学内で授業・ラジオ・ミーティング。学外で出版関係者と懇談。

連休まえのたて込んだスケジュールをこなす。

「副学長日誌・志塾の風」170428

多摩キャンパス

  • 午前:授業4回目。「私の大学生活、この1年」。
  • 昼:T-Studioでラジオ収録:橘川先生と対談。シンポ「参加型メディアの未来」がテーマ。
  • 午後:事務局との定例ミーティング:杉田学部長。宮地事務局長、水嶋課長。

東京

  • 夕方:出版社(PHP)の編集者と企画の相談(九段の文庫カフェ)
  • 夜:日本地域社会研究所(荻窪)で落合社長と遅くまで懇談

 「名言との対話」4月28日。藤田喬平「作家というのは本当は六十からが勝負。自分の持ち味を出せるようになるんだ」

藤田 喬平(ふじた きょうへい、1921年4月28日 - 2004年9月18日)は、ガラス工芸家イタリアで学んだ色ガラスと金箔を混ぜた飾筥(かざりばこ)で独自のガラス工芸分野を確立した。1997年平成9年)文化功労者2002年平成14年)文化勲章受章。

「宗達光琳、彼らの素材にガラスがあったならいかなる作品を作ったであろうか」という問いを心に秘めて、桃山期の本阿弥光悦俵屋宗達らによって始まり尾形光琳らによって江戸期に完成した琳派様式をガラスという素材を使って新たに表現するという試みに挑戦した。それは「ガラスによる琳派」の実現だった。藤田は「この作品は私がつくったのではない。ガラス自らがつくったのだ」という境地に達している。

宮城県松島の藤田喬平美術館の開館時には「ヴェネツイアと松島は似ている。この水と緑の風景は、日本における私のライフワークの源である」と述べている。美術館には飾ばこ、カンナ文様の花器類、オブジェ、茶道具など、ガラス工芸の粋のすべてを見ることができる。また芭蕉が「扶桑第一の好風」とたたえた松島の絶景も館内から眺めることができるのもこの美術館の素晴らしいところだ。

冒頭の言葉の後には「若いうちは自己主張が強くなるが 人間を積み重ねることによって力を抜けるようになる 手を抜いているようで手を抜かない これが出来ないと、、、」と続く。藤田は1976年に日本ガラス工芸協会会長に就任するが、その翌年の1977年にはイタリアヴェネツイアに渡りガラス制作を始める。このとき、56歳。藤田は、「ベネツイアの恋」などベニス花瓶などの新作レース文様ガラス器を次々と発表して新境地を開いていく。「趣味なんか持っていたら、仕事なんかできないよ」と言いながら過去の自分の殻を破っていく姿には感動を覚える。藤田喬平は中年の危機をこのようにして乗り切って世界を相手に高みに登っていったのである。

リレー講座:西崎文子東大教授。「歴史から読むアメリカの今」

リレー講座:西崎文子東大教授。「歴史から読むアメリカの今」。

  • トランプ100日。何をなしたか。100日はF/ルーズベルト大統領の100日改革に因む。
  • 二つのレンズ:凸レンズ(遠視用)「今日のトランプ」:公約の実現の暗雲・失敗。「ムスリムの入国制限」(連邦裁の差し止め)。「メキシコの壁」(議会が難色)。「オバマケアの見直し」(見直しの失敗)。「予算案」(議会審議に暗雲:国防・安全・退役軍人は増、環境・労働・農業・エネ・教育・文化などは減)。さらに税制改革(15%)も議会が難色か。
  • 失敗の理由は「反オバマ」が目的かしたこと。軍事力強化。政治手続きが下手。法治感覚の薄さ。利益相反の疑い。ネプチズム(親族優先主義)による権力闘争。
  • 凹レンズ(近視用)「歴史の中の現在」:アメリカ240年史。同時代史。現在は過去と直結という感覚。100年前(19Cから20C)の転換と重なる。「人種問題」。「移民問題」(北・東ヨーロッパ、南欧・アジアの増加による不安の増大から移民排斥・制限へ1924年の出身国割当て制)。「格差と労働」(1870年以降の産業化の進展。農民を置き去り。悪環境テネメント生活。富裕層への憧れ。格差の拡大。
  • ポピュリズムの登場:人民党(第3党)の活動は民主党に吸収される。革新主義運動とポピュリズム運動の分岐。アメリカは分極・分裂へ。
  • 分配:格差による亀裂の拡大
  • 価値:人口構成の変化。人種・世代。譲れない。新しい分裂。
  • 知的潮流:啓蒙主義思想(自由・平等)から価値多元化へ。無限でよいのか。この亀裂でオバマが登場。
  • トランプ:信念。イデオロギーはない、政治手法がポピュリズム。「恐怖」を煽る。「本音」主義。「排外」主義。要するに強烈な「自己本位主義」。
  • 攪乱から距離を置き長期に見つめることだ:リベラリズムを問い直す。どうやったら自由を、どうやったら平等を。政治制度をどうするか。

