ポッドキャスト「ビジネスに活かす 偉人の名言」の2月分の収録。

ポッドキャスト「ビジネスに活かす 偉人の名言」の2月分の収録。

秋山真之手塚治虫山本周五郎斎藤茂吉

インタビューしていただいた「こえラボ」の岡田社長と。

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koelab.co.jp

meigen.koelab.net--------------------

ラウンジにて。

・趙先生

・小西先生

・飯田先生

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 「名言との対話」1月21日。西部邁人間を正気にさせるのは、重病による入院、戦争、独房体験の三つしかない」

西部 邁(にしべ すすむ、1939年昭和14年3月15日2018年(平成30年)1月21日)は、日本の保守派の評論家経済学者。

60年安保闘争全学連は唐牛健太郎全学連委員長、西部邁書記長という布陣だった。経済学研究でスタートし、大衆化や米国流の経済思想を鋭く批判し注目された。 1988年、中沢新一助教授推薦を教授会が拒否したことに抗議して東大を辞職。その後保守の月刊オピニオン誌「発言者」を創刊し主幹を務めた。討論番組朝まで生テレビ!」のメンバーとして鋭い批判の言葉を繰り出し人気を呼んだ。

保守論客であった西部は、2003年(平成15年)にアメリカがバグダッドを攻撃した時、「これはアメリカの間違いである」と批判した。皇室の皇位継承については、日本国家を統合するための象徴機能は皇室であり、「血」統よりも「家」系を重視するのがよく、「女系」にも「女子」にも皇位継承が可能なようにすべきとしている。国家の自立と自尊の確保を目指す立場から日本の核武装徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化を主張している。

2018年5月28日発刊の『日本人とは、そも何者ぞ』を読んだ。澤村修司と浜崎洋介と一緒に日本の聖徳太子から始まる1400年の歴史を縦走しているこの本では「グローバリズムの挫折と国民国家への回帰という世界史な流れの中で、日本だけが、まるで国家としての活力をなくしたかのように静まりかえっている」「、、ペラペラな存在になった。感情を無くして、みんなスマホを見て、世界の情報を黙々と見て、すぐ忘れる。これが現状です」「日本人はもういません」と絶望している。また、武士道を説いた『葉隠れ』にある「死ね」と「好きなことして暮らせ」の矛盾を西部は「死ぬべき時と、死ぬ理由をしっかりと見極める」と解釈している。

西部は著書などでは「自然死といわれるものの実態は『病院死』にすぎない」、「生の最期を他人に命令されたりいじり回されたくない」、「死に方は生き方の総仕上げだ」と記し、自ら命を絶つ「自裁死」の意思があることを述べていた。

2000年12月に単行本が出て、2004年12月に文庫となった『私の死亡記事』(文藝春秋編)という面白い本を読んだことがある。ネクロロジー(死亡記事、物故者略伝)では、客観的評価が記されるが、本人が思っていることとは別である。この企画は生前に本人に死亡記事を書かせようという前代未聞の企画である。102人の識者がこの企画に賛同して真面目に、ユーモアたっぷりに書いて読ませる。この中で、西部邁は、「薬物自殺。自死自裁、享年78・自死」と書いている。2017年1月21日に愛する妻との思い出が残る多摩川で78歳で自裁しているから、60歳前後からこの時期に決行しようと決めていたのである。病院で不本意延命治療や施設で介護など受けたくない。それを避けるなら自宅で家族の介護に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれば、自死しかないという判断だろう。

「重病、戦争、独房」によって初めて人間は正気に返る、という西部邁の生涯を通じてのメッセージは、死生観も含めて「日本人よ、正気に戻れ」ということであろう。

 

西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」

西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」

 

 

私の死亡記事 (文春文庫)

私の死亡記事 (文春文庫)

 

 

 

 

 

センター試験二日目。

センター試験二日目。

二日とも私の役目は、冒頭のあいさつ。

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「名言との対話」1月20日柴田トヨ「人にやさしくする。そして、やさしくしてもらったら忘れない。これが百年の人生で学んだことです」

柴田 トヨ(しばた トヨ、1911年明治44年6月26日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、日本の詩人 

裕福な米穀商の一人娘だったが、10代の頃に家が傾き、料理屋などに奉公に出る。33歳で結婚し、翌年男児が誕生。90歳を過ぎてから詩作を始め、新聞に投稿を続ける。2010年に詩集『くじけないで』を上梓しベストセラーになる。韓国、台湾、オランダ、イタリアスペインでも翻訳出版されている。

70歳を過ぎてから踊りを習う。何かを始めたら、人に教えられるくらいまでやる。「何かをつかんだら、一生懸命やる。それが私なんだ」。

人生の浮き沈みが激しいが、トヨの載った船はひっくり返らない。無事に過ごしてこれたのは「何でも一生懸命にやる質(たち)だったからかも知れません」と誠実に生きることが大事だと述懐している。

