朝、多摩。昼、九段。夜、品川。

今日は、3つのキャンパスを駆け巡った日。

午前は多摩、午後は九段、夜は品川。 

「副学長日誌・志塾の風」170421

多摩キャンパス

  • 橘川先生:互いの近況交換
  • 授業、3回目。図解のテーマは「私はこんな人です」。実習。グループプレゼン。6人ほどの全体プレゼン。徐々に慣らしていく。連休明けから本格的に。

九段サテライト

  • 大学戦略会議:テーマは入試。量の時代から質の時代への分岐点。入学者の目標数を議論し、方向を確認。いい議論と合意ができた。
  • 大学運営会議:私からは直前の戦略会議の報告。学長「質・クオリティとは何か、志を持った入学者、具体的にイメージできるモデル。教員採用について。社会人が参画できる大学発のビジネスモデル、収入源、農業、子育て、次につなげる」

品川キャンパス

  • 滝川課長
  • 授業:今期は10人が登録。今回のテーマは「新聞の社説」を図解すること。「英国メイ首相総選挙」「衆院選区割り」「働き方改革」「アメリカの温暖化対策」「学術会議声明」「朝鮮半島有事」「シリア空爆」など。最近の話題。日経・読売・東京・朝日、北海道新聞琉球新報

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  •  文章の図解はキーワードを選び出しその関連性を自分の頭で再構築することだと学びました。文章を「整理・理解しよう」とするよりも「誰かに説明しよう」と試みる方が考えが纏まりやすいと気づきました。また社説を図解してみて事実と意見を一緒に述べている箇所が多い。そうすることで意見を普遍的な事実と思われるように意図的に表現しているのではという疑念が生まれました。様々な気づきや発見をもたらしてくれる図解の威力を今回も実感しました。
  • 1票の格差の問題についても、新聞社の問題のとらえ方によって主張する点も大きく違い、視点も違う。それを図にするとその違いがより分かりやすくなると感じました。同じ問題をそれぞれの視点でどのように考えているのかを見てみるのも面白いと思いました。
  • 皆さまからの温かいご指摘のとおり、まだまだ箇条書き思考から抜けだせない自分がいます。箇条書き、つまり理解したつもりになっている、そのことを体感させて頂きました。ただ、今回の私の拙い図解でも、皆さまと共有することで、新たな発想や視点、疑問が生まれ、自分の思考が広がるとともに深まっていくのを感じました。また、様々な個性ある図解、大変勉強になりました。有り難うございました。
  • 今夜は「社説」を図解にする練習。限られた時間でキーワードを読み拾い, 箇条書は極力控え, 図で関連づけ。特派員として皆に解説する際, 聴き手の前提とする知識量やレベルが異なるので, 一工夫要。🔹割振り記事「米のシリア空爆 単独攻撃 即断の危うさ」
  • 文章を図解する方法①文章の大切なところに線を引く②線の中の大切なキーワードを丸で囲む③丸で囲んだキーワードを図解する●図解の有効な点①論理の破綻がないか確認できる②大切なことだけが浮き上がってくる③図解することで自分の頭で考え直すので、理解ができ、自分のものにできる→疑問がわいて、質問ができるようになる④異なるテーマの図と図を合わせようとすると、そこに重なりができる。この重なりは、その人独自の発見になる!●図解を説明するときのコツ
    ①前提条件を共有すること専門家は前提条件を説明しないから話が分かりづらい●私の気づき①文章を図解しようとすると、興味がなかったことにも興味が持てました。②これまでは言葉や事柄を平坦に並べて眺めていましたが、思考が立体的になりました。③図解は思い切って捨てることがコツだと思います。④図解すると書き手の意図や触れられたくない点がうっすらと浮かんできます。そうすると、より内容に興味が湧きますし、自分自身の意見を強く意識するようになります。自分の意見との対比をするから、頭に残るのかも知れません。⑤他の人の書いた図は面白い!長い文章を読むのは苦痛ですが、図解の解説は、パズルを組み立てていくように楽しいです。⑥作るのに行き詰まった図は、思い切って捨てる
    →でも、捨てた図も無駄にならない!(無駄にしない)●今後、学びたいこと
    今回は、文章からキーワードを抜き出したので、図を組み上げるだけでしたが、様々な情報を集めて組み上げなければならないことが多いので、情報の整理でなく、創作に活用できるようになりたいです。ありがとうございました。

