文科省「私立大学等改革総合支援事業」の選定発表--4つすべて選定は多摩大を含む9大学。

文部科学省「私立大学等改革総合支援事業(平成28年度)」の選定が発表された。

多摩大は、今年度4つのタイプ全てで当該事業に選定された。昨年は3つのタイプが選定され、トップ5大学の次にランクされていた。

4つのタイプは「教育の質的転換」、「地域発展」、「産業界・他大学等との連携」、「グロ-バル化」である。

 全国の私立大学等の約8割の716校が申請し、1つ以上選定されたのは457大学。4つ全てに選定されたのは9大学のみで、多摩大学以外は下記のとおり。

東北福祉大学国際医療福祉大学東京都市大学芝浦工業大学武蔵野大学金沢工業大学長崎国際大学福岡工業大学

理工系と医療・福祉がほとんどで、文科系では多摩大と長崎国際大学のみ。

学内ガバナンス、教職員の協働などが機能していないと点数がとれないので、この選定には大きな意味がある。大学改革の総合指標といえる。

詳細は、文部科学省のホームページ参照。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2017/03/07/1340519_01_2.pdf

 http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002/002/1340519.htm

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「名言との対話」3月7日。「苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり」

 中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日慶長13年3月7日) - 1648年10月11日慶安元年8月25日))は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。

中江藤樹の門下生に、熊沢蕃山がいる。その弟子が大潮平八郎であり、佐藤一斎、幕末の藤田東湖吉田松陰などに受け継がれていった。戦前の小・中学校の修身の教科書には「近江聖人、中江藤樹」の名前が必ず出ていた。藤樹の思想は、戦前までの日本には確かに受け継がれてきた。

内村鑑三が英文で書き西欧社会に紹介した名著「代表的日本人」には、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳日蓮と並んで中江藤樹も紹介されている。

 「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」

「このたから(真理)は天にありては、天の道となり、地にありては、地の道となり、人にありては、人の道となるものなり」

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

それ人心の病は、満より大なるはなし。」

藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。

朱子学を学んだ後に王陽明の「知行合一」説に傾倒し、わが国で初めて陽明学を唱えた中江藤樹は生涯、民間にあって身を終わっている。盗賊を感化し、また山で薪をとる者も、田畑を耕す者も、遠村から老若男女が訪れて市井の聖人・藤樹の話に聞き入った。

中江藤樹は人の道を説く学問の楽しみを庶民に伝えようとしたのである。

大学院教員情報交換会

「副学長日誌・志塾の風170307」

多摩キャンパス

  • 研究室:近藤秘書
  • 高野課長:情報交換

品川キャンパス

  • 野原さん:「青春記」「万葉歌の世界」を手交
  • 大学院教員情報交換会
  1. 徳岡研究科長:大学院の現況:中年の危機。知の再武装。イノベーターシップ。修士号730名。博士号11名。90人の講師陣と83講座。立地とネットワーク。定員必達。VOICE。私から秋の「立志人物論」の説明を少々。

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  1. 千葉大の小林正弥教授の講演「対話力」:福祉型正義論(ベンサム)「全員の幸福の最大化という功利主義:。自由型正義論(ロック)「自然権による社会契約論」。今日の自由型正義論「リバタリアニズム(自由原理主義サッチャー・ッレーガン共和党)とリベラリズム福祉国家・1970年以降。民主党)」。美徳型正義論「共通善。コミュニタリアニズム」。ソクラテス的対話「人間はどう生きるべきか。問答法。無知の智」。プラトン的叡智「イデア。理想主義。哲人王」。アリストテレス的目的論「自己実現」。自己実現「究極目的=善き幸福=深い幸福。総合的幸福=内的禅+外的善」。アリストテレスの美徳論「倫理的美徳は中庸。智的美徳は賢慮・叡智」。中庸「感情の制御とマナー。勇気・節制・温厚・気前・度量・高邁・名誉心」。賢慮「実践的智恵(フローシネス)。習慣。理智的手段選択」。最高の幸福「観照(テオーリア:俯瞰的思考)。俯瞰。全体」。公共的幸福「共通善」。ヘーゲル弁証法による共通善。世界史は自由理念の自己展開」。ジレンマの解決「賢慮による中庸判断。質の良い決定。時間軸と空間軸」。叡智によるイノベーション「ひらめきの叡智」。功利主義的リーダーシップ「最大幸福」。リバタリアンリーダーシップ「個人の進取の気風」。リベラルリーダーシップ「公平」。コミュタリアンリーダーシップ「奉仕とチーム」。美徳型リーダーシップ(目的論的)「善。奉仕。人格」。美徳型リーダーシップ(対話型)「共。熟議。連帯感」。リーダー「智的美徳・倫理的美徳・対話力。時代感覚(先見)と空間感覚(グローカル)」。リーダーの教養「イデアの観照(理想を俯瞰)。理論的知識+実務的知識+経験的実践」。リーダーの育成(ジェネラッリスト)「マスターサイエンス(棟梁の学)。個人的・家庭的・政治的賢慮。統括的智恵のジェネラリスト」

