南方熊楠誕生150年記念企画展--100年早かった智の人

国立科学博物館で開催中の「南方熊楠」展。

南方熊楠(1867ー1941)は、アメリカのアマチュア菌学者カーチスが6000点の標本をつくったこと、イギリスの菌学者ハンクレーが厖大な標本を持っていることを知った。そしてそれ以上集めようと決心し標本採集に精を出した。アマチュアのカルキンスと交流があった。

25歳から30歳まで、ロンドンに滞在する。雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」などを寄稿している。1895年、28歳から大英博物館で、民俗学博物学、旅行記などの筆写を開始する。「ロンドン抜書」は実に52冊に及んでいる。結果的に、「ネイチャー」には55本の論文を寄稿している。33歳で、日本に帰国。

1900年11月20日の日記には「変形菌10、キノコ450、地衣類250、藻類200、車軸藻類5、苔類50、せん(?)類100」という採集目標を立てた。しかし、その目標はわずか9ヶ月で達成してしまう。故郷である那智生物多様性は予想以上だったのだ。熊楠は隠花植物と説話・民話・伝説を収集した。田辺抜書は61冊に及ぶ。「学問と決死すべし」。

熊楠は写生好きであり、実に上手い。その特徴は必ずどこかに人を描いていることだ。それはスケールをみせるからだった。鋭い観察眼と深い洞察力で、収集し、無邪気に自慢する人でもあった。

目標にした74歳までの5000枚の図譜。整理まで手がまわらずに、それらは可能性のままになっている。菌類図譜は4000点に近い、それらは自然界からの抜書である。

「集めること」「図は平面にしか画きえず。実は長、幅、の外に厚さもある立体のものを見よ」

南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきた。これがこの企画展の結論だ。

南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠-100年早かった智の人-」(2017年12月19日(木) ~2018年3月4日(日))- 国立科学博物館

 

「名言との対話」12月30日。小杉放庵「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年明治14年)12月30日 - 1964年昭和39年)4月16日)は明治・大正・昭和時代の洋画家

日光東照宮の近くにある小杉放庵日光美術館は樹木や建物が周囲の景観と一体化した立派な美術館である。鉄骨の構造を視覚的に生かした大屋根は優れた音響効果を発揮するため、季節ごとに室内音楽のコンサートも開催できる空間を持っている。市が出資している財団法人となっている。
日光の二荒山神社の神官の父は平田派の国学者だった。幼名国太郎は尋常中学校1年で退学し、日光の五百城文哉の内弟子となり絵を学ぶ。そして後に小山正太郎の不同学舎に入学する。ここで同窓だった萩原守衛は「天下の俊才は青木(繁二郎)と君(国太郎)と僕ばかりだった」と述べているように、国太郎の才能はずば抜けていたらしい。
20歳となった国太郎は、小杉未醒(みせい)と名前を変え、油を志す。彼はとても器用で、漫画家、挿絵画家などでも活躍するが、交友範囲も広い。国木田独歩横山大観という年上の大家とも対等の関係を保持していたし、田山花袋などとも親交があった。山口昌男は「時代精神が最も望ましい形で現れるネットワークを形成する力」があったと言っている。
小杉は文展で活躍するが、夏目漱石からも朝日新聞紙上で絶賛されている。また友人の芥川龍之介は「何時も妙に寂しそうな薄ら寒い影がまとはっている」と評していた。
32歳で洋画修行のため渡欧し、ピカソマチスに傾倒する。しかし、「西洋画は体質にあわない」として日本画へ転向する。そして帰国後は二科会と日本 美術院の再興運動に参加し、日本美術院の洋画部を主宰する。しかしそのいずれからも脱退し、春陽会を結成しその中心になる。ここでは中川一政萬鉄五郎岸田劉生梅原龍三郎らと親交を深めている。
昭和以降はもっぱら日本語を描くようになり、放庵と名を改める。そして風景から花鳥、道釈を対象とする。この道釈とは、良寛など有名な人物を描くことをさしている。
放庵は、写生は重視したが、「自己の想像的自然を創造しなくては画にならないのである」と述べている。
明治・大正・昭和という時代の流れの中で、常に美術界の中心にて、洋画と日本画の狭間で独自の境地を拓いた。洋画と邦画の二筋の道を歩いた。この人物は、短歌、随筆、批評もこなすなど、一筋の道を歩むにはあまりに興味が広く、またそれをこなす才能が備わっていたのであろう。
東大安田講堂の壁画が小杉の描いた代表作のひとつで、「動意」「静意」「湧泉」「彩果」などがある。絵を見てまわったが、洋画にも和風の味がある。風景や動植物は人物画もいい。

時間的に古いものは現代に於いては新しい感覚にあふれている、ということがよくある。異質の空間の接触においては、古いものを新しいと感じることがよくある。相手の文化にないものは自分たちには古くても相手に変化を与えてくれる。時間の流れと空間の広がりの中で、対象と筆法を変化させていく、それが芸術の醍醐味だろう。芸術は進化しない、ただ変化するだけだ。