  • 社説を図解にするためには、何度も読み返し理解を深める必要がありました。一読するだけではいろいろな部分を落として表面的な理解に留まってしまう場合がある事に気づかされました。そして、この結論は何か?と能動的に読み込む事で、批判的な視点も生まれた事も図解の効果だと感じました。
  • ペンの色が薄くて、クラスを一時停滞させて、みんなの時間を無駄にして申し訳ございませんでした。文章の背景を紹介せずに発表し、理解しにくかったと思い反省しています。次回から注意します。また絵が上手に描けないので、理解を深めて頂くために分かりやすい記号をもっと活用するべきでだったと思います。
  • 社説を読んでみた感想です。そこに書かれている問題に詳しくない場合、文字情報だけだと問題の背景がわかり辛かったです。その主張が正しいのかを考える意味でも、社説には文字だけでなく図解も載せて欲しいと思いました。
  • 社説を図解して自分なりに理解したと思い発表しました。ところが、発表後に質問や意見を聞いてからの方がはるかに理解が深まっていることに驚きました。講義という場があり、発表を聞きあうことができる良さを感じます。余談ですが、1票の格差問題を聞いていて、夏の高校野球は問題にならないのか疑問に思いました。東京と山陰では一校の格差が相当あるような気がします。こう思うのも自分なりに考えていたということでしょうか…。

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  「名言との対話」4月21日「小さいから大を倒せる。そこに日本武道としての柔道の意義がある」

 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年明治16年)4月21日 - 1965年昭和40年)1月27日)は、日本柔道家段位講道館柔道十段、最高位。

  三船十段は159センチ、55キロの小兵であった。そのため技の工夫を行い、多くの新しい技を発明している。球車、大車、踵返し、三角固め、そして有名な空気投げ(隅落)であるスイスイと体をかわすと相手が面白いように転がるのが空気投げだ。23歳年上の「柔道の神様」嘉納治五郎の柔道理論の実践者であった。

ある記者に「嘉納先生と三船先生とでは、どちらが強いのですか?」と問われたときに、「嘉納先生は、私たちにとっては神様です。  神様と人間を比較しないでください」と答えたという。なるほど、三船は「名人」だったから人間だった。

「空想は実現のもと」
「内円の動が外円を支配する」

10人ほどの6段から8段の大柄な猛者達との「かかり勝負」という連続試合で軽々と一本を取る映像を見たことがある。白髪の70代とおぼしき老三船が黒々とした髪の相手の攻撃を柳に風と受け流す。相手の技がなかなかかからない。そして自然の流れの中で軽く一本を取っていく神業には感動する。三船は「球」を原理としていた。「引かば回れ、押さば斜めに」と説いた。

「柔よく剛を制す」という言葉もそうだが、日本柔道の本質は「小よく大を倒す」にある。技の工夫、技術の差で、大がらの体格者を凌駕する。これは縮み志向の日本のDNAでもある。

2017年度のリレー講座始まる。初回は寺島学長。

 客員の渡辺先生の本日のゲストは、外務省経済局経済安全保障課の石田伸介研究調査員。食料安保をテーマとした講義。

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・中澤先生

・木村先生

・杉田学部長

・金先生:寄付講座

・杉田先生:戦略会議

・学長報告・打ち合わせ:戦略会議(入試)。人事(採用・昇格)。出版。湘南。

 

