中原中也記念館(山口市湯田温泉)--「あゝ おまえはなにしにきたのだと……  吹き来るカゼが私に云ふ」

中原中也記念館。山口市の隣の山口県湯田温泉

昔は小郡駅だった新山口で降りて乗り換えて湯田温泉駅に着く。中原中也記念館は、生家跡に立つ石造りの立派な建物だ。哀しい目と独特の帽子。このトレードマークの帽子は記念館で売っていた。

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1907年生まれ。16歳、3つ年上の女優長谷川泰を紹介される。18歳、泰子と上京。小林秀雄を知る。泰子、中也より5歳年長の小林秀雄の愛人となり去る。20歳、河上徹太郎を知る。21歳、大岡昇平を知る。父死去、帰郷せず。23歳、泰子が茂樹を生む、名付け親。24歳、青山二郎を知る。26歳、遠縁の上野孝子と結婚。27歳、『山羊の歌』。29歳、文也の死。30歳、1937年永眠1938年、『在りし日の歌』刊行。

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 「中原中也を語る 大岡昇平」展をやっていた。2歳年下の友人大岡昇平からみた中原中也像が語られている。強要される。歴訪癖。なぐる(4尺9寸5分の中原が、5尺5寸5分の大岡をなぐった)。からむ。毒舌。茶目。酒に弱い。不幸。いつも自分の感覚しか語らない。「人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか」「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人」「伝説を作る趣味」「生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い、雷同的な他人という簡明な対立から世間を眺めた」

 

友人たちの中原中也観。

小林秀雄「熟さない果実の不潔さ」「彼は詩人といふより寧ろ告白者だ」

草野心平「中原よ。地球は冬で寒くて暗い。じゃ。さよなら」

青山二郎「精神が人間の形の通りに、壁に写った影の様にピッタリ合致している人間」

長谷川泰子「中原は終始一貫して大岡昇平の「酵母」だった。思想の根源だった」

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井上公園。中原中也記念館から、歩いて数分。

井上馨の旧宅跡。京都から政変で七卿落ちという事件があった。その一人三条実美もここ「何遠亭」に住んだ。

中原中也の詩碑には「帰郷」の一節が刻まれている。除幕式には大岡、河上、小林、今日出海らが出席した。

 

「、、、これがわたしの故里だ。さやかに風も吹いている、、あゝ おまへは何をして来たのだと、、、 吹き来る風が私に云ふ」。

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山口駅は、県庁所在地の駅であるにもかかわらず、寂しい風情だった。新幹線が通らなかったからだが、それは山を掘ると温泉が枯渇するということで反対があったからだという。新幹線の駅には人が多数集まっているが、そこから外れると一気に人がいなくなる。

参考

中原中也の世界』(中原中也記念館)

 

中原中也 (講談社文芸文庫)

中原中也 (講談社文芸文庫)

 

 中原中也詩集 日本の詩人

中原中也詩集 日本の詩人

 

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「名言との対話」9月11日。吉永正人「馬混みに入ると、アクシデントが起きやすいからね。だから、逃げか追い込みが好きなんです

吉永 正人(よしなが まさと、1941年10月18日 - 2006年9月11日)は、日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師

騎手時代に中央競馬史上3頭目三冠馬ミスターシービーや、1982年の天皇賞(春)勝馬モンテプリンスなどの主戦騎手を務めた。ミスターシービーに騎乗し、常識外れと言われた追い込み戦法でクラシックの皐月賞東京優駿菊花賞を制覇し、中央競馬史上3頭目三冠馬へと導いた。この時、「僕が咲かせたのではない。ミスターシービーが勝ったのです」と語った。

この騎手という職業は体が軽いことが必要で、吉永は減量に苦しんだ。「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」という実感は、騎手の減量苦を象徴する言葉として書籍などで引用されている。

「寺山(修司)さんはたぶん、僕がダービーに勝つと確信してくれていただろうと思います。しかし、やっぱり、寺山さんには生きててもらいたかった。このダービーを勝つまでは見とどけてもらいたかった、と残念でなりません.」

死別した最初の妻との間に一男二女、後妻のみち子との間に一男と、計二男二女の子があった。みち子とはのちに離婚している。吉永みち子は、日本初の女性競馬新聞記者で、『気がつけば騎手の女房』で1985年の16回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しており、テレビでよくみかける人だ。元夫の吉永については「昔気質の競馬人」「武骨で不器用で時代遅れ」「大きな優しさを持った人」と述懐している。私もテレビ出演で語る吉永正人の姿は見たことがある。

「やはり勝つべくして勝つことが、本当に快心のレースというのじゃないですか」という吉永は、「僕は人に迷惑をかけるのがいやなんですよ」との考えを持っていた、馬に乗るとは馬の気性に乗ることであり、それを熟知して人馬の呼吸が一体となって走らなければならないことを知り尽くし、「吉永スペシャル」と呼ばれた追い込み戦法や、逃げ戦法など極端な作戦で、「馬混み」を避けたのだ。代名詞となった10馬身以上遅れていて、直線で「追い込み」、僅差で勝利する姿はファンを熱狂させた。その独特の戦法、広い交友、数々の名言、など強い個性の騎手として記憶に残る騎手だ。