百歳で出した第二詩集『百歳』は、「詩とファンタジー」「産経新聞」「ESSE」「いきいき」「サライ」などに掲載された詩をまとめたもので、今回じっくりと読み込んでみた。トヨの詩は「しまいのところ」でひとくくりつけるようになっている。しなやかな心から吹く風はあたたかい。

「やさしさ」という詩では「真実のやさしさ 手料理を いただかせてください」、「流行」では「思いやりの症状が まんえんすればいい」、「頁(ページ)」では「あと一頁と少しで百頁 鮮やかな色が 待ってるかしら」、「競馬」では「始めはビリでも やれば一番になれる 貴方だって きっと出来るわ」、「思い出Ⅲ」では「あれから六十年 今は一人の生活 でも私には 思い出がある」、「倅にⅣ」では「さあ 笑顔を見せて」、「がまぐち」では「お金は貯まらなかったけれど やさしさは 今でもたくさん入っている」、「百歳」では「百歳のゴールを 胸を張って駆け抜けよう」、「自分にⅡ」では「さぁ 顔をあげて 空を見ましょう」。

埼玉県警に「振り込め詐欺防止ポスター」への言葉を頼まれている。「振り込め詐欺犯さんに」では「弱い人たちを 苦しめないで その知恵を 良い事に使ってください」、「貴方にー振り込め詐欺事件、被害者の方に」では「貴方には 貴方を心配してくれる 家族が居るじゃ ありませんか ねえきっと いい風が吹きてきますよ」。

産経新聞と読売新聞には3・11の被災者に向けて詩を書いている。最後は「朝はかならずやってきます くじけないで!」と「不幸の津波には 負けないで」だ。

2013年11月に柴田トヨの半生を描いた映画『くじけないで』が公開された。トヨ役は、八千草薫檀れい(若い頃)、芦田愛菜(幼少時)が演じている。

 90歳を過ぎてから詩作を始め、98歳で処女歌集が150万部を超える大ベストセラーとなり、引っ張りだこになり、2011年に100歳で第二詩集『百歳』を刊行し、同年101歳で亡くなる。この人ほど遅咲きの人はいない。その人のやさしい言葉が困難を抱え苦しむ人たちの心に届いたのだ。

「あふれるような気持ちを詩にして、人生の終わりに花を咲かせることができました」。人生の最後に大きな花を咲かせた柴田トヨは、百年の人生で培ったやさしい心を、やさしい言葉で語り多くの人を励ました人だ。

 

百歳

百歳

 

 

センター試験初日。

センター試験初日。

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「名言との対話」1月19日。スタンリー・ミュージアル「私の誇りは打率やホームランの数字ではなく、数知れぬ敗北とスランプから、その都度立ち上がったことだ」

スタンリー・フランク・ミュージアルStanley Frank “Stan” Musial1920年11月21日 - 2013年1月19日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身プロ野球選手外野手一塁手)。

現役時代はセントルイスカージナルスのみでプレーし、ワールドシリーズ優勝などに貢献した。背番号6はチーム初の永久欠番

通算打率331の高さが示しているように首位打者獲得回数は7回に及ぶ。ホームランも475本という強打者だ。打点王も二度獲得している。通算安打3630本は、ピート・ローズタイ・カップハンク・アーロンに続く歴代4位。因みにイチローのメジャーでの記録は3089本で22位である。

引退後はカージナルス球団副社長も務め、1967年のワールドシリーズ制覇時はGM(ジェネラルマネジャー)として貢献した。1969年に野球殿堂入りを果たす。

苦しい戦いの中で、同僚の声援にこたえて「わかった。楽にしてやる」と言ってサヨナラホームランをかっ飛ばしたこともある。因みに、サヨナラホームランを12本以上打っているランキングではベーブ・ルースを抑えて3位である。ミュージアルは勝負強くチームメイトやファンの支持があった。

 

カージナルス日米野球で来日した際は、日本の誇る名投手である稲尾和久杉浦忠から本塁打を放っている。

「若いうちはパワーが打たせてくれる。そのうち技術が打たせてくれる。最後は経験が打たせてくれる」。パワー、技術、経験という原動力現役時代を乗り切ってきたと振り返っているが、これはあらゆるキャリアに当てはまる進化のプロセスだ。

現役時代も、引退後も順調な経歴であり、申し分のない人生を送ったようにみえるのだが、人には知られていない無数の敗北とスランプがあり、その都度苦闘し立ち上がったことが自分の誇りだと語っている。失敗は必ずある。それに負けずに立ち上がった人なのだ。だから人々は「The Man」という愛称で呼んだのである。まさに「男の中の男」である。日本では長嶋茂雄が「ミスター」と呼ばれている。ミスター。ジャイアンツ、ミスタープロ野球をつづめた愛称であるが、同じように尊敬され、愛された人格者であったのだろう。

結核、脊髄カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸ガン、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら創作活動を継続した作家の三浦綾子が「つまずくのは、恥ずかしいことじゃない。立ち上がらないことが、恥ずかしい」と語っているのを思い出した。

負けて座り込むか、それとも立ち上がるか?