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  1. 懇親会:本日の講師の小林先生「価値観と共通善」。佐藤特任教授から入試関係の話。客員の楠田先生(株VRC)、栗山先生(株アンテカニス)、吉松先生(丸の内ブランドフォーラム)、諏訪先生(ワクコンサルティング株)名刺交換。

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「名言との対話」3月6日。ミケランジェロ「最大の危険は、目標が高すぎて、達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を、達成してしまうことだ」

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni[1]1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期彫刻家画家建築家詩人西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる。

15歳から89歳まで芸術を創造し続けた天才。彫刻家、建築家、画家、詩人。本人は「彫刻家」だと名乗っていた。深い教養と並はずれた洞察力をもって、構想に具体的な説得力あるかたちを与えた。人間の肉体は神が与えたもっとも美しい創造物であると信じていた。彫刻も絵画も「像をつくる」ことが目的であると述べていた。実際につくったものの大半は、人物の単独像や群像である。この人はまた手紙における模範的名文家でもあった。また多数の助手を統率する能力にも長けていた。

人づきあいを避け質素な生活を送り、孤独を好み生涯独身だった。この多作の天才は手紙で「貧乏と戦い、・・・・多くの悩みの中で一人孤独で・・・あまりに悩みが多いたに、芸術を作るよりそちらの方にとらわれています」と語ってもいる。自分自身は肖像に描かれることは好まなかった。

目標が高すぎることは悪くない。なぜなら達成が難しいからだ。目標が低すぎるのは危険だ。やすやすと達成してしまうからだ。万低すぎず、高すぎない目標、そういうレベルの目標を設定することだ。低い目標を掲げるのは最も危険である。万能の人の仕事論がここにある。

熊谷恒子記念館--「かな書家」の第一人者「本建築は自力でしなければならぬ」

大田区立熊谷恒子記念館。

川端龍子記念館から歩いて数分の住宅街の高台に熊谷恒子が住んでいた住宅が記念館として開放されている。

 この界隈は「馬込文士村」と呼ばれていた一角である。大正時代から昭和初期にかけて、山王から南馬込一帯に多くの文学者や画家が住んでいた。

 熊谷恒子(1893-1986年)は、書壇で活躍した「かな書家」の第一人者である。

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 平安朝のかな「上代様」を書道芸術最高のものとして、手本を真似る臨書を繰り返す主義であった。題材は四季の風情を詠む詩や歌であった。

 京都生まれで結婚によって東京に住み、子どもに習字を習わせることになり、自分も稽古につきあって川北先生に漢字を習う。35歳であった。

次に仮名分野で今行成といわれる尾上柴舟先生の門をたたく。先生は漢字を教えぬというので、先生のお許しをもらって、岡山高蔭先生に師事する。そこで仮名へ開眼する。先生の逝去後は、古筆をたよりに、ひとりで勉強を続ける。

45歳ころに、目を患い、緑内障で右眼を失明。書を志すものにとって致命傷だが、夫は「片目見えればいいではないか」と励ましてくれた。そして趣味がいつしか生涯の仕事となった。 

