阿部・多摩市長来訪ーー多摩(聖跡桜ケ丘・多摩センター・永山)の公共施設の見直しと将来像

阿部・多摩市長らが新年のご挨拶に見える。杉田学部長、小林学長室長、松本地域活性化マネジメントセンター長、水嶋教務課長と対応。

パルテノン多摩の改修計画。図書館本館(中央図書館)開設計画。日本医大多摩永山病院の建替、、。オリンピック・パラリンピック、、、。

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研究室

・2月の講演の資料準備。東京都と座間市

・『新・深・真 知的生産の技術』(知研編)の最終チェック。

・渡辺先生、加藤仁一さんと電話。

・「天皇」関係の書籍注文。

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「名言との対話」1月28日。坂崎一彦「坂崎大明神」

坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市出身のプロ野球選手。

名門浪速商業の4番打者として1955年春の選抜に出場。決勝戦で2度敬遠された後、第3打席でホームランを打ち、優勝。坂崎の成績は15打数9安打、打率.600、2本塁打、8敬遠。その打棒は新聞に「坂崎大明神」と書かれたほどだった。

巨人軍に入団。3年目の1958年にレギュラーに定着しオールスターゲームに出場する。1959年には打率.284(リーグ4位)、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。同年の天覧試合にも出場し、5回裏に長嶋茂雄に続く連続本塁打を放っている。1961年から1963年にかけては、巨人は3番・王、4番・長島、5番・坂崎のクリーンアナップだった。この頃の坂崎の活躍は覚えている。

坂崎は代打男でもあった。1963年は3割6分7厘、1964年は4割1分7厘、1965年には名投手・小山対策として水原監督から請われて移籍した東映では4割7分2厘という神がかり的な数字を残している。

1958年の日本シリーズで、西鉄の鉄腕・稲尾は5試合に先発し4完投で優勝し「神様、仏様、稲尾様」と崇められた。坂崎が呼ばれた大明神はもともとは神仏習合の仏教から神を呼ぶ名前である。豊臣秀吉は没後に朝廷から豊国大明神の神号をもらっているのと同様に世間は坂崎を神様扱いをした。坂崎は通算打率は2割5分前後と記録的には高くはないが、甲子園決勝、天覧試合、そしてチャンスの時の代打などで活躍した、記憶に残る選手だった。ここぞという時に、神の仕業としか思えないような活躍をみた人々は「坂崎大明神」と呼んだのだ。気力の人だったのだろう。

 

 

午後はサテライト入試。夜は「いだてん」、「古典芸能への招待」は能「卒塔婆小町」。

サテライト入試二日目。本部詰め。

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・20時からNHK大河ドラマ「いだてん」。役所浩司演ずる加納治五郎に私の母方の祖父は東京高等師範学校で学んだ。あの時代に生きた人だということでこの番組に親しみが湧く。

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・21時から23時まで。NHK教育「古典芸能への招待」。能「卒塔婆小町」を見てしまった。喜多流人間国宝友枝昭世の至芸に魅入った。平安時代恋多き女歌人小野小町が百歳の老女の姿で描かれる大曲だ。2018年11月に国立能楽堂で演じられた。ワキ、ワキツレ、シテ、鼓、、、。

高野山の僧が都へ向かう途中、道ばたの朽ちた卒塔婆に腰を下ろして休んでいる老女に出会う。僧は、仏体そのものである卒塔婆に腰を下ろすとは…と、ほかの場所で休むように話すが、老婆は僧の一言ひとことに反論し、仏も衆生も隔たりはない、と説き砕く。僧は老婆の説法を恐れ敬い、三度の礼をする。そして名を尋ねると、それは百歳になろうとしている小野小町であった。才色兼備で世の男性を魅了した小町も、今は破れ笠に乱れた白髪の憐れな物乞い。しばらく身の憐れを歎いていた小町だが、突然様子が変わり「小町の元に通おう」と叫ぶ。不審に思い僧が問うと、それは小町に憑いた深草四位少将の怨霊であった。昔小町を慕い九十九夜通い詰めながら、ついに思いを遂げずに死んだ少将の怨霊は、生前の百夜通いの様を繰り返すのだった。」

人生100年時代もからみ、問答の言葉の魅力に負けて、2時間見てしまった。

 

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「名言との対話」1月27日。室伏稔「1つの目標 2つの信念 3つの基本姿勢」

室伏 稔(むろふし みのる、1931年9月22日 - 2016年1月27日)は、日本実業家伊藤忠商事社長。日本政策投資銀行社長、日本貿易会会長を務めた。

日本経済新聞室伏稔の「私の履歴書」は、ビジネスマンが共感を覚えたようでよく読まれた。

大本営参謀で上司であった瀬島龍三から日常業務で指導されたのは、「報告書は必ず紙1枚にまとめる」「結論を先に示す」「要点は3点にまとめる」であった。どんな複雑なことでも要点は3つにまとめられる」が瀬島の口癖で、物事の本質を見極め整理する習慣を身につけさせてもらった。そして「用意周到、準備万端、先手必勝」という姿勢で徹底的に準備をしてから事を始める、相手に先んじることが必勝への道という教えを受けた。