 

 

 

 

 

 

 

 

大学コンソーシアム八王子設立10周年記念シンポジウムシリーズ1「大学理事長・学長と市長との懇談会」

大学コンソーシアム八王子設立10周年記念シンポジウムシリーズ1「大学理事長・学長と市長との懇談会」に出席した。「これからの10年、大学間・地域連携によって実現すべきこと」がテーマ。

・軽部会長:10周年。25校・11万人。学生事業補助金。FD/SDフォーラム(86大学・252人)。夏休みこどもいちょう塾。学生発表会(15大学15件、22件実行)。C4Mコンテスト。学園都市大学(年6000人が受講)。単位互換(16校160科目)、、。

・石森市長:市制100周年。コンソーシアム10周年。学園都市ビジョン。12大学と包括連携協定。

東京工科大学軽部学長が会長。以下、工学院大学明星大学多摩美大、東京工業高専創価大学東京純心大学創価女子短大杏、杏林大学東京薬科大学拓殖大学東京家政学院大学中央大学サレジオ工業高専日本文化大学デジタルハリウッド大学、法政大学、桜美林大学首都大学東京多摩大学東京造形大学、山野美容芸術短大、ヤマザキ動物看護大学。

・大学コンソーシアム八王子の10年間の取り組み

・八王子学生委員会の活動紹介:7大学18名。地域合同学園祭「学生天国」。八王子いちょう祭り。情報誌の発刊。

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 ・講演:文科省高等教育局大学振興課大学推進室「高等教育施策の動向について」

 2040年へ向けての答申:SDGs。Society5.0 。人生100年グローバル化。地方創生。多様な価値観をもった人材、連携統合は機能別分化、複数学部教授、国公私の連携プラットフォーム、共同大学院。共同利用拠点、教学マネジメント、、、。

 ・意見交換会:高齢化。留学生寮。共同インターンシップ。スポーツ。学び直し。共生工学。老年学。地域学位。防災。SDGs。

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 懇親昼食会:首都大学東京の上野学長、桜美林大学の畑山学長、法政大学の増田副学長、八王子市の小浦市民活動推進部長、大学コンソーシアムは八王子の袋布事務局長と懇談。話題:首都大の名所変更、桜美林の航空関係学部、多摩信金の長島部長の多摩大出向、音楽・演劇、八王子千人同心、、。

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大学

・杉田学部長

・バートル先生

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昨日いただいたお花。

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「名言との対話」1月18日。中村梅之助「自分で探せ」

四代目 中村梅之助(よだいめ なかむら うめのすけ、1930年2月18日 - 2016年1月18日)は、東京生まれの俳優歌舞伎役者

劇団前進座」の創立メンバーであった3代中村翫右衛門の長男。8歳の初舞台で4代中村梅之助を名のる。父や5代河原崎国太郎没後は6代嵐芳三郎とならんで劇団前進座の中心として活躍する。テレビ『遠山の金さん捕物帳』の名奉行・遠山金四郎の初代金さん役で人気を博す。胸のすく啖呵や颯爽とした名奉行ぶりは歌舞伎の素養があって初めて生またものだ。歌舞伎と現代劇の両方に取り組む前進座を率いての演劇活動で平成20年朝日舞台芸術賞特別賞を受賞した。

伝七捕物帳』(脚本は池田一郎、後の隆慶一郎)、大河ドラマ花神』(司馬遼太郎原作)では周防の村医者から、倒幕司令官に、明治新政府の兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者大村益次郎村田蔵六)を演じた。花神とは人知れず野山に花を咲かせて去る神のことで、栄光を待たずに去ったヒーローを暗示している。同じく赤穂浪士の討ち入りを軸に元禄時代の人間たちを描いた『峠の群像』(堺屋太一原作)では近松門左衛門役だった。梅之助はテレビの時代劇ドラマでもお茶の間の人気者で、私も楽しませてもらった。

「どんな役でも「真実」が基礎。観客を信頼する。脚本を信頼し、相手の言葉を初めて聞く」

 NHKアーカイブ『あの人に会いたい』では、「芸道は一代にしてならず」と言い、その後に「なぞってなぞってなぞりなさい。ある年代になったらきっとあなたのものが生まれる」という言葉を語っている。翫右衛門から受け継いだ芸の道は梅之助から息子・中村梅雀に受け継がれている。

「自分で探せ」という言葉の奥には、「(芸は)自分で探し出せということ。うちには『教えない教え』という家訓」があった。「そっくり」と言われながら役になりきっていきながら自分独自の芸を探し続けているうちに、やがて自分自身になっていくこという意味であろう。

 

退任記念講義ーーー「これまでの私、これからの私」。「失敗」と「未来」を語る。

本日は退任記念講義。

「これまでの私 これからの私」といういタイトルで、「失敗」と「未来」をテーマに、学生と教職員に向けて講義を行った。稀勢の里ではないが、「一片の悔いもない」11年間だった。

