加藤 俊先生が(1930年(昭和5年)4月26日 ー2023年(令和5年)9月20日)が亡くなった。高名な社会学者だった。享年92。
加藤秀俊『整理学』をはじめとする名著や対談などはよく読んできたし、NPO知研でもお呼びして謦咳に接したこともある。
『加藤秀俊著作集 10 人物と人生』(中央公論社)を読んだときに抜き出した文章を記す。 加藤秀俊が語った「人物と人生」は、今日の時点でも納得感が高い。若いときにも読んだと思うが、本当には理解できなかったのだろう。人生の秋霜を経てきて、改めて読むとうなづくことが多い。
・「生きがい」ある人生とは、プライドをもって生きることができる、ということである。
・「ショート・ショート時代」、、時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。
・年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、だいじなことは、その蓄積をじぶんの力でつくるということである。自力でつみ上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、とわたしは思う。
・「責任ある仕事」とは、、、自由のある仕事、ということになる。そして自由度が大きければ大きいだけ、責任も大きくなる。
・もしも、未来社会がより「ゆたか」な社会で、すべての人間が、最低の文化的生活を保障されるようになるのだとすれば、少なからぬ数の人間が、職業生活から脱落して、のびやかに二十日ダイコンをつくるようになるだろう。(小松左京『そして誰もしなくなった』)。8万円の給料で働くよりは、5万円の社会保障をうけることを選ぶだろう。、、こうした生き方によってつくられる文化を仮に「若隠居」文化と呼ぶことにしよう。
・東洋の思想は「縁」という観念によてこの「偶然」を必然化した。
・道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。それは、ひとつの丘をこえてみて、はじめて、つぎの丘が見えてくるのに似ている。こうしようとおもってこうなるのではない。こうしてみようか、とおもってやってみると、やってきた結果として、次がみえてくるのである。
・世界は無数の断片のちらばりによってできあがっている、茫漠たるものだ。その断片のひとつに手をつけてみると、それが手がかりになってつぎの断片が見えてくる。そんなふうにして、いくつかの断片が見えない糸でつながり、関係づけられてゆく。、、このアミダくじ的世界観にもとづく作業の過程という以外のなにもんでもない。断片と断片を糸でつないでゆけば、ひょっとして、首飾りのようなものができるかもしれないが、、。
・毎日が選択肢の連続だ。こう、と決めたら、それでやってみよう、とわたしはいつもおもっている。そしてどうにかなるさ、と信じている。ほんとうに、どうにかなるものだ。
・将来、すこしづつ人間というっものをより深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている。
加藤秀俊には「通勤電車、奴隷船」説がある。満員電車が事故で30分以上動かない時、気分が悪い人や、失神する人がでる。古代ヨーロッパの奴隷船が目的地に着くまでに4人に1人は死んでいた。通勤電車で毎日もまれていた私は、怒りとともに、その説に共感した覚えがある。
1982年に『私の書斎活用術』(「講談社)という本をつくった時に取材している。約2年かけて、17人の著名人の書斎を訪ねた。そのときはそういう先生たちと1日何時間も一緒になれるし、それはもう楽しくてしかたがなかった。社会学者として知られる加藤秀俊は整理の達人で、インターネット上で「加藤秀俊データベース」を公開している人だけあって、当時から自分が今までやってきた仕事を全部ファイリングしていた。当時は52歳。「 事務所はルーティンワーク、書斎は知的生産の場」「常に一号機を買う」「1時間4枚、一日5時間が限度」「書斎は自分自身。自分の肉体と神と鉛筆さえあればよい」「司馬遼太郎と梅棹忠夫の文章を参考」「旅行中のできごとはテープに吹き込んで後で文章化」「一番優れた情報源は友人」、、。
「知的生産の技術」の先達として大いに刺激を受けた先生だ。あらゆることを試した人の結論は、自分の肉体と「紙と鉛筆」だったのには納得する。健筆を続けられることを祈る。 (以上は『私の書斎活用術』に私が書いた感想)
『加藤秀俊著作集』(全12巻、中央公論社, 1980-1981年)が編まれている。自分が描いた文章はすべて管理していたその結果がこれだろう。私たちが取材した1982年の時点ですでに完成していたのには今さらながら驚いた。1巻「探求の技法」2巻「人間関係」3巻「世相史」4巻「大衆文化論」5巻「時間と空間」6巻「世代と教育」7巻「生活研究」8巻「比較文化論」9巻「情報と文明」10巻「人物と人生」11巻「旅行と紀行」12巻「アメリカ研究」。