63歳、大東文化大学講師。74歳、教授。82歳までつとめ続けている。

72歳、皇太子妃美智子殿下への書道ご進講。

74歳、勲五等宝冠章。87歳、勲四等宝冠章

80歳、夫・四郎没(享年86)。

89歳、「卒寿記念・熊谷恒子展」。

93歳、永眠。

 

「いろはから基礎をしっかりと身につけ、古典を十分に知った上で既存のものを打破して違ったものを考え出す。あるいは新しいものを創り出すと言うことが創作の一般と言えましょう」

「齢すでに七十を過ぎたのに今もって、せめて自分だけでも会心の作と思われる作品を生みたいと願っているが、出来ない私はこの道は他力本願であってはならないと思っている。礎石は出来ても、本建築は自力でしなければならぬ。全部借金して家を建てて人に誇っても、内心やましい気持ちがすることと思う。一にも勉強二にも勉強、私は若い人々にこの事を申し上げたい」

生前の写真をみると、実に品のよい婦人である。「歳をとったら恒子先生のようなお婆さまになりたい」と弟子達が話し合っていたという。

高台にあり見晴らしの良い記念館の庭には、風格のある百日紅の木と、梅の花が咲いていた。

 絶筆は「ありがとう」の文字だった。

「あ利可とう 恒 九十三」

 記念館の二階には、座って墨で書を書けるようにしつらえてあった。

私の座右の銘「今日も生涯の一日なり」と書いたら、熊谷恒子の落款を押してくれた。

 

「名言との対話」3月5日。奥村綱雄「運と災難は紙一重である」

奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖と言われる。

「ひとつ上の仕事をやれ。社員は主任、主任は課長の、課長は部長の、部長は役員の、それで初めて大きな仕事ができる」

「会長ほど難しい仕事はない。だいたい仕事を抱えるのは容易であり、仕事を離れるのは難しい。忙しい忙しいといえるのは結構な話で、仕事から浮いてしかも仕事をつかんでいることはなかなか凡人には無理なことである。だがこの難しさをやってのけなければ、本当の会長にはなれぬ」

「ダイヤモンドは中央の面を囲み、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまたかくありたい。一人の独裁でもいけないし、多数の悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であり、個あっての全ではない」

1946年の公職追放で経営陣が退陣することになり、出世が遅れていた奥村は追放を免れ、専務を経て、2年後には45歳の若さで社長に就任する。まさに運命は紙一重である。トップにならんとして討ち死にした人には未練が残るが、たまたまその役割がまわってきて名経営になることがある。奥村もそうだが、そういう人はその運を全体のために思い切って使ったのだろう。

川端龍子記念館---「画人生涯筆一管」

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大田区川端龍子記念館。

日本画川端龍子(1885-1966年)は酉年生まれの守り本尊である不動明王を信奉していた。また庶子として届けられたことを知り、「俺は龍の落とした子なのだ」として、30歳前から「龍子」の画号を使った。

和歌山県生まれ。10歳、東京に転居。19歳、画家を志し、白馬会洋画研究所に入会。21歳、結婚、国民新聞に入社、少女の友に挿絵を描く。28歳、国民新聞社員として渡米、ボストンで「平治物語絵巻」など日本の古美術に出会う。29歳、帰国後日本画家に転向。30歳、再興日本美術院展に入選し才能が開花、しかし異端視される。

44歳、「堅剛なる芸術の実践」を宣言し、自らの美術団体である青龍社を設立(亡くなるまで37年間運営)。1959年には文化勲章受賞と喜寿を記念して自らの設計で川端龍子記念館をつくり、1963年に開館。「自分の分身としての作品の場所」「龍子なる画人がこの世代に存在したことの証左」。

73歳、ベニス・ビエンナーレ展に「吾が持仏堂」を出品、第一次西国巡礼を始める(1960年の第三次で結願)。74歳、文化勲章。78歳、(社)青龍社記念館開館。80歳、老衰のため永眠。1991年、大田区川端龍子記念館。

「目前の刺激に動揺することなく、横路へ外れず、自己の信ずる大道を誠実をもって固く踏んでゆけるように、日常的に心の訓練を重ねる努力がなければ、この自信を高めることは出来ないであろう」