 

「副学長日誌・志塾の風」170427

・杉田学部長:出校日と出講日。

・高野課長

・川手課長

・渡辺先生:本日のゲスト講師・香港政庁の広報ウーマンと挨拶。近況交換。

・知研・高橋さん:大舘松下村塾での講演。北海道、仙台、、、。

・中庭先生:大学連携のアイデア

・杉田先生:経営学部長会議 

リレー講座:西崎文子東大教授。「歴史から読むアメリカの今」。

 

「名言との対話」4月27日。グラント大統領「君に合戦計画を与えるつもりはない。達成してもらいたいことを計画しただけであり、それをどのように達成するかは君の自由だ」

ユリシーズ・S・グラント: Ulysses S. Grant1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国軍人政治家南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。

「どんな戦いにも、両社が『負けた』と思うときが訪れる。そこから攻撃を続けた者が勝利するだろう」」

南北戦争では、グラントには飲酒癖があったが、実に有能であり、数々の困難を克服し、ゲティスバーグの戦いなどで戦功をあげ、最終的に南軍の名将・リー将軍を破った。

1979年には国賓として日本を訪れ浜離宮明治天皇と会見。増上寺を訪れたとき、グラント大統領が植えた松を見たことがある。上野公園でも檜を植樹した。日光東照宮では天皇用の橋を渡る予定だったが、畏れ多いと辞退し、人気がでている。

グラント将軍は部下には目標を与え、達成方法いついては裁量を与えた。目標と裁量の関係を熟知しており、マネジメントの法則を自然に身につけていた。また戦争では互いに自軍が負けていると感じる時点があり、そこで弱気にならないものが勝つという微妙な真理を知っていた。戦争を行う将軍の心理戦にも精通していた。南北戦争における北軍の勝利はこの一人の天才によるところが大きい。

「いまキューバが熱い!」(知研セミナー)

  知的生産の技術研究会の例会セミナーを代々木で開催。

講師は近藤節夫さん(最近、日本ペンクラブの理事に就任)。テーマは「いまキューバが熱い!」。

世界を旅する近藤さんのキューバ報告は臨場感があり珍しい話に溢れていていた。

八木会長、轡田先生、、、。20人くらい。

f:id:k-hisatune:20170427062037j:image

  •  国づくりが成功。平等。それなりに豊か。カストロ兄弟とゲバラというリーダーの国づくりが素晴らしい。私利私欲なし。権力志向なし。カストロは弁護士。ゲバラは医師。カストロの戦略をゲバラが実行。
  • 1492年コロンブス上陸以来400年スペイン領。1898年の米西戦争でアメリカ。キューバ共和国。1951年1月1日キューバ革命。1962年キューバ危機。1967年ゲバラ死。2015年米と国交回復。2016年フィデル・カストロ死。
  • 義務教育制度(識字率99.8%)。教育支出12.8%(世界一)。医者は1万人あたり67.2人(日本23人)で世界一。医療は無料。医師派遣で外貨収入。
  • 弾圧・虐殺:金日成160万人、ポルポト170万人、毛沢東7800万人、スターリン2300万人を虐殺。ヒトラーは1700万人。
  • コメコン(経済相互援助会議)10ヶ国で分業体制。1991年ソ連崩壊で苦境。
  • 一人当たりGDP:キューバは7274ドル。中国7617ドル。北朝鮮696ドル。ロシア12898ドル。日本36298ドル。
  • やっかいなモンタナ米海軍基地。小田原市と同じ面積。永久租借権。
  • 国民の表情は明るい。貧富の差はない。ゴミがない。インフラが優れている。社会サービスは遅れている。清潔。悪臭がない。緑が多い。ペソ。へミングウェイのバーが人気。
  • 日本とは細いパイプ。1975年には2311億円の貿易だったが、2015年は67億円に大減少。2010年代は5-8%成長。中国貿易。25.5度。米の世論は好意的に。
  • 課題:後継者問題。日本との交流。