以下、久米客員教授のレポート。

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多摩大学 久恒啓一副学長 退任記念講義 これまでの私 これからの私】

今日は「らしくない」けれど「らしい」特別な講義を聴きました。

私が尊敬する図解と名言の師匠 久恒先生が、専任教授として登壇される最後の講義です。まず「終わり」なのに、新たな「始まり」を感じさせるところが退任講義「らしくない」。そして「涙」ではなく「笑い」がしめくくるところが久恒先生「らしい」。十年後には、こんな最終講義ができる人になりたいと憧れてしまいました。

なにしろ、過去について自慢はせず、失敗談ばかり話されたのです。久恒先生曰く「これから失敗の連続になる。会社に入ってもすぐ失敗する。どうしてこんなに自分は失敗するのだろうと思った。」たしかに、経理になれば振込を間違え、人事になれば50人も人を余計に採用するなど、考えられない失敗を重ねられていてビックリです。

しかし「40歳で課長になった時に失敗が役立った。あらゆる失敗をしていたので部下の失敗の理由がよくわかった」そうで、まさに失敗を重ねることこそが究極のOJT(On-The-Job Training)に思えてきます。

■写真1 ホームページに私のすべてが入っている

おそらく、久恒先生は、インターネット上に日々リアルタイムで「自分自身の人物資料館」を創り続けている「最初の人類」でしょう。しかも独自の図解のメソッドに基づくユーザーインターフェイスで体系化されています。

種々のSNSの長所を使い分けながら充実させて、すでに5,000日突破。今日の講義で参照した資料もすべてホームページに収められています。これまで作った図解、学生たちのアンケート、これまでに訪ねた人物資料館(857館)のデータはもちろんのこと、ゴルフのスコアから、母の歌集まで入っているというから驚きです。

久恒先生曰く「20年間続けてわかったこと。ホームページが空母。Facebookなどsnsは戦闘機。」たしかに、久恒先生のホームページは、SNSにジャンプするリンク集の役割も果たしながら、それら外部に寄稿した記事も、ホームページに集約されて体系的に眺めることもできるのです。

「自分で作ったビッグデータでなければ、知的生産としては使えない」という言葉も心に刺さりました。単にググってwikipediaを棒読みした情報と、自ら現場で取材し、人と出会い、調べ学んだ血肉となった知恵の集積とでは、価値が違うでしょう。

■写真2 計画が重要。毎年チェックする習慣を。

久恒先生は、計画の重要性を説き、自分の計画通りに過ごそうと提言します。自らの30年計画を振り返ると、日本航空の社員だった時代に「大学教授になる」と書いてあって不思議だそうです。こうして大きく考えると沿っているようにも見えますが、実はかなっていないことが多いとのこと。「それでも毎年チェックをして、〇×△をつけることを3年ぐらい続けていると×が〇になる。そんな良い習慣を身に着けることが大切」だと訴えます。

久恒先生曰く「計画通りにうまくいかないけれど立てないよりは、はるかに良い」「年度計画、中期計画を書いていると、そういう方向にいくような気がする。」「何が起きるかわからないけれど、若いうちに失敗しておくのが大切。ある程度力がついたら自分のテーマにまい進する。」だそうです。

■写真3 人生は豊かさ(自由の拡大)への旅である

このシンプルな人生の図解には驚きました。ちょうど昨日、クエストリーで「人生は旅」という話をしたのでシンクロニシティです。

久恒先生曰く、「カラダをベースに、カネとヒマの自由を得て、ココロ・アタマの自由を獲得する」ことが、人生という名の旅の原動力。これは転職の時にも使える考え方で、例えば久恒先生は、このたび教授を退任することで、カネ(給料)が減る代わりに、ヒマ(自由時間)を得ることで、より大きなココロ・アタマの自由を獲得できるそうです。

久恒先生が、これから書きたい本のリストを見せていただきましたが、想像を絶する労力です。それだけではなく、久恒先生が理事長をつとめる「知的生産の技術研究会」の仕事として、梅棹忠夫先生の全集図解化にも挑戦したいそうです。これだけ大事業を遂行するにのは、おカネよりもヒマが、さらには人生百年時代を元気に生き抜くカラダ、ココロ、アタマが必要でしょう。

■写真4 人生100年時代には、3回のキャリアデザインを

人生100年というと、みんなコストとリスクの話ばかりしているが、そんなお金の話ばかりでは困る、考え方が間違っていると久恒先生は強調しました。それもこれも、昔の短い寿命をもとに不惑などの年齢別心得を説いた「孔子が悪い」だから、みんなが迷うとおっしゃるのです。

そこで、久恒先生は、孔子の図を1.6倍伸長して、人生100年時代の心得を図のように提唱しています。なるほど、この図に合わせるなら、青年期、壮年期、実年期で3回キャリアデザインできます。私はまだ壮年期半ばですから、まだ1,5回チャレンジできるのだと思うと、元気と勇気が湧いてきました。

