宇野千代「生きていく私」--4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方。

宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。

 自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。

4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

生きて行く私 (角川文庫)

 

 

 

宇野千代「私には年齢という意識がなかった」

宇野 千代(うの ちよ、1897年明治30年)11月28日 - 1996年平成8年)6月10日)は、大正昭和・平成にかけて活躍した日本小説家随筆家

宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

以下、人生観と仕事観。

・(失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。

・泥棒と人殺しのほかは何でもした。

・小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。

・私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、

・私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。

・私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。

・私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。

・何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。

・何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。

・何でも面白がるのが、私の癖であった。

・私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。

・一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。

・幸福は伝染して、次の幸福を生む。

・人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。

・小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。

・若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、

・「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。

・自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

交流があり66才で逝った平林たい子は、「私は生きる」と言ったのだが、99才という長寿の宇野千代は「生きていく私」と言う。宇野千代の66才の時から84才までは、214ページから373ページまでだ。人生のページというものがあるとしたら、213ページの平林たい子と、373ページに加え、さらに15年分は132ページであり、宇野千代の人生は505ページという盛大なものになるという計算になる。実に平林たい子の2.4倍の人生を生きたことになるのだ。まさに「生きていく私」というタイトルそのままである。

「角川文庫版に寄せて」(平成8年新春)には、この正月で数えの百才になったとあり、あと4年ほど生きれば、、、明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに21世紀が見たいとは我ながらなんとも呆れたものではないか」と書いている。宇野千代はこの年1996年(平成8年)に天寿を全うしている。最後まで元気だったということになる。

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夜は知研究の八木会長と根岸さんと、南大沢で飲み会。

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「名言との対話」7月12日。西竹一「「We won.」

 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐。愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト

府立一中では小林秀雄迫水久常、陸軍幼年学校では辻政信と同期であった。華族だったこともあり、西は乗馬を好み、騎兵を選ぶ。そして陸軍士官学校を卒業する。

 欧米出張中に西はイタリアで名馬・ウラヌス号と出会い、自費で購入する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは馬術障害飛越競技で優勝し、金メダルを獲得する。このとき、ウラヌスは自分から後足を横にねじって障害をクリヤした。この優勝インタビューで西が答えた言葉である。Weとは自分とウラヌスを意味していた。この言葉は人々に感銘を与え、西はバロン西(男爵)と呼ばれ、欧米の社交界アメリカで排斥にあっていた日系人の人気を集めた。西はロスアンゼルスの名誉市民にもなっている。

後に馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会いにいく。このときウラヌスは西の足音を聞いて狂喜し、首をすり寄せて、愛咬をしてきた。生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていた。

栗林中将率いる硫黄島での戦いで攻撃したアメリカ軍は「馬術バロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西は黙ってこれに応じなかったという証言がある。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」にも西は登場しているが、残念ながらそれには私は気がつかなかった。

私(I)が勝ったのではではなく、私とウラヌスの我々(We)が勝ったと西は優勝インタビューで答えた。最高の舞台に立ったときの西竹一の言葉が、西伝説を生んだのだ。

「水墨の風--長谷川等伯」(出光美術館)

出光美術館「水墨の風--長谷川等伯」。

「瀟相八景図屏風」

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雪舟五代を名乗る桃山時代長谷川等伯

能登・七尾の地方絵師であった等伯は、絵仏師的な要素の強い仕事をしていた。その時代は長谷川信春の名で絵を描いていた。近年になって信春と等伯が同一人物であることがわかった。

33才になって妻子を連れて上洛する。それから51才までの17年間が空白であり、雌伏の時代であった。繊細な描写を特徴とする信治、雄渾な墨線を主体にした豪放な大画面を描く等伯

桃山画壇にあって主流は狩野家であり、天才狩野永徳等伯より4つ年下である。信長は永徳を天下一の画工と認め、安土城のすべての障壁画制作の棟梁を任せた。34才から37才にかけて完成させている。

1590年、御所の対屋(迎賓館)の障壁画制作の仕事を長谷川という名の画家が奪おうとする事件が起こり、永徳はその画策をついえさせるのだが、翌年に永徳は急逝してしまう。