「企業は建物でも、決算書でもない。人である。人と人がつくる社風こそ企業を支える無二の資産でありそれが企業を発展させたり、衰退させたりする」という考えの 室伏は社長就任時には、「各人は必ず、Agenda(課題)を持ってほしい。すなわち、自らに課題を与え、Nothing is impossible の精神でやり遂げてほしい」と語り、「1つの目標。2つの信念。3つの基本姿勢」を打ち出した。

1つの目標とは「国際総合企業の実現」。2つの信念とは、「Why not ?」「Noting is impossible」(なせばなる))「More Like CI」(より伊藤忠らしく)。3つの基本姿勢とは「グローバルな視野に立った経営」「総合力を発揮する経営」「やる気の出る経営」である。

室伏稔はトップに立った時に、「1つの目標 2つの信念 3つの基本姿勢」というわかりやすいメッセージを発して現場を鼓舞した。用意周到に考え抜ういた上で、要点を3つにまとめる、というビジネスの修羅場で学んだ姿勢を貫いたのであろう。

後任社長の 丹羽宇一郎の「清く、正しく、美しく」、そして小林栄三の「Challenje,Create,Commit」も奇しくも3つの言葉を並べたものだ。瀬島龍三の影響を受けた人々が織りなす、活性化した伊藤忠商事の社風の継続をみる思いがする。継続は勢力を形成していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 

 

 

 

 

インターゼミ(社会工学研究会)の打ち上げ懇親会。サテライト入試初日。

午後:サテライト入試初日。本部詰め。

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夕刻から:インターゼミの打ち上げ懇親会。

参画者:学生・院生・学部卒業生・院修了生369名(のべ)。教職員156名(実数35名)。インターゼミ卒業生・修了生総数75名。

本日の参加者: 学生・院生・卒業生・修了生 48名。うち、卒業生17名、教職員17名。

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学長:好奇心。課題解決力は結晶性知能。記憶力は流動性知能。、、。

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私の退任の挨拶。

多摩大11年「再建のステージ終了。潮時。退任する」。

インターゼミ10年「量・質とも今年が最高」。

10年「1万時間の法則。スペシャリスト、一流。3h・10年で1万時間。30歳で知研に入り40歳で出版。牧野富太郎は10年かけて78歳で日本植物図鑑。寺島学長の17世紀オランダ論は2010年からで2020年に完結。」。

26年かかったのは滝沢馬琴南総里見八犬伝。34年「本居宣長古事記伝徳富蘇峰の近世日本国民史100巻は89歳で完了(世界最大の著作とギネスに)」。継続は勢力なり。

多摩大の30年「躍進の10年、凋落の10年、再建の10年。飛躍の10年に向けての推進力はインターゼミ」。

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二次会は久保田先生率いるAI班とワインバーで歓談。

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「名言との対話」。1月26日。真藤恒「習って覚えて真似して捨てる」

 真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 - 2003年1月26日)は、日本の実業家

九州大学工学部造船学科卒。播磨造船に入社。戦後アメリカ系のNBC造船所で真藤船型を生む。石川島播磨誕生に際して土光社長に呼び戻され、後に社長。1981年電電公社総裁。1985年民営化にともない新生NTT社長、1988年会長。

真藤の人生は偶然の連続で構成されている。大学の学科選択も、教授の意向での播磨造船への入社も、そして結婚も。真藤は退職金を7回もらっているが、上司であった土光敏夫さんに「行け」と言われるままに仕事を引き受けた。その結果が、進藤のキャリアになった。

論語」は人間の自主性を認めていないから嫌いで『伝習録』を読むなど「知行合一」を説く陽明学に学び、「ドクター合理化」と呼ばれた希代の仕事師は、電電公社・NTTでは「シントーイズム」を浸透させた。真藤は実学の人である。

『習って覚えて真似して捨てる』と言う自伝を読むと、経験の裏づけのある魅力的な言葉が満載だ。以下、真藤語録。

・能力ある人は必ず引っ張りダコになる。人にも組織にもいえる。それが競争力である。

・ヘリコプターに乗れば尾根の道、つまり道筋はすぐわかる。

・仕事を楽しんでやれる境地になって初めて仕事師といえる。

・トップの発言内容を部下に伝えるときは、自分の立場で十分に消化し、自分が責任を持って組織を動かすという態度をとることだ。

・俺も一緒にやる。自分の代わりにやってもらう。

・人間はいつもリスクを賭け、それを乗り越えるところに楽しみがある。こわいのは肉体て老化ではなく頭の老化だ。

・経営とは現状を変えることであり、現状を守るのは経営ではない。

・自分の仕事は自分で作っていくしかない。

・メモリー機能よりデータ処理機能。他の事柄との関連を考えよ。

・現象より根元。

・足らざるところを学ぶという姿勢がいい。

・科学技術をベースにした生産技術が、人間社会を根本からゆさぶる。情報は上部構造であり、社会構造を根底からひっくり返す力はない。

真藤は最後はリクルート事件で非公開株1万株の譲渡を受け、1990年に有罪判決を受ける。一切弁明せず、公職や経営の一線から身を引いている。出処進退も潔い。真藤の例を引くまでもなく、キャリアを全うすることはなかなか難しいものである。