2017年度春学期のリレー講座が始まる。累計で11万人の受講生。

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 寺島実郎学長「世界の構造変化の本質を考える」

反知性主義ポピュリズムなど価値軸の混乱の時代(BREXIT。フランス大統領選は進歩と愛国(ルペン)の戦い。米トランプ)。逆さまの世界(周金平の自由主義とトランプの保護主義)。こういう時代には自前の羅針盤が必要だ。

・「歴史の進歩とは何か」。ジグザグしながら結局は条理の方向にいく。市井三郎「不条理の軽減が進歩。社会的・制度的解決)。ローズの正義論「最大多数の最大幸福」。内村鑑三「後世への最大遺物」。自分の役割への問いかけを。

・2017年の世界経済は上方修正で3.5%成長。BRICSのブラジル・ロシアが復調、インド好調・中国は持ちこたえている。アジアダイナミズム(アセアン5は5.0%成長)。

シルバーデモクラシー:イギリスのBREXITは43歳が分岐点だった。若者は残留支持。唯一のバイタル産業・金融界は離脱支持。メイ首相の離脱の基本方針と解散総選挙決断などはサッチャーを髣髴させる。Bloody Difficult Woman。

・アメリカのトランプ大統領当選はヒラリーの敗戦。若者はサンダース支持、白人貧困層の苛立ちがヒラリーを拒否。支持基盤が弱い政権でありポピュリズムに。トランプの経済政策は分裂。産業政策は保護主義(脱TPP)、金融政策は新自由主義規制緩和)。化石燃料シフト。マネーゲーマーが政権に。

・日本のシルバーデモクラシー:2050年前後に1億人(65歳以上が4000万人。80才以上が2000万人に迫る)。現在は80歳以上は1000万人、100歳以上は6.5万人。首都圏の国道16号線沿いに産業戦士のための団地10万戸を1950年から1970年にかけて建設。現時点で単身・母子・父子・夫婦世帯は63.7%で3388万世帯。これが単身化する。コンクリート空間の独居老人。田舎の高齢者は一次産業に参加できる。都会の高齢者が問題。「多摩大のシルバーデモクラシー企画」に参加を。

 

・杉田学部長:寄付講座

・山本さん:「名言との対話」の次回打ち合わせ

 

「名言との対話」4月20日。栄西「天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す、大なる哉心や」

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日[注釈 1]1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。

臨済宗の開祖栄西は、1141年に備前岡山に生まれ、1215年に亡くなっている。13歳で当時の総合大学であった比叡山に入山し天台密教を学ぶ。28歳で、宋時代の中国に渡る。47歳、再び宋に渡り天竺を目指すが、西域ではモンゴル族の元が勃興し治安が悪く、許可が降りなかった。帰国後は九州の博多で布教を開始する。55歳、博多で聖人福寺を開く。60歳、北条政子の援助で、鎌倉に寿福寺を開基。62歳、京都に建仁寺を開く。この寺は天台、密教、禅の兼修の総合仏教寺院であった。ここでは曹洞宗の開祖道元栄西の言葉に耳を傾けている。建仁寺京都五山の第三位であった。この寺からは人材が多く出ている。11代蘭渓道隆の時に正式な禅寺になった。42代中巌円月は元に留学している。1467年から10年間続いた応仁の乱でこの寺も荒廃する。再興は安国寺恵瓊が1599年に本坊方丈を再建しなる。安国寺恵瓊は毛利家の外交僧で、後に豊臣家に仕えた。謀反に倒れた信長を「たかころび」と予言したことでも有名だ。白隠(1685〜1768)は臨済宗中興の祖である。66歳、東大寺再建の勧進職。71歳、茶の湯の専門書「喫茶養生記」を書き、茶祖となる。その後、千利休茶の湯を完成させる。茶は養生、長寿、そして」座禅の眠気をさます効果があった。

「大いなる哉心や、天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ、日月の光はこゆべからず、しかるに心は日月光明の表に出づ、大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ、それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで元気を孕むものなり」から冒頭の言葉が続く。