1589年、51才の等伯大徳寺の三門桜上の壁画、三玄院の障壁画を描くという大画業を完成させている。三門自体はは利休が財力を使って二階部分を増築した。桜上には利休の木像が安置された。これが後に秀吉の逆鱗に触れて利休切腹の要因になった。

絶頂期を迎えつつあった54才の時、息子の久蔵が26才の若さで急逝する。そのあと等伯水墨画を多数描く。その一つが「松林図屏風」だ。

60代では妙心寺大徳寺南禅寺など重要な寺院の障壁が制作にたずさわった。

絵師や医師は「法橋」「法眼」「法印」と昇る地位を宮廷からもらう。晩年の等伯は66才で法橋、67才で法眼になる。72才、家康の召しにより江戸へ向かったが、到着後まもなく客死。

 水墨画は中国唐時代の中頃(7世紀末から8世紀前版)に 登場した。色彩の世界を捨て、モノクロの世界がつくりだす壮大な3次元空間を平面に創出した。五代から北宋(10世紀初めから11世紀半ば)に山水画を中心に発展した。対象は朝夕の薄明、夜、煙雨、風雨、霧、霞などで、黒の微妙なグラデーションでしか表現できないモチーフが取り上げられた。東アジア水墨画史の頂点である等伯の「松林図屏風」も松は主役ではない。

山水画を源流に持つ水墨画とは、墨の濃淡と線で風景などを表現するものである。美術は「色と形」で物事を表現する芸術であるが、その色を消し去って、黒から白への濃淡のグラデーションを用いて独特の世界を描くのが水墨画だ。近世の文人画では、墨の「かすれ」も使うようになる。

 

「副学長日誌・志塾の風」170711

多摩キャンパス

・川手課長:文科相大学運営実地調査

・高野課長:研究開発機構

・荻野先生:オリンピックボランティア

・杉本係長:戦略会議「教務」「就職」

 湘南キャンパス

・安田学部長と懇談・情報交換

・学部運営委員会14時半ー19時半:英語教育。就職率。JALのCA、ビームスなだ万リンツ信金。離学率。PROG。、、、、。

 

「名言との対話」7月11日。ユル・ブリンナー「頭に毛があろうと無かろうと肝心なのは頭の中身なんだ」

ユル・ブリンナー(Yul Brynner, 1920年7月11日 - 1985年10月10日)はロシアウラジオストク出身の俳優である。

スイスとモンゴルの血を引く父親と、ユダヤ系ロシア人の母親との間に、ウラジオストックで生まれた。中国やフランスで幼少時代を過ごし、俳優を志して1941年にアメリカにわたる。

シャムの王様に扮したミュージカル「王様と私」が大ヒットしトニー賞を受賞、1856年の映画版ではアカデミー賞主演男優賞を受賞した。この映画作品は子供の頃に観た記憶があり、ハゲ頭叔父さんをユル・ブリンナーと呼ぶなどした思い出がある。

1951年の「王様と私」では、ユル・ブリンナーは極東での子ども時代の思い出、歌の能力、アクロバットのスキル、舞台演出家チェーホフのもとで学んだことなど過去の経験をすべて注ぎ込んで大成功をおさめた。このミュージカルでユル・ブリンナーは30年間で4633回の出演記録を達成している。

 15才からのヘビースモーカーであったユル・ブリンナーは肺がんに冒される。最後の日々をテレビでの禁煙キャンペーン活動を行っている。「私が死ぬのはタバコをたくさん吸ったからだ。これを見ているみなさんに言いたい、運命をもてあそぶな、と。」というテレビCMは死後に流れた。

高校時代、校内新聞に「髪を伸ばすより頭を伸ばせ」という言葉が載ったことを思い出した。私の通った高校はぼうず頭が普通だった当時としては珍しく長髪をゆるす自由な校風だった。ぼうずか長髪かという議論があったが、ある女高生がこの言葉を載せて、感心したことがある。外見ではない、頭の中身が肝心だというこの言葉が、あの見事なはげ頭のユル・ブリンナーからでると、ユーモラスで思わず衣笑みがこぼれる。

「水墨の風--雪舟」(出光美術館)

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 雪舟(1420年生)は、岡山の総社に生まれ、宝福寺では「涙でネズミを描いたという伝説が生まれる。

