張だった。
芸能界に多くの人材を(1859-1948)供給してきた堀越学園の堀越千代は、「日本が列強諸外国に劣らない国となるには、未来を担うこどもの教育が肝要であり、延いては、最初にこどもに教育する女性の教育が日本の近代化に不可欠であると判断し、女学校の立ち上げを決意した」。そして「国文、漢文の学びを通し心の素を養い、茶華道、礼法を修め、心身を整え、さらには数学、化学を学び、物事の合理的成り立ちを理解し、風評や情に流されない「思考力」を身につけ、そして女子の「自営の心」を養い、「品性を高めることが大事だ」と、同窓会報「論説講話」に書いている。
親鸞の教えの伝道者であった暁烏敏の歌「十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや」がある。自分にとっては自分の母が最高の母という賛歌だ。
偉人の父はともかく、母は総じて偉いという印象を私は持っている。子どもの将来は、父親よりも母親の愛情と言動にかかっている。そして妻となっては、男子を感化する。女子教育の重要性はここにあるのだ。
野口英世の母・シカ、田中角栄の母・フメ、遠藤周作の、。ヘレン・ケラーの母、井上ひさしの母・マス、、、。このような母たちが、偉人を育んだのである。