人間の心は世界よりも広く、歴史よりも大きい。その心は小さな肉体の脳の中に存在する。栄西が800年以上前に喝破したように、心は不思議な世界だ。場所も形もあきらかではなく、機能もよくわからない。心、精神、意識の存在の秘密は、いなまお解けていない。

人事委員会。学部運営委員会。理事長報告。学修支援サービスコーナー見学。

「副学長日誌・志塾の風」170419

午前

  • 人事委員会(早朝8時から):採用。昇格。非常勤。
  • 学部運営委員会(10時40分から12時15分)

午後

  • 杉田学部長
  • 理事長報告:今回から杉田学部長と一緒に報告するスタイル。出版企画。来年度の入試戦略。人事。、、、、、。報告と意見交換。
  • 入試の森島課長・酒井さん:教育内容説明会は両学部とも「大学改革の「『多摩大モデル』」で講演することに。
  • アクティブラーニングセンター見学(図書館):図書サービス・ITサービス・学修支援サービス。学修支援サービスコーナーでは新任の小西先生と水盛先生が学生の相談にあたっている。川手課長、公平係長。
  • 小西先生「50人。単位取得を中心によろず相談になっている。、、、。」

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 「名言との対話」4月19日。西田幾多郎「世界を見ようとすると時、世界もこちらを見ています。「井戸」をのぞくと「井戸」もあなたを見ています」

西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日明治3年4月19日〉 - 1945年昭和20年〉6月7日)は、日本を代表する哲学者京都大学教授名誉教授京都学派創始者出世作であり、代表作は「善の研究」。

西田幾太郎は、西田哲学という名前で知られる日本最高峰の哲学者である。禅の師である雪門から、四高教授の30歳の時、禅の修行者(居士)として「寸心」という号をもらている。この号を西田は書を揮毫するようになる40代半ば以降、よく使っている。

絶対矛盾的自己同一という西田哲学の哲理は有名だ。矛盾しながらも自己同一を保っている。例えば昨日の私と今日の私。私と汝、仏と衆生。神と人。そうした構造を持ったものが現実の歴史的世界だ。こういうことらしい。人格とは昨日の私と今日の私は矛盾するが同一である。多はそのままで一つである、それを「一即多」と表現している。

石川県宇ノ気町の大きな公園の中に建つ西田幾多郎記念哲学館は、入り口がわかりにくい。そして内部の展示を見てまわるのも、動線や案内板も問題も多く、何か不便で釈然としない。ところが後でわかったのだが、哲学館なのでわざとわかりにくくし考えてもらうという設計思想で貫かれているのだった。設計者は安藤忠雄である。

「円は広大な心を表します。考えることによって、それは宇宙をも包みます」。円は始めも終わりもない。完全で広大な心に通じる究極の形であり、円相図ともいう。

「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」と面白いユーモラスな述懐をしている。それが学者だということか。

西田の歌を二つピックアップしてみる。「人は人、吾は吾なり とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」「愛宕山 入る日のごとく あかあかと 燃やし尽くさん 残れる命」この二つの歌は、井戸をのぞくと井戸も自分を見ているという言葉に代表される哲学の創始者たらんとする決意と意欲に充ち満ちている。思索者の心は熱い。

坂村健「IoTとは何か--技術革新から社会革新へ」(角川新書)

坂村健「IoTとは何か--技術革新から社会革新へ」(角川新書)を読了。

 30年ほど前からトロンの開発者として有名な著者だが、トロンの思想は実は現今のキーワード「IoT」そのものだった。「組み込システム開発環境」TRONは「IoT」のコンセプトを世界で最初に提示したのだ。「IoT」という言葉はよく聞くが、この本では具体的なプロジェクトに沿って実践者として説明してくれているのが貴重だ。IoTとは何か 技術革新から社会革新へ (角川新書)