青年期は京都で過ごす、修行をしたが、ずっと不遇であった。相国寺にいた画僧・周文の都ぶりの繊細な画風にあわなかった。

35才からは山内氏の山口で過ごす。師の師であった如拙の名をとって拙宗と名乗っていたが、38才では雪舟に変える。小京都・山口では絵の世界の中心人物となる。応仁の乱勃発の直後の48才から50才の約3年間は遣明使の一員として中国へ渡る。随行カメラマンのような役割の雪舟は北京では礼部という役所の壁を飾る絵を描いた。「唐土勝景図鑑」「国々人物図鑑」を描いている。

帰国後の日本は応仁の乱で荒れていた。一時豊後の府内(大分市)にいたが、山口に戻っている。当時の絵かきは各地の風景を描いたり、各地の僧たちとの交流をはかるなど情報部員という役割も持っていた。世の中を見て、聞いて、写すのが画僧の仕事であった。

雪舟は山口の大内家のスタッフであり、絵では大家であった。よくみるとこの雪舟は67才で名作「山水長巻図」(16m。冬の終わり、梅の花がほころぶ春、初夏の水辺、秋の村のにぎわい、凍てつく都、春を予感させる緑の木)を描いている。長大な画巻は山水経のようだ。74才で「破墨山水図」、77才で「えかだんぴず」、80才あたりでは最後の旅で「天橋立図」を描いた。この絵は地上で見たもののスケッチを組み合わせて、土地全体を見晴らす架空の視点で描いている。これら代表作は、67才以降の作品である。雪舟は意外なことに遅咲きの画家であった。

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大学。

杉田先生:フットサル、、、。

会議:宮地、川手、杉田、高野。

「名言との対話」7月10日。今和次郎考現学は、時間的には考古学と対立し、空間的には民族学と対立するものであって、もっぱら現代の文化人の生活を対象として研究せんとするものである」

今 和次郎(こん わじろう、1888年明治21年)7月10日 - 1973年昭和48年)10月27日)は、民俗学研究者。

今和次郎は、「考現学」の創始者である。最近、〇〇考現学というような言葉がメディアで出てくるが、そのきかっけとなった学問である。何となく新しい感じの、ややいかがわしい感じの言葉という印象があったが、これは考古学を仮想敵とした概念だった。古いこと(昔のこと)を考えるのではなく、今現在を考える学問である。
今和次郎は、13歳年上の日本民俗学の父・柳田国男から「君の目がいいよ。俺と一緒に旅行して歩かんか」と誘われて、日本の民家を訪ねる旅を始める。柳田は新渡戸稲造らと一緒に民家研究の「白茅会」をつくって活動していた。この会には小説家の内田魯庵貴族院議員の細川護立、新渡戸稲造などがいた。東京美大出身の今和次郎は、この旅で盛んにスケッチをしてまわる。日本のほとんどの県に足を踏み入れている。これが後に民家研究の草分けとなる「日本の民家」(鈴木書店1922)に結実する。

1923年の関東大震災は様々な人の人生を変えていく。今和次郎の場合は日本の田舎を対象とした研究活動をしており、都会は大きすぎて手に負えなかったのだが、一面焼け野原と化した東京をみて研究対象を都市に変えるきっかけとなった。原始的な状態になってしまった東京の復興を細かく記録することにしたのである。人々の生活や風俗を克明に記録していく。これがきっかけとなって「考現学」が形をなしていく。
同時に今和次郎らは「バラック装飾社」を立ち上げて、日比谷講演公園内の開新食堂や東條書店など、震災後に次々に立ち上がるバラックに美しい装飾を施していく。

今和次郎採集講義」という企画展をパナソニック汐留ミュージアムでみた。「本所深川 男の欲しいもの」「帯の色調査」「蟻の歩き方」「丸ビルモダンガールズ散歩コース」「茶碗のワレ方」「おしめの文様」「東京場末女人の結髪」「女のあたま」「井の頭講演自殺者地図」、、、、など驚くべきテーマで上手な絵とイラストを描きまくっている。見ていてまことに楽しい。

今和次郎は、26歳で早稲田大学の講師になり、32歳で教授、40歳で結婚、71歳で定年退職、85歳で亡くなるまで教壇に立ち続けている。この人はジャンパー姿がトレードマークだった。この庶民的な姿で現場を歩いていったのだ。

