秋田大館の松下村塾。知研の島根支部、、、。

 「副学長日誌・志塾の風170209」

  • 事務局との打ち合わせ:多摩大出版会について。

ラウンジ

  • 杉田・大森・高野:学科所属、研究室割り当て、、。
  • 高野:2017年度インターゼミの日程を確定

研究室

  • 元シーガルの桑山さんと、高橋茂人さんと歓談:互いの近況。商工会議所のPC検定。秋田大館の松下村塾への出講(6月17日)。知研の島根での出講(7月末か9月初め)。近々、桑山さんにデジタル生活の指南を受けることになった。

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「名言との対話」2月9日。夏目漱石「世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、花火の前には一瞬の記憶しか与えてくれません」

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日慶応3年1月5日) - 1916年大正5年)12月9日)は、日本小説家評論家英文学者

「大学に職業学という講座があって、職業は学理的にどういうように発展するものである。またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、例えば東京市の地図が牛込区とか小石川区とか何区とかハッキリ分かってるように、職業の分化発展の意味も区域も盛衰も一目の下にりょう然会得出来るような仕掛けにして、そうして自分の好きな所へ飛び込ましたらまことに便利じゃないかと思う」。続けて、これは空想であって、こういう講座はできないだろうが、あれば非常に経済的だろうと述べている。現在全国の大学がやっている「キャリア」」に関する科目は、漱石が空想したものが実現していると言ってもよいだろう。

そして漱石は職業について語る。道楽である間は面白いに決まっているが、その道楽が職業と変化するとたんに今まで自分本位であったはずが、一気に他人にゆだねることが多くなる。道楽は快楽をもたらすが、同じことをしているようにみえても職業となれば苦痛を伴うことになる。職業というものは、一般社会が本尊になるのだから、この本尊の鼻息をうかがいながら生活を送らざるを得ない、という見立てだ。

「牛のように図々しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思います。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います。」

「則天去私」

「面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ」

意外なことだが、漱石記念館は東京にはなかった。ようやく新宿区立漱石山房記念館が2017年9月にオープンする。漱石に影響を受けた者として寄付をしているが完成するのが楽しみだ。

夏目漱石周辺人物事典」という書物がある。580ページあり、漱石の親族・恩師・友人知己・教え子・門下生・同時代の文学者、138名の来歴、業績以外に、漱石との出会い、接触、交流、受けた影響、与えた影響などを記している労作である。編者の

原武哲が40年間の資料収集をもとに82さ腕完成させたライフワークだ。確かに根気の前には世間は頭を下げざるを得ない。

多摩。九段。そして最後は荻窪で一日が終了。

「副学長日誌・志塾の風170208」

多摩キャンパス

-10時:学部運営委員会

-10時40分:教授会:来年度委員会人事、来年度以降の給与、、、。

 -松本先生:多摩大総研の来年度以降の構想。多摩大出版会、、。

-事務局人事発表

-杉田先生

-増田先生:送別会

-下井先生:資料

-大森映子先生

-ゼミ4年生の加藤亮君、プレゼミ生の池間君に連絡。

 

九段の文庫カフェ

-16時半:-客員の渡辺先生をグローバルの安田学部長に紹介。来年度秋学期ののホテル講座について意見交換。

 

荻窪:18時半:知研の八木会長と地域社会研究所を訪問。「万葉歌の世界」(3月刊)。「名言との対話(命日編)」。(一社)ザ・コミュニティ。富士アカデミー。ふるさと四季報、ジモト、、。

 

「名言との対話」2月8日。伊藤若冲「具眼の士を千年待つ」

伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、正徳6年2月8日1716年3月1日) - 寛政12年9月10日1800年10月27日))は、近世日本画家の一人。江戸時代中期のにて活躍した絵師。写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白長沢芦雪と並び称せられる。

伊藤若冲は1716年生れ、1800年没。享年85歳。与謝野蕪村は1716年生れ、1783年没。享年68歳。この二人が同い年である。「蕪村は文の人、若冲は画の人」といわれるが、蕪村は文と画の両刀遣いだった。蕪村は多才の天才であるが、若冲は発想の天才で人を驚かす奇抜なアイデアを実現している。

