新企画、新プロジェクトの準備

大学でひと仕事。:「全集」のための文書作成と発送。「知研50周年企画」の文書作成と発送。 新プロジェクトのための資料作成。、、、、。

細野武男・吉村康『蜷川虎三の生涯』(三省堂)を入浴とテレビを見ながら読了。

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「名言との対話」1月29日。久原房之介「「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている」

久原 房之助 (くはら ふさのすけ1869年7月12日明治2年6月4日) - 1965年(昭和40年)1月29日)は、日本実業家政治家 

 山口県(長州)で生まれる。慶応義塾大学を出て、森村組を経て、叔父にあたる藤田伝三郎が創業した藤田組に入社する。藤田組の持つ小坂鉱山は鉱脈が尽きたと思われ、閉山を命ぜられたが、強力な技術者集団を率いて再開発し、日本有数の大鉱山として息を吹きかえす。藤田組を去るとき、ともに苦労し、久原に心酔した技術者たちは久原の日立鉱山に移行した。この技術者集団の力で新興の金属鉱山として大をなしていく。久原鉱業所(後の日立銅山)、久原商事などを擁する久原財閥を形成し、「鉱山王」と呼ばれた。また銅の加工部門が必要となり、日立製作所を設立する。

久原財閥第一次世界大戦後の恐慌で経営難に陥る。このとき、義兄で技術者の鮎川義介に経営を譲る。鮎川は自身の戸畑鋳物と合併し、日本産業グループとして再建し、発展させていく。

一方、久原は政界に進出し、同じく長州の政友会の田中義一をたすけていく。田中内閣の逓信相、立憲政友会の幹事長となる。二・二六事件にも関与しいったん影響力を失うが、勢力を回復し立憲政友会総裁に就任する。「一国一党論」を主張し、立憲政友会を解党し、聖戦貫徹議員連盟を結成する。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職を追放された。解除後は衆議院議員となり、日中・日ソ国交回復国民会議議長をつとめた。

久原は自身を恃むところがあり、「誰がなんと言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことには、ならない」という気持ちでことにあたった。「日立鉱山大煙突を建てた人」と「政界の黒幕」、久原房之介は一身で実業家と政治家との二世を生きた人である。95歳で逝去。久原の収集した文物を擁する大東急文庫は、2011年に五島慶太五島美術館と合併し、現在の五島美術館となっている。

 「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている」、その後に久原は「科学の発達につれて、公害もますます多角化していく。これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して「克己」ということを教えてくれているとも言えよう。
日立鉱山についても同様のことが言える。煙害問題なしに鉱山の歴史は語れない。大正3年12月、当時、世界最大と言われた煙突を、日立鉱山が独自に完成して、此の問題に終止符を打つことができたのであるが、これは凡そ10年に亙る歳月、地域住民と共に苦しみ、悩み、そして自らの手で解決し得た貴重な経験であった」。そして最後に「富士山が、ただ高いのではないと同様、日立鉱山の煙突も、ただ高いだけではないのである」と「日立鉱山煙害問題昔話」(関右馬允著、1963年)の巻頭言で語っている。

企業の活動による騒音、煤煙、廃液、廃棄物、地盤沈下、有毒物など公害は多岐にわたるが、現在では個々の公害の枠を越えて、「環境問題」として世界共通のテーマとなっている。久原房之介のいう「永遠の十字架」も地球規模に拡大している。それを人類の叡智で解決していかねばならない。

参考:大江志乃夫『戦略経営者列伝』(三一書房