1940年に描いた「新時代の生活方向  家庭の各員の生活マジノ線を防御しませう」という図が面白い。「家計」「主人」「主婦」「息子」「娘」「子供」「老人」「乳幼児」というタイトルで、それぞれが一枚の見事な図になっている。
今和次郎の仕事では、透視図や俯瞰図といったものに優れたものが多い。この人はせ図解的な仕事をした人である。

仮想敵は考古学と民族学、そして民俗学であった。 民俗学が村落を対象とし、その過去の風俗を追求しようとしたのに対し、考現学は都市を対象とし、その現在の風俗を観察しようとしたのであった。他の分野との違いを際立たせる視点とネーミングの素晴らしさが勝利の秘密である。

東京ステーションギャラリー「没後40年 幻の画家 不染鉄」展。

  東京ステーションギャラリーで開催中の「没後40年 幻の画家 不染鉄」展を先日観た。

 約20年前に、一度回顧展を開催したことがあるこの画家はほとんど知られていない幻の画家である。

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 不染・鉄(1891年生)は、東京小石川生まれの不良少年は画家を志す。

伊豆大島で3年暮らす。27才で京都市立絵画専門学校に入学し、特待生となり首席で卒業する。旧制研究科に進学。奈良に転居。神奈川大磯。横浜。戦時中は仏心から従軍画家になることをはばんだ。

戦後は55才で奈良の正強中学校理事長・校長として活動するが61才で退任。その後政治家への転身を考え65才、日本社会党に所属する。1976年この世を去る。享年84。

 「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」

「図画は好きだがお手本を見てかくのは好きではない」

「淋しいんだから淋しい一人で眺める画をかこう、、、野心作だの大努力作よりも小さい真実をかこう」

「正しい美しい心がからだ一パイになると、あふれてこぼれるようになるといい美しい画になります」

「天国も地獄も全て心の中にある」

不染鉄の代表作は「山海図絵(伊豆の追憶)」である。

下から三分の一は太平洋の海岸線、波間に群れ泳ぐ魚や漁をする船。中央に富士山の裾野。最上部には左右対称の富士山と列車、そしてしんしんと雪の積もった日本海の家並み。富士山を真ん中に置く構図は珍しい。俯瞰と接近の相まった独特の視点である。マクロ視点とミクロ視点の混淆だ。

日本では狩野元信「富士参詣曼荼羅図」などの社寺参詣曼荼羅や大正期吉田初三郎の鳥瞰図絵などがあり、世界ではドイツ・ルネサンスのアルブレヒト・アルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」、ブリューゲルの「バベルの塔」などが近い思想だ。

この絵には富士山の眺望と富士山からの眺望が混在している。マクロの視点の(鳥瞰)図とミクロの文とが共存している。マクロの全体構造にミクロの細部を組み合わせることによって世界を描き出そうとしている。世界を自在に把握し、再構成することによって、世界を創造しようとする態度に他ならない。

「名言との対話」7月9日。神谷正太郎「経営者には六段階の時期がある。 社長個人でお金を儲けようとする時期。 会社として利益を生み、蓄積を考える時期。 売上高や社員を含めて、会社全体を大きくしたいと願う時期。人や組織作りに一生懸命になる時期。業界や、世の為、人の為に尽くす時期。 死んだとき悪口をいわれないように努める時期 」

神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年明治31年)7月9日 - 1980年昭和55年)12月25日)は日本の実業家。トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車営業部門)社長・会長・名誉会長。

「私は需要とは創造すべきもの、つくり出すべきものだと信じています」

「どの種の困難であれ、これを乗り越えていく最大の武器が『誠意』である」

「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」「私は自信をもってこの車(初代カローラ)はご披露する。、、、将来、この車を世界のファミリーカーに育て上げるつもりである」といった神谷正太郎は、トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称された。神谷正太郎の経営者進化論は腑に落ちる。成功を実現した後は人づくりと社会貢献にいそしむ。最晩年の「死んだとき悪口をいわれないように務める時期」では何をすべきだろうか。