日本美術史上のライバル、師弟、好対照の二人の傑作展では、若冲蕭白を比較した企画を観たことがある。この時には、画狂・画仙・画魔という言葉が浮かんだ。

若冲に人気が出たのは近年である。西洋の新印象派の技法を200年早く生み出していた画家であり、現代のデジタル・アーツの技法も先取りしていたと評価されるようになった。2016年は生誕300年であり、若冲の作品を堪能する機会が多く、今では著名な画家となっている。

この若冲は生前はさほど評価されてはいなかったが、千年のスケールでは自分の絵を正しく評価する人が現れると自負していたのだ。どうもその予言は当たったようである。

「叡智の断片」(池澤夏樹)

 池澤夏樹「叡智の断片」(集英社文庫)を読了。

叡智の断片 (集英社文庫)

著者の池澤夏樹は3年間ほど「引用句」にはまっている。自分が思いつけないような気の利いた言葉を蒐集する愉しみである。英語圏にはユーモラスな素材が多いという。

「良い戦争というものはないし、悪い平和というものもない」(ベンジャミン・フランクリン

「成功は生活を楽にしてくれる。でも、生きることを楽にしてはくれない」(ブルース・スプリングスティーン

「失敗したとは思わない。うまくいかないやり方をもう一つ見つけたのだと思う」(アンディ・エルソン)

「こんなに長生きするとわかっていたら、もっと身体に気をつけたのに」(ユービー・ブレイク)

「民主主義というのは教育のない連中がやる政治。貴族制とは悪い教育を受けた連中がやる政治」(チェスタトン

「歴史とは歴史事象の記述。その大半は虚偽ないし取るに足りぬことであり、書き手の多くは統治者すなわち悪党であるか、軍人すなわち馬鹿である」(アンブローズ・ビアス

「人生には二つの法則がある。一方は一般的に通用し、他方は特定の個人にのみ適用される。誰もが、努力をすれば最終的には求められるものを得られる、というのが一般的な方の法則。そして、たいていの人はこの法則の例外にあたる、というのが二番目の法則」(サミュエル・バトラー)

「景気後退ではあなたの知り合いが失業する。不況ではあなたが失業する」(トルーマン大統領)

 

「副学長日誌・志塾の風170207」

研究室

  • 自動車メーカーの講演資料作成

 ラウンジ

  • 杉田先生:打ち合わせ
  • 公平係長
  • 水嶋課長:議事録

 

「名言との対話」2月7日。高崎達之助「競争者が多くいることはいいことだ。自分がどんなに勉強しているか本当に批評してくれるのは、競争者以外にはない。」

高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年2月7日 - 1964年2月24日)は、日本政治家実業家満州重工業開発株式会社総裁電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。

1955年のアジア・アフリカ会議バンドン会議)には鳩山首相の代理で日本政府代表として出席し、ネルーナセル周恩来などと親交を深めた。1956年には日比賠償協定の首席全権として日比国交正常化の実現にあたった。1958年には第2次岸内閣通商産業大臣に就任し、全ての会社の重役を辞任。同年、日ソ漁業交渉の政府代表となり、北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した。1962年中華人民共和国を訪問。廖承志との間で日中総合貿易(LT貿易)に関する覚え書きに調印した。死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい」と哀悼の言葉を述べた。経済人として大成した高崎は、政治の世界でも戦後のアジアを中心とした外交でも重要な役割を果たしている。

「事業の目的は第一に人類の将来を幸福ならしめるものでなければならぬ。第二に事業というものは営利を目的とすべきではない。自分が働いて奉仕の精神を発揮するということが、モダン・マーチャント・スピリットだ」

通常の会話では競争相手のことをライバルというが、本来の意味は同等もしくはそれ以上の実力を持つ競争相手の事だ。日本語では好敵手という意味合いである。実力が明らかに上の人はさらに上の人物をライバル視する。この言葉は少し下の人が少し上の人を意識する言葉のようだ。さて、日中のLT貿易で名前が残っている高崎達之助の冒頭の言葉は、競争者を歓迎する言葉だ。確かに自分の実力を本当に知ってくれる同じ分野でしのぎを削る競争者である。