 真藤は「脚下照顧」という禅の言葉を意識していた。生活面では日々新たに取り組む。仕事面では自分で悪い点を改良していく。それは日々自己批判の連続で過ごすことである。「習って覚えて真似して捨てる」の「捨てる」とは、「習って覚えて真似して」仕事に真正面から取り組んでいると、結果的に習ったことを捨てていたという意味である。その連続がキャリアを磨くことである。この精神を学ぼう。

習って覚えて真似して捨てる

習って覚えて真似して捨てる

 

 

 

 

 

知研セミナー「ポッドキャスト」(代々木)。大学運営委員会(九段)。

知研東京セミナー。講師は「こえラボ」の岡田社長。テーマは「ポッドキャスト」。

・聴覚メディア(音声メディア)。ストック型Xフォローメディア。人柄、感情、ニュアンス。55万件の番組、500億の累積。利用者1000-2000万人。学習(教育・ビジネス)。2014年のスマホから上昇。グーグルホーム(OKグーグル)。音声検索。オンラインサロン(有料・FBグループ・コミュニティ・限定情報)。ホリエモンは1万円・1391人=月1500万・年1.8憶円。倍速。twitter、fbの拡散機能。

・テープのデジタル変換(カセットテープMP3変換プレーヤー3480円・一本800円)。文字の読み上げソフト。グーグルホーム

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 大学運営委員会。

「転職サポート」「偏差値教育を超えて」「結晶性知能」「3層の知の再武装(18歳・40代・60代)」「大学院」「総合戦略」。、、

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「名言との対話」1月25日。藤村俊二「この世でいちばん愉快なことは、何かを持っていることではなく、何かを経験できる瞬間です」

藤村 俊二(ふじむら しゅんじ、1934年12月8日 - 2017年1月25日)は、日本俳優声優タレント振付師実業家

早稲田大学文学部演劇科を2年で中退。東宝芸能学校舞踊家第1期卒。日劇ダンシングチーム第12期生。公演後にイギリス滞在、その後パリでパントマイムを学ぶ。帰国後に振付師としてテレビ番組、コマーシャルに関わる。番組中にエキストラ出演を頼まれることも多く、画面に映るのが嫌でその場から「ひょい」と逃げていたところ、「おヒョイ」のあだ名がついた。そのうち表に出るようになって、個性派俳優として活躍した。とぼけたキャラクターと自虐とも取れるシュールな冗談を言うなど、飄々としたキャラクターで人気を集めていた。

ザ・ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)の振り付けとギャグアドバイザーを担当。北海盆歌の替え歌「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の振り付けも藤村の仕事だ。レナウン「イエイエ」のCFの振り付けも担当した。『ぶらり途中下車の旅』の独特のナレーションの声を覚えている人も多いだろう。

東京・南青山でバー「O'hyoi's」(オヒョイズ)を経営する。大人が集い、粋な会話がはずむようなワインバーだ。午後6時に開き、午前2時に閉店。品よく、されどカジュアルに、大人がお酒を楽しむ店。食べ物、お酒、インテリア、スタッフなど店全体のバランスが整っているから、「大人の店」と言われた。こういう店を開くという考えと実行には私もあこがれる。

以下、「オヒョイ語録」。

 ・人と比べると不幸が始まる。・自分は「運がいい」と思っていた。・「挑む」というのが性に合いません。・人付き合いをすればお金はかかけれど、「友達が財産になって残る」。身近なことをおもしろがるのが上手い。・「元気、勇気、陽気」の3つの「キ」。加えて「時間(とき)」の「キ」も悩みを解決してくれる。

長男は没後に「その瞬間を大事に生きていた人」と語ったのだが、本人は、流れに身をまかせてきて、不思議な縁や人とのつながりでやってきたと言っている。生活設計や将来設計は若いころからなかった。しかし人生設計がなかったが、困ったことはないそうだ。

「何かをしたいと思ったときが旬。だから、すぐやる」と言うように、計画性はなく、思ったとおりに動く人だった。「今」という「瞬間」に「経験」できることに熱中したい、何かやりたいと思ったときにやれる状態にしたいから、心と体のコンディションをうまく保つことには工夫をしていた。この人の『オヒョイのジジ通信』を読んで、心と体が楽になった気がする。

オヒョイのジジ通信

オヒョイのジジ通信

 

 

 

 

 

 

 

 