品川キャンパスと九段サテライト。

T-Studioの「名言との対話」が20回の大台に乗った。

さて、次回は誰を取り上げようか。

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時間をやりくりして美術館を訪問。

 「副学長日誌・志塾の風」170708

品川キャンパス

・金先生

・浜田先生:教員採用「キャリア」

大学院教授会。

・カリキュラム、秋の最終試験、学年暦、、、、。

・徳岡研究科長・今泉データサイエンスコース長

九段サテライト:インターゼミ。

・グループ作業

・サービスエンタメ班はフィールドワーク中

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 ・金先生:最近の報告

・松井先生:高大接続。ミュージックセキュリティと芝増上寺のイベント。

・高野課長:研究

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「名言との対話」7月8日。ジョン・ロックフェラー「よし、金銭の奴隷になるのはもうやめた。ひとつ、金銭を奴隷に使ってやろう」

ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。スタンダード・オイル創業者。

若い頃の目標は、「10万ドルを貯めることと100歳まで生きること」だった。31歳でスタンダード・オイルを創業し、水平統合の達成と新たな垂直システムをつくりあげ、史上最大の資産をもつ富豪とされるまで大成功をおさめた。58才で事実上の引退をし、その後97才で亡くなるまでの40年間は医療・教育・科学研究促進などを目的としたロックフェラー財団を創設した。シカゴ大学ロックフェラー大学を創設した。現在のフィランソロピーのおおもとをつくった人物である。富豪になること、長寿を得ること、この目標は達したわけだ。

以下、金と成功に関わる言葉。

・十セントを大切にしない心が、君をボーイのままにしているんだよ

・何百万もの富を築いたが、私はそれで幸せを得ることはなかった

・世界で最も貧しい人は金以外の何も持っていない人である

・成功の秘訣は、あたりまえのことを、特別上手にすることだ。

・事業の成功には、奇跡はない。永遠の成功は自分を信ずることだ

ジョン・ロックフェラーの31才からの27年間の事業家としての成功に目を奪われるが、それは金銭の奴隷としての活動だった。実は58才での引退後のフィランソロピー活動の方がはるかに長く、意味があった。それは金銭を奴隷にして新しい道を切り開いた日々だったのだ。ロックフェラーの97年の大いなる生涯、特に後半を眺めると、以下の言葉に深く納得する。ロックフェラーは「幸せ」を求め、それを手にした人だったのである。

・もし、あなたが成功したいのなら、踏みならされ受け入れられた成功の道を行くのではなく、新たな道を切り開きなさい

・いかなる種類の成功にとっても粘り強さほど大切なものはない。粘り強ささえあれば、ほぼなんでも乗り越えることができる。

・幸福への道は、二つの簡単な原則に集約される。一つ目は興味があり、自分が得意とするものを見つけること。二つ目は、一つ目で見つけたものに、情熱と才能とエネルギー、もてるもののすべてを注ぎ込んで全力でそれにあたることである。

中国・上海東海学院の学生達のコメント。社会人大学院生のコメント。

「ビジネスコミュニケーション」の授業13回目。

・東京都議会議員選挙の総括

・最終課題への取り組みを開始「2017年の論点」(文芸春秋

・来日中の中国上海東海学院の学生達へのミニ講義(通訳はバートル先生)

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 以下、感想。

1 胡凌遠。 東京都議選に関し図解という形で現在の日本の政治を表しており、とても勉強になり ました。

 2 左純 。図解を用いて世界経済について解説するという手法に触れて、データの重要性を改め て認識しました。責任を持って丁寧に進める副学長の講義スタイルがとても好きです 。

 3 劉思傑 。今日の講義は日本に来てから受けた講義の中で一番収穫の多い講義でした。長い文章 を一枚の図でまとめることができるという図解の手法はとても不思議でした。また、 東都都の都議選や日本と中国、台湾との関係についての先生のお考えも良く理解する ことができました。

 4 董敏。 都議選を図解で示すという手法はとても興味深かったです。データも使っているので 、 簡単で便利、かつ分かりやすい。

 5 張宇 。先生は私たちに図解という非常に良い方法を教えて下さいました。これは私たちの人 生にとっても有益なものと思いますので、もし日本へ留学することができましたら更 に詳しく教わりたいと思います。