寺島実郎「シルバー・デモクラシー」(岩波新書)--課題と、解答への試み。

 寺島実郎「シルバー・デモクラシー--戦後世代の覚悟と責任」(岩波新書)を読了

シルバー・デモクラシー――戦後世代の覚悟と責任 (岩波新書)

 

戦後世代の先頭を走る団塊世代の代表選手である著者が、1980年の中央公論『われら戦後世代の「坂の上の雲」』から始まる論考を積みあげながら、その結末として浮上した「シルバー・デモクラシー」の現実と参画型社会構築を熱を込めて語った書。以下、問題意識と解答への試み。

 

戦後70年の現在の課題:まっとうな日本を残すために必要なこと。

  • 健全な産業主義の回復
  • アジアとの信頼関係の構築とアメリカとの関係の見直し
  • 国家主義への郷愁を讃えた民主主義からの脱却

第1章:戦後民主主義とは何か?

  • 戦後民主主義は「与えられた民主主義」という限界の中で、民主化の前進があった。代議者の定数削減と任期制限など代議制の錬磨が必要。
  • 国権主義的国家再編と軍事力優位の国家への回帰を試みる勢力という明確な敵に対峙していく。

 第2章:1980年「われら戦後世代の「坂の上の雲」」に見る戦後世代の自画像?

  • 戦後世代=都市住民=新中間層。やさしいミーイズム。論理性と公共性の希薄した世代。
  • 80年代を創造できるのか?創造力があるのか。協調と連帯は本物か。主張を説明せよ。
  • 「個」を基軸とした社会構想を!国家が踏み込むべきでない領域の設定。代議制民主主義に代わる新しい政治意思決定システムの模索。豊かさ以後の経済体系。諸課題を同時解決するようなシスレム的解決を。アジアとの真の連帯。

第3章:21世紀に入っての「それからの団塊世代」は?

2008年

  • 団塊世代は、私生活主義(ミーズム)と経済主義(拝金主義)。
  • 社会的にいかに生きるか。何かを後代に残す。

2015年

  • 軽武装経済国家の日本。分配の公正、産業と技術の国。
  • 最大の課題は、アメリカとの関係の再設計だ。

第4章:シルバーデモクラシーを支える社会構造基盤は?

  • 相関した憲法と沖縄は、戦後日本の将来に向けてごまかしのきかない課題。
  • 中間層の貧困化の進行と高齢者の二極化。
  • 多世代共生、参画、多元的価値が幸福老人を増やす。

第5章:世界のデモクラシーの現実は?日本のデモクラシーの進むべき方向は?

  • 民主主義は資本主義を制御できるのか?
  • トランプ:「父の威光の中でニューヨークのビルの再開発を進める目立ちたがり屋、またスキャンダルまみれの好色家。」「父親の威光と支援でビルの再開発やカジノ経営で「金ピカのアメリカ」を象徴するように生きてきた男であり、人生を貫く価値は「DEAL(取引)」である。、、思慮も哲学もない反知性的存在、、」
  • 公的マネーで国家資本主義的様相の日本経済。
  • 日本のような産業国家は「経済の金融化」に振り回されることを避けよ。

第6章:参画型高齢化社会の土台作りの構想は?

  • 民主主義を確実に根付かせること、いかに有効に機能させるか。
  • 後代負担を押しつけて去ることを避けよ。健康寿命
  • ニューファミリーの幻想、戦後民主主義の担い手という期待は霧消。
  • 膨大な単身世帯が郊外のコンクリート空間に収容する社会構造。
  • 都市中間層の社会参画への構想。支える側、充実した老後、社会参画の実感。シスtムとしての農業への参画、
  • 戦後世代の共通体験。地球は宇宙空間の一つ。イデオロギー対立の限界。情報通信環境の劇的進化。
  • これからが正念場!