 TRONでは組み込み用標準OSを確立し、普及させるために技術仕様もライセンスも無償で公開する「オープンアーキテクチャ」とした。

ドイツのインダストリアル4.0は製造業を対象としているが、日本のTRONは対象を限定していない。すべてを自動連携させようとしている日本の方がすすんでいる。ポイントは日本の進んだ技術をオープンにした「オープンなIoT」にできるかにかかっている。あらゆる製品に個体識別IDを組み込み、クラウドとつなぎ、スマホを使って読めるようにする。IoT(Things)ではなくIoE(Everything)だ。

トレーサビリティとメンテナンス:血液製剤などの医薬品。食品。家庭薬。冷蔵庫(製品期限)。ワクチンやワインには温度センサー(管理)。トレーサビリティ。そばアレルギー(食品の成分)。事故時(問題の所在)。廃棄物(分別・リサイクル)。住宅用火災警報器(故障・予防)。保証・メンテナンス。健康管理。旅客機の整備(部品メンテ)。街灯や遊具(点検)。インフラ管理。電力(予兆)。水道(「漏水)。

社会基盤の老朽化、エネルギー危機、災害、医療、高齢化社会、などの国家的課題をIoTで解決しよう。

ucodeで空間を場所として構造化。場所同士の関係性。マンナビ。電子結界。IOT国土。建築単位。エレベータ(移動予測・運転効率)。プログラマブル建築。インダストリアル4.0(蒸気・電機・電子の次)。サービス4.0(電話・通信・デジタルの次)。特定のお客様。都市交通はICカードをIoT化。最短経路案内。身体属性に応じた経路案内。。免税手続き。チェックイン簡素化。服の採寸。レストラン検索。海外旅行者への災害時支援。カスタマーがベンダーを管理。GoV2.0 オープンデータで行政イノベーション・情報公開。リアルタイム運行データ、乗客データ、、。)。API(アプリをかける)によるデータ公開(アプリの登場により開発コストはゼロ)。環境誠意は行政・活躍は民間。スマートハウス。カメラ(ピント)。こたつとエアコン連携。遊園地のアルバム。自動車は未来のカメラ。

プログラミング教育競争。プログラミングできる農民。イスラエルエストニア。コンピュタサイエンス。ドッグイヤー(7倍)からマウスイヤー(18倍)。責任とコスト分担さえ解決できれば。自動車は道路センサー。日本のギャランティ志向が足かせ。オープン化。新宿の街灯。ガバナンスの問題。データは誰のものか。スマートグリッド(需要と供給の調整)。制度改革。プライバシートパブリックのバランス哲学。事業者の義務としてのプライバシー。情報利用裁判所。技術だけではなく出口戦略。何が適切か。

ucodeでモノ、空間、相互関係が統一的に扱える。ビッグデータ。リアルタイム。蛇口。ローカルとクラウドの総体を高度化。

東京の公共交通:鉄道14社局、バス38社局、タクシー1100社。経済成長のカギはイノベーションしかない。文系と理系の協力による大改革を。

 

「名言との対話」4月18日。中山みき「難儀は節だ、節から芽が出る」

中山 美支(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日) - 明治20年(1887年2月18日)は、日本宗教家天理教教祖

天理教は子ども時代に近所に集会所があり比較的馴染みがある。また青年向け機関誌「あらきとうりょう」の「コミュニケーション考」特集巻頭言にインタビューを受け、取材者の立ち居振る舞いに感心したことがある。他もそうだが、宗教団体の広報マンは身なりがきちっとしているのが特徴だ。

人間の寿命は115歳となる。これから先はいつまでも生きていても良い。死ぬことを希望すれば、自由に死ぬこともできる。その時、来世にどういう生まれ方をするのかもわかるようになる」

あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯のある時点において、「ひかり」との出合いがある」ことである。「われは世の光なり」と言ったキリストも、天理教中山みき大本教出口なおなども、すべての教祖は「初めに光ありき」から出発した体現者であった。