SRC(学生研究発表会)。大学院運営委員会。

  • SRC](学生研究発表会)。

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品川キャンパス:大学院運営委員会。

春季修了予定者最終試験部屋割り。事業計画。来年度時間割。博士課程・修士課程指導教員。学籍異動。来年度教授会・運営委員会日程。以上が審議事項。

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「名言との対話」1月24日。永田法順「人生はほどほど 日々健康、これに過ぎたるしあわせはなし」

永田 法順(1935年9月ー2010年1月24日)。琵琶法師。

2歳で失明。13歳、代々盲僧が住職を務める宮崎県延岡市天台宗浄満寺に入門し、盲目の琵琶法師・児玉定法に師事。1983年、浄満寺の15代目住職に就任。琵琶の弾き語りをしながら約1000件の檀家をまわり、五穀豊穣や無病息災を祈り、「最後の琵琶法師」と呼ばれた。

年に1回としても一日3-5軒まわらなけれならない計算になる。解き屋祓い地鎮祭、新築のお祓、川開きの前の水神さんのお祓い、そして檀家では家内安全、牛馬安全、交通安全、五穀豊穣、家族の無事息災、家運長久、進学祈願、を神仏に願う。墨染めの衣を着て琵琶を背負い白い杖を突いて檀家を回って歩く姿はこの地方の風物詩だった。各家では釈文と呼ばれる仏教説話をやさしく説いた物語を琵琶にのせて語る。琵琶の各部にはいろいろな菩薩や如来などが配されているのだそうだ。

多くの人の助けもあり、CD6枚、DVD1枚、解説付き写真集1冊のセット「日向の琵琶盲僧永田法順」を出している。「平成17年度文化庁芸術祭大賞(レコード部門)」を受賞した。

釈門『五郎王子の物語』の初段「王子の釈」を爪弾き語る永田法順を見て聴いた。力強くはあるが哀愁がある。延岡で聴いた人たちはありがたいという感謝の念に打たれたであろう。琵琶を街中で弾く盲目の僧が琵琶法師で、平安時代中期におこり、鎌倉時代に『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。

延岡市天台宗浄満寺では、映像の記憶も文字も知らない同士の師弟が15代にわたって伝承していく。法順の幅広い知識や情報は、ラジオからの耳学問だ。頓智がよく、心がよく気持ちがいい人格で、どこに行っても人に親しまれた。「最後にはなりたくない」と語っていたが、先代との約束のひとつである後継者は見つかったのだろうか。

以下、永田法順の述懐。山もなければ谷もない、わりあい平穏ななだらかな道を、しかも細く長い道を歩いてきた。頂点に立たないから、だいたい五合目までしか行ってないから、今から下りかという風に感じたことはない。天台宗の宗祖伝教大師最澄の教えに、「棒ほど願って針ほど叶う」という言葉がある。それだけ叶えば最高だという教えである。それは永田法順の「ほどほど」という言葉にあらわれているが、琵琶盲僧として歴史に名を残したのではないだろうか。尊い人生である。

(参考)川野楠己『最後の琵琶盲層 永田法順』

    ラジオ深夜便の「こころの時代」(小野二三夫のブログ)

 

京西テクノス株式会社を見学ーメンテナンス業への業態転換。スピード成長。IOT。グローバルトップニッチ企業。利益率10%へ。オープンな人事方針。コミュニケーション重視。

多摩信金の長島部長の引率で、多摩市愛宕の京西テクノス株式会社を訪問。

多摩大からは、杉田先生、小林先生、松本先生、高野キャリア支援課長と私。玄関にはウェルカムボードあり。

メンテナンス業への業態転換。スピード成長。IOT。グローバルトップニッチ企業。利益率10%。オープンな人事方針。コミュニケーション重視。、、、、

時代をたくましく乗り切ろうとしている企業の息吹を浴びた。こういう素晴らしい企業をもっと発掘して学生を送り込みたいものだ。

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臼井努社長から丁寧に会社説明をいただく。

・50年間電機関係の部品の受託をやってきた。中国の台頭などでコストダウンの要請がつよくなり、20年ほど前から安さを求められるモノづくりからスピードに要請があるメンテナンスに重点を移した。モノは必ず故障する。単価も高い。この方針で売上高と利益のアップをはかってきた。

・多摩には横河、HP、GEなどのメーカーが多い。医療・計測。ITのメンテナンス企業として全国に10か所の地方拠点。300名のエンジニア。サポートセンターのエンジニアはリモートメンテでの問題解決と現地に駆けつけての解析・修理。どのメーカーの製品でも対応するマルチベンダーサービス業。

外資などから仕事と人員がまるごと転籍してくる。メンテがテーマだといろいろな勉強ができる。メーカーは製品の供給やサービスを打ち切ってしまうので、古い装置もメンテの対象としている。

・日本にいながらのグローバル化に挑んでいる。一つは、IOTによるリモート監視ソリューション。ネットを介してプログラムの書き直しも。海外の現場でトラブルが発生する原因の温度・湿度・電源・水温などを監視。ホテルの風呂の混雑具合をみる人感センサー。装置とサービスの提供。もう一つは、24時間空港の関西国際空港にFEDEXと組み保税工場を設けてそこで保税状態のまま修理し海外に届けるという事業。

