ZOOM読書会。「巨大戦艦・大和」の再放送。林屋達三郎。吉井長三。

ZOOM読書会。「参加型社会宣言」のZOOM読書会の運動が1ヶ月経ったことから、橘川・田原の対談に参加。30人ほどが集まった。

以下、二人の対談にヒントに私の図メモから。

代理人:JAL時代の労務という仕事は社員の代理人である組合対応。経営企画や広報は顧客の代理人である旅行代理店の意向と実際の搭乗顧客との違いを認識させる仕事だった。公人と私人と個人。山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」や蝋山晶一の「強い、安定した、自由な個人」は形成されなかった。インターネットでもできていない。ZOOMは可能性がある。世代間交流と異空間交流。人と本。参集・参与・参加・参画。参画は主体となること。ZOOM読書会はゲリラ的で自由。企画。考える力を養う。

ブレークアウトセッションでは、私の「全集」を二人が持っていた。その延長線上に、バンド的に図解講座を実施することになった。全体でも発表された。猪俣君の提案で「憲法」「エネルギー」についても図解をつかった読書会をすることになった。どうやら第二ステージはこういうことになりそうだ。

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2月11日。林屋達三郎「複製文化に典型をいにしえに求める復興文化のスタイルがからむと全く新しい創造という形になる。文明開化と王政復古とを結びつけた明治維新がその典型だ」

林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本歴史学者文化史家。

石川県金沢市に生まれ、1938年京都帝国大学文学部卒業。専攻は日本古代中世史。1948年立命館大学教授に就任、1969年に学園紛争で辞任し、1970年、京都大学人文科学研究所教授となる。

部落史・地方史・女性史の視点から中世芸能史を実証的に研究し、1961年に「中世芸能成立史の研究」で芸術選奨受賞。部落問題研究所理事、京都国立博物館長などを歴任する。

一方で、京都市史編纂事業を指導し、『京すr都の歴史』・『史料 京都の歴史』等の編著を刊行し、各社の「日本の歴史」の編集委員を務めた。

自宅に「燈心文庫」と名付けた書庫を持っているほどの、古文書・史料類の収集家だった。岩波新書版の『京都』や、中公文庫版の『日本の歴史 天下一統』は、初版から半世紀近く経ても重版されている。

戦後の京都の歴史学、特に中世史において、立命館大学京都大学において、多くの研究者を育てた。1988年には高麗美術館 初代館長に就任した。

今回、『日本史のしくみーー変革と情報の史観』(中公文庫)を読んだ。林屋達三郎の見識と指導力に依存しながら、梅棹忠夫と2020年8月に亡くなった山崎正和を含めた3人が中心となって編んだ書物だ。安定した平安時代、江戸時代といった時代を見るのではなく、時代の転換点を意識した変革の時代を情報の観点から、自由に論じた。日本史を「変革と情報」という観点から大胆に切り込んで語るのを読むのは実に楽しかった。ここでも梅棹忠夫は「日本は半透明の膜で覆われている」「熱力学的爆発と情報回路の説」など新説を提供して座談会の主導権を握っている。

編者の一人の梅棹は「日本史を古代から近代まで、幅広く見とおせる、めずらしい型の史家である」と林屋を「あとがき」で評している。歴史学者・林屋達三郎、民族学者・梅棹忠雄、劇作家・山崎正和という異分野の頂点に立つ、そして柔軟な議論ができる人たちの丁々発止はまことに興味深い。

林屋達三郎は、タテの変革期とヨコの情報の交点で日本文化を考える試みは、大変勉強になったと総括討議で語っている。そして日本文化は変革期のあとを受けて復興してくること、日本文化は模倣ではなく複製だと結論付けている。 

日本史のしくみ-変革と情報の史観 (中公文庫)

日本史のしくみ-変革と情報の史観 (中公文庫)

  • 発売日: 2019/02/22
  • メディア: 文庫
 

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NHKBS1で「巨大戦艦・大和」の再放送。壮絶!乗組員の証言ー海上特攻と奇跡の生還。9時から12時まで。2012年12月8日放送。

1億特攻のさきがけ。海上特攻隊だ。沖縄へ向かう途中で米軍に襲われ沈む。3332人の9割以上が船と運命をともにした。不沈戦艦の撃沈。世界最大の46センチ高射砲は一発も打てなかった。生き残った乗組員も、「なぜ、自分は生き残ったのか」と答えの出ない問いかけを続け、長い戦後を生きた。

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「名言との対話」8月23日。吉井長三「パリはいつまでも変わらない。そして銀座はいつまでも変わり続ける」

吉井長三(1930年4月29日ーー2016年8月23日)は、銀座画廊会長。

広島県尾道市出身。 旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志すが、父親の反対により、中央大学法学部に入学。東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。1953年東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。大学卒業後、三井鉱山に入社、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、1964年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。

1965年に東京・銀座に吉井画廊を開設。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄中川一政原精一梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催する。

1971年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年のルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。1973年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、1975年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、1980年山梨県北杜市清春芸術村を開設して、アトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。1983年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990年ニューヨーク支店を開設。1999年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館。2011年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。

画商である一方で、小林秀雄井伏鱒二谷川徹三今日出海梅原龍三郎奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、1999年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、2007年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

たまたま「谷川徹三対談集」を読んでいたら、昭和電工の鈴木治雄会長との対談で吉井長三の名前が出てきた。鈴木がルオーを語り合おうという「ルオーの会」に谷川を誘っている。その会の中心が日本一の画廊となってとなった吉井長三吉井画廊だった。

画商という仕事は、身銭を切って絵画を仕入れるため、売れないと不良在庫となるから、絵画を見る目を厳しく養わなけれならない。日本一という評価があるということは、日本一の絵画の目利きということになる。都市の商業地の地価が下がり始めているようですが、銀座も下がり始めているとか。
高い家賃の銀座でもやって行けるような高額の作家が売れなくなっていて、
銀座で画廊が成り立つような時代ではなくなりそうです。
老舗や貸画廊でも閉店や銀座脱出が起きつつあるようです。
都市の商業地の地価が下がり始めているようですが、銀座も下がり始めているとか。
高い家賃の銀座でもやって行けるような高額の作家が売れなくなっていて、
銀座で画廊が成り立つような時代ではなくなりそうです。
老舗や貸画廊でも閉店や銀座脱出が起きつつあるようです。

画廊とは、絵画・彫刻などの美術品の展示場で、吉井長三のような画商によって経営されるギャラリーだ。本日のアートソムリエを自称する山本冬彦さんのフェイスブックでの報告によると、新型コロナの影響で地価の下落が始まっており、銀座でも老舗画廊の撤退が始まっているそうだ。銀座の吉井画廊は持ちこたえることができるだろうか。

都市の商業地の地価が下がり始めているようですが、銀座も下がり始めているとか。
高い家賃の銀座でもやって行けるような高額の作家が売れなくなっていて、
銀座で画廊が成り立つような時代でくなりそうです


老舗や貸画廊でも閉店や銀座脱出が

 

起きつつある氏は屋h氏やてm復興文化のむと想像の形になめいる女性誌