 6 張文楊。 とても印象に残る素晴らしい講義でした。文章の一語一句を漏らさずに読むのではな く、その本質を理解し全体を図解で要約することの大切さを教えて下さいました。中 国に戻ってから本を読む時は図解という手法を試したいと思いました。

 7 詹美佳。 今日の先生の講義を受けて、中国と日本の教員の違いに気付きました。日本の先生は 講義に対し厳格かつ真面目で声も大きい。中国では丁寧に解説する先生は少ない。本 日は、日本をめぐる世界経済の現状について図解を使ってわかりやすく説明して下さ った。とても有益な講義でした。

 ・長弘さんとバージョンアップの竹内社長と懇談。

・公平係長に紹介

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  ・夜は品川キャンパスで大学院の授業「インサイト・コミュニケーション」7回目。

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以下、フェイスブックへの書き込み。

・本日は「2017年の100の論点」をそれぞれ図解。私は「コーポレートガバナンスコード」について。図解をすることによって、論稿が触れている範囲は一部分に過ぎないという事が分かりました。もちろん重要度や話題度を考えてのチョイスかと思いますが、元の本に戻った時に、それぞれの論稿のページ数から見て、背景や本質をしっかり触れているのか疑問が生じました。議論の入り口集としては良いかと思いますが。次回までに周辺も調べてブラッシュアップ致します。

 ・今回は「ベーシックインカム」の図解にトライしました。図解はキーワードの関係性を見いだし検証することであり、その過程で論理の飛躍や欠如(説明が足りない部分)が多くあることに気づくことができました。次回までに周辺情報を探り論考では触れていない部分を補完した形にしていきます。ありがとうございました。

・「ソフトバンクのアーム社3兆円買収」についての図解をさせていただきました。今回の買収と今までの買収との違いがよく分かったと思います。今までの買収は孫さんにとってみれば、どうすれば良くなるかがある程度見えていた買収だったと思いますが、アーム社は成功企業の買収であることと、未来の不確定要素の中で大きな賭けであることは間違いないと思います。だから財務的負担を低くしたのだと思います。

・今回は自身の業界(銀行。「フィンテック」)について図解をさせて頂きました。いつものほとんど知識がない文章からの図解と異なり、細かい部分にも思考が広がり、どのように描き始めるか、という初期の図解の構想時点で悩んでいた自分がいました。描き終わってみた感想としては、自身の会社の課題はもちろんですが、強みについても改めて理解が深まった気がします。図解による業界分析や事業環境分析が自社の課題のブレークスルーにつながるかもしれません。そうした視点も取り入れ、次回講義に望みたいと思います。

・ありがとうございました。今回の論点の学習では、次回、議論の内容を踏まえて筆者のさらに上を行けるように頑張りたいと思います。

 

 「名言との対話」7月7日。栗林忠道「予は常に諸子の先頭にあり」

 栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年〉7月7日1945年昭和20年〉3月26日)は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章)。第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。

1942年のミッドウェー海戦の大敗北から3年後の1945年2月、硫黄島を守備する2万千人の日本軍は、6万千名の米軍上陸兵力の総攻撃を受ける。5日間で終わらせるつもりだった米軍は36日間という予想外の時間をかけることになった。この間、日本軍は約2万人の損害を出したが、米軍は約2万9千人の損害(戦死者5500人)を蒙った。これに引き続く戦いとなった沖縄では米軍は4万9千人の大損害を出す。この二つの猛烈な日本軍の戦いが、100万を超える米軍犠牲者の予測を生み本土上陸作戦を思いとどまらせた。

栗林は「我等は各自敵十人を倒さざれば死すとも死せず」「我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん」という「敢闘の誓」を部下に叩き込んでいる。陸軍と海軍の連携の悪さ、旅団長や参謀の立てた作戦の大幅な修正と反抗に遭いながら、「我々の子供らが日本で、一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです」と、自らの信じる作戦の目的とそれを実現するための作戦とその実行に立ち向かう。

栗林の訣別電報は大本営によって改ざんされた。武器弾薬にも事欠く状況をあらわした「徒手空拳」という言葉は削除された。「国のため重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」は、末尾を「散るぞ口惜し」に変えられたという。