木は節(ふし)から芽が出て花が咲く。人生の諸処であらわれる困難や挫折などを(節)と捉えよう。そこから花を咲かせよう。苦労は人を鍛えてくれる。

初めて知った中津の洋画家系譜--吉田達麿。吉松慎司。糸園和三郎。中山忠彦。熊谷九寿。武田由平。

中津市木村記念美術館。

吉田達磨と吉松真司、響きあう感性、描き続けた生涯」展。

二人の競作。同じテーマで違う絵。

吉田の「風が先 遠山」。吉松の「風が先 柳橋」。

 

 吉田達磨。1910年豊前市生まれ。

13歳、旧制中津中学に転校。18歳、美術を断念。22歳、京都大谷大で国史学。24歳、卒論は田能村竹田。25才、京都日日新聞。26歳、春陽会展に入選、画業一本に、郷里にアトリエ。31歳、吉松慎司と交流開始。33歳、文展無鑑査、結婚。34才、扇城高女の歴史教師に。35歳、戦争で左手を失い。吉松夫妻と豊前市で共に生活。36歳、日展審査委員。50歳、親鸞聖人旧跡巡拝、聖跡写生図鑑16巻制作行脚、吉松とスケッチ旅行。54歳、インド、ライ、ミャンマー、ネパール旅行。61才、再度のインド旅行。70歳、「吉田達麿画集」を出版。84歳、永眠。

印象に残った絵:仏像。印度のこども達。牡丹。薔薇。

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 吉松慎司。

1916年、中津生まれ。18歳、旧制中津中学卒業。22歳、小学校に就職。23歳、退職し家業に従事、文展初入選。25歳、扇城高女の美術教師。26歳、日本水彩画会会友。29歳、結婚、豊前市に入植。30歳、文化村構想。32歳、小倉高校の美術教師。37歳、北九州水彩画会初代会長。60歳、小倉高校を定年退職。76歳、最後の対策。78歳、永眠。

印象に残った絵:楽人。舞姿。雷神。芝居。バイオリニスト。

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資料室で 中津には洋画家の系譜があることを知った。

糸園和三郎:1911年生まれ。小卒。11歳、骨髄炎で手術。30過ぎまで入退院を繰り返す。16歳、上京、兄の家に寄宿、中津への帰省時に「絵でもやったらどうだ」とすすめられ川端画学校に通う、しかし画家志望ではない。18歳、前田寛写実研究所に入所。19歳、春陽会で入選。20歳、画家志望が固まる。35歳、結婚。28歳、美術文化協会(福沢一郎)に創立参加、二科会・独立のシュールレアリズム・抽象を目指す。32歳、戦争で家族を中津に疎開させる。34歳、東京大空襲で全作品を消失。47-48歳、脳動脈瘤、手術をやめ退院。89歳没。

 中山忠彦:1935年生まれ、中津西高卒。永遠の女性像を描く画家。19歳。日展に初入選。日展、白日会展で特選、内閣総理大臣賞。1979年、紺綬褒章

 熊谷九寿:1908年中津生まれ。国画会の重鎮。日本独自の美を求めた。旧制中津中学の3年時に自性寺の池大雅の書画に感動首位、画家を決意。1927年、関西美術学校入学。1941年、中津へ疎開。1944年、上京。1962年、渡欧。84歳、没。

 武田由平:1892年岐阜生まれ。17歳、小学校の準教員。18歳、岐阜県師範学校入学。22歳、卒業。小学校教員。37歳、中津へ転居、中津中学の図画教師。83歳、大分県教育功労者。89歳、中津市市民栄誉賞。1989年、97歳で没。中津夏祭」「八面山」など、

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「大地」で市議会議員の須賀留美子さんと懇談。

「青春記」と「万葉歌」の本を渡す。「万葉歌」の件で大分合同新聞社につないでもらう。和田記者。

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中津市立小幡記念図書館。 「久恒啓一コーナー」。

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 女性館長の宇野真理さんに挨拶。私を含め「郷土の作家」の部屋構想があるとか。

