恵比寿ガーデンプレイス:東京写真美術館「宮崎学」。エビスビール記念館「馬越恭平、漱石、百閒、渋沢栄一」。

午後の後半は、恵比寿ガーデン。

まず、東京写真美術館「宮崎学 イマドキの野生生物」展をみました。

「自然界の報道写真家」を自称する宮崎学の写真展。自らが開発した「無人カメラ」がとらえた動物の生態写真は見ごたえがあります。

ショップで『森野探偵』(AKISHOBO)を購入し、読み始めた。インタビューと写真がある本。少し読んだが、まったく新しい世界が広がっていると感じた。じっくり読んで報告する予定。

 

次は恵比寿ガーデンにあるエビスビール記念館を訪問。企業ミュージアム探訪を再開です。

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2021年3月に東京都写真美術館白川義員写真展「永遠の日本」を見たとき、訪問したが、コロナ禍で閉まっていました。今回はリベンジ。

企業ミュージアムはやはり建物や施設が立派で整備されている。個人を顕彰した人物記念館とはそこが違います。

札幌麦酒、エビスビールの日本麦酒アサヒビールの大阪麦酒が合同した大日本麦酒の初代社長となった「東洋のビール王」馬越恭平。夏目漱石が書いた「二百十日 野分」の一節。内田百閒のビール好きのエピソード。札幌麦酒の設立発起人と大日本麦酒の取締役をつとめた渋沢栄一

見学したあとは、エビスビールを飲めるサービスがあります。こういうところも企業ミュージアムのいいところです。

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昼は橘川さんを囲む深呼吸学部の面々と食事。その後、橘川さんの事務所での本の整理を手伝いました。伝説の本、奇書なども多く、楽しめました。

『名人奇人』(本山荻舟)。『島尾敏雄宇作品集1』(晶文社)。林雄二郎『20年後の豊かな日本への一つのビジョン』。以上を手に入れました。」

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「名言との対話」10月28日。東富士欽壹「命に関わっても文句は言わぬ」

東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。

東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。

幕下時代は双葉山に猛稽古をつけられ可愛がられた。前頭筆頭のとき横綱双葉山の露払いをつとめた。新関脇で初めて対戦した双葉山に勝ち恩返しがなる。双葉山はこの一番で引退している。

最古参の横綱となり力士会の会長に就任した東富士は、「キン坊」と呼ばれたかつての双葉山時津風理事長にだけは弱かったそうだ。

引退後、錦戸を襲名したが一門の派閥争いに巻き込まれる。時津風理事長も解決に奔走したが、廃業する結果になり、引退相撲も叶わなかった。

1951年には急性肺炎による高熱が続き、「こんな病身で相撲なんかとって死んでも知らぬ」と医師がとめたときに、東富士は「命に関わっても文句は言わぬ」との誓約書を書いた。その日の取り組みでは物言いのとり直し、水入り後の勝敗にまた物言いとなった。協議の結果勝負預かりとなった。気迫、気合の力士だった。

最晩年は4横綱時代だったが、大関栃錦が連続優勝すれば前例のない5横綱時代となり、栃錦の昇進が見送られることを避けるため、14日目に自ら引退を申し出ている。いずれも「江戸っ子横綱」といわれて、人気があったこともよくわかるエピソードだ。

4度目の優勝時には、力道山のオープンカーで個人的に優勝パレードしている。その後、優勝パレードは相撲協会の公式行事になった。

廃業後は、力道山に誘われてプロレスラーになり活躍する。私はこのプロレスラー時代にはテレビでの戦いをみていたのでよく知っている。当時は横綱までつとめた力士だったことは知らなかった。その後、横綱からプロレスに転向したのは、輪島、双羽黒、曙がいる。その後、東富士はテレビの解説者や、事業も行っている。

東富士は他の人や自分自身についての「出処進退」にエピソードが多い人だったことがわかる。時津風理事長が人柄を惜しんだことにも納得する。

ところで、四股名である。富士ヶ根部屋では、伝統的に「富士」をつける。「冨士東」になる予定だったが期待が大きく、逆に富士の前に東がつく四股名となった。この伝統は、富士ヶ根部屋を吸収した高砂部屋にも継承されている。

富士がついた四股名について調べてみた。もともとは醜名と書く。「みにくい」という意味ではなく、「逞しい」という意味である。自然、郷里、母校、タニマチなどに由来する四股名が多い。例えば、山、川、海、花、風、嵐、、。この中でも日本一の富士山に因んだ「富士」の多さも目立つ。現在では横綱照ノ富士がいる。

横綱をはった力士の中で「富士」がついた人は、東富士、北の富士千代の富士旭富士日馬富士照ノ富士がいる。東富士が最初の富士がついた横綱だ。