大本営は国民をあざむくばかりか、われわれもあざむくつもりか!」と憤慨しながら、「予は常に諸子の先頭にあり」という言葉を何度も口にし最後まで兵の士気を維持し続ける。2007年に観た映画「硫黄島からの手紙」では、この言葉を何度も全兵士に告げる放送し、告げる姿に感銘を受けた。現場は鼓舞されたであろう。この言葉はリーダーの心得を示している。

T-Studio 久恒啓一の「名言との対話」第19回をリリース

 T-Studio久恒啓一の「名言との対話」第19回。

www.youtube.com

www.tama.ac.jp 上海東海学院の訪日団と面談。先方の学長は3回目の訪問。

協定に基づき交換留学、編入学などの具体策を協議。

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 来訪メンバー。バートル先生と黒瀬学生長。

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 先方からのお土産を受け取る。杉田学部長と。

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 ・中庭先生:採用部会長の中庭先生から中間報告を受ける。杉田学部長。

・梅澤先生:おくやみ

 ゼミOBの橋本君(多摩郵便局)来訪。

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  ・本日のリレー講座の講師の溝畑宏先生と歓談:日本電産の永守社長。佐川理財局長。前川前次官。地方。オリンピック事務局。原発。、、、、。

・リレー講座:溝畑宏・大阪観光局長「観光立国とIRで日本を元気に」。

官僚。2002年ワールドカップ。大分トリニータ社長。立命館アジア太平洋大学創立。観光庁長官。大阪観光局長。

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 ・高橋さん:知研

・電話:八木。富田。畠山。

 「名言との対話」。7月6日。鈴木常司「美と健康の事業を通じて、豊かで平和な社会の繁栄と文化の向上に寄与する」

昭和後期-平成時代の経営者。1930年(昭和5年7月6日生まれ。2000年(平成12年)11月15日死去昭和29年創業者である父鈴木忍の急死により,留学先のアメリカから帰国,24歳でポーラ化成工業とポーラ化粧品本舗の社長となる。セールスレディーによる高級化粧品の訪問販売「ポーラ商法」で業績をのばした。
留学していたウィリアムズカレッジ内にある美術館、あるいはアート・インスティチュートなどを見て大きく影響を受けた。28歳での藤田嗣治の「誕生日」と荻須高徳の「バンバン城」の購入から始まった美術品収集は生涯で9500点に及ぶ。戦後の個人コレクションでは質量ともに日本最大級の規模。それが箱根千石原のポーラ美術館に結実した。ポーラ美術館は、光と緑にあふれており、空間が素晴らしい。

 展示美術品の質と量に驚いた。アンリ・ルソー展を観た後、各展示室を見て回ったことがあるが、著名な西洋画家のよく知られている作品が次々と現れていく様は圧巻である。驚きの中でこの美術館は誰がつくったのか、という疑問が湧いた。その人物は、鈴木常司だった。化粧品の分野で確固たる地位を占めるポーラ・オルビスグループのオーナーである。

40数年に亘るというから20代から始めた筋金入りの収集は、西洋絵画、日本洋画、日本画、版画、彫刻、東洋磁器、日本の近代陶器、ガラス工芸、そして古今東西の化粧道具など総数は9500点で、中心は西洋近代絵画400点だ。このコレクションの特徴は、恣意的に集めたものではなく、しっかりした構想のもとに体系的に集められたものであることである。だから絵画の歴史の流れを実感できるようになっている。

 1976年発足のポーラ研究所は、「美と文化」、とくに「化粧」についての総合研究所である。収集した化粧道具は6700点、関連蔵書は13000冊。
1979年発足の財団法人ポーラ伝統文化振興財団は、日本の優れた伝統工芸、伝統芸能、民俗芸能・行事などの無形文化財を記録・保存・振興・普及を目的としている。
1996年に発足した財団法人ポーラ美術振興財団は、若手芸術家、美術館職員に対する女性、美術に関する国際交流の推進を実施している。
そういった流れの中から、2002年にこのポーラ美術館が誕生した。しかしこのとき既に鈴木は他界していた。

鈴木常司の「文化」に対する思い入れには尋常ならざるものがあると感じる。冒頭の言葉は企業理念であるが、その理念を体現すべく、本業に加えて文化活動にも精力的に取り組んだ。その鈴木常司の人生の総括がポーラ美術館である。