 少壮老死

 少にして学べば、壮にして為すことあり
 壮にして学べば、老いて衰えず
 老にして学べば、死して朽ちず

(その他、失敗と未来に関する名言集も素敵だったのですが、ボリュームがあるので、写真を拡大して読んでみてください。)

この半年間、私の担当講義の前に、久恒先生との雑談会と「立志人物伝」を聴講できて幸せでした。学生時代に聴いておけば…と思ったこともありましたが、今日の最終講義を聴いて、いや今聴くからこそ意味があると納得しました。やはり人生100年時代の壮年期には、働きながら学び、学びながら教える、同時並行の生き方が求められるのですね。

久恒先生、今日は素晴らしい講義をありがとうございました。そしてこれからも先生の背中を見ながら、今以上に離されないように追いかけます。引き続き、ご高導のほどよろしくお願い申し上げます。

#多摩大学 #久恒啓一 #教授 #図解 #web
http://www.hisatune.net/

 

画像に含まれている可能性があるもの:久恒 啓一さん
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受講した教職員、学生のアンケート。
以下、教職員のアンケートから
「学生というより我々中年期を迎え、迷える時期に貴重なお話をうかがえたこと大変ありがたく思います。今後の自分を考える上で大切な時間となりあました」「11年間教育、研究、大学運営・改革、大変お疲れさまでした。多くのことを学び、気づきをいただきました。心から感謝申し上げます」「これからも大活躍なさること、間違いないと思います。遠くから近くから応援します」「どれをとっても説得力があり、納得できることばかりで、大変勉強になりました。いくつかの項目はわかっているつもりではありますが、仕事のせいにしたりして実行に移せていませんので、今後は少しでも久恒先生に近づけるように実際行動にしていきたいと思います。すばらしい講義をどうもあいがとうございました」「私自身も大学入試あたりから現在まで失敗の連続ですが、今後は計画を立て、仕事にもチャレンジして、失敗を恐れず行動したいと思います」「失敗を恐れる学生がどんどん増えている気がします」「失敗の数こそ資産!その通りですね!御指導いただきありがとうございました」「アーカイブ、ストックを大切にされたおと、それが過去でなく未来のためであることを感じました。起業に期待しております!成功をあせる日本に発言をお続けください」「多摩大学を立派にマネジメントしていただいた久恒先生のバックグラウンドと考え方がわかり興味深かった。ご苦労様でした!久恒先生のマネジメントなくして現在の多摩大はなかったと思います」「いつも明るく、軽いノリでお仕事をされているように感じていましたが、実はバックグラウンドに自らの歴史、あらゆる成長の過程の全記録を残されていて、それを有機的に結び付けておられたのだとわかりました。私はこれまでの自分の歴史をあまり大切にしてこなかったことを残念に思います。近い未来に迫った退職後のことをこれを機会に考えていきたいと思います」
以下、学生のアンケートから
・心に残るお話ありがとうございました・先生の人生観、とても興味深かった。私は失敗を恐れてきたのでとても励みになりました・失敗を恐れることは進化をあきらめることだ感じました・人生計画を立ててよい人生にしたい・失敗する人は成功する・失敗のお話を聞いて私の中で何かが吹っ切れたように思いました・正解も間違いもなくて大きな目で心で経験していくことが大切なんだ・未来は考えるものではなく自分でつくりだすもの・自分の心に響いた言葉だけを胸に刻み生きていくことが大切だ・人生は失敗から始まる・先生の授業は他の先生の授業とは違い楽しく聞くことができた・いつかは言葉で人を動かしたい・習慣など当たり前のことを当たり前にコツコツとこなしていきたい・先生が思っていたよりもずっとすごい人でびっくり・いろんなことに挑戦して失敗してそこから学んでいくことが大切だ・30代に思い立って30年以上も継続していくエネルギーはどこから・この授業を通じて毎日日記をつけるようになりました・公私のほかに個の時間も大切だ・多く失敗し成長していく・勇気をいただきました・感動しました・良き多摩大を発信していきたい・先生の講義は確実に自分の武器を身に着けることができる講義でした・失敗の連続の多さに驚きました・計画・失敗の話はとてもよかった。失敗してもよいと思えた・どの先生も久恒先生を尊敬している理由が分かった・改めて久恒先生の偉大さを確認した・尊敬します・学生のうちにたくさん失敗し学習する・確かに成功の本はたくさんあるが失敗についての本はない・失敗や挫折に対する考えが変わった。ネガティブ思考が強かった今までの私にはとてのタメになった講義・先生のお話は今までのどの言葉よりも重みがあった・先生の授業でjは、これを伝えたい!という熱意を感じていました・自分の考え方を変えるいい風を受けた・あまり深く考えずに進もう・人生計画を10年ごとに立ててみたい・本を読むことが一番だ・偉人館にいく・先生のおかげでパワポで図が描けるようになった・挑戦する・先生のブログを読む・くじけた時や悩んだときに先生の言葉を思いだしたい・悔いのないように過ごしていく・失敗をポジティブにとらえていこう・教授の方々が楽しそうに聴いているのが印象的・今まであらゆる有名な偉人の話を聴いてきましたが、久恒先生の今までの経験の話が一番面白かった・何を得て行動に移すか、そこで差がでる・チャンレンジ!・後輩にも影響を与えたい。
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午後は市ヶ谷のN出版社を訪問。2冊の本の企画が進んだ。
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 「名言との対話」1月17日。趙紫陽「人治ではなく、法治」
趙 紫陽(ちょう しよう、ヂャオ・ズーヤン、1919年10月17日 - 2005年1月17日)は中華人民共和国の政治家。
趙紫陽は「第2世代」の政治指導者として中国共産党中央委員会副主席国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会総書記などを歴任した。1989年天安門事件で失脚し、2005年に死去するまで16年間の軟禁生活を余儀なくされた。
趙紫陽は、四川省における食料問題の解決などの農業改革をはじめ、1-2億人が住む沿岸地域をグローバル市場に組み込む経済改革で功績をあげ、「経済的には右、政治的には左」であった鄧小平に胡耀邦とともに引き上げられた。当時は腐敗が蔓延していた。天安門に集まった学生たちは「腐敗の一掃」と「報道の自由」を要求し、ハンガーストライキを実行し国民の支持もあった。趙紫陽は学生たちとの対話を実行するが、指導部は戒厳令を断行し犠牲者をだした。趙紫陽民主化運動の弾圧に反対したことで、「党を分裂させた」「動乱を支持した」との罪状ですべての公的地位を奪われた。
軟禁生活では厳しい監視の目があったが、趙紫陽は極秘のうちに元部下のインタビューを受けた60分テープ約30本の音声回想録を残していた。今回このテープをもとにして編集された『趙紫陽 極秘回想録』を読んだ。天安門事件前後3年間の中国政府の中での問題やそれをめぐる暗闘、鄧小平を中心とした複雑な人間関係が克明に描かれている。
16年間の軟禁中に、熱烈な共産主義者であった趙紫陽は「議会制民主市議こそが近代国家の最善の道であり、中国が目標とすべきものだ」との結論に達している。市場経済だけでなく政治体制も議会制民主主義を採用すべきだ。さもなければ権力とカネが取り引きされ、腐敗が蔓延し、社会は富裕層と貧困層に分裂する。長い移行期間が必要であり、まず複数政党制と報道の自由を認めなければならない、としている。
あの天安門事件から30年経った。中国からの大学・大学院の留学生と接触する機会が多いが、ほとんどの人はこの大事件を知らない。情報統制があり、事件自体も趙紫陽という政治家も知らない。天安門事件後の国際制裁は日本が最初に解除し、経済発展の援助を行ったことも知らない。また、現在の中国の指導部は、腐敗撲滅運動の中で、胡錦涛を生んだ共産党青年団も、江沢民を頂点とする上海閥も影が薄くなった。建国の英雄たちの子孫である太子党が制圧したようだ。
趙紫陽の命日である1月18日には小規模ではあるが、いまでの追悼集会が行われていると聞く。市場経済の導入はいずれ政治改革をもたらす、という西側の予測は今のところ外れているのだが、内外の知識階級の中では趙紫陽の評価は依然高いものがある。趙紫陽は少し早すぎたともいえるが、いずれ中国に民主主義が根づくときには、「人治ではなく、法治」を主張した趙紫陽は偉大な先駆者として評価されることになるかもしれない。
 