この本では解答はまだ体系にまではなっていないが、いずれシルバー・デモクラシーに関するよく練られた解答が出てくるだろう。

自らが属す団塊の世代への期待と失望の連続の中で、なお希望を棄てること無く解答を見いだそうとする姿勢には強く共感する。戦後世代の責任を自覚し、覚悟をもって現実に向き合うことが必要だ。

 

「副学長日誌・志塾の風170206」

  • 10階の見晴らしのよい温泉でくつろぐ。
  • 朝食:杉田、金、、、。
  • 伊東から真鶴へ。町役場のまちづくり課の多田さんから「美のまち」づくりの歴史と考え方を講義していただく。
  • 昼食は「しょうとく丸」でいただく。活きのいいお魚を堪能。
  • 帰りは小林先生のシルビアで一路、小田原厚木道路圏央道で多摩へ。
  • 夜の7時半からの「鶴瓶」は故郷・中津だった。鬼太郎はよく知っていたが、グルービーというジャズ喫茶などは知らなかったが、楽しんだ。

「名言との対話」2月6日。岩佐凱実「人間、「運鈍根」と言われるが、三つのうちどれが大切かと言われたら、それはやっぱり「根」だろう。運が開かれることも必要だが、それを深め、広げるのは「鈍」であり「根」。真打ちは「根」だ。」

岩佐 凱実(いわさ よしざね、1906年2月6日 - 2001年10月14日)は、日本の実業家銀行家経済同友会代表幹事、安田銀行常務、富士銀行頭取、経団連副会長。(財)日本心臓財団会長。

 岩佐は1966年の芙蓉グループ結成にあたって中心的役割を果たし、このグループの中心人物として活躍。丸紅と高島屋飯田の合併を行う。1965年の山一証券の経営危機を救った日銀特融の主役の一人。

「運・鈍・根」という言葉はよく知られいるが、この3つの関係を語ったのが岩佐の慧眼である。生涯に誰にも訪れる「運」をつかむことができるか。次にその運を生かすためには、「鈍」つまり打たれ強さが要る。ここまではなんとかできるかも知れないが、最後の「根」がなかなか続かない。根は粘り強さと理解したい。岩佐はこの関係を解きほぐしてくれた。

多摩大教員・職員合同研修会 in 伊東。テーマは「離学率」。

「名言との対話」2月5日。尾崎士郎「あれもいい、これもいいという生き方はどこにもねえや。あっちがよけりゃこっちが悪いに決まっているのだから、これだと思ったときに盲滅法に進まなけりゃ嘘です」

尾崎 士郎(おざき しろう、1898年明治31年2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本小説家

相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めた。酒豪でもあった。大腸癌により66歳で亡くなったが、その直前に闘病記を遺した。文化功労者が追贈された。弔辞川端康成が読み哀悼の意を表した。

 「一人ですっと立っていけ、やりてえことがあったら、こっそりやらねえで大っぴらにやれよ」

1933年から都新聞に『人生劇場』を連載し、これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。

数多くの著名な男たちと浮名を流した宇野千代が、その男たちの中で最高だと折り紙をつけたのが尾崎士郎だった。その魅力は右顧左眄せずに盲滅法に一直線に向かっていく迫力にあったのではないか。

 

「副学長日誌・志塾の風170205」

経営情報学部SD・FD合同研修会in伊東。

杉田先生の車で、大森先生と一緒に箱根経由で2時間で東急ハーベストに到着。

司会は杉田先生。

13時:第一部:テーマは「離学率の減少」。

  4月入職の水盛先生、野坂先生の挨拶

  冒頭の挨拶は私から「改革総合は全勝」「量の時代から、量も質もの時代へ」

  「残っている量の問題が離学率」「大学改革のモデルへ」。

  水谷IR室長:離学率に関わる各種データ分析。

  水嶋教務課長:開学以来の教授会議事録からみるカリキュラム改革の歴史。

  黒瀬学生課長:2016年度の離学率減少対策と効果。

  趙学生委員長:離学率減少に向けての来年度施策。

  

15時半:第二部。グループワークと発表。

  私のグループは、志賀先生、由利課長、公平係長、総務渡辺、、、。

  新入生対象の防災合宿の提案。

18時:夕食会

19時:懇親会:教員と職員入り乱れての懇親。

21時から23時まで:ロビーで懇親会の続き。幻の「青酎」を飲みながら。松本、中村有、バートル、浜田、水盛、金、久保田、宮地、、、、。f:id:k-hisatune:20170205132807j:plain f:id:k-hisatune:20170205140833j:plain