f:id:k-hisatune:20170427062044j:image

 終了後は鮨屋で懇親会。

轡田先生、元朝日の林さん、松蔭大の吉田先生、根岸さん、、。。

 

午後の来訪者

  • 桑山さん:個人のクラウド化プロジェクト
  • 長弘さん:元シャープ社員:大学院の相談

f:id:k-hisatune:20170427062150j:image

「副学長日誌・志塾の風」170426

  • 人事委員会:採用
  • 学部運営委員会:教授会前の執行部打ち合わせ
  • 教授会:4月から私は大学戦略会議と大学運営会議の報告
  • 高野課長:モンゴル、卒寿の会
  • 酒井さん:教育内容説明会
  • 志賀入試委員長:入試戦略
  • 斉藤S先生:日本ビジネス実務学会での講演の件
  • 趙学生委員長、大森副委員長、杉田学部長:学生関係

 教授会での留学生紹介。中国、韓国、フランスから。f:id:k-hisatune:20170427062228j:image

 「名言との対話」4月26日。シェークスピア「『今が最悪の事態だ』と言える間は最悪ではない」

ウィリアム・シェイクスピア英語: William Shakespeare, 1564年4月26日洗礼日) - 1616年4月23日グレゴリオ暦5月3日))は、イングランド劇作家詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。

イギリスの美しいストラットフォードに生まれたシェークスピアはロンドンで劇団の役者兼座付き作者となり、二巻の叙事詩、喜劇・歴史劇・悲劇など36篇を書いた。「ハムレット」「オセロー」「リア王」「マクベス」は四大悲劇として特に有名だ。イギリスで勤務していた20代の頃、何度かストラットフォードを訪れて劇を楽しんだことがある。

「金は借りてもならず、貸してもならない。貸せば金を失うし、友も失う。借りれば倹約がばからしくなる」

「安心、それが人間の最も身近にいる敵である」

「愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている」

「偉人には三種類ある。生まれたときから偉大な人、努力して偉人になった人、偉大な人間になることを強いられた人」

「簡潔こそが英知の真髄である」

シェークスピアは人生と人間観察の天才だ。冒頭の言葉にはいくつかの解釈があるが、「最悪の事態だ」と言葉にするときには、まだ希望が残っている、ととらえたい。

渡部昇一「名著で読む 日本史」(扶桑社)

渡部昇一「名著で読む 日本史」(扶桑社)を読了。

 名著で読む日本史 (扶桑社文庫)

歴史の専門家は30年から50年の間に関する知見は深いが、「通史」を書ける人はなかなかいない。専門家と素人の中間の人間として日本史を描こうとした著者の最晩年の著作である。