「こんな感傷的な神経衰弱的な時代が永続しては自分等にはたまらない」「うっとうしい 梅雨時の気配 日本画界の現状 芸術に黴が生える」

「繊細巧緻なる芸術に対する、堅剛なる芸術」「今日の所謂床の間芸術に画然と相対して溌剌たる画境を展開する」「堅剛なる芸術に向っての進軍である」

「井戸を掘るように、深く深くと掘り下げて行こうとするもの、一つは泉水のように、そう深くなくとも成るべく広く広く動こうとするものである。自分の場合は浅くとも庭の池のように広く広くという方向にあるのではないか」

「会場芸術」「画業ー展覧会ー時代ー観衆」「この眼福の方法による鑑賞に依って、社会と美術の接触が一層に緊密に、両者互に貢献する」

満州事変に始まる非常事態では龍子は時局を反映した愛国主義的で物語性に富んだ連作を発表した。

「一天護持」(1927年)は、「小さく凝り固まるものではない。大きく展けて、民衆の美的興味」に訴える壮大な絵だ。「会場芸術」の幕開けである。

「波切不動」(1934年)は、空海が荒波をしずめた故事に因み、不穏な日米関係を不動明王が一刀両断するというメッセージ。

水雷神」(1944年)は、特攻精神。

「花摘雲」(1940年)は、神武即位紀元2600年。軍の嘱託画家として旅したモンゴル大平原が舞台。五族協和、五道楽土の理想郷。

戦後は国民新聞につとめていた高浜虚子の縁で「ホトトギス」同人となり、俳句とスケッチの旅をする。「霊場参拝は数で構成されているから面白い」。

1951ー1954年の奥の細道紀行。

1950ー1955年の四国遍路。

1958年の西国三十三ヵ所巡り。

1961年の板東三十三観音巡礼。

以下、私がとった句。

 新緑の幾山河や熊野なる

 札所より戻り手宿の革布団

 夕立や参詣人を降り籠めて

 この路は札所への道麦の秋

 苔むせる石段ながし長命寺

 遠眼鏡覗けば神の滝しぶく

 舞台より霞める京の街を見る

 

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「名言との対話」3月4日。有島武郎「小さき者よ。不幸な而して同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れる前途は遠い。而して暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ」

有島 武郎(ありしま たけお、1878年明治11年)3月4日 - 1923年大正12年)6月9日)は、日本小説家。代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。

札幌農学校を出て、東北帝大農科大学教授もつとめたことのある有島武郎は、「我が真生命の生まれし故郷は実に札幌なりき」と言っている。

「明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出ずらむあじさいの花(絶筆)

「我児等よ 御空を仰げ今宵より 汝を見守る星出づ」(妻・安子追悼歌)

「書冊の形でする私の創作感想の発表は、この「著作集」のみに依ることとします。私の生活を投入するものはこの集の外にありません」(著作集刊行の言葉)

有島武郎軽井沢の別荘・浄月庵で人妻である婦人公論の記者・波多野秋子と心中して45歳で亡くなっているのだが、27歳で亡くなった妻・安子との間に設けた子らに冒頭の言葉を示している。人の世の旅を照らす灯りはなく暗い、そして遠いが、勇気を携えて恐れずに行け、その先に道がある。山より大きな猪はでないのだ。

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千葉方面の小旅行。

  • 佐倉順天堂記念館(佐藤泰然)

久恒啓一監修・久恒啓子著『女流歌人が詠み解く! 万葉歌の世界』(日本地域社会研究所)を発刊。

久恒啓一監修・久恒啓子著「女流歌人が詠み解く! 万葉歌の世界」(日本地域社会研究所)の見本が届いた。

3月に90歳の卒寿を迎える歌人である私の母の本。

万葉集の庶民の歌」をライフワークとして、文献研究とフィールドワークで、書いた作品。

http://boox.jp/index.php?module=ecsearch&action=plist&s1=%E6%9C%AC&s3=%E4%B9%85%E6%81%92%E5%95%93%E5%AD%90