 

趙紫陽 極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!

趙紫陽 極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!

 

 

 
 

『日本姓氏語源辞典』ーー久恒

『日本姓氏語源辞典』というサイトがある。名字の語源や地域分布がわかる。そこから「久恒」という名字についての情報が送られてきた。

名字の由来、語源、分布 - 日本姓氏語源辞典

「久恒」。人口は約1,700人。順位は5,635 位。大分県500人・福岡県400人・神奈川県110人・東京都100人、、。大分県中津市300人・大分県宇佐市70人・福岡県豊前市70人、、。中津市上宮永130人・中津市下宮永50人・、、。

久恒姓の有名人として、私と久恒秀治の名があがっていた。この人は大磯の旧吉田茂邸で見かけた名前だ。久恒秀治(1911年-1982年)は日本庭園研究家、造園家作庭家、庭園評論家。2017年4月30日のこのブログで、旧吉田邸の庭園についての説明を引用している。「庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという」。

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研究室

・樋口先生:家族のこと。

ラウンジ

・森島課長:一般入試

・志賀先生:ライフワーク

・杉田先生:1年生

・バートル先生:日本語学校

・久保田先生:ポッドキャスト「ビジネスに活かす 偉人の名言」に登録し聴いた感想をもらう。

・山本さん:Tスタでの対談の録画の進行状況

・飯田先生:最終講義

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明日の最終講義の準備

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「名言との対話」1月16日。大屋政子「没落したらあかんねん!」

   


