土井英司「人生の勝率の高め方」

土井英司「人生の勝率の高め方」(KADOKAWA)を読了。橘川さんが薦めていたので。

以下、琴線に触れた箇所。

 メルマガ「ビジネスブックマラソン」(毎日発行)は編集者を押さえるためのしくみ。精読率の高い読者をキープするためには気合を入れて毎日書くしかない。・損得で選ばない。得られるものが大事だ。・中古品の価格を意識すればムダなものを買わなくなる。・先頭集団と付き合う。・必ず現場を持つ。

「あなた未来を変える10冊」が巻末に紹介されている。読んでいない本は手にしたい。

・「古代への情熱 シュリーマン自伝」:大事を成し遂げた人物は、幼少期の情熱を「持ったまま」大人になった人だ。

・「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(城山三郎訳):息子に残すべきなのは一生の経験から学んだ人生の知恵やノウハウの集積だ。

・「お客様がまた来たくなるブーメランの法則」:本当に愛せる顧客を見つけ、尽くすこと。

・「相場師一代 是川銀蔵」:人が気づかぬところにいかに目を配り、人が気づく前にどれだけ早く行動しているか。

・「人間における勝負の研究」(米長邦雄):悪手を指さないこと。

・「もっと深く、もっと楽しく」(中部銀次郎):3オン・1パットも、4オン0パットも、2オン・2パットも同じ。

・「影響力の武器」:返報性・一貫性・社会的証明・好意・権威・希少性。この6つで説得の技術が向上する。

・「私はどうして販売外交に成功したか」(フランク・ベドガー):ライバルを決して悪くいわない、意見に反論せずに質問によって承認を得る、相手の名前を覚える、相手が買ったものの価値を再度認めてあげる。

・「フォーカス!」(アル・ライズ):ブランドとは、カットして磨いていくダイヤモンド。

・「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム):新しい依存と従属か、独自性と個性とにもとづいた完全な自由か。

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・人間ドック。

・大学:近藤秘書と打ち合わせ

・8月4日の飯田経夫を書いた。あと、3人。

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「名言との対話」9月18日。斎藤真一「「「瞽女」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」と

斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、日本の洋画家作家

岡山倉敷市出身の洋画家・斎藤真一は東京美術学校を出て、中学校の教師になる。37歳の時にフランス私費に留学中にエコール・ド・パリを代表する画家、藤田嗣治と親交を深め、「日本に帰ったら秋田や東北がいいから、一生懸命に描きなさい」とアドバイスを受ける。帰国後、ねぶたを見るために訪れた津軽の宿で「瞽女」という盲目の女旅芸人の存在を知り、上越高田で活動していた瞽女・杉本キクエとの出会う。
1971年には「星になった瞽女みさお瞽女の悲しみ)」で安井賞の佳作に入賞。斎藤自ら瞽女の旅の道のりを一緒にたどった経験をつづった絵日記『越後瞽女日記』、そして『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年、日本放送出版協会)が日本エッセイスト賞を受けるなど画家のみならず文筆家としても活躍した。

2007年に山形の出羽桜美術館分館である「斉藤真一 心の美術館」を訪問した。盲目の女旅芸人である「瞽女」に興味を惹かれて一生、そのテーマを追いかけていく。高校教師をしながら休日は、裏日本の彼女等の足跡を訪ねていく。49歳で18年つとめた高校を辞める。
瞽女は越後高田や新潟長岡に多く、3人から5人ほどがグループとなって、雪解けから12月まで村から村へ旅を続け、味線を弾き、祭文松枝を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち込んだ。雪深い地域のの人々にとって、瞽女の訪問は唯一の娯楽だった。
斉藤の描く絵は、悲しい絵であるが、赤が鮮烈である。「赤より「赤赤」という字に惹かれてならない。「赤赤」は火のように鮮やかでパチパチ音をたてて眼底に焼き付いているような滲みの余韻を持っているから妙である、と自身が語っていた。
旅の中での絵と日記を展示してあった。「「瞽女」その語感から、私はいつも得たいの知れない女の故里にようなものを感じている。そして、その古めかしい語感をたどり、一人静かに今旅をしている。そして人気のない淋しい町や村を訪ね、その語感をたどり、さまよっているのだ」という言葉を見つけた。

哀しい絵である。見るものに強い印象を与える絵である。斎藤に小説の挿絵を描いてもらっていた小説家・水上勉は「父は虚無僧さんだったという。氏もまた漂白の者の血を持ち、私と同じような魂の原風景をもてあます人か、となつかしさをおぼえた」と記している。古い民家を使ったこの美術館は、「心の美術館」という名前である。確かに心を打つ、心に残る絵の多い不思議な美術館だった。

 一人の人物でも、記念館以外にも企画展でまたみると違った面を発見し、それらが重層的に重なり合って、人物が立体的に深みをもってみえてくる。同様に、「瞽女」と呼ばれた人たちもこの「名言との対話」で何度か取り上げているが、最後の瞽女小林ハルの生涯など、だんだんと立体的にみえてくる。これが長く続けていることの果実だ。