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「副学長日誌・志塾の風」170303

品川

  • 大学院の滝川課長:入試状況。職員らに「青春記」を贈呈。
  • 安田学部長と面談、確認。
  • ホテルでJALの栢沼マネジャーと安田学部長と3人で会談。人事関係がとりあえず円満決着。
  • 樋口先生から電話

武蔵境。

国際基督教大学の「湯浅八郎記念館」を訪問。詳細は別途。

 

「名言との対話」3月3日。正宗白鳥「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがあるが、しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする」

正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年明治12年)3月3日 - 1962年昭和37年)10月28日)は、明治 から昭和にかけて活躍した小説家劇作家文学評論家

 1935年昭和10年)、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。1943年昭和18年11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで会長(2代目)。1950年(昭和25年)文化勲章受章。1950年(昭和25年)文化勲章受章。

早稲田大学時代の白鳥は教壇に立っていた高山樗牛の誤訳を指摘するなど樗牛から「秀才」と言われていた。卒業後は読売新聞に入社し、美術・文芸・教育関係の記事を担当。妥協をゆるさぬなかなかの硬骨漢だった。

「妻から受けた感化が最も重要」だとと述べて、臨終に際してはつね夫人の身の振り方を心配している。

若い時代に戻りたいという人はいる。しかし、あの先の見えない、疾風怒濤の、迷いの多い、そして無数の選択を突きつけられた、あの時代に本当に戻りたいだろうか。煩わしい、そして怖い感じもある。それだけ世の中を渡ることは危険に満ちている。白鳥の告白に私も共感する。

安岡正篤「運命を開く」

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徒歩通勤途上でみかけた白鷺。

 

安岡正篤「運命を開く-人間学講話」(プレジデント社)をオーディオブックで聞き終わり、さらに読了。人間学。耳で聞き、目で読む。

 【新装版】運命を開く―人間学講話

・人間ができ、教養ができてこないと、よい挨拶よい辞令というものは出てこないものです。こういう学問が大学にあってもよいと考えます。

・説文学

・才が徳より優れている人間を小人、反対に徳が才より優れている人間を君子と言い、才徳二つとも大いに発達している者を聖人、才徳ともつまらない人間を愚人と言っております。

・「常を養う」のが尋常教育であります。即ち人格を鍛錬陶冶して、その上に知識・技術をつける。

・「道徳教育は、、、自らお手本になるということです。身を以て垂範する。」

・道徳と宗教。東洋哲学ではこれを一つにして「道」という。

・中年の危機

・百尺竿頭一歩を進む

水戸光圀大日本史」は南北朝で終了。それを受けて飯田忠彦は「大日本野史」で近代史を叙述。貧乏サラリーマンが38年の歳月をかけて独力で補った作品。( 江戸末期歴史学者勤王家周防(すおう)の人。「大日本史」を読んで感奮独力で野史二九一巻を編む。桜田門外の変取り調べを受け,憤激して自殺有栖川家に仕える。1798年生まれ。万延元年(1860)歿、62才。 )

・「重職心得箇条」(佐藤一斎

・人間は陶冶次第です。「陶」は土をねり焼いた焼き物、「治」は鉄を鍛えて鉄器をつくる金属の精錬。

・私淑する人物と、座右の愛読書。

・烈士暮年、壮心已まず

 

「副学長日誌・志塾の風170302」

  • 私費外国人留学生奨学金審査員会:宮地局長、黒瀬学生課長、寺山さん、バートル国際交流委員長、私。
  • 杉田先生
  • 酒井先生
  • 高野課長:615。
  • SGS安田学部長
  • 事務局との定例ミーティング:本日から杉田学部長(次期)も同席:済州島。SGS人事。、、、。

 「名言との対話」3月2日。渡辺晋「いいよ。好きにしなさい。ただこれだけは覚えておいてくれ。人間は金で生きているんじゃない。人間は心で生きているんだよ」

渡辺 晋(わたなべ しん、1927年3月2日 - 1987年1月31日)は、日本実業家・芸能プロモーター。ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在にあたる渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。