   
   
   
   
   
   
   
 

大屋 政子(おおや まさこ、1920年大正9年)10月27日 - 1999年平成11年)1月16日)は、日本歌手実業家レント作家

クラブ歌手であった政子は大屋晋三大臣と不倫の関係となり、29歳の時に55歳の大屋と結婚。帝人大屋晋三社長の妻となる。大屋晋三帝人を繊維業界のリーダーに育て上げた経営者である。参議院議員となり商工大臣、大蔵大臣、運輸大臣をつとめた9年間を除き、「死ぬまでやめない」が口ぐせだった通り26年間社長の座にあった。

大屋政子は実業家としての才能があった。戦後の別荘ブームを予想し独力で銀行から資金を借りて軽井沢の土地を購入、女性も楽しめるゴルフ場の建設、バレエ教室、関西ではじめて人間ドックなどを成功させ、大阪を代表する資産家となった。一方で、大屋政子バレエ教室、大屋政子バレエ財団の設立、舞台芸術振興財団理事長も歴任するなど文化活動にも熱心だった。民間外交にも熱心で、イタリアのサンレモ市と熱海を姉妹都市にした功績でイタリアから、そしてフランスからも勲章をもらっている。夫の大屋晋三の威光での成功と考えられがちだが、そうではなかったようだ。晋三は前妻や愛人との間に子供があり、給料は仕送りに消えてしまうので、政子が稼いでいた、という。

このような実業家としての面は知らなかったが、夫の死後のタレント活動はよく知っている。ピンクのミニスカートなど奇抜なファッションと愛嬌のある人柄でテレビ出演すし親しまれた。「うちのお父ちゃん」が口ぐせだった。ある会で帝人の幹部を招いて話を聞いたことがある。政子に敵意を持っている様子だったが、なかなか手ごわい相手だったというようなことを語っていた。

お嬢様育ちだったが、19歳の時に父が急死し世間が冷たくなり、人を信ぜず金を信じるようになった。それ以降、「没落したらあかんねん!」が口ぐせとなった。しかし後年トラブルに巻き込まれ、資産を無くしている。そして最晩年には「ウチの人生はピエロ 化粧一枚はがしたら 血みどろの阿修羅の闘いやった、、」と述懐している。若い時に味わった怨念が大屋政子の活躍のエネルギーの源泉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「月刊高校教育」に拙著「偉人の誕生日366名言集」の素晴らしい「書評」。

「月刊高校教育」(教育改革・学校改革の羅針盤)2月号の「今月の書評」に拙著『偉人の誕生日366名言集』が取り上げられた。筆者は元東京都立高校副校長の都築功さん。よくまとまった論考で感心した。ありがたいことだ。http://www.gakuji.co.jp/magazine/highschool/index.html

名言集や格言集の類はこれまでにも多数出版されているが、今回この書物を紹介するのは、著者の久恒啓一氏が2005年から訪ね歩いた800館を超える全国各地にある人物記念館から直接取材した珠玉の言葉と、それを通したそれぞれの人物の生き様や背景を基にしているからである。

著者は現在多摩大学の副学長だが、大学人となる前の日本航空勤務の時代から「知的生産の技術」研究会で図解コミュニケーションの理論と技術を開発してきた。2004年から毎日ブログを書き続けているが、記念館で出会った珠玉の言葉を誕生日や命日に合わせて紹介している。この本はそれを誕生日別に紹介したものである。人選についっては生存中の人は除き、近代・現代の偉人を中心としている。適当な人が見つからない場合は時代をさかのぼり、外国人も取り上げている。「偉人」というタイトルがついているが、実に多彩で、様々な人々が取り上げられている。

構成としては、一日1-3ページで誕生日にあたる人物の言葉をタイトルとして掲げ、その人の生涯や、タイトルに取り上げられなかった言葉を紹介している。一日一日の記述がよくまとめられており、示唆に富み、味わい深い。

この本の読み方、使い方としてまず思いつくのは、講話の題材だろう。その日が誕生日の人物を話の出だしで取り上げる。年明けなど高山樗牛の「己の立てるところを深く掘れ そこには必ず泉あらむ」(1月10日)などどうだろう。

机上や引き出しの中に置いておいて、折に触れて開いてみるのもよいだろう。ちょっちした時間に拾い読みするにも適当な長さで、仕事上のヒントを与えられたりもする。例えば1月26日のアサヒビール中興の祖、樋口廣太郎「悩みがないのは仕事をしていない証拠だ」の後には、「仕事十訓」「管理職十訓」が書かれている。

また「たとえ明日、世界が滅びようとも、私は今日、リンゴの木を植える」といったよく知られている言葉も、11月10日生まれのマルティン・ルターのところを読めば背景などもよく分かる。