2021年にラジオ「ラジオアーカイブス」で加藤先生の肉声を聴いた。90歳で、妻との日々をつづった『九十歳のラブレター』という本の紹介だった。65年間の二人三脚。昭和から平成に至る“世相史”にもなっていて、加藤ブシを久しぶりに楽しんだ。
大阪万博のプロデューサーだった小松左京の述懐「大阪万博奮闘記」を読んだことがある。日本万国博覧会に尽力し、林雄二郎(51歳、梅棹忠夫(47歳)、川添登(41歳)加藤秀俊(37歳)、小松左京(36歳)らは1968年に日本未来学会を創設した。親しかった梅棹忠夫について加藤秀俊は「梅棹さんは先々まで見通して手を打つ人だった。洞察力があるといえば聞こえはいいが、要するにたいへんな「悪党」であった」と述べている。国立民族学博物館をつくることにつながる彼らの陰謀を重ねる様子が浮かんでくる。梅棹忠夫について、小松は眼光紙背に徹する人だったという。万博側との関係は「婚約はしないが交際はする」という名言を吐いたそうだ。この日本未来学会は今も存在七て、私は理事を引き受けている。
加藤先生と親しかった仙波純さんと先日会ったとき、「川喜田二郎と久恒啓一の違いについて述べるから聞いてくれ」と言われて聞いたそうだ。
加藤先生には、本の取材や、私が所属しているNPO法人知的生産の技術研究会でもお招きしたり、何度か会っている。
私の「蓋棺録」(ガイカンロク)の第1号となった。棺桶の蓋を閉めるという意味の言葉だ。似たような言葉に、墓碑銘、エピタフ、追悼、弔辞などの言い方もあるが、生涯を終えた直後という感じがあり、厳粛な気持ちになる。「蓋棺録」、この言葉を使うことにしたい。
ーーーーーーーーーーーー
本日。
- 雑誌原稿を2本書く。「図解コミュニケーション」への招待。「シェア書店棚主」体験記。
- 涼しくなったので、1万歩近く歩いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」10月6日。尾崎行雄「人生の本舞台は常に将来にあり」
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日(安政511月20日)- 1954年(昭和 29年)10月6日)は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。
尾崎行雄(1858年ー1954年)は3つほど年上の犬養毅(1855年ー1932年)とともに憲政の神様と称せられている。慶應で学び、福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆を20歳で務めているから才気があったのだろう。大隈重信から気に入られて39歳に時に文部大臣、55歳の時に法務大臣。10年間の東京市長時代は、市街地の改正・整備、水道拡張事業、下水道の改善、道路の改善・街路樹の整備、多摩川の水源の調査を行い、山梨県一之瀬の山奥の広大な三輪を、多摩川水源として買収し「給水百年の計」を樹立した。52歳の時に、アメリカ大統領タフト夫人との関係でワシントンに桜を贈る。一度目は害虫にやられたため、3000本を贈り、それが現在ワシントンのポトマック河畔を彩る桜に育っている。この桜を見るために1950年、91歳で訪米を果たし、育った桜を見る機会を得た。
2006年に神奈川県相模原市津久井町の尾崎咢堂記念館を訪問した。「憲政の神様」尾崎行雄が生まれた地である。
尾崎行雄は3つほど年上の犬養毅(1855年ー1932年)とともに憲政の神様と称せられている。慶應で学び、福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆を20歳で務めているから才気があったのだろう。大隈重信から気に入られて39歳に時に文部大臣、55歳の時に法務大臣をつとめている。
「満州国建国は国家の利益にならない」など信念を発表する気概があり、この気概が尾崎を尾崎たらしめているとの印象を持った。西尾末広代議士の議会発言による除名に対して「黙しなば 安からましを 道のため 勇気を援け 危うきを践(ふ)む」と歌を詠んでいる。
94歳で書いた『わが遺書』という復刻版の書物を購入して前書きを読んでみると、その気概に心を打たれる思いがする。太平洋戦争を「おどろきべき無謀、公算なき戦争」と評価し、「こんどこそ方向を誤ってはならない」と考え、後世に残そうと考えた言葉集となっている。「みすみす日本の陥る淵が眼前に渦をまいておるにもかかわらず、それが見えなかったのである」とも述べている。この本は、第一部:世界と日本、第二部:日本改造の方途、第三部:命に代えて、という構成だ。
尾崎行雄は号を何度か変えている。学堂を、東京退去を命じら愕然としたため愕堂に改め、50歳ではりっしんべんを取り、そして90歳を機に卆翁と名乗る。「人生の本舞台は常に将来にあり」と言った。
