小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店)

今日は14時から「ジャニーズ」の記者会見があった。

ジャニー喜多川性的虐待疑惑とは、2023年に表面化した日本の大手芸能事務所ジャニーズ事務所」の創設者であるジャニー喜多川が、社長という立場と芸能界における絶大な権力を利用して、同事務所に所属するタレントを中心とした多数の男児未成年の男子に対する児童性的虐待を、50年以上に渡って常習的に行っていた問題のことである。」(wikipedia

2019年7月9日にジャニー喜多川が亡くなったとき、テレビが異常に盛り上がった。お別れの会では事務所の所属タレントら約150人が出席し、ジャニーズファン8万8千人集まった。国民葬の雰囲気だったのを不思議に思った。今思えば、芸能関係者の共通認識だったなかでの葬儀だったのだ。

2020年の「名言との対話」で、以下の文章を書いている。また、その後、1年程たったころに、小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店)を読んだ。著者はジャニーズ取材歴50年の人である。その内容も記す。この本には、ジャニーの性癖については降れていなかった。

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月9日。ジャニー喜多川「すべて順調にいったことは、一度もない」

ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、1931年(昭和6年)10月23日 - 2019年(令和元年)7月9日)は、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサー。

SMAP」や「嵐」など多くの男性アイドルグループを輩出した音楽プロデューサーでジャニーズ事務所社長。

 一年前の7月9日に亡くなったとき、テレビが異常に盛り上がった。お別れの会では事務所の所属タレントら約150人が出席し、ジャニーズファン8万8千人集まった。国民葬の雰囲気だったのを不思議に思ったが、小菅宏『異能の男』(徳間書店)を読んで、謎が解けた。

米ロサンゼルス出身。第2次世界大戦後、真言宗の導師をしてた父のもとで美空ひばりらが訪米した日本の歌手らの活動をサポートし、芸能界と関わりを深めた。1962年にジャニーズ事務所を設立し、あおい輝彦ら4人組のジャニーズ(元祖)をデビューさせ、以後50年以上にわたり、歌って踊れる男性アイドルというスタイルを確立した。フォーリーブス、少年隊、光GENJISMAPKinKi KidsTOKIO、嵐などの人気グループ、郷ひろみ田原俊彦近藤真彦ら人気歌手を次々と世に送り出した。彼らは俳優や司会者としてもテレビ番組で活躍し、熱狂的なファンを獲得した。2018年のNHK紅白には5組が出場している。ジャニーは歌を見せる時代をつくった人だ。

「デビューはできるだけ遅くする」は、時代の欲求を見透かし、準備が整った絶好のタイミングをはかって鮮烈なデビューをさせて成功に導いていくという基本戦略をあらわす言葉だ。作詞家の阿久悠が時代という得体のしれない怪物と対峙していたという感覚と同じである。

男性アイドルグループのネーミングが独特だ。ジャPAニーズ、光GENJI、忍者、SMAPTOKIO、V6、KinkiKids、関ジャニ∞、KAT-TUN、Hey!Sey!、JNMP、Kis-My=Ft2、Sexy Zone、A.B.CーZ、King&Prince、、、、。意味不明な感じがするが、それがまかりとおっているのは不思議な景色だ。

 以下、ジャーニーの言葉。「人間には優劣に関係なく、生まれ持った「ポジション」というのがあると思う」「まず現場に出て、そこで学べ」「本来の才能は三十代、四十代になって花開く。大事なのはそれまでのスピリット(持続力)をどうやて昇華させているのが分かれ道」「YOUたちはずっと生きた花でいなさい」「 可能性のあるなしに関係なく、夢を描くこと」「YOUがCANと思うならDOすればいいじゃない!」

「ボクは十一、二歳の写真を見て、その子の三十代、四十代が分かる」という慧眼を持っていたジャニーは「チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録の認定を受けている。芸能界でこれほどの成功をおさめた人はいないのではないか。そのジャニーにして「すべて順調にいったことは、一度もない」のだから、われわれの日常がトラブルの連続なのは当たり前だ。

ーーー

その後、1年程たったころに、小菅宏『異能の男 ジャニー喜多川』(徳間書店)を読んだ。著者はジャニーズ取材歴50年の人。ジャーニー喜多川という人物の言葉だけを追ってみよう。

