軽井沢の浅見光彦記念館で、再現されている内田康夫の書斎の机に座ってみる。福江市史、鴨川市史などの市史。千葉県の歴史など県史。五島史などの民族本。「街並み細見」の西日本編。「みやぎの峠」。岡山弁会話入門講座。「ふくしまの祭りと民俗芸能」などの資料が並べてあった。普段から以上のような資料を使って書いているのだろう。
全国の県別の作品の棚がある。大分県は、「湯布院殺人事件」と「姫島殺人事件」。多摩では「多摩湖殺人事件」がある。
46歳から36年間で浅見光彦シリーズ116冊、著作合計163冊という怒涛の仕事量であるが、デビューは遅く、また偶然作家になったのは意外だった。
友人にバカにされて行きがかり上、「死者の木霊」を書き上げて昭和53年度の江戸川乱歩賞に応募して二次予選で落選し。それを3000部ほど自費出版して店頭に置いてもらったのが、昭和55年12月。翌年3月8日の朝日新聞日曜版に好意的な書評が載った。それがきっかけで推理作家になったというわけだ。
私はこの人の作品を読んだことはないので、エッセイを手に入れて読んでみた。エッセイは作家のホンネが出るからだ。「存在証明」(角川文庫)の「あとがき」には内田は「エッセイには著者の本音が」出る」から、尻込みしていたが、やむなくエッセイ集のあとがきを書く羽目になった経緯が書かれている。
内田夫妻は作家になった翌年の1983年から軽井沢に住んでいる。それはなぜか?「四季の移り変わり」「不便さは車さえあれば解決できる」「東京へゆく楽しみが増えた」「自然と都会の理想的な接点」「夏は仕事にならないほど人が訪ねてくる」。記念館にたまたまいらした奥様(早坂真紀)は「春夏秋冬の四季がはっきりしているのがいい。冬もね」とおっしゃった。
軽井沢に別荘や本宅を構えているのは、堀文子、森村桂、山際淳司、藤田宣永・小池真理子夫妻、、。最近ではITの佐々木俊尚さんも三か所の一つにしている。銀行の幹部を辞めた人なども暮らしていると聞く。
ドイツまで取材の足を延ばしたという作品を勧められたので読んでみよう。
内田康夫は脳梗塞で左半身まひだそうだ。「筆を折ったのですか」と奥様に聞くと「違います。休筆です」とおっしゃった。健筆をまた」期待したい。
久しぶりの仙台で仲間と食事会。横野さん。粟野さん。佐藤さん。
「名言との対話」8月9日。後藤田正晴「嫌いな人間だが、一緒に仕事はする」
後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務・警察・防衛・自治官僚、政治家。
警察庁長官(第6代)、衆議院議員(7期・徳島県全県区)、自治大臣(第27代)、国家公安委員会委員長(第37代)、北海道開発庁長官(第42代)、内閣官房長官(第45・47・48代)、行政管理庁長官(第47代)、総務庁長官(初代)、法務大臣(第55代)、副総理(宮澤改造内閣)などを歴任し、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」、「日本のジョゼフ・フーシェ」などの異名を取った。
もうすこし早く政界に入っていれば総理になったと言われている人物だ。中曽根内閣の官房長官時の総理を押しとどめたエピソード、部下であったリスク管理の佐々淳行の著書などで、その辣腕ぶりと人情家ぶりは私もよく理解しているつもりだ。
「大衆というのは、個人個人をとってみれば、いろんな人がいる。賢い人もいるし、愚かな人もいる。しかし、全体としての大衆の判断は、非常に賢いといえるのではないか。だから、政治家だけでなく、公的な仕事にあたる人は、大衆のマスとしての判断は賢なり、という考え方で行動しなければ、必ず国民からしっぺ返しを受ける」
「政治家がいつも考えなければならないのは、国家、国民の運命である。そのためには、不断に勉強していなければならないが、特に歴史の教訓、国家の興亡の歴史に学ぶことが大変重要なことではないかと思う」
「悪い情報は深夜でも報告せよ。いい情報は明朝でいい。
「二人か三人しかおらん上役をごまかせないような奴は、一人前になれるワケがない。しかし、下の目はごまかせない」
「お茶くみのおばさんに愛されないような人間は偉くなろうと思うな。」
後藤田五訓は官僚に対する訓示だが、どの仕事にも当てはまる。 1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え 2.悪い、本当の事実を報告せよ 3.勇気を以って意見具申せよ 4.自分の仕事でないと言うなかれ 5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ
人間に好き嫌いはある。好きな人たちだけで仕事ができるならどんなにいいかと想像することがある。しかしそれでは物事は成就しない。好き嫌いを超えて、あらゆる人と一緒に事にあたらなければならないのが真実だ。その真理を仕事師・後藤田正晴は教えてくれる。