多摩キャンパスから、湘南キャンパスへ。

 

「副学長日誌・志塾の風」171010

午後:多摩キャンパス。ラウンジ。

・北山さん:就職の状況

・酒井さん:入試の状況。女子、一般入試、、。

・酒井先生:本務校の法政大での勤務状況

・小西先生:時間割の工夫

・金先生:教学マネジメント会議

・杉本係長:戦略会議(学生・アクティブラーニング)

 

湘南キャンパス

学部運営会議17時ー19時半。

編集

・離学(目標値60。47)。予算執行状況。

・AEPを日本語で。時間割の日本語化。

・ゼミ説明会に参加者多し(110)。

・高校教職1期生が合格。

・メジャー選択:ホスピ90。インター35(教職は何人か)

・学内行事を秋学期から復活

・キャリア講座の出席率と内定率に極めて高い相関。

・人事委員会報告

 

「名言との対話」10月10日。清河八郎「回天」

清河 八郎(きよかわ はちろう、天保元年10月10日1830年11月24日) - 文久3年4月13日1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士 

本名は斉藤元司である。生れ故郷の清川を使おうとするが、川は小さいので大きな河の文字を用いることにした。また鎮西八郎為朝を尊敬していたので八郎を名乗った。

清川村の素封家に生れた八郎は家出をし、江戸へ出る。22歳で神田お玉が池の千葉道場で千葉周作から北辰一刀流の免許を受け、25歳のときに神田三河町で文武指南を行う塾を開く。この時代、文を教える塾と武を教える道場を一緒に兼ねた塾は極めて珍しかった。教育者を本分としていた清河は桜田門外の変に衝撃を受ける。その名簿を見て、年齢の若さや身分の低さに驚き、時代の変化と自らの役割に目覚める。

清河は「虎尻之会」または「英雄の会」と呼ばれる会を結成し盟主となり、幕府を倒し天皇の親政に変える回天の大事業を画策し、水戸、仙台、京都、九州を遊説し義師をつのる。平野國臣ら各地の志士に会っている。寺田屋事変で挫折するが、その後も活発に活動を重ねるが、34歳の時に刺客に襲われ志し半ばに倒れる。

山形県庄内町清川の記念館内には「維新 回天 偉業 之魁」と書いた徳富蘇峰の書がある。全国の記念館には蘇峰の書が多い。他には井伏鱒二か。こういう人々は旅をしているのだ。また頭山満の「尊皇攘夷」という書もあった。明治維新を高く評価し信長時代から明治時代までを「近世日本国民史」という百冊の本を書いた徳富蘇峰と右翼陣営の頭目であった頭山満の書である。金屏風の「智信 仁勇 厳」という清河の書は、寺田屋事変の数日前に薩摩屋敷で書いたものだった。

清河は少年時代から日記をつけていた。「旦起私乗」という名前の日記には天・地・人の3巻がある。「旦起」とは、朝早くおきて勉強するという意味で、「乗」とは記録のことである。天は18歳の日記、地は19歳の日記、人は20歳の日記であるが、すべて漢文で書かれており、清河の学識の高さが偲ばれる。「私乗後編」も展示されていた。こちらはメモ帳に小さな字でぎっしり書かれていた。

「西遊八冊」という旅行の記録がある。母親を連れて伊勢参りを行った169日間の旅の記録である。善光寺伊勢参り、奈良、京都、大阪、四国の金毘羅、安芸の宮島、京の祇園、大阪天神、天橋立石山寺三井寺、江戸の芝居と壮大な観光旅行である。母は駕篭、自分は徒歩であった。この克明な記録は、自分のためではなかった。母が後に思い出せるようにかな文で書いている。

鶴岡出身の作家・藤沢周平は、清河八郎を「回天の門」という小説で描いている。清河八郎は、家を飛び出し、遊女を妻に迎え、革命に奔走し、書や歌を詠み、全国を駆け巡って、短い人生を駆け抜けた。「回天」とは清河八郎の革命思想をあらわした言葉である。その革命思想と強固な意志は、「魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道」「砕けても また砕けても よる波は 岩角をしも 打ち砕くらむ」などの歌にあらわれている。

弛み衰えた勢いを盛り返す、時勢を一変させる。そしてすべてが改まって新しくなる。自身の名前に歴史と地理を入れ込んだ英雄的気概の持ち主・清河八郎は、この回天という大事業に、魁けたのだ。幕末から維新にかけては英雄豪傑が数多く登場したのだが、そういう時代のうねりをつくりだす一人となった。社会や政治の革新もそうだが、衰えた組織も「回天」の気迫で起死回生をはかろうとする人々が必要である。