モンゴル訪問団ーーウランバートルのチンギスハン空港に到着。

 久しぶりの成田空港からモンゴルのウランバートルに出発。寺島実郎学長を代表とする訪問団。

大きくは多摩大グループ、神奈川大学グループ、戦略経営塾の経営者グループ、勁草塾のグループからなっている。合計で23名。まず、結団式。寺島学長からこの訪問団ができた背景と実りある成果をと言う話があった。その後自己紹介と名刺交換。

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この訪問団は15日から18日までの四日間になる。15日の早朝の北朝鮮のミサイル発射から18日の大型台風の関東通過までになると思うが、さてどうなるだろうか。

 

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 機内の地図サービスが面白い。成田からウランバートルまでのフライト時間は5時間30分。東京から韓国のソウル、黄海、中国の大連、天津、北京の上空を通り、ゴビ砂漠を超えて標高1,500メートルのモンゴル高原ウランバートルまで進む。当然のことだが、北朝鮮の上空は通らない。

 昔の隣が同僚のバートル先生。バートル先生は中国の内モンゴル出身のモンゴル族だ。15年前のモンゴル訪問の経験も交えていろいろ情報を伺う。

モンゴルは旧ソ連との蜜月時代はモンゴル人民共和国と称していた。この時代は中国の内モンゴルは経済的に苦境になり、外モンゴルつまり現在のモンゴルはソ連の援助もあり豊かだった。ソ連崩壊でモンゴルが苦境に陥ったとき、つまり民主化直後は日本がかなりの現場している。この事は国民皆が知っている。

モンゴルの政体は共和制で、大統領制と議院内閣制の併用だ。1917年のソ連誕生を契機に、1924年にはモンゴル人民共和国を建国している。 1989年のソ連崩壊後の1990年に社会主義を放棄し、 1992年に民主化。この国の統計を見ると、2011年にすべての項目が最高を記録している。それ以降は停滞気味だ。現在では輸出入とも中国が最大の貿易国であり、日本は自動車関連の輸入等でロシアに次いで第3位。日本はODAでモンゴルのインフラの充実に大きく貢献している。 1990年には航空協定が締結された。 2016年6月6日より日本とモンゴルのEPAが発行されている。親日国。戦争直後にソ連から配給された日本人捕虜たちがいた。彼らは政府庁舎、国立オペラ劇場、中央図書館、外務省、首相官邸、国立大学などを建設をしている。国内総生産は120億ドルと世界で133番目だが、石炭などを中心とする資源が豊富だ。

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 ウランバートルのチンギスハン国際空港に到着。

気温は10度ということだが外に出るとかなり冷える。

バスの内部は相当派手な作りになっている。日本に12名ほどいたというガイドのチングンさんからモンゴルに関する情報をもらう。

水は硬水なのでミネラルウォーターを飲むこと。トヨタプリウスが中心の日本車が多いが乱暴な運転なので気をつけること。乾燥しているので喉痛める人が多いので水を飲むこと。

モンゴルの国土は日本の4倍。北はロシア、南は中国と接している。人口は3,000,000人ほど。人のウランバートルには1,400,000人と人口の半分近くが住んでいる。そのうちの3割は都心のマンションに住み7割はゲル集落に住んでいる。社会主義時代には40万人として計画された年であるが、民主化されて一気に住民が増えて問題も多い。

モンゴルのエネルギーは火力発電がほとんど100%である。冬はマイナス30度から40度。

白鵬経営のトヨタショップ店、火力発電所の煙、ケンタッキーフライドチキン、カラオケ屋などを車窓に見ながら走る。

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 ホテル到着。早速チェックインした後は食事会。

高岡正人在モンゴル日本特命全権大使から挨拶があった。

「日本とモンゴルの国交が自立してから今年は45周年。いろいろな行事があり盛り上がっている。大島衆議院議長もモンゴルに来ている。7月の大統領選挙では予想に反して矢 野党の大統領が誕生した。現在は新しい首相の使命を待っているところだ。」

 

 夕食の席の向かい側は寺島学長、一般社団法人勁草塾を率いる元内閣官房副長官の斉藤勁先生、右が株式会社コバヤシの小林社長。経営者同士の情報交換が興味深い。このツアーから新しい企画が生まれそうだ。

左は多摩大の金先生を中心に北朝鮮の実情について盛り上がった話をしている。金先生は平壌の大学で数年間教えていたので、話はとてもリアルだ。

 

 

「名言との対話」9月15日。石田梅岩「自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは「文字芸者という者なり」」

石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日1685年10月12日) - 延享元年9月24日1744年10月29日))は江戸時代思想家倫理学者石門心学の開祖。

石田梅岩は、江戸初期の僧侶・鈴木正三(1579-1655)が説いた職分仏業説を発展させ、商業の本質は交換の仲介という役割を担っているとし、商売の利得を肯定し、倹約と富の蓄積を人間の天命であると考えた。

「売って利益を得ることは商人の道である。その利益は武士の給料と同じである」

「お客さんを粗末にせずに正直に努めれば、八割方はお客さんの満足を得ることができる。そのうえで商売に精を出せば、生活の心配などないのだ」

このような、どのような仕事も修行と考え一心不乱に励めという梅岩の思想は、町人にも歓迎された。後にこの勤勉の思想と名付けられた考え方は、日本の資本主義を準備したと評価されている。

字句の解釈よりも、心のあり方を重視し、これは朱子を批判した王陽明の心学と区別するために、創始者の名前を冠して石門心学という。それは庶民によく理解できる生活道徳であり、多くの心酔者を生んだ。

弟子には18歳で入門し石門心学の普及に功績をあげた手島堵庵がいる。また明治以降では講談社を創業した雑誌王・野間清治がいる。野間はビジネスにおける倫理の大切さを主張し、絵画を収集し野間記念館で展覧する礎を築くなど、実業以外にも社会貢献にも熱心だった。現在でも、心学敬明舎などで、梅岩の思想の研究が行われている。

在野の学者にすぎないと梅岩を批判する者も多かったが、「文字がなかった昔に、はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし」といい、その後に、冒頭の学者に対する痛烈な批判を行っている。

本は行いで、文字は枝葉である。文字芸者になるな、この梅岩の言葉を心に刻みたい。