早稲田大時代にはピアノの中村八大らと「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成に人気を集めた。歌手や作曲家などの収入の不安定さを解消するために、プロダクションを設立し月給制を導入した。仕事には厳格だったが、面倒見がよいことでも知られている。またテレビ案組への進出も果たし、レコード会社に握られていた原盤製作で莫大な利益を得て、ナベプロ帝国を築く。

「自社のタレントには音楽性、芸術性を高めるよりも大衆受けを高めろ」

「タレントは偶像であるべし」

「晋は新である…、新は進である…」

ホリプロジャニーズ事務所吉本興業などの台頭、伊東ゆかり、森進一、布施明など人気タレントの独立、そして運営方針違いで大里洋吉(後にアミューズを創業)らも去り、社内でも次第に孤立化していく。

冒頭の「人間は金で生きているんじゃない。人間は心で生きているんだよ」は、人気タレントが去るときの言葉である。「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」、「スーダラ節」の成功などでわかるように、先見性と大衆の心を読み取るセンスがあり一時代を画したナベプロ渡辺晋の伝説は生きている。

T-Studioで収録「水木しげる」「花森安治」

T-Studioで収録「水木しげる」「花森安治

「副学長日誌・志塾の風170301」

  • T-Studioにて「名言との対話」の収録。NHK朝の連続小説で取り上げられた人物が対象。14回目は「ゲゲゲの女房」の水木しげる、15回目は「とと姉ちゃん」の花森安治

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    www.tama.ac.jp

  • 森島入試課長:どこまで採るか。
  • 高野課長:SGSの非常勤の件など。
  • 知研・八木会長来訪
  • 大学院・瀧川課長:入学者の状況を電話で聞く
  • 桑山さん:デジタルライフの指南を受ける
  • JALから電話
  • 金・杉田・趙先生:済州島フォーラム

「名言との対話」3月1日。原安三郎「いつでも平常心を持って急迫の事態にも冷静に対応し、判断せよ」

原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年3月10日 - 1982年10月21日)は日本実業家日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。

1909年早稲田大学商科を最優秀で卒業。肢体不自由のため就職がうまくいかない。当時三井物産常務の山本条太郎(衆議院議員。政友会幹事長。貴族院議員)の知遇を得て、日本火薬(株)に入社。1935年日本化薬社長(51歳)に。70余の企業群の総帥。軍用火薬を製造せず、産業用に徹するなど、軍部の圧力に抗す。不屈の精神を示すエピソードが多い。戦後、公職追放を免れ経済の復興と再建に尽くす。東京放送(TBS)の設立にも関与。教科書専門大手の出版社・金港堂の再建など幾多の経営不振の会社再建に手腕を発揮することとなり「会社更生の名医」と賞賛された。1973年(89歳)、38年間の社長を経て会長。1982年会長在籍のまま98歳の天寿を全う。

原は浮世絵収集に力を入れた。揃い物が多く、また保存状態がよい。2005年に初公開されるまで秘蔵されていた。北斎や広重の名所絵は質・量ともに抜きんでている。江戸の彫摺技術が最上の状態で仕上げた時期のものなので、秀逸の作品群である。

原安三郎の「長寿十ヵ条」:「時間は短くてもよく眠れ。」「食事は少なくせよー朝はパンとオートミールと野菜と牛乳。昼はヌキ。夕食は米を一碗。」「酒、タバコは呑まない。」「物事をすべてその場で処理せよ。」「心配はしても心痛はするな。」「決して物にとらわれるな、物に支配されるな。」「六十歳過ぎると義理や見栄、メンツで頭や身体を便わぬこと。少しでも気にそわぬこと、いやだと思うことをあえてするな。」「会合や人の依頼も気特ちにそわぬことはドシドシ断れ。」「物事を正直に、いつも良心に照らして遺憾のないように。」「思いついたことは遠慮しないでドシドシしゃべれ。」

いかなる場合でも平常心を維持し、常に冷静な判断ができる。それはよほど人物ができていないとむずかしい。人生に処す原理原則、座右の銘、プリンシプル、そういうもので自らを常に磨き上げていく、それが大人物への道であろう。