・電機機器具の修理業の規模。業界は1兆3700億円。8710社。85000人。4分の3は9人以下の零細。当社は2001年に7.5億円の売り上げだったが、ほぼ毎年増収で今年は80億に達するだろう。成長のスピードは速い。大手電機の計測器部門を買収(75名)を機会に新社屋を建設中。2025年には500名の社員で100億の売り上げ、10億の利益を出したい。そして一部上場大企業並みの給料を出す。1人1時間1万円。給与は役職別にオープンにしている。社員には一生働いてもらいたい。風土、教育、コミュニケーション、外部との接触、、、。今年は8名を採用。スタッフ職の充実に向けて文系も必要。メンテナンスはコミュニケーション業。社内のヨコの連携が大事であり、全員で餅つき大会、経団連会館での研修、牛肉フェス、マグロ解体などのイベントも行っている。

・グローバルトップニッチ企業。個人の目標設定と実績の評価。メーカー系サービス部門のソリューションサービスがライバルだが、コストや柔軟性で負けない。モノは必ず劣化する。ロボット、メガソーラ、医療機器、、。お客さんだった企業のマネジメント層も面白そうだと転職してくる。新卒という原石も磨いていく。

・上場はしない。スピードが必要。自由度が大事。将来は所有と経営の分離も。社内の臼井塾で経営幹部候補を鍛えている。

・高橋管理部長引率で社内見学:カスタマーサポートは24時間365日。予防安全。シーメンステルモ、ジョンソン・ジョンソン、顕微鏡、AED、CT、GEヘルスケア、電力機器、ABBのロボットショールーム、、、。 

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大学納:ラウンジ

・山本さん

・高野課長

・飯田先生

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 「名言との対話」1月23日。成田きん「老後の蓄えにします」

成田 きん(なりた きん、1892年明治25年)8月1日 - 2000年平成12年)1月23日)。

双子の妹の 蟹江 ぎん(かにえ ぎん、1892年明治25年8月1日 - 2001年(平成13年)2月28日)。 100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ、1990年代の日本において国民的な人気を得た。 きんは心不全で107歳で没。4男7女をもうけ、この戦争で長男と次男を中国大陸の戦地に送った。ぎんは老衰で108歳で没。4女をもうけた。

ダスキンテレビCM「きんは100歳100歳、ぎんも100歳100歳。ダスキン呼ぶなら100番100番」で全国的に有名になる。1992年2月に『きんちゃんとぎんちゃんでCDデビューし、日本での最高齢レコードデビュー記録を更新1992年9月15日敬老の日NHKがドキュメンタリー番組『きんさんぎんさん 100歳の時間(とき)』を放映名古屋地区で31.0%の視聴率を記録。1992年12月(100歳)と1998年12月(106歳)に『徹子の部屋』にゲスト出演。1993年にはNHK第44回NHK紅白歌合戦』に応援ゲストとして出演。1993年には春の園遊会に招かれた。1995年には「金銀婆婆」と呼ばれ人気を得ていた台湾へ招かれて103歳で初めての海外旅行。きんは放送大学の科目履修生にもなっている。1992年のテレビ出演回数は延べ40回近くにのぼった。きんの 2000年の死去時点で、子が6人、孫が11人(内孫2人、外孫9人)、曾孫7人、玄孫が1人いた。2018年3月18日ダスキンの新聞広告にぎんの三女(千多代・99歳)と五女(美根代・94歳)が起用された。2019年1月現在長女と三女は健在である。

 二人ともマスコミで取り上げられ始めたころは全白髪であったが、メディアに取り上げられるにつれ黒髪が増えていった。当初は中度の認知症であったが、有名になるにつれて改善した。常に新しい経験と刺激、そして下半身を中心とした筋力トレーニングによる脳への刺激が認知症に有効であることの実証例として注目された。

100歳になってメディアに出演などでお金が入る。「お金を何に使いますか?」という問いに対して、2人揃って「老後の蓄えにします」と答えて話題になった。100歳からでも老後があるということだろう。まだ老いてはいない、まだまだ先があると意識しているように感じられる。人生100年時代を迎えようとしている今、この発言は単なるユーモア以上の含蓄がある答えである。

 

退任記念講義の受講生の感想のまとめ。昼は兄弟会。午後は出版社で新刊の打ち合わせ。

退任記念講義の受講生の感想。エニアグラムの性格タイプ別。

<タイプ1> ・今まで失敗を恐れ、なるべく失敗をしないよう にと⽣きてきた。これからは失敗をポジティブに 捉えて⽣きていこうと思った。 ・改めて失敗は悪いことではないと分かった。⼀ 番悪いのは失敗を恐れて何もしないことで、失敗 してもそこから学べば良いのだと思った。若いう ちにこそ⾊々な事に挑戦して失敗していくことが ⼤切なのだと思った。 ・先⽣の⼈⽣のお話が聞けて今までのどの⾔葉よ りも重みがあると思った。 ・失敗することは⾃分が成⻑したということを学 習したので、学⽣のうちにたくさん失敗してたく さん学習したいと考えた。 ・この授業を受けて、個⼈、仕事、⼈⽣という3 つの意味を知れた。どの先⽣も先⽣を尊敬してい る理由が分かった気がします。

