浅川保「石橋湛山」を読了。多摩大フットサル部、まずは東京で優勝、今年は全国制覇を!

全国大学フットサル選手権東京大会。準決勝で明治学院大学を4対1、決勝で東大を3対1で破り優勝。顧問の杉田先生の解説を聞きながら決勝戦を観戦したが、凄い迫力だった。関東大会、そして全国大会を勝ち抜いて、「今年は全国制覇を!」と激励。

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浅川保「偉大な言論人 石橋湛山」(山日ライブラリー)を読了。

 著者は甲府一高の教諭時代(41歳あたり)に百周年記念館資料室で「校友会雑誌に寄稿した湛山の文章を次々と発見する。以後、湛山にとりつかれ、全集を読み、ゆかりの場所を訪ねてている。そして退職後に湛山顕彰のイベントを重ねながら、2007年に「山梨平和ミュージアム--石橋湛山記念館」の開設にたどり着く。現在は理事長として活動している。石橋湛山をライフワークとした人生である。

 石橋湛山は1956年12月に首相となったが、病を得てわずか2ヶ月で辞任した。出処進退の潔さで感銘を与えたが、あまりにも早い退陣を惜しまれた。

・山梨一中校長・大島正健は札幌農学校第一回卒業生で13年5ヶ月にわたり校長を務めた。薫陶を受けたのはわずか1年だが、大きな影響を受けた。湛山はこの甲府中学へは2年早く入学できたが、2年落第している。

・湛山は中学時代から校友会雑誌などで活発に文章を発表している。甲府から石和、勝沼、笹子などへの旅行記は若さゆえの大胆さとユーモアに溢れている。

・成敗と是非とは判然別事に属せり、成敗は当時の形成によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる」(石田三成論)

・卒業時、53名中17番。一高受験失敗、翌年も失敗し、早稲田へ。

・山中湖に別荘。父の供養は17回忌。日蓮宗権大僧正。書がいい。

明治神宮の建設ではなく、日本と世界の人心の奥底に明治神宮を打ち建てよ。明治賞金(ノーベル賞のような)を設定せよ。

帝国主義大日本主義を批判し、平和主義である小日本主義を主張。「一切を棄つるの覚悟」では、「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること、志の小さいことだ」と断じた。満州や朝鮮の領有が経済にも人口問題に解決にも役にたっていないことを指摘し、「満州を棄てる、山東を棄てる、その他志那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる」「世界の弱小国は我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう」「従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である」。「兵営の代わりに学校、軍艦の代わり工場を」。「帝国議会の会期3ヶ月を改めて常設」を主張。

・教育論「実業教育」「官学と私学」「私学経営の新工夫」「志を大切にせよ」「クラーク博士の教育」

・現代の人心は何故に浅薄弱小なのか。自己の立場についての徹底した智見が欠けているからだ。

・兆民と福澤を評価。福澤の「縁の下の力持」は処世の教科書として尊崇している。

・62歳、吉田内閣大蔵大臣。63歳、公職追放。68歳、立正大学学長(16年間、84歳まで)、70歳、鳩山内閣通産大臣。72歳、総理大臣。88歳、「石橋湛山全集」15巻完結。死去。

 

「名言との対話」6月11日。豊田喜一郎「技術者は実地が基本であらねばならぬ。その手が昼間はいつも油に汚れている技術者こそ、真に日本の工業の再建をなし得る人である」

豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、1894年6月11日 - 1952年3月27日)は、日本の経営者、技術者、豊田自動車創業者。

日本の「紡織機王」豊田佐吉の長男。1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ」と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。

豊田喜一郎は「一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります」、そして「今日の失敗は、工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく」と語っている。喜一郎が育てた技術陣の毎日の工夫の連続が、今日の「世界のトヨタ」に結実するのである。一人の人が志を抱いて一事に専心し、時代を超えて継続することで、隆々たる大事がなる。そういうことを豊田喜一郎の技術者人生は教えてくれる。