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野田宇太郎展

野田宇太郎 散歩の愉しみ パンの会から文学散歩まで」展。

町田市民文学館ことばらんど開館10周年記念企画。

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野田宇太郎1909年明治42年)10月28日 - 1984年昭和59年)7月20日)は、日本の詩人文芸評論家、文芸誌編集長。

野田宇太郎は二つのライフワークを完成させている。

一つは「文学散歩」。1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載、その単行本はベストセラーとなり「文学散歩」のジャンルを確立した。師である木下杢太郎の死と戦後の荒涼たる街並をみて近代文学の足跡が失われることから始めた。実証敵な文学研究の方法である。「散歩といえば足です。足といえば実証です。実証は科学です」。41歳から始めて「新東京文学散歩」がベストセラーになる。34年、74歳で亡くなるまで数十万キロの文学散歩であった。68歳から「野田宇太郎文学散歩26巻」を刊行。「云うまでもなくこの本には日本近代文学に関する限り類書がない。私の責任はどうやら私自身が考えているよりもいよいよ重大であるらしい」。

もう一つは「パンの会」。1976年(昭和51年)には『日本耽美派文学の誕生』で、67歳の時に芸術選奨文部大臣賞を受賞。パンとはギリシャ神話の牧羊神。半獣半神。上半身が人間で、下半身が獣。木村荘八の絵が有名だ。鉄幹を中心に白秋、吉井勇、平野万里、木下杢太郎の5人が明治40年に一ヶ月近い九州への旅行をしており、それがパンの会の誕生につながる。その旅行が参加者のその後に大きな影響を与えたことを発見した。師の木下杢太郎の顕彰では、71歳で「木下杢太郎の生涯と芸術」という書を書いた。

文学散歩で近代文学の足跡を守るために、作家の住居、業績を保存し後世に継承するために、記念館や文学館の建設に関わった。文学の痕跡としての顕彰碑や詩碑も建立した。日本近代文学館博物館明治村森鴎外本郷図書館、一葉樋口夏子碑序幕式の世話人代表など。

九州、東京で編集者として活躍している。下村湖人次郎物語」。31歳上京。学生であった三島由紀夫川端康成に紹介している。39歳で詩作と近代文学研究の著述生活に入った。吉祥寺、町田、立川と転居を重ねている。

川端康成「多くの人々また我々のため大変尊い御仕事と存じます」

日夏こうのすけ「考古家の足と頭と、詩人の眼と胸を用いて丹念精密に尚何人も手を染めぬこの必要のわざを探索に踏み入りこの先駆の書をまず成して夥しき人々の、、、を受けた」

文学史上の人物や遺族との出会いは、史跡、遺跡との出会いに似ており、また出会いは散歩にも似ている。野田宇太郎は「文学巡礼者」と呼ばれたが、私の記念館巡りの先達だろう。34年という歳月は蘇峰の近世日本史、宣長古事記伝などと同じ年数だ。人物記念館の旅は55歳から始めたから、34年というと89歳になってしまう。この人の東京、九州などは早速読まねばならない。

帰って本棚をみると、野田宇太郎「改稿東京文学散歩」(山と渓谷社)があった。昭和46年初版発行だ。約半世紀前の東京の姿が著者の息遣いともに記されている。

改めて眺めてみると、この野田宇太郎という人の人生はすっきりしている。ライフワークの命ずる道を命の続く限り歩き続けている。そして自分のできる範囲で完結し、その後様々の人たちが出版だけでなくラジオ、テレビなどのメディアを使って遺志をを継いでいる。会場では女優の小林千登勢が野田へのインタビュアーで芭蕉の「奥の細道」の番組を流していた。一つの種をまいてそれを木にして、その木が時代を重ねて大木に育っていく。そのように設計したかのようで見事だと感心する。編集者としてそういう企画を実現したのではないだろうか。

 

「名言との対話」2月4日。井上円了「諸学の基礎は哲学にあり」

井上 円了(いのうえ えんりょう 1858年3月18日安政5年2月4日) - 1919年大正8年)6月6日)は、仏教哲学者、教育者。

多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学館(現:東洋大学)を設立した。また迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。

