井上ひさしをイサム・ノグチに急きょ変更。

来月刊行予定の本で、ミニトラブル。

「11/17井上ひさしさんですが。ウィキの情報が間違っているのでしょうか、誕生日は11/16のようです。差し替えますか?」というメールが編集者からきたので、急遽11月17日の分はイサム・ノグチに変えることにした。以下、その原稿を書いた。やはり、一冊の本を出すには関門が幾つもある。

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11月17日(誕生日編)。イサム・ノグチ「自然が最大の彫刻である」

サム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。

父親の野口米次郎は有名な英詩人、小説家、評論家、俳句研究者であった。母親のアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアについては、後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」とイサムは語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。ドウス昌代イサム・ノグチ 宿命の越境者』に感銘を受けた松井久子監督が7年の歳月をかけて完成させた作品だ。私はこの映画の中で神奈川県茅ヶ崎での生活、不登校となったイサム、そしてイサムの芸術的才能に気づきアメリカへ送り出す母親の愛情、、などを興味深く観た。

第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際にはイサムは自らアリゾナ州日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち日本人社会から冷遇されたため、収容所からの出所を希望するのだが、日本人であるとして出所はできなかった。イサム・ノグチは二つの祖国を持っており、その悲哀を経験している。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」「肝心なのは見る観点だ。どんな物をも、一個の古靴でさえも彫刻となるものはその見方と置き方なのである」

ノグチは多作な彫刻家であり、ユネスコの庭園(パリ、1958年)、チェース・マンハッタン銀行ビルの沈床園(1964年)、IBM本社庭園(1964年)、、イェール大学ベイニッケ(バイネギーレア)図書館の沈床園、、、など世界中を舞台にし、1987年にロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。日本でも、門(東京国立近代美術館、1962年)、オクテトラ、丸山(こどもの国の遊具、1966年)、万博記念公園の噴水(1970年)、つくばい(最高裁判所内、1974年)、天国(草月会館内、1977年)、土門拳記念館の庭園(1983年)、タイム・アンド・スペース(高松空港、1989年)、ブラック・スライド・マントラ(1992年)、モエレ沼公園(1988年 - 2005年)、イサム・ノグチ庭園美術館など膨大な仕事を残しており、1986年には日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞している。

イサム・ノグチは、1969年からは四国香川県の五剣山と屋島の間にあり庵治石の産地の牟礼町にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、ニューヨークとを往き来し制作に励んだ。1999年にできた「イサム・ノグチ庭園美術館」を訪ねたが予約制だったので入れず、外から見物したことがある。ノグチは「地球を彫刻した男」と呼ばれたのだが、自身は最大の彫刻は地球の自然であると語っている。ノグチの最大の師匠は大いなる自然であったのだろう。

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1年ぶりにホームコースである「相模湖カントリークラブ」で好天に恵まれて弟とプレー。スコア以外は最高だった。美しい風景の連続でストレスを発散できた。

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5月21日。藤山寛美「順番を待っているだけの人間には永久に順番が来ない」

藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日 - 1990年5月21日)は、日本喜劇役者

新派の二枚目役者だった父・藤山秋美よりも役者としても人間としても寛大になれという意味で、寛美という芸名がついた。「あんまり下手やと、草葉の陰でお父さんが泣きはるで」と言いつのるのにたいして、「お母はん。どの辺の草むらで泣きはるの」と訊いたという逸話も寛美らしい。

 「遊ばん芸人は花が無うなる」というお茶屋を経営していた母親キミの教えを守り、金に糸目をつけず豪遊した。「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれ、戦後の上方を代表する遊び人として多くの逸話を残した。銀座のクラブのドアマンに車をチップとしてプレゼントしするなど湯水のように金を使いまくった。その結果は現在の価値で10億前後で破産でし、松竹をクビになる。

松竹新喜劇は寛美がいなくなると火が消えたようになり、寛美を呼び戻す。それから20年、244ヶ月連続無休公演という世界記録を樹立した。大阪、京都、名古屋、東京、地方巡業で、一ヶ月のうち25日は、昼3本、夜3本の公演、その他の日は稽古という猛烈な日々であった。公演の回数としては3万回を越えるという途方もない記録である。

1959年から寛美のアホ役の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送が始まり全国にファンをつくった。私はこの番組で家族と一緒に大いに笑ったものだ。ただ、家族との関係は悪く、寛美は自宅でダジャレをいうと、「何が面白いのん?」「しょうもない事言うてんとはよ食べ!」と冷たくあしらわれていたそうだ。

「わしはいいぞ。 せやけどな、お金を払って見に来てくれるお客さんに、そんな芸でええんか!」

寛美の楽屋には「芸」の一文字が掛けられていた。 辞世の言葉は「いい脚本はないか いい芝居がしたい」だった。

1951年に「桂春団治」では、寛美に与えれのは主役の渋谷天外に「ツケを払うとくなはれ!」というセリフだけだったのだが、アドリブで延々とアホ役を続け、人気が沸騰した。やはり、寛美はただ順番を待つ人ではなかった。与えれたチャンスで出番をもぎ取る。その姿勢を生涯貫き、ついに喜劇王となったのだ。順番を待つだけの人には永久に順番は来ない。至言である。