「生誕100年 山下清展百年目の大回想」(SOMPO美術館)

新宿の「SOMPO美術館」で開催中の「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」を7月2日に堪能した。

子ども頃の昆虫を描いた絵から始まって、生涯に描いた、制作した絵を見せていくという大がかりな展覧会だった。

放浪の画家。徴兵忌避。自由。普通の人の知能の8割程度で、軽度の精神薄弱として扱われていた。

18歳から32歳までの放浪。千葉、埼玉、栃木、茨城、福島、新潟、長野、群馬、山梨、宮城、山形ッ、東京、神奈川、福岡、大分、宮崎、鹿児島、山口、広島、岡山、兵庫、大阪、京都、石川、富山、福井と、半年から3年ほど断続的に放浪している。寒いところは苦手でいつも南を目指している。とくに鹿児島は気に入っているようで何度も訪れている。リュックを担ぎ、鉄道の線路をずたいを歩くという旅だった。

「絵のことなら笑われない」という自信を得た山下清は34歳から著名画家になっていく。1956年の初めての展覧会には80万人が訪れ、当時皇太子であった現在の上皇陛下もその一人となっている。ただ、有名になっても、画家たちだけでなく、谷川徹三小林秀雄も批判的だった。伴走しした「先生」こと、式場隆三郎は「ひとりで考え、ひとりでやっていく」と語っている。そして「絵画の本道を歩いてる」と書いている。山下清は独学の人だったのだ。

代表作は「長岡の花火」。日本一といわれる花火だ。「僕は花火が大好きです」。「みんが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりつくっていたらきっと戦争なんて起きなかったんだな」。最後の言葉は「今年の花火見物はどこにいこうかな」だった。

貼絵が有名だが、数千から万を超える紙を手でちぎって、貼り付ける。これは工芸に近い。描くのではなく制作だ。均質的で克明な描写が特徴だ。

油彩画はチューブに入った油絵俱をそのままカンヴァスに出すという独特の技法であった。

画家・山下清は80歳まで生きるつもりだったが、実際の生涯は49年だった。1965年から後半生のライフワークとなる大作「東海道五十三次」に取り組み、ペン画の素描画55点を制作し、そののちに「貼絵」55点を完成させる計画だった。結果的に、4年かかったこの素描画55点が遺作となった。完成後は「日本百景」を描こうとしていた。

制作時間のコントロールができた人だ。朝10時から始め、12時に昼食、15時に休憩。そして17時にはピタリと終わる。潔癖症とでもいうべきだろう。

山下清は制作の時間を几帳面に記している。昭和29年3月14日から4月7日の「鹿児島県桜島」では、「3月14日 10・25-12・40 13・10-15・35 16-17・20」というように記し、7日に「出来上り」と書く。「かかった時間」と「かかった日数」も記している。

ゴッホは可哀そうだ。生涯で絵が一枚しか売れていない。死んでから有名になっても嬉しくないな」

座談の名手・徳川三夢声との対談が面白い。「兵隊の位になおすと、、」が得意のフレーズだ。この言葉は流行語になっている。梅原龍三郎が大将なら、山下は佐官クラスだとい夢声から指摘され納得している。

独学であったこと、ライフワークを意識していたことなどが印象に残った。

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  • 寺島さんから電話「カラダ・アタマ。900万回。シリコン・バレー。多摩学」。報告「多摩学事始め・多摩人」。
  • 河野初江さんと電話:全員の了解がとれたので発刊にとりかかろう。
  • 団塊の正体」を読み始める。
  • 散髪・1万歩。

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「名言との対話」7月13日。野口米次郎「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」

野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年明治8年〉12月8日 - 1947年昭和22年〉7月13日)は、明治大正・昭和前期の英詩人小説家評論家俳句研究者。

愛知県生まれ。志賀重昴宅に学僕として寄宿。慶応義塾を中退し、1893年19歳で単身渡米。詩人ホワキン・ミラーを知り詩作を始める。1896年第一詩集『Seen and Unseen』を刊行した。作家で教師のレオニー・ギルモアを知る。1904年帰国。1905年慶応義塾文学部教授。ほかに詩集『From the Eastern Sea』『二重国籍者の詩』などがある。

私は2010年末に映画「レオニー」(松井久子監督)を観ている。原作は、ドウス昌代イサム・ノグチ−−宿命の越境者」(講談社文庫)である。彫刻家として有名になるイサムの父が野口米次郎である。母はレオニー・ギルモア。イサムは後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」と語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。父・野口米次郎と母・レオニーの物語で、悲しいイサムの生い立ちがよくわかるストーリーだった。

中央公論社『日本の詩歌 木下杢太郎・日夏耿之介 ・野口米次郎・西脇順三郎』を読んだ。以下、野口の詩からの抜き出し。女、鳥、太陽など、この詩人が書く詩の中にあらわれるものは詩の暗喩である。

ああ、私は雪のやうに白い原稿用紙へ落ちる思想の枯葉を永遠に眠らせよう(「枯葉」)

ああ、雨は屋根に釘を打つ、いな夜の暗闇に釘を打つ、いな宇宙の沈黙に釘を打つ(「雨の夜」)

私共は富士をめぐって、死の一字を忘れる、、、死はあまい。生は死よりも更に甘い(「北斎の富士」)

すすり泣き悲しい月の魅力は、古い昔仙女の顔にあったものだと人はいふ。、、その眼をかがやかす女僧のやうに、、、、気高い星と処女の薔薇が愛の眼差しを振り替わす(「月下」)

ああ、私も彼と同様に、同じ生命の感動を味わひたいもおだ(「雀」)

お前は、歌の順番を待ってゐる他のものどもを考慮しない(「鶯のこう?」)

熱心が極まる時、彼は沈黙に入り、言葉を失ふ時彼は自分自身の人格を作る(「綱渡り」

私は薔薇の花弁のなかにさへ全宇宙を運びこむ、私もこの魔術師の風だ(「魔法師」)

私は私の心をそっと横から眺めてゐることがあります。この心といふ画布の上へ、少なくとも私が意識する私の人生の過去三十年間に、どれだけ私が詩を書いては消し、書いては消したか知れません。それで私の心に、雨あげくの庭の地面のやうに、云ふに云へない不思議な詩の色が出てゐるのですが、人にはそれが見えますまい(「画布」)

アメリカ在住時代からも野口米次郎は行動的であったが、日本帰国後もアジア研究に熱心となる。魯迅タゴールガンジー、ボースらと深く交わった。国内でも、高村光太郎、西城八十らとも交わっている。肉体的にも精神的にも相当なエネルギーの持ち主だたようだ。太平洋戦争の賛美派であり、忘れられた詩人であったが、その後に再評価されている。

49歳で刊行した詩集「山上に立つ」では、「五十に垂(なんな)んとして人生の頂上に起つと感じた」とし、「上るに路が無いもう一つの山を認めて大飛躍をなさんとす、、」と書いている。人生50年時代を意識した活動であるが、野口米次郎の心意気を感じることができる。敬愛する芭蕉は臨終の際に辞世の一句を所望されたとき「これまで書き捨ててたどの句でもよいから辞世の句とせよ」と答えたことを紹介し、「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」と同じ年に刊行した詩集『最後の舞踏』の裏面に記している。芭蕉も野口も精魂を傾けて俳句と詩を創作していたことに心が熱くなる。野口米次郎の場合、気迫あふれた二度目の人生は、それから20年以上あった。