東京市長をつとめた尾崎は、52歳の時に、アメリカ大統領タフト夫人との関係でワシントンに桜を贈る。一度目は害虫にやられたため、3000本を贈り、それが現在ワシントンのポトマック河畔を彩る桜に育っている。この桜を見るために1950年、91歳で訪米を果たし、育った桜を見る機会を得た。1957年にはアメリカからお返しのアメリカ・ハナミズキが贈られこの憲政記念館で4月下旬から5月上旬にかけて、美しく咲くという。
この東京市長時代は45歳から54歳のほぼ10年間続いている。国会議員と兼ねていた。その業績をあげてみる。
- 市街地の改正・整備
- 水道拡張事業
- 下水道の改善
- 道路の改善・街路樹の整備
- 多摩川の水源の調査を行い、山梨県一之瀬の山奥の広大な三輪を、多摩川水源として買収し「給水百年の計」を樹立した尾崎行雄水源踏査記念碑が建てられている。
尾崎は慶應義塾で福澤諭吉に1年半ほど学んだが、後年第一回総選挙で当選を果たしたとき、福沢に挨拶に行ったところ、福沢は「道楽の発端有志と称す 馬鹿の骨頂議員となる 租先伝来の田を 売り尽くして 勝ち得たり 一年八百円」という詩を贈った。議員手当は年八百円だった。福沢は尾崎の政界進出をあまり、喜ばなかったようだ。その詩を読んで苦笑する尾崎の顔が浮かんでくるようだ。尾崎は福沢を「維新前後に生まれた最大の人物」ととらえていた。
「へだたればいよいよ高く覚ゆなり すぐれたる人すぐれたる山」という歌も詠んでいる。尾崎は歌人でもあり、折にふれて感慨を詠んで膨大な数の歌を残している。歌を読むという日本の文化と習慣の素晴らしさを改めて思った。
尾崎は20歳の時、長崎の人である繁と結婚し26年間連れ添ったが亡くし、47歳でテオドラという婦人と再婚している。テオドラ夫人は、尾崎三郎という日本人と英国人婦人との間に生まれた。この結婚は尾崎という同姓のため郵便物が間違って配送されたことがきっかけとなった。この記念館では尾崎と家族との写真とともに、家族のことを詠んだ歌も多く展示されている。家族を大事にした人である。家族写真の中に、パイロットとなった尾崎行輝という四男坊がいた。その息子は日航のパイロットだったと案内の人から聞いた。そういえば尾崎という名前の立派なパイロットが日航におり、役員にまでなったことを思い出した。尾崎キャプテンはもしかしたら尾崎行雄の孫ではないだろうか。
この記念館には、様々な人が訪れるという。美智子さんも来られたし、SPに護られた小沢一郎も憲政の神様・尾崎行雄の足跡を偲んだ。その時の様子も聞いた。
尾崎は眼光炯々として、白い髯をはやした好男子であり、姿勢がよかったから、157センチながら立派にみえる。
「義は是重し」(卆翁)という尾崎が書いた額がかかっていた。議員生活60余年の間、一貫してあるべき姿を主張し、歴史に残る名演説を数多く行った尾崎行雄らしい言葉だと感銘を受けた。
1890年の第一回総選挙での31歳での当選以来、1952年の第25回総選挙(94歳)までの60数年間の議員生活、当選25回という記録は誰にも破られないだろう。95歳で初めて落選した時、衆議院は名誉議員という称号を贈ってその偉業をたたたえている。大隈内閣の閣僚として対シナ21カ条の要求に賛成したことを生涯の大失敗であったと反省した尾崎は、「今後はいかなる内閣にも入閣しない旨」を公表し、その後の機会をすべて拒絶している。その姿はすがすがしい。
帰りに書店で手に入れた大塚喜一著「咢堂 尾崎行雄ものがたり」(つくい書房)を読み終わったが、闘志溢れる姿がそこに書かれていた。
- 何ごとであろうとも、己の力をもって国家の必要の仕事をなし遂げるという決心があり、かつ力量がなければなたぬ、(伊藤博文内閣弾劾)
- 彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか。(桂太郎内閣弾劾演説)
- 国防の最大要務は敵をつくらないのにあることを忘れてはならぬ
- 世界すべての国家をして正義の国際裁判所を採用すること、及び狭隘なる国家主義の教育制度を変更することにより、道徳を基礎として立つようにさせたならば、、、
- 憲政の常道というのは、正しき政党のあるときにおいての常道であって、今日のような悪いことをする政党に政権を渡すのは、憲政の常道であありようはずがない
- われわれの私有財産は天皇陛下といえども法律によらずには一指も触れさせたまう能わざるものであり、これが帝国憲法の精神である(丸山真男が関係した演説)
決死の覚悟で臨んだ1937年の軍部攻撃の舌鋒もすごい。79歳だった。そのとき懐にしていた辞世の歌。「正成が陣に臨める心もて 我は立つなり演壇の上」
95歳まで政治の最前線の現役で仕事をした尾崎行雄。まさに憲政の神様というにふさわしい人生であった。
尾崎行雄の事績と言動は、今の世の中にも通じる知恵が込められている。この記念館は、2011年秋にリニュアルされている。さらに多くの資料を集め、多くの人が訪れる記念館になっているのだろう。
冒頭の言葉「人生の本舞台は常に将来にあり」は、常に将来に備え続けたその尾崎の気概を示すものと受け止めたい。私もこの気概を持って進みたい。