日本とは何か、日本人とは何か、こういう問いを抱える身には参考になった。

古代では、「古事記」「日本書紀」「栄華物語」「平家物語」。

中世では、「神皇正統記」(北畠親房)「太平記」「名将言行録」(岡谷繁実)「日本中世史」(原勝郎)。

近世では、「中朝事実」(山鹿素行)「大日本史」(徳川光圀)「日本外史」(頼山陽)。

近現代では、「軍閥興亡史」(伊藤正徳)「近世日本国民史」(徳富蘇峰)「日本文化史」(辻善之助)「紫禁城の黄昏」(R・F・ジョンストン)「東条英機宣誓供述書)。

  • 日本書紀」ができた頃の日本人は、自分の国を「中国」と言っていた。一番大切な国のことだ。シナでは中国というときはインドを意味していた。山鹿素行の「中朝事実」の中朝とは日本の朝廷をさす。
  • 「栄華物語」の著者・赤染衛門は世界初の女性歴史家。道長の栄華が中心。和文で書かれた初の国史
  • 平家物語」:叙事詩。「太平記」は北朝側に立った歴史。倒幕の書。
  • 神皇正統記」は南朝側に立った歴史書。
  • 太平記」:中世の日本。鎌倉、北条幕府、建武南北朝
  • 「名将言行録」:応仁の乱の前後で日本史は変わった。戦国時代から江戸時代までの名将の肉声が伝わる。一級史料。
  • 「日本中世史」は、平安時代から鎌倉時代への歴史の推移を明らかにした。
  • 「中朝事実」は朱子学を批判し、孔子に帰れと主張。古学の開祖。乃木大将が昭和天皇に献上した本。
  • 大日本史」:紀伝73巻、列伝170巻、志・表154巻、全397巻。目録5巻を合わせて402巻。水戸藩は編纂に収入の三分の一以上をかけ続けた。1657年から1906年の250年間。彰考館(往時をあきらかにして来時を考察する)。
  • 日本外史」は、皇室が幕府の上に位置していることを明らかにした。
  • 軍閥興亡史」は、日露戦争から第二次大戦で負けたところまで書いている。明治、大正、昭和をつなぐ軍事を中心とした歴史書。
  • 「近世日本国民史」は、信長から西郷・大久保の死まで100巻。「明治という偉大な時代を書きたい」と思った蘇峰は漢文、筆文字、和本、英語をよめた人物。朝鮮征伐は詳しい。明治を全ては書けなかった。徳川か時代から西南戦争。「吼え狂う 波の八重路を 乗り越えて 心静けく 港にぞ入る」(蘇峰の辞世)
  • 「日本文化史」は、日本文化の核心を追った個人が書いた通史。
  • 紫禁城の黄昏」。「シナには近代欧米的な意味での国家は、かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」。
  • 「東城英機宣誓供述書」:日本帝国崩壊史の最重要文献。

 さて、どれから読むか。

 

「副学長日誌・志塾の風」170425

  • 川手課長:リスク管理
  • 高野課長:人事委員会。モンゴル。目黒高校。
  • その子先生:渡辺先生イベント
  • 一般社団法人言の葉協会:柿本理事・大槻常務理事と面談。「言の葉」と「私の志」のコラボの可能性。
  • 斉藤S先生:秘書関係学会の講演打ち合わせ

「名言との対話」4月25日。西本幸雄「いわしも大群となると力が出る。みんなが心底から力を合わせることによって、何かが可能になるんや」

西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手内野手コーチ監督野球解説者野球評論家

20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われたが、本人は「幸運な凡将」と自らを語っている。大毎・阪急・近鉄というパ・リーグの弱小チームを一から育てて優勝させたから、西本はやはり名将であろう。

西本の教え子には阪急時代には米田哲也梶本隆夫足立光宏森本潔長池徳士福本豊山田久志加藤英司近鉄では鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝羽田耕一平野光泰井本隆栗橋茂柳田豊などが挙げられる。人材育成の手腕は大したものだ。

「道のりは遠くとも、目標に向かって歩めば、一歩一歩近づくことだけは確かだ」

「レギュラーが決まっているチームは以外と弱い。2つか3つのポジションが決まっていないチームの方が強くなる」

 鰯(いわし)という字は、魚偏に弱いと書く。弱い鰯も烏合の衆ではなく、優れたリーダーが情熱を持ち精魂を傾けることによって、生命を持った有機体としてのまとまりになっていき、それが奇跡を起こす。その創造の秘密をこの名将は知っていたに違いない。「何か」が可能になる。その何かは想像を超えるものかもしれない。

ホームコースの相模湖カントリークラブで、久しぶりのゴルフ。

 ホームコースの相模湖カントリークラブで、昨年11月以来の久しぶりのゴルフ。

メンバーは、野田先生、杉田先生、弟。

 春の素晴らしい自然の中でリラックス。

f:id:k-hisatune:20170425043743j:image f:id:k-hisatune:20170425044155j:image

  いざ、プレイ開始!

f:id:k-hisatune:20170425043850j:image

 左から、ゴルフの師匠・杉田先生、恩師・野田先生、「青春記」に登場する弟・久恒智彦。

  終了後、満足の微笑み。

f:id:k-hisatune:20170425044002j:image

  「名言との対話」4月24日。山本為三郎「その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私もまた泣いて、ものを考えているのである」

