『偉人の命日366名言集』--Youtube。新聞広告。

多摩大T-Studio「名言との対話」第18回は「久恒啓一著「偉人の命日366名言集」。

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 「偉人の命日366名言集」。日本経済新聞(6月24日・土曜日)の書籍広告。

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  「副学長日誌・志塾の風」170705

・研究室:スケジュール調整

・金先生:学生案件

・高野課長:OB名簿への追加

 「名言との対話」7月5日。円谷英二特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ」

円谷 英二(つぶらや えいじ、本名:円谷 英一(つむらや えいいち)、1901年7月5日 - 1970年1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督映画監督撮影技師発明家株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。

活動大写真と呼ばれた映画の黎明期から、東宝の解体までの日本映画界で、独自につくりだした特殊撮影(特撮)の技術によって活躍したことから、特撮の神様といわれた。

子供のころから、水彩画、模型飛行機、手製の映画などをつくる内向的な少年は、羽田の日本飛行機学校を経て、電機学校に入学し玩具制作会社で考案係嘱託として、自動スケート、玩具電話などを発明する。10代で映画界に入る。様々の撮影用の工夫を重ねるが、「テヘラ亭」、「ズボラヤ」、「スモーク円谷」、「ロー・キートン」などと呼ばれ、なかなか理解されない日々が続く。

1940年、39才で初めて「特殊撮影」のウレジットがつき、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。太平洋戦争中は、戦争映画を特撮技術で盛り上げて技術の蓄積を行う。戦後の公職追放を経て映画界に復帰。1955年54才で「ゴジラ」でようやく「特技監督」の名称を与えられる。56才、「地球防衛軍」で日本映画技術賞を受賞。62才、円谷特技プロダクションを設立。1966年、65才、「ウルトラQ」が一大怪獣ブームを巻き起こし、円谷英二の名前は全国に知れわたった。

「天から降ってくるのを待つのではなく、 自分の力で作り上げることを喜び幸せとしなさい。」

「他人から「できますか?」と聞かれたらとりあえず「できます」と答えちゃうんだよ、その後で頭が痛くなるくらい考え抜けば大抵のことはできてしまうものなんだ。」

予算がなければ自分で工夫し発明し目的に向かって直線的に猛然と進んで行く。円谷英二の特撮人生を眺めると、その執念に驚く。特撮という言葉は円谷本人の発明でもある。この人は独立独歩の発明家的資質を備えた仕事師であった。

村井重俊『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』(朝日文庫)

村井重俊『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』(朝日文庫)を読了。

 『街道をゆく』は1971年から週刊朝日で連載がはじまり、亡くなる1996年までほとんど休みなく続いた。47才から25年間、毎週16枚の連載で、文庫本は43冊になった。

「街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えてみれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである」

この本の編集者は25年間で5人、著者の村井は最後の担当者だった。

街道をついてゆく 司馬遼太郎番の六年間 (朝日文庫)

この本では国民作家・司馬遼太郎の人間味が描かれている。そこに焦点をあててみたい。村井による司馬遼太郎観察である。

・司馬さんは意外にわがままなのだ。

・司馬さんの原稿は万年筆で書かれるが、赤や青、緑色のマジック、ボールペン、色えんぴつなどで推敲を重ねる。

・司馬さんのはなしはいつもわかりやすかった。リアリティがあり、ユーモラスで、聞いていると心が拡がるような、明るさがあった。

・司馬さんは土木が好きなようだった。

・必ずなるよ。(「日本は本当にだめになるんでしょうか」)

・司馬さんは意外に料理ができた。

・68才の司馬さんは、書生としての基本姿勢を大切にしていた。

・夫妻は毎日、散歩する習慣がある。

・遺跡をたずね、遺物をスケッチし、写真を撮り、野村さんの話を小さなノートにまおとめていく。

・カニアレルギー

・大きな旅の場合、司馬さんは事前にノートをつくる。、、「資料を集めたり、調べるぐらいおもしろいことはない。(KOKUYOのCampus)