松下竜一1937年昭和12年)2月15日 - 2004年平成16年)6月17日 )は、日本小説家歌人。主要な作品は、記録文学。初期の代表作は、『豆腐屋の四季』。『松下竜一 その仕事』(河出書房新社)30巻。『ルイズ - 父に貰いし名は』で講談社ノンフィクション賞

小野不由美1960年12月24日 - )は日本小説家、同人作家。女性。京都在住。代表作はテレビアニメ化された『悪霊シリーズ』、『十二国記シリーズ』、『屍鬼』。2013年5月、『残穢』で第26回山本周五郎賞を受賞

 

「名言との対話」4月17日。渡部昇一儒教の教えでも仏教の教えでも神道の教えでも何だって構わない。あらゆるものが磨き砂になるんだ」

渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年昭和5年)10月15日 - 2017年(平成29年)4あら月17日[1])は、日本英語学者評論家上智大学名誉教授専攻英語文法

 渡部昇一先生の本は1976年のベストセラー「知的生活の方法」(講談社現代新書)以来、翻訳もの、歴史もの、時事ものなど、ずっと読み続けてきた。またビジネスマン時代には韓国での先生の講演にアテンドしたこともある。空の上から富士を見て喜んでおられたことを思いだした。ソウルでは天気がよかったが「ソウルの秋」という言葉があるとおっしゃっていたことを思い出す。

 20代から始めた著作は、82歳の現在で650冊まで積みあがっている。代表作は「知的生活の方法」。50年以上コンスタントに売れており総販売部数は累計で2400万部になる。定年前の65歳で上智大学を退職したのだが、それ以降の方が刊行数が多い。手書きと口述筆記で量産している。「インディペンデント」という言葉にこだわっている。それは稼がなくても食えるという意味。180坪の土地、そのうち書庫は100坪。 喜寿の77歳で2億円の借金をして巨大な書庫をつくり全蔵書を書棚に飾っている。音楽家となった娘や息子の高額な楽器を買うために若い頃から借金生活だった。

「私としても、恥など多くてもかまわないから、95歳以上は生きたいと思っている」「この先やることが何も思い浮かばない人は、仏教に手を出すのも一つの道だと思うのだ。」「時間は20歳の時には時速20キロで流れ、60歳では時速60キロで流れると感じられると考えればいいだろう」「ある国を知るひとつの方法は、その国でどんな本がベストセラーになっているかを見ることだと思う」「人の上に立つ人間ほど、朗らかで大らかで、寛容でなければならないと思う」

文科系は蓄積であり、高齢者に適しているのは、修養、人間学がいいと言う。私の人物記念館の旅も、その線上にあると思う。

向上心が高く、そして何より素直な人だと思う。人がいいといいものは何でも試してみている。健康についても関心が強く、あらゆるものに手を出している。また先人のいうことには素直に従ってみている。この人が、米寿、卒寿、白寿と年齢を重ねて、その都度何を言うか、楽しみにしていたのだが、本日86歳で永眠された。

冒頭の言葉にあるように、どういう分野でもいいから深入りすることだ、それが磨き砂になって、人は成長する。

同級生たちと8時間のバーベキューの会(中津)

  少年の頃によく遊んだ近所の貴船神社

御神楽。紙芝居。鶴市祭り。、、、。

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 よく登って遊んだ「神田記念碑」

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神田記念碑の裏側の記述。

久恒貞雄さんの開拓事業の顕彰碑だったのか。 

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 昼に内尾君の裏庭に集合。バーベキュー大会。

次々と同級生などが順番に現れ、持ち寄った肉、魚、鶏、野菜、椎茸、おにぎり、ビール、日本酒、などを飲み食いしながら歓談。

陽気がよく、話が弾む。新しい人では警察署長、市役所の課長さんも一緒。

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高校同級生は、内尾。瀬口。久持。吉森。

庭のメタセコイア、けやきなどの木々や、桜、辛夷などの花々、いちご、、、。自然の中で大いにリラックス。

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 始まったのが正午あたり、終わったのが夜の8時。

8時間も飲んでいたことになる。

 帰りに久持君の自宅によって、奥さんと一緒にお茶を飲みながら歓談。

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「名言との対話」4月16日。坂上二郎「夢は諦めたら消えちゃう。だから諦めたらいけない」