山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年明治26)4月24日 - 1966年昭和41)2月4日)は、実業家大阪市中央区船場生まれ。朝日麦酒(現、アサヒビール)初代社長。新大阪ホテル大阪ロイヤルホテルを設立。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。

山本為三郎は、実業家として一家をなしたが、文化芸術活動家として後世に名を刻んでいる。柳宗悦らが取り組んだ民芸運動の支援者となる。

アサヒビール大山山荘美術館は、大阪の実業家加賀正太郎1888-1954がつくったイギリスチューダー様式の洋館で、ウィンザー城から眺めるテムズ川を彷彿とさせる景色である。加賀正太郎の建設した大山崎山荘は荒れていたのだが、加賀は死の直前にニッカの株を朝日麦酒の山本為三郎社長に譲っている。この縁でアサヒビールが美術館として復元し美術館として再生した。同時に安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」が隣接してつくられている。この美術館には河井寛次郎、濱田正司、バーナードリーチ、芹沢硑介らの作品が1000点の山本コレクションで構成されている。

 山本は大阪ロイヤル・ホテル(現在のリーガロイヤルホテル大阪)の設立にも心血を注ぎ、ホテルのメインバー「リーチ・バー」はバーナド・リーチと相談してつくった。「用の美」を味わうことができるバーとして現在も健在だ。

冒頭の言葉には「ただ、その人と私の違いは、私には感情や憎悪や利害関係がないということで、そういったものを取り除いて考えると、大抵のことはスムーズに解決できるものだ」が続く。同じ感情を抱きながら、冷静な理性で物事を解決していく山本は多くの人から信頼されたに違いない。その一つの精華がこの美術館だ。

幸田露伴「努力論」

幸田露伴「努力論」(岩波文庫)を読了。

努力論 (岩波文庫)

文豪・幸田露伴の厚みのある人生論。努力論というより日本を代表する幸福論だ。

運命。人力。自己革新。努力。修学。資質。四季。疾病。気。

こういうキーワードで事細かく生き方を論じた名著であり、首肯するところが多い。

 最も読むべきは「幸福三説」である。惜福。分福。植福、これを三福という。

惜福とは、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいう。個人では家康の工夫。団体では水産業、山林、軍事。

分福とは、自己と同様の幸福を分かち与えることをいう。人の上となり衆を率いる人が分福の工夫をしなければ、大なる福を招くことはできない。分福は秀吉が優れていた。

清盛。ナポレオン。尊氏。福は惜しまざるべからず、福は分かたざるべからず。

植福とは、人世の慶福を増進長育する行為である。自己の福を植え、同時に社会の福を植えることだ。

「福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん、能く福を分かつ人はけだし福を致すを得ん、福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉、植福なる哉」 

・志を立てる。先ず高からんことを欲するのが必要で、さて志し立って後はその固からんことを必要とする。

・凡庸の人でも最狭の範囲に最高の処を求むるならば、その人はけだし比較的に成功しやすい。

・天地は広大、古今は悠久。内からみると、人の心は一切を容れて余りあるから人ほど大なるものはない。外からみると、大海の一滴、大空の一塵、、、。

・春生じ、夏長じ、秋に自ずから後に伝わるの子を遺し、冬自ずから生活の閉止を現す、、

・世間の一切の相は、無定をその本相とし、有変をその本相として居る。

・、、変の中にも不変あり、無定の中にも定がある。

・願わくば張る気を保って日を送り事に従いたいものである。致大致正致公致明の道と我とを一致せしむるのが、即ち浩然の気を養う所以である。

 

「名言との対話」4月23日。上村松園「「一途に、努力精進をしている人にのみ、天の啓示は降るのであります」

上村 松園(うえむら しょうえん、1875年明治8年)4月23日 - 1949年昭和24年)8月27日)は、日本画家。女性の目を通して「美人画」を描いた。1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章。子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家である。作品に「母子」「序の舞」「晩秋」など。著作に「青眉抄」。