・「七度になると寝込み、八度以上になれば、ちょっと照れくさいが---遺言を考える」

・偏食の司馬夫妻(カニ、鶏は食べない)

・「、、雅子さん、日記をつければいいと思うな。貴重な資料になりますよ」(皇太子妃)

・この辺りの粘りが、司馬さん独特のものでもあった。ただの世間話が『街道をゆく』の一章ににまでなっていく。

・「高校三年生」もそうだし、「朧月夜」も知らないようだったのには驚きましたね」(安野光雅

・「ひょっとしたら性癖かもしれない。、、、ここは元はなんだろうということが気になってしまう」

・「大坂外語に行っているときは、外務省の下級の役人になって、どこか辺境の領事館に勤めたいと思っていたね。そして三十になったら小説を書きましょうと」

・司馬さんは相撲ファンではあった。ひいきは断然、旭富士たっだ。

・旧弘前高校を受験し失敗している。「自分の聖蹟だと、弘前と高知が狙い目だと思ったんだな。高知はなんとなく野蛮そうなので、弘前にしました」

・相当の負けず嫌いなのだ・

・司馬さんは宮崎アニメの大ファンだった。・

アレルギー性鼻炎に加え、座骨神経痛にも苦しんでいた。

・「戦後の日本の繁栄は終わったと思った方がいい。これからは大国などとはいわず、世界の片隅で日本という国がひっそりと暮らせていけばいいんです」「あとはよき停滞、美しき停滞をできるかどうか。これを民族の能力をかけてやらなければ生けないんです」「ちゃんとした人間が上に立てば、なんとかなるんです」「日本は再び敗戦を迎えた」

・旅に出る前、いつも司馬さんは背筋をのばした。「さあ、行きましょうか」

 

「名言との対話」7月4日。中谷宇吉郎「すべての事物を、ものと見て、そのものの本体、およびその間にある関係をさぐるのが、科学である」

中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は、日本物理学者随筆家位階正三位勲等勲一等学位理学博士京都帝国大学1931年)。北海道帝国大学理学部教授北海道大学理学部教授などを歴任した。

雪は上層で中心のコアができて、それが重力で落ちてきながら次第に低層の気象条件の影響を受けて外へ成長する。雪の結晶は実に美しい。そして気象条件によってあらゆるタイプの結晶が生まれる。宝石のよう。さまざまな形。蝶々。水晶のよう。おとぎの国の宝物のよう、、、。この神秘の解明に中谷は魅せられたのだろう。

「一見迂遠な様に見えても、実際は案外早道であるというのが、本当の基礎研究であります」

「雪は天から送られた手紙である」

「なにかをするまえに、ちょっと考えてみること」、それが科学的であるということだ。

2000年に朝日新聞が「この1000年の優れた日本の科学者」を問うた読者投票を行ったところ、中谷宇吉郎は6位だった。読売新聞の「読者が選ぶ21世紀に伝える「あの一冊」」の投票では、「雪」が「日本の名著」の3位に入っている。

東大で22歳上の寺田寅彦(1878−1935年)に師事する。23歳でここで理論物理学から実験物理学に進路を変更する。二人の関係は、夏目漱石寺田寅彦との関係に似ている。寺田の名言「天災を忘れた頃にやってくる」は人口に膾炙している。そして「科学で大切なことは役に立つことだ」との寺田寅彦の教えにしたがって、問題解決型の研究に従事した一生だった。問題解決の要諦はやはり「関係」にあった。

糸満市:沖縄県平和祈念資料館。ひめゆり平和祈念資料館。 浦添市:Kinser House。

糸満市

まず沖縄県平和記念資料館を訪問。詳細は別途記す。

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沖縄戦に関する本格的な資料館だ。日本の皇民化政策。風俗改良運動。大和風に名前を変える。国家神道に組み入れる運動。特高。住民の監視。鉄の暴風3カ月。軍民共生共死。戦後の高等弁務官琉球政府。、、、、、、、。

