亀岡の「大本」を訪問。

山陰本線で京都から亀岡へ。10時に到着。

駅前で石田梅岩銅像が出迎えてくれた。梅岩は江戸時代の思想家で、いわゆる石門心学の開祖だ。長く商家働いたこともあり商人の職分を明確に説明をした人である。45歳から自宅で講義を行い士農工商の身分はなく誰でも受け入れた。最盛期には門弟は400人に達した。


f:id:k-hisatune:20220402220900j:image

f:id:k-hisatune:20220402220905j:image

亀山城に歩いて向かう。この城は明智光秀のつくった廃城である。光秀を打ち破った秀吉が重視した。その後家康がこの城を整備している。明治時代に入っては愛情となった。1919年大正8年に宗教団体の「大本」の出口王仁三郎が購入し、大本の本拠地として整備をした。世界宗教の要素が強かったため大本は政府から危険視され、2度にわたって徹底的な弾圧受けた。王仁三郎は7年間の投獄を終えた後、自力で整備をして今日にまで至っている。

2時間ほどで亀山城を歩き予習を完了。12時に駅前に戻って橘川幸雄さんと合流。橘川さんによればこの街は反体制の街だ。明智光秀、宗教団体の大本、そして新しい理論を述べた石田梅岩を生んだ土地である。京都近郊であるが、反京都の人物を輩出したと言うことになるであろうか。

橘川さんの主催する深呼吸学部のメンバーと一緒に大本教の本部に向かう。ここでは橘川さんのツテで出口王仁三郎の曾孫である出口篁さんにじっくりと解説をしていただくという幸運に恵まれた。


f:id:k-hisatune:20220406150010j:image

f:id:k-hisatune:20220406150004j:image

f:id:k-hisatune:20220406150001j:image

f:id:k-hisatune:20220406150007j:image

f:id:k-hisatune:20220406150212j:image

f:id:k-hisatune:20220406150206j:image

f:id:k-hisatune:20220406150209j:image

f:id:k-hisatune:20220406150259j:image

f:id:k-hisatune:20220406150302j:image

f:id:k-hisatune:20220406150305j:image

f:id:k-hisatune:20220406150308j:image

f:id:k-hisatune:20220406150349j:image

f:id:k-hisatune:20220406150346j:image

f:id:k-hisatune:20220406150343j:image

f:id:k-hisatune:20220406150341j:image

f:id:k-hisatune:20220402221000j:image

f:id:k-hisatune:20220402220957j:image

黒門。梅と松。綾部は天国、亀山は霊国。コノハナザクラ。

万祥殿でお祓いを受けた。大本の神は、大天主大神。宇宙創造の神。唯一神。仏教の阿弥陀如来も、イスラムのアラーも、キリストも世界の宗教は皆この神が姿を変えたものだということになる。もちろん日本の八万の神もこの唯一神の表れである。この教義では他の宗教とは争いがない。いわば世界宗教である。大本はエスペラント語の普及に熱心な団体だという事は知っていた。エスペラント語の碑であった。

「かむながらたまちはへませ」。神、霊幸、倍。神様を全面的に信頼をするというお祈り。

能舞台が右手にあった。信仰と芸術は両輪である。大自然は神が作った芸術である。そこから宗教が生まれる。芸術によってそのことを感じる感度が上がる。「芸術は宗教の母である」。

四大主義。「清潔主義。楽天主義。進展主義。統一主義」。楽天主義とは、天命を楽しむという意味だそうだ。

四大綱領。政。教。慣。造。

朝陽館という公館でお茶をいただいた。大本では教主は歴代女性である。

瑞之御霊大神。月の輪台。拍手の仕方は左手より右手を少し下げて打つ。4拍は神に、先祖には2拍。

陶芸評論家の加藤源一郎は王仁三郎の焼き物を「ようわん」と命名した。


f:id:k-hisatune:20220403053538j:image

f:id:k-hisatune:20220403053535j:image

大本についての本を2冊購入した。梅棹忠夫先生の「日本探検」の中の大本についての力作を読んだことがある。「大本」については研究が必要だ。高橋和巳邪宗門」は大本の弾圧の記録である。これも読もう。

 

 

 

ーーーーーーー

歩いてNPO和良久に向かう。前田比良聖さん。

極真空手空手バカ一代大山倍達。kー1。、、

40年前に大本の人との出会いがきっかけ。植芝盛平という合気道創始者。海外でも。

「言霊の理論」を実践によって体系化、技化した。佐々木小次郎の木剣を復元。身体意識。


f:id:k-hisatune:20220402221138j:image

f:id:k-hisatune:20220402221135j:image

AIノベリストを開発したSta くんと合流。

 

「名言との対話」。4月2日。熊谷守一「自分を生かす自然な絵をかけばいい。下品な人は下品な絵。ばかな人はばかな絵。下手な人は下手な絵をかきなさい。結局、絵などは、自分を出して生かすしかないのだと思います」

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年明治13年4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。極度の芸術家気質で貧乏生活を送った。

豊島区千早にある熊谷守一美術館には知的な感じの老夫婦らがゆっくりと訪れていた。この画家がようやく売れ始めたのは1964年頃というから84歳頃と、随分と貧乏な時代が続く。好きな小さな子供と鳥と虫を題材に絵を描いて楽しんで97歳で没している。「画壇の仙人」の自然体の暮らし方に共感するファンは多い。

「たとえ乞食になっても絵かきになろう」と絵かきを志す。「もし神様がいたらこんな姿では」とアイヌが思った絵をかいた。「これ以上人が来るようになっては困る」と文化勲章を辞退した。こういうエピソードは熊谷の人柄と志をよくあらわしている。

文化勲章の辞退者を数人あげてみよう。河井寛次郎=名利を求めない主義で、自作にも銘を入れず人間国宝も辞退。大江健三郎ノーベル賞は受賞したが文化勲章はおかしい。杉村春子=自分には大きすぎる。戦争中にもらえなかった人がいる。

「自分で何かを考え出したりつくったりするのは平気だし好きなのだが、人のマネというのが不得手なのです」

「絵を描くのは、初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい。描くことによって自分にないものが出てくるのがおもしろい」

「大好きなのは、世の中にいっぱいあります。特に小さな子供と、鳥と虫には目がありません」

熊谷守一の好きな言葉は「独楽」「人生無根帯」「無一物」「五風十雨」(五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降る)であり、嫌いな言葉は「日々是好日」「謹厳」だった。この人は自然体の人だった。「石ころ一つとでも十分暮らせる」とも言っている。

2017年の東京国立近代美術館で開催中の「熊谷守一 生きるよろこび」展や、たましん美術館でも熊谷守一の絵を見ている。

下品な人、ばかな人、下手な人、それぞれの人にふさわしいものしかかけないから、それに徹せよということか。表現されたものには表現者の姿がうつる。それを突きつめるしかない。