 白山の東洋大学井上円了を記念博物館を訪問したことがある。あいにく閉まっていた。井上円了東洋大学創立者だ。キャンパスの建物群の前に塩川正十郎氏の銅像があった。小泉政権で「塩爺」と呼ばれた塩川氏は、この大学の中興の祖らしい。文部大臣を辞した後、東洋大学理事長、総長として、平成元年に白山キャンパス再開発事業を決定し、平成17年に文系五学部の白山キャンパスを完成させている。平成24年は125周年。

哲学というと難解な近寄りがたい感じがするが、先入観や偏見にとらわれることなく、物事の本質に迫ることであり、また自らの問題として深く考えることだろう。その延長線上に社会の問題・課題に主体的に取り組む行為が出てくる。哲学することなしに、つまり自らの問題として本質に迫ることなしに、学問は成り立たない。だから、諸学の基礎は哲学なのだ。

田辺元、浜口雄幸、渋沢栄一、栗山英樹、、。

今日の収穫

  • 浜口雄幸「衣食住は政治の大きな仕事だが、人間はパンのみで生きるのではない。人間の精神面が並存していることを認識しないと真正の政治はできない」「人の心ほど弱いものはない。此の心一度弛めば、小にして其の身を亡ぼし、大にして国を亡ぼす」(「随感録」:日経「私の履歴書大橋光夫昭和電工最高顧問)
  • 渋沢栄一「天意、夕陽を重んじ 人間、晩晴を貴ぶ」(渋沢が晩年好んで揮毫した言葉)
  • 栗山英樹「監督である僕が成長することです。いまも選手たちが次のシーズンに向けてトレーニングしていますが、僕にとってのトレーニングは勉強することなので、まずそれをしっかりやる」

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「副学長日誌・志塾の風170203」

役員室

  • 入試判定会議:昨日から今朝にかけての準備がよくできており、あっさり終了。
  • 安田学部長:3つのポリシー。

研究室

  • 水谷IR室長:3つのポリシーとアセスメントポリシーの組織決定の進め方を相談。2月の大学運営会議。

ラウンジ

  • 杉田先生・金先生の相談中に割り込み。長い時間をかけていろいろな懸案にゆるい合意。

 

「名言との対話」2月3日。田辺元「懺悔とは、私の為せる所の過てるを悔い、その償ひ難き罪を身に負ひて悩み、自らの無力不能を慚ぢ、絶望的に自らを抛ち棄てる事を意味する」

田辺 元(たなべ はじめ、1885年2月3日 - 1962年4月29日)は、日本の哲学者西田幾多郎とともに京都学派を代表する思想家。元京都大学教授京都大学名誉教授。1947年帝国学士院会員、1950年文化勲章受章。

自然科学の哲学的研究から出発し、「絶対弁証法」をとなえ、「種の論理」で西田幾多郎を批判、田辺を京大に招くにあたって尽力した西田とともに京都学派の双璧となった。田辺は「類」を全体とする西田を批判し、全体(類)と個をつなぐ「種」を提唱した。種は民族や国家であり国家を絶対化する傾向も含み、戦争を正当化する論理となった。終戦後は「懺悔道としての哲学」で自己批判し、親鸞の他力に共感する立場から著作を書いた。

小説家・野上弥生子の日記を読むと、68歳の日記には「ある特定の対象とこれほど深い知的な、また愛情をもっての繋がりが出来ることを夢にも考へたらうか。」とある。ある特定の対象とは、京大退官後に隠棲した北軽井沢の地で生活する同年の哲学者・田辺元である。軽井沢の別荘で執筆する弥生子は田辺の講義を有り難く拝聴していた。「こんな愛人同士といふものがかつて日本に存在したであらうか」と日記に記した老いらくの恋である。

戦争を煽った有力者の中で、文学の高村光太郎は岩手の山荘で懺悔の厳しい生活を送ったし、徳富蘇峰も隠遁したが、その心境は同じく思想面で国家主義を推進した田辺元のこの厳しい懺悔の言葉と同じであったろう。田辺も軽井沢で隠遁生活を送るのだが、「日本民主主義」を提唱するなど、その思想は進化していったようである。