<タイプ2> ・こんな凄い⼈でも昔は案外、今の⾃分たちと同 じ⼈だったんだなと感じた。そこで、何を得て、 ⾏動にうつすか、そこで差が出るのだなと思った。 ・プラスになることばかりだった。 ・この講義が終わっても偉⼈館に⾏ってみたいと 思った。 ・⾃分の考え⽅を変える良い⾵を受けることがで きた。 ・佐藤⼀斎の少壮⽼死にはとても感⼼した。 ・先⽣の⼈⽣を尊敬します。 ・改めて久恒先⽣の偉⼤さを確認した。 ・全体を⾒ることができないから、選択、決断で きないのだと先⽣が仰っていたことが、今の⾃分 に⾔っているのではないかと捉えた。 ・「失敗をしないように⽣きている⼈はそれこそ ⼤きな失敗である」に、⼤きな勇気を貰えた。 ・ナポレオンの⾔葉は奥が深くて良いなと思った。 ・テレビなどで偉⼈の紹介をしていたら⾒てみよ うと思った。 ・⾃分もいつかは⾔葉で⼈を動かしていきたい。 ・計画通りにはいかないが⽴てないよりはまし。 学⽣のうちにたくさん失敗をしろという⾔葉。そ の通りだと思った。

<タイプ3> ・また違う所でお会いしたら話を聞きたいと思っ た。 ・感動した。 ・⼈は失敗から多くを学ぶ、今後の社会⼈⽣活で 多く失敗し成⻑していきたいと思う。 ・多くの失敗から⾃分は何ができるのかを⾒つけ たのだと思う。⼈⽣は計画通りにはいかないが、 計画を⽴てることが重要であると分かった。⾃分 の⼈⽣にはチャンレンジする⼼が必要だと思った。 ・久恒先⽣の⼈⽣観について、とても興味深いお 話をいただきありがとうございました。私は失敗 を恐れてきたので、そのような話をいただいてと ても励みになっております。

<タイプ4> ・未来は予想するよりも⾃分で創れば良いとい う⾔葉が最も⼼に残りこれから仕事をする上で、 そういった志を持って仕事をしていきたい。 ・未来は想像して⾏動することで動かすことが できるのだと感じた。 ・あまり深く考えず進もうと思った。⼈⽣の計 画を10年ごとにたててみようと思う。

<タイプ5> ・⾃分は失敗を恐れてあまり消極的に⾏動がで きていなかったので、これからは失敗を恐れず 新しいことにチャレンジしていこうと思った。 ・パワーポイントで図が描けるようになった。 ・先⽣⾃⾝のお話を頂き⼆度と聞けない話を聞 けて楽しい授業でした。 ・いろんな事に挑戦して失敗してもそこから学 んでいくことが⼤切なんだと思った。 ・久恒先⽣の授業は他の先⽣の授業と⼤きく違 い、本当のパワーポイントの使い⽅、⼈⽣の進 み⽅を教えてくれた。とても⼼に残った。 ・尊敬できる調べたいと思える⼈物を⾒つける ことが出来た。 ・久恒ゼミに⼊る予定でしたが残念でした。偉 ⼈たちは、⾃分の持ってる価値観を⼀番の武器 にしている。 ・先⽣の講義を受けられて本当に良かった。

<タイプ6> ・くじけた時や悩んだ時、先⽣の⾔葉を思い出し たいと思います。 ・図解の講義と、この⽴志⼈物伝の講義を受けた がどちらも役に⽴つ講義だった。楽しかったから ⼀度も休まないで講義を受けた。 ・先⽣でなければ絶対に聞けなかったであろう話 もあり貴重な体験ができた。 ・⻑い間多摩⼤学を⽀え続けてくれてありがとう ございました。良い多摩⼤学を発信していけたら 良いなと思います。 ・公私の他に個の時間も⼤切だと分かった。 ・⾃分の思いを書き留めること、継続することが ⼤切だと学び、毎⽇⽇記をつけるようになった。 ・⼈⽣は失敗から始まるのだと感じた。 ・⼈⽣とは⾊々な⾃由がないとやっていけないと いうことを図で⾒て確かにそうだと思った。未来 は考えるのではなく⾃分で作り出すもの。 ・沢⼭の失敗や時に逃げていたりしている。そう 聞いた時に私の中で何か吹っ切れたように感じた。 最後の講義に参加できたことを幸せに思います。 運が良かった。先⽣の今までとこれからを聞いて 正解も間違いもなくて⼤きな眼で⼼で経験してい く事が⼤切なのだと感じました。 ・⼈⽣計画をして良い⼈⽣にしたいと思った。 ・何もしないで成功しても成功の⼤きさが違うと いう⾔葉が⼀番⼼に残った。私は失敗を恐れ、楽 して成功できる道へと進もうとしていた。