  • この国の芸能界はアメリカのショービジネスより30年遅れている。その「隙間」にビッグチャンスが眠っているのに誰も気づいていない
  • グループだったらその3倍、4倍の熱狂が生まれる。
  • 人間は失敗で学んだことのほうが忘れないもの
  • ボクは誰でもスターにしてみせる自信がある。でも、いくら才能を感じてもボクが好きにならない子に興味はない。
  • 笑顔は人間のキャラクターが全部詰まって表情に出るもの。
  • デビューしたら勝負の大半は付いたのと同じ。、、個人の能力とチームの個性を最大限に磨き膨らませる戦略が効果的なわけよ。
  • ブームというのは必ず消える。だからウチは舞台を欠かさなかった。大事なことはブームの後をどう狙うかよ。
  • 新しいアクションをするからこそ、やる気は湧くもの。
  • それぞれのチームに輝く「時代を映すカラー」が必要。
  • 人気は風のように移り変わるもの。風は吹きながら移動するとボクは知るから。
  • 今流行っているモノに合わせても、それが飽きられたら一緒に消えるもの。
  • YOUはできる。できないことななにもない。しないだけだ。

2011年には、ギネス・ワールド・レコーズから「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」と「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」に認定されている。

壮大な芸能絵巻を見せてくれたジャニー喜多川の人生観、仕事観は「YOUがCANと思うならDOすればいいじゃない!」という言葉に尽きる気がする。

 

ーーーーーーーーーーーー

近藤秘書と打ち合わせ:『戒語川柳』の編集。

電話:河野初江さんと本の校正について確認。松田君に同級生の松垣君のことを報告。

デメケンミーティング

力丸君と打ち合わせ。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月2日。矢部規矩治「サッカロマイセン・サケ(清酒酵母)」

矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日1868年11月4日) - 1936年昭和11年10月2日)は、日本の農学者醸造学)、大蔵技師清酒酵母の発見者。

群馬県前橋市出身。東京帝大農科大学で農芸化学を学び、大学院を卒業後は副手となる。

1894年、納豆から桿状菌1種と小球菌3種の分離に成功。

1895年、後に総長となった古在由直と共同で日本酒の醪(もろみ)から清酒酵母の分離に成功。

1896年委大蔵省に入省し、専売局と税関の鑑定官を兼務した。

1897年、清酒酵母の来源が稲藁であることを証明。

1904年、醸造試験所の初代事業課長に就任。

酒というものは数千年前からあったが、できあがる仕組みはわかっていなかった。17世紀のオランダで顕微鏡発明者のレーウェフックが微生物の存在を発見した。日本では1895年に矢部規矩治が清酒酵母(サッカロマイセン・サケ)を発見した。清酒酵母は麦藁などにいて麹にうつり、酵母から醪で増殖して発酵にいたる過程を証明した。1789年にはパスツールが発酵現象は微生物の働きによることを実証している。

日本の酒づくりは、「蔵付き酵母」「家付き酵母」と呼ばれた酵母に頼っていたことで品質が安定しなかった。醸造研究所の研究と、全国新酒鑑評会で高い評価を得た酵母を、日本醸造協会が純粋酵母として全国の酒造会社に頒布するシステムが整っていく。

古在由直、矢部規矩治ら醸造学者たちは。経験的・伝統的な醸造技術から脱皮し、科学的醸造技術の確立と普及に力を入れた。期間の短縮と腐敗の防止に効果があるとしたが、酒造家や杜氏は、学者の酒造法として敬遠していたが、やがて各地の税務監督官の指導に従うようになり、酒の質が高く安定することになった。1915年には(財)日本酒造協会を設立し理事、日本醸友会の初代会長に就任した。

日本酒は、吟醸酒ブームにも触発され、純米酒、低アルコール酒など、さまざまの酵母による多様化、個性化が進んで今日にいたっている。

矢部は納豆の研究家でもあった。納豆は、煮る・蒸すなどして柔らかくした大豆納豆菌によって発酵させた発酵食品で、日本では古代から存在していた。その発酵の仕組みを発見し、その研究はやがて「大学納豆」と呼ばれるようになった。このあたりのことも奥が深いようだ。

醸造・発酵の解明に大きな功績のあり、東京都北区の旧国税庁醸造試験所の前に胸像が建立されている。1934年の群馬県の大水害にあたり、復旧事業を推進し、知事は「120万人県民が先生の遺徳を偲ぶこと切なるものがある」と除幕式で述べている。矢部は除幕式の直前に亡くなっている。

清酒と納豆という毎日お世話になっている飲料・食品は、この矢部規矩治博士のおかげであるとわかった。ありがたいことだ。