松園は竹内栖鳳に師事した近代美人画の完成者で、女性初の文化勲章受章者。上村松篁は松園の嗣子で近代的な造形感覚を取り入れた花鳥画の最高峰で、文化功労者文化勲章を受章。松園の美人画花鳥画に置き換えた画風。上村淳之は上村松篁の長男で文化功労者。奈良の松柏美術館では、この三代の画家の作品と歴史に触れることができる。

「生命は惜しくはないが描かねばならぬ数十点の大作を完成させる必要上、私はどうしても長寿をかさねてこの棲霞軒に籠城する覚悟でいる。生きかわり何代も芸術家に生まれ来て今生で研究の出来なかったものをうんと研究する、こんなゆめさえもっているのである。ねがわくば美の神の私に余齢を長くまもらせ給わんことを!」

「女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清聴はな感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである」

「画を描くには、いつもよほど耳と目を肥やしておかなくてはならないようでございます」

「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香りの高い珠玉のような絵こそ私の念願するところのものである」

「真善美極致に達した本格的な美人画をを描きたい」

松園の天の啓示論は傾聴に値する。

インターゼミ(九段サテライト)

インターゼミ。

「副学長日誌・志塾の風」170422

16時から九段サテライトでインターゼミ。

f:id:k-hisatune:20170423054042j:image

(1年生よ、メモをとれ!)

f:id:k-hisatune:20170423054052j:image

学長講話。

アジア・ユーラシア班(教授:金・水盛)。

f:id:k-hisatune:20170423054119j:image

AI班(教授:久保田・大場・木村)

f:id:k-hisatune:20170423054125j:image

多摩学班(教授:丹下・野坂・荻野)

f:id:k-hisatune:20170423054133j:image

サービス・エアンターテイメント班(教授:バートル・ハン・杉田・安田)

f:id:k-hisatune:20170423054142j:image

 終了後、蕎麦屋へ。

金先生、杉田先生、丹下先生、目黒高校の松井先生と歓談。

 帰りは、杉田先生の車で話をしながら帰る。学部のこと、ゴルのこと、、。

-------------

「名言との対話」4月22日。富田勲「いつも『これが最後』と思って曲を書いているんです。、、、子どもの心を忘れず、常に『今』に夢中でいたいですから」

冨田 勲(とみた いさお、1932年4月22日 - 2016年5月5日)は、日本作曲家編曲家シンセサイザー奏者

「これからは宇宙時代。何億年前には海にしかいなかった生き物が生存不可能と思われる陸を目指したように、人類は今や宇宙を目指そうとしています。大変な困難を克服しなければなりません。しかしこれは、生き物にとって受け継がれてきた悠久のロマンではないでしょうか。それは地球全体の国々の心は一つにならなくてはならないでしょう」(2015年9月。国際交流基金賞受賞スピーチ)

手塚治虫は1971年に富田勲氏の音楽をひと言でたとえるなら、脱日本的な第一級の調理師とでもいうべきだろう。、、、グローバルなスケールで第一級の仕事をしてもらいたい。」と語っている。その期待に応えた仕事ぶりだった。

長男の富田勝は「幼少時に感動したものを、ホントに死ぬまで追い続けていたのが富田勲なのだと思います。倒れる1時間前まで創作意欲に満ち溢れ、最後まで前のめりで亡くなっていった父の人生は、本当に幸せだったと思います」と父を述懐している。

「渡り鳥が危険をおかしてまで海を渡るように、 『やらねばならぬ』ことは人それぞれにある。 私の場合それが『音楽』だったのです」

富田先生にはJALのファーストクラスに大吟醸酒を搭載する思い出深いプロジェクトを一緒にして以来、25年の長きにわたって酒友としてお付き合いいただいた。 あの大吟醸を思わせる人格の尊い香りを身近で嗅いでいたことの有り難さ、幸せををかみしめている。 毎年の「秩父富田勲先生を囲む絶品の蕎麦と大吟醸を愛でる会」で蕎麦屋「小池」での集まりを中心に、富田先生と一緒に時間を過ごせたのは、ありがたいことだった。

富田勲は、地球を相手に、そして宇宙を相手に、次々と音楽の世界の最先端を切り拓いた。「子どもの心」で「最後」と思って、「今」を燃焼させた見事な人生だ。あの素晴らしい音楽とやさしい言葉が甦ってくる。