<タイプ7> ・今ではとても凄い久恒先⽣にも⼈⽣を振り返る と、様々な経験や失敗があり今があるのだなと感 じた。 ・先⽣の授業は、これを伝えたい!という熱意が とても伝わってきた。 ・久恒先⽣は失敗(経験)して⼈⽣を豊かにしてきた ことを知った。確かに成功の本はたくさんあるが 失敗についての本はない。 ・60年以上の⼈⽣の⼤半をグラフ化し、振り返る ことを可能にする努⼒が凄いと思う。30年近くも 継続していくエネルギー、モチベーションはどこ からやってくるのか是⾮聞いてみたい。 ・久恒先⽣が思っていたよりもずっと凄い⼈で びっくりした。 ・毎⽇ブログを続け5000⽇オーバーには感服いた しました。

<タイプ8> ・楽しくて興味の湧いてくる講義だった。 ・成功の反対は失敗ではない!

<タイプ9> ・未来を⾒つめ、考えることができて、とても有 意義な講義だった。 ・図解を作る側の⼈も簡単で⾒ることも簡単、素 晴らしい講義だったと思う。 ・平成が終わり新しい年号が始まろうとしていま す。教授も新しいことが始まり続けることをお祈 り申し上げます。 ・⾃分の⼈⽣を記録し、⽬標を図にしている先⽣ だからこそ、やっておいて良かったと確かに感じ るものがあるのだと思いますし、ブレない芯を持 つには⼈⽣観、価値観を確⽴することが⼤切だと 分かった。 ・「これまでの⼈⽣は失敗の連続だ」と先⽣は ⾔ったけど、実は素晴らしいと思います。先⽣は ずっと⾃分の⼈⽣を計画している。「失敗する⼈ は成功する」

<タイプ?> ・先⽣のブログなど⾒て思い出そうと思う。 ・先⽣が沢⼭経験していてすごいと思った。 ・⼀回⼀回の授業で何か1つ得られる楽しい時間 だった。⾃分についてくれた後輩にも影響を与え られたらいいなと思う。 ・話を聴いていてすごく⾯⽩かった。もっと⾊々 な話を聴きたいと思いました。教授の⽅々が楽し そうに聴いているのが印象的でした。これまであ らゆる有名な偉⼈の話を聴いてきたが、久恒さん の今までの経験の話が⼀番⾯⽩かった。 ・偉⼈のすばらしさを知ることが出来た。久恒先 ⽣のこれまでの⼈⽣の⽣き⽅とこれからの⽣き⽅ について素晴らしい計画を持っていたのだという ことが分かった。⾃分の⼈⽣も悔いのないように これからも過ごしていきたいと思う。 ・失敗というのは重ねれば重ねるほど将来の⾃分 に⽣きてくるんだと、今⽇の講義で⼀番理解を深 めた。 ・この講義を通して物の⾒⽅が⼤きくかわりまし た。学ぶには本を読むことが⼀番⼤事なんだなと 思った。 ・久恒先⽣のことがとても細かく分かった。 ・失敗や挫折に対する価値観が変わった。ネガ ティブ思考が強かった今までの私にはとてもタメ になった講義でした。 ・失敗しても良いと思えた。

・先⽣の授業は他の授業とは違い楽しく聞くこと ができた。 ・⾃分の⼼に響いた⾔葉を胸に刻み⽣きていくの が⼤切だと思った。 ・⾃分を分析するのが楽しくなった。 ・⼈⽣の考え⽅がとても参考になりました。 ・先⽣の話を詳しく聞けて⼈間は失敗から成⻑し ていくものだと改めて感じた。 ・失敗を経験すればいずれか結果へと繋がること は何かが繋がっているのだと感じた。 ・失敗の連続の多さに驚いた。沢⼭の出会いが⼈ を変えるんだなと改めて思った。 ・久恒先⽣のおかげで図解の素晴らしさや様々な 偉⼈の⽣き様を知ることができた。久恒先⽣の講 義は確実に⾃分の武器を⾝につけることができる 講義でした。 ・先⽣に勇気を頂いた。ありがとうございます。 ・⼈に影響を与える⼈とは⾃分をしっかり持って いる⼈だと理解した。 ・私⾃⾝失敗を避けて⽣きてきたかも知れない。 習慣など当たり前のことを当たり前に⽬の前のこ とをコツコツとこなすのは簡単なことではないが、 ⾃分の価値観や考えは⼤きく変化していると思う ので努めようと思った。

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以下、教職員からの感想。

どれを取っても説得⼒があり、納得もできるこ とばかりで、⼤変勉強になりました。いくつか の項⽬は分かっているつもりではありますが、 仕事のせいにしたりして実⾏に移していません ので、今後は少しでも久恒先⽣に近づけるよう に実際⾏動して⾏きたいと思います。素晴らし い講義をどうもありがとうございました。