 徴兵徴用の韓国人1万人余の慰霊塔。

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 ひめゆり平和祈念資料館。

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沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校は「ひめゆり」の愛称で知られていた。  15歳から19歳の乙女たちが沖縄陸軍病院に動員された。ついに6月18日に今日からは自らの判断で行動することという解散命令を受け、外に出て多くの犠牲者を出した。涙を禁じえない資料館だ。

戦後70年特別展としてひめゆりの引率教師たちの展示がされていた。生き残った教師たちのその後の人生も興味深い。

沖縄出身のハワイ二世の儀間真一という人が2,000坪を寄贈した。この人は生涯この徳行を誇ることなかった高潔な人であるという顕彰碑がある。

詳細は別途資料を読んで記す。

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 ひめゆりの塔

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詳細は別途記す。

 夕刻からは浦添市のKinser Houseでの食事会。

海辺のレストラン、プライベートビーチ、絶品の沖縄料理を楽しみながら、趙先生と川合あゆむさん夫妻を中心に話がはずむ。ベーシックインカム、、、。

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「名言との対話」7月3日。

沖縄の結婚式

 多摩大での最初のゼミ生の宮城君の結婚式。宮城君は沖縄県庁の教育部門に入って今は宮古島の学校勤務。

冒頭の祝辞と乾杯をお願いされた。

 「ゼミでは聖蹟記念館、インターゼミでは東鳴子温泉。公務員となり沖縄の問題の解決という志。琉球新報。新郎新婦の性格分析。アドバイス。夫婦論から。羅針盤が性格。、、」

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 私のテーブルは多摩大卒業生6人も。トランスコスモス。個人での物販(アマゾン)。アミューズメントメーカー。人材ビジネス。郵貯、、。全員20代後半。仕事の話を聞き活躍に感激した。サムライの木内翔大、創新ラボの下山雄大、、。 

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 200人以上の出席者。学芸会風のイベント。踊り。、、。出席者の服装も礼服あり、かりゆしあり。沖縄の結婚式は独特の雰囲気。

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「名言との対話」。石川達三「幸福は常に努力する生活の中にのみある」

石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年明治38年)7月2日 - 1985年昭和60年)1月31日)は、日本小説家。ブラジルでの農場体験をもとにした『蒼氓』により、芥川賞受賞者第一号となった。 

 第7代日本ペンクラブ会長時代に、「言論の自由には二つある。思想表現の自由と、猥褻表現の自由だ。思想表現の自由は譲れないが、猥褻表現の自由は譲ってもいい」とする「二つの自由」発言(1977年)で物議を醸し、五木寛之野坂昭如など当時の若手作家たちから突き上げられ、最終的には辞任に追い込まれた。

趣味はゴルフ丹羽文雄とともにシングル・プレイヤーとして「文壇ではずば抜けた腕前」と言われた。

大学時代に野望を抱く主人公が堕ちていく物語「青春の蹉跌」という話題作を読んだことがある。

冒頭の言葉の前には以下の言葉がある。「幸福は決して怠惰の中にはない。安逸の中に幸福はない。それはただ平穏があり、『仕合せ』があるのであって、『幸福』という輝かしいものではない。平穏はやがて、平穏であるからつまらない時が来るし、仕合せは仕合せであるのがつまらない。という時が来る。幸福というものはそういうものではない」。安逸、平穏、無事、怠惰、そういう生活の中には生き甲斐はない。志を持って日々歩む過程こそが輝かしい幸福の正体なのだ。