坂上 二郎(さかがみ じろう、1934年4月16日 - 2011年3月10日[1])、は、日本コメディアン俳優歌手。通称「二郎さん」。

1966年、萩本と再会し、お笑いコンビコント55号」を結成する。たまたま麻雀のメンバーが足りず萩本に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場日本劇場などで人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。

2005年6月4日には、栃木県那須塩原市に転居。お笑い芸人の育成学校『那須お笑い学校』の名誉校長に就任した。また同時期に、それまで居住していた東京都練馬区平和台駅前)にも、自らが学院長を務める『総合芸能学院キャメルアカデミー』を開校している。

一世を風靡したコント55号萩本欽一は台本を無視して無理難題をふっかけるが、坂上はそれをすべてクリヤーし笑いを誘う。その芸は見事だった。最高の受け役だった。上二郎さんは、歌手を目指して上京し、さまざまな職業を経験、キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年コント55号でようやく表舞台に立った。その二郎さんがいう「夢」の言葉には説得力がある。

中津で、ゆういっちゃん(樋口裕一)と思い出の場所を探訪

寂れた陸橋から、青々とした木の先に母校の豊田小学校の看板が見える。

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小学校時代の登校路。今は老夫婦が散歩。

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同級生の実家の家業が今なお健在。

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 ゆういっちゃんと待ち合わせて、中津名物の宝来軒のラーメンを食べた後、子ども時代に遊んだ「ごすてんのう」へ。

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祇園精舎の守護天神「牛頭天王」が、1868年に八坂神社に」改称。 

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この鳥居をくぐったのか。

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外からはこう見えていたなあ。

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 自宅で母と歓談。「上宮永四丁目物語」の取材。

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 中津名物のハモ料理を食べながら懇親。弟のともちゃんにも電話。

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  「名言との対話」4月15日。山本丘人「個性を強く生かしぬく人。それを深く掘り下げて行く人は、何よりも立派である」

山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年明治33年)4月15日 - 1986年昭和61年)2月10日)は、日本画家文化勲章受章者。東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。1944年(昭和19年東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。

弟子である堀文子の丘人評。

「生涯、同じことを繰り返さない。立ち止まることの決してなお、驚くべき作家として存在」「よくしつけられた弟子をお供に、威厳のある雰囲気」「ずば抜けてスケールが大きい方」「統率力もあったし、あたりを圧倒する風情」「貪欲な方」「二度と同じところに安住しない姿勢のエネルギー」「天性の詩人」。

以下、丘人の言葉。

「絵画というのは全人格的行為であり、画家の全ては作品のなかにある」「個性を強く生かしぬく人。それを深く掘り下げて行く人は、何よりも立派である」「画家は不断が大事であり、毎日のライフが大切である」「歳月の影が折り重なって、芸(芸術)は円熟の境地に達するものらしい」「造形する者は「ゆっくりいそげ」と古人の言葉に教えられてききた」

箱根の成川美術館は成川實が20年間に日本画を4000点集めた美術品を展示する美術館であるが、山本丘人の絵は200点ある。そこで開催された「山本丘人と堀文子」展を見た。二人とも「同じものは描かない」という信念がある。丘人は表現の方法を新しく模索して、その作品は自らの心象風景として昇華していく。個性を強く、深く掘り下げて、優れた人格にまで結晶させた山本丘人。それは今なお健在の弟子・堀文子の評でもうかがい知れる。