ところで最近、「人生100年時代」のかけ声が急に大きくなった。この本にも人生100年時代の生き方のモデルとして勇気をくれる人物が何人か取り上げられている。例えば、10月4日生まれの105歳まで生きられた医師、日野原重明氏の言葉「しかし、人間は生き方を変えることができる」など。著者にはさらに、90歳を超えてなお元気で世の中に発信し続けた有名人の言葉を集めた「100年人生の生き方・死に方」(さくら舎)もある。やや前になるが40代以降に仕事を始め開花した人々の生きたかをまとめた「遅咲き人伝」(PHP研究所)には高校の副校長の時、大いに励まされ、東京都の副校長会に講師として招き感動を共有したことがある。

著者のブログの題名は、著者の出身地の大分県中津の偉人、福沢諭吉の「今日も生涯の一日なり」である。日々、目の前の業務をこなすことに追われる中でも、生涯の一日に思いをはせながら生きたいものである。

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今日の収穫。柳井正時代感覚日経新聞1月13日)。

「情報産業とサービス業だけになる」「店舗でしか買えない商品・サービスを提供」「働き方もデジタルに」「本庶先生の6C=キュリオシティ(好奇心)・カレッジ(勇気)・チャレンジ(挑戦)・コンフィデンス(自信)・コンティニュー(継続)・コンセントレーション(集中)」「「日本人は自分で考えない」「日本は成長どころか崩壊しないことが大事」「買収でなく自分でやるから面白い」「将来に対する希望がない」

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大学にて

・杉田学部長:明後日の最終講義

・今泉先生:大学院修士論文講座の4月の日程

・水嶋課長:大学コンソーシアム八王子

・川手課長:書棚

・森島課長:センター入試

研究室

・別府の後藤さんとZOOMで対話。佐保君に手伝ってもらう。

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「名言との対話」1月15日。青山五郎「常識的な考えに染まらない。社員が働いている時には遊ばない。いつも社員と一緒に仕事をする。それが私の信条だ」

青山 五郎(あおやま ごろう、1930年3月4日 - 2008年1月15日)は、日本の実業家。『洋服の青山』の名称で知られる紳士服チェーン大手、青山商事の創業者。

男6人、女1人の7人きょうだいで、上から5番目の男子だったので、五郎という名前になった。病気で学校に行けなかったことで優秀な兄たちに負けたくないと、「30歳になって、世間から信用されるようになったら、商売で一旗揚げるしかない」と誓う。34歳専売局を辞め兄弟4人で1964年に創業し、「日本一の洋服屋になろう」と決意する。オーダーメイドが一般的だった時代に大量生産制やチェーン店制度を導入。創業5年で売上高1億円を突破。20年で売上高100億円企業に成長させた。1991年には868億円の売上高をあげ紳士服専門店の頂点に立った。

イカーで買い物できるロードサイドに店舗を展開してきたが、ブル経済がはじけ、都心の不動産価格は下落し、賃借料を押し下げたので、「東京銀座店」をオープンさせる。日本一地価が高い場所で、日本一安いスーツを売る。郊外から都心へ向かう戦略だ。1993年3月期、売上高は一気に1,500億円を超え、300億円強の経常利益をあげる。

青山によれば、流通業は店長産業であり、どれだけ優秀な店長を育てることができるかが、成長・発展のカギである。その土地の人の気質、文化、歴史を知ることで出発する。小売り価格は店長が決める。店長が率先販売。気配り・気力・笑顔。店長が粗利益を決める。

1993年発刊の『非常識の発想』では、10年後、2003年には総売り上げを1兆円にする構想を語っている。さて、どうなったか。2018年3月期には連結で2548億円、単体で1888億円で国内3位である。2位のしまむらは2倍、1位のファーストリテイリングは7倍以上で差がついた。五郎が戦っていたオンワードは5位、そしてワールドとはちょぼちょぼ、AOKIは7位だ。

「21世紀に入っての日本の家計消費構造の変化」という表を見ると、200年から2108年で消費支出は月3358円の減っている。その内訳をみると「衣食住」の「衣」関連は2175円の「洋服」など月5314円で率にすると大幅な37.7%の減少だ。こういった消費構造の中で、ユニクロファーストリテイリングが一人気を吐き突出しているのは偉容である。1972年に柳井正が入し1984年社長になったファーストリテイリングは、製造と小売りを一体化したビジネスモデルでこの間に大躍進を遂げている。「紳士服の青山」の成長速度が遅いように見えるが、この環境下ではよく健闘しているともいえる。

「大衆とともに商売をすること」と「いつも社員と一緒に仕事をすること」を信条としており、経済界とは付き合わない、ゴルフもしない、自家用車をもたないなど、最前線で旗を振った。「蟻の一穴」を見逃さない働きぶりだった。「ただ生まれて死んでいくのを拒否」した青山五郎は、「喜寿を迎えた今、よくやったなとも思う。けれど満足はしない。未完だからこそ、人と企業は成長する。体が動く間は、仕事をやり続けるつもりだ。頑固たれだ」と決意を語っている」が、翌年逝去。生涯現役だった。

  1. 非常識の発想 (講談社ビジネス)

    非常識の発想 (講談社ビジネス)