沖縄。NPO法人知的生産の技術研究会沖縄支部発会記念の特別講演会。

沖縄入り。

那覇空港で待ち合わせのゼミOBの宮城くんと会う。宮城くんの明日の結婚式での挨拶の打ち合わせ。

 夕刻からはNPO法人知的生産の技術研究会沖縄支部設立発会記念の特別講演会。

演題は「偉人の命日366名言集」で仕事と人生に喝!。

 講演後の沖縄支部設立総会。

支部長は玉木判さん。事務局長は砂辺孝夫さん、

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 多摩大の同僚の趙先生とその友人たちも参加。

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 琉球豚屋「くろとん」で  懇親会。

終了後には、国際通りから入った屋台村で歓談。若い人たちがたくさん集まってとても賑やかだ。その名のとおり国際色豊か国際色豊かだ。写真は午前0時。

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「名言との対話」7月1日。酒井抱一「我等迄 流れをくむや 苔清水」

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師俳人。 

尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

姫路城藩主の次男坊で、江戸屋敷で育った。画業は狩野風を学び、沈南蘋の写生画風、浮世絵、加えて土佐派、円山派の技法を習得。親交のあった谷文晁からも影響を受けた。さらに俳諧、和歌、連歌国学、書、そして能、仕舞までもたしなんだ。

抱一は、「老子」の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」からとっている。

出家した後には尾形光琳に私淑する。光琳の100年忌を行うなど顕彰活動を始めて、乾山を発見する。乾山の流れは、抱一、そして井伊直弼、富本憲吉、バーナード・リーチへと続いていく。

酒井抱一は、俵屋宗達尾形光琳から始まる尾形流を再興し、その流れを切らさずに、次の時代にまでつなぎ、ヨーロッパのジャポニズムにまで影響を及ぼすという大きな仕事をなした。冒頭の句は、文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した時の感慨を詠んだものである。後から眺めると「流れ」を切らさないことがいかに大事かがわかる。

学部授業「都議会議員選挙」。投票率は66%。自民31%、公明22%、都民19%、共産6%、民進6%、、という結果に、、。

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 「副学長日誌・志塾の風」170630

多摩キャンパス

・橘川先生

・授業:3回続けて都議会議員選挙がテーマ。前回は読売新聞記事、今回は東京新聞の記事の公約比較を配布し図解に挑戦。政治意識の高まり。以下、アンケート結果速報。

  • 都議選に行く 81名 66%。都議選に行かない 41名 34%    。 合計 122名
  • 投票先:自民 26名 31%。 都民 16名 19%。公明 18名 22%。共産 5名 6%。民進  5名 6%。ネット 1名 1%。その他 6名 7%。無回答6名 7%。

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 九段サテライト

・13時半:第1回教学マネジメント会議:教学ポリシーについての意見交換。

・14時半:大学戦略会議:今回は「教務」がテーマ。カリキュラムの課題。輪郭を際立たせる施策。前回の報告「地域」:研究内容の可視化。産学官民連携。全学連携。

・16時:大学運営会議:学長「教授陣の質(研究者)。離学。雲南民族大学(雲南の戦略的重要性)。知の再武装

 帰りは、杉田学部長の車で話をしながら帰る。

 

「名言との対話」6月30日。アーネスト・サトウ「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人間を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーの『黄金虫』の中の暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」

サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow枢密顧問官GCMG1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリス外交官。イギリス公使館通訳、駐日公使、駐公使を務め、初代駐日大使となった。イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。

サトウは高校時代に「エルギン卿遣日使節録」で日本を知り、「ペリー遠征記」を読み、イギリス外務省に入り、あこがれの日本に渡った。幕末から明治にかけての1862年から1883年(一時帰国)と、イギリス駐日公使としての1895年から1900年までの、合計25年間の日本滞在となる。この激動の時代に、多くの英雄に会っている。そして、以下のように彼らの人物評を残しており、興味深い。
「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」(西郷隆盛と面会した時の感想)。

「結局江戸を政治の中心とし、その名を東京(トウキョウ)、すなわち東の都と改称することに決定したのだが、それには大久保(利通)の影響力が大きかったことを私は疑わない」(薩英戦争では通訳として活躍)

「イギリスの議会制度は、京都における侍階級の指導者連中、ことに後藤象二郎などが大いに興味を持った問題であった。日本の新政府の基礎を代議制度の上におくことが、彼らの希望だったからである」