多摩⼤学を⽴派にマネジメントしていた だいた久恒先⽣のバックグラウンドと考 え⽅が分かり興味深かった。ご苦労様で した。久恒先⽣のマネジメントなくして 現在の多摩⼤は無かったと思います。

学⽣というよりは、我々中年期を迎え、 迷える時期に貴重なお話を伺えたこと、 ⼤変ありがたく思います。今後の⾃分 を考える上で⼤切な時間となりました。

私⾃⾝も⼤学⼊試あたりから現在ま で失敗の連続ですが、今後は計画を ⽴て、何事にもチャレンジして失敗 を恐れずに⾏動したいと思います。

授業時間が重なり全部を聴けずに 残念でした。これからも⼤活躍な さること間違いないと思います。 遠くから、近くから、応援します。

11年間教育、研究、⼤学運営、改 ⾰、⼤変お疲れ様でした。多くの ことを学び、気付きを頂きました。 ⼼から感謝を申し上げます。

アーカイブ、ストックを⼤切に されたと、それが過去でなく未 来のためであることを感じた。

失敗の数こそ資産! その通りですね!

失敗を恐れる学⽣がどんどん増えて いる気がします。性格のタイプに応 じて4つの⾃由の⽐重は変わりそう だと感じました。是⾮時間的⾃由の 中に囲碁を⼊れましょう!

久恒先⽣はいつも明るく軽いノリでお仕事をさ れている様に感じていましたが、バックグラウ ンドに⾃らの歴史、あらゆる成⻑過程の記録を 残されていて、それらを有機的に結びつけてお られたのだと分かりました。私はこれまでの⾃ 分の歴史をあまり⼤切にして来なかった事を残 念に思います。近い未来にせまった退職後のこ とをこれを機会に考えていきたいと思います。

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早朝のパチンコ屋に並ぶ人々の列。

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昼:新宿の高野フルーツパーラーでの兄弟会。

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 午後:荻窪日本地域社会研究所を訪問。

・女性編集者と『新・深・真 知的生産の技術』(NPO法人知的生産の技術研究会編)の校正打ち合わせ。2月刊行予定。

・落合社長:天皇の本。日本酒と焼酎を飲みながら歓談。

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「名言との対話」1月22日。安部公房「通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと」

 
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 
 
 
 

安部 公房 (あべ こうぼう、1924年 (大正13年3月7日 - 1993年 (平成5年) 1月22日) は、日本小説家劇作家演出家

母は公房の養育に熱心で文学理論を伝えた。恩師は2人いる。小学校の宮武城吉先生は読書指導に力を入れ年間1人平均80冊を読ませた。成城高校のドイツ語教師・阿部六郎先生申し訳ない恩師である。数学の天才だった公房は東京帝大医学部に進んだが、医者にはならずに文学者になった。

1962年 、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表、世界30数か国語に翻訳された。私はこの本を読み、映画も観ている。『燃えつきた地図』はニューヨーク・タイムズの外国文学ベスト5に選ばれている。 主な受賞は、戦後文学賞 (1950年)、芥川龍之介賞 (1951年)、岸田演劇賞 (1958年)、読売文学賞 (1963年・1975年)、谷崎潤一郎賞 (1967年)、フランス最優秀外国文学賞 (1968年)、芸術選奨 (1972年) など。

安部公房日本人作家については、大江健三郎安岡章太郎のみを評価していた。井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」と罵倒していたそうだ。三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。友人の大江健三郎によれば「全集」を全部読んで面白いのは漱石と公房だという。「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」とノーベル賞関係者が後に語っている。

公房はアウトドア・スポーツが好きで、カメラマニアでもあった。また一番最初にワープロを使って原稿を書いた小説家であり、この文豪はNECワープロ文豪』の開発に関わった。日本でシンセサイザーを所有していたのは安部のほか冨田勲NHK電子音楽スタジオを数えるのみだった。戯曲を俳優座に書き下ろしていた公房は堤清二をスポンサーとして演劇集団「安部スタジオ」をつくる。妻と不仲になって独人住んだ芦ノ湖を見下ろす箱根の自宅での60歳頃の写真では、シンセサイザーイカ釣り用ランプなどに囲まれてご機嫌の笑顔をみせている。簡易現像セット、小型テープレコーダーなども使っていた。興味の幅が広い人であった。

 1992年 執筆中に脳内出血で東海大学病院に入院。経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日多摩市日本医科大学多摩永山病院に入院し、死去。公房1993年1月22日没、妻・真知1993年9月22日没。2013年に、女優の山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。このニュースに驚いたことがある。

安部公房は文学を他者との通路と考えていた。満州奉天の少年時代に商売もうまかった公房が得た相手から考えるという商売のコツは、小説にも通じていたのである。

安部公房伝

安部公房伝