小松帯刀は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」

「伊藤(博文)には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった」(長州ファイブといわれていた伊藤博文井上馨が、急遽ヨーロッパ留学から日本に戻る時には、サトウが長州まで送り届けた。下関戦争の長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手の通訳をつとめた)

「勝(海舟)は、将軍家の崩壊以来、常にわれわれに政治情報を提供してくれた大いにありがたい人だった」

ポーが『黄金虫』の中で述べているのは換字式暗号(かえじしきあんごう)である。平文を、1文字または数文字単位で別の文字や記号等に変換することで暗号文を作成する暗号である。ともかくも暗号のような日本語を一から学ぶ困難の中、それを駆使して、明治という時代の一翼を担ったアーネスト・サトウの行動と観察には教えられることが多い。

リレー講座:海部陽介(国立科学博物館)--「ヒトはどのような生き物か・700万年の進化史から考える」

「副学長日誌・志塾の風」170629

・飯田先生:講座

・志賀先生

・OBの鈴木君

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・金先生・杉田先生:学生案件

 

・リレー講座の講師の海部陽介先生と歓談:国立科学博物館。研究者60、事務60。動物医、植物医、人類、、。人類史研究グループは5人。クラウドファンディング2600万円、、、、、

・14時20分:リレー講座:講師は国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長の海部陽介先生。

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 ・人類史研究は総合科学。

・現在の人類はアフリカで誕生、その後なぜ今のようになったのか? いつ人類が「人間」になったのか? 人間の集団と文化の多様性は、いつ、どのように。なぜ起こったのか?

・人類史の5段階。初期猿人。猿人。原人。旧人。新人。

・初期猿人:手のような足。440万年前にラミダス猿人。アフリカ。

・猿人:アフリカ。二本足歩行。400-300万年前。立ち上がると手が自由になる、ストレスが減る。

・原人:ホモ属。並存。300-200万年前。祖先。石器。肉食。脳のサイズが増加。

・新人:ホモ・サピエンス。アフリカ起源。全世界に拡がった。マラソンが得意。汗をかくから体温を下げられる。北京原人ジャワ原人、フローレス原(1m)。5万年前に出アフリカし世界中に拡がった。ヨーロッパでではクロマニヨン人。絵を描く、おしゃれ、、、現代人のもと。

 

17時半:品川の大学院で運営会議。

 

「名言との対話」。6月29日。伊沢修二「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」

 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体伊澤、1851年(嘉永4年)6月29日1917年大正6年)5月3日)は明治時代日本教育者文部官僚。近代日本の音楽教育吃音矯正の第一人者。

伊沢は明治初年の「師範教育、音楽教育、体操教育、聾唖教育、植民教育、国家教育、吃音矯正等」、各種教育事業のすべての単独で創立したか、深く関係しているという、独創的な教育実践家であった。 東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。5年間にわたって師範教育の開拓者であり、ブルドーザーであった伊沢は、師範教育の目的を知識の獲得と知識の伝達にあると考えて、組織を改変している。

「智戦力闘の処世に要用なる、あたかも車の両輪の如く」不可欠であり、体育は「全国の元気を振作せんことをこいねが」い、体操伝習所を設立した。

音楽教育の面では、「君が代」、蛍の光」、「蝶々」などの唱歌を定めた。「てふてふ、菜のはなにとまれ、、、」で始まる「蝶々」については歌詞にも関与している。音楽は児童の身体の健康と徳育上の効果が大きいことを強調し、音楽教育を独力でもって設計し、構築した。31歳で文部省に戻った伊沢は森有礼大臣のもとで標準的な教科書の編纂にあたる。聾唖教育に関与した伊沢は、研究を重ね、聾唖者の矯正に成功し、神業と言われる。

文部省内の意見不統一を公開の席であばいたという理由で非職となった伊沢は、国家教育者で時流をつくっていく。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」とした。

清国から割譲された台湾において伊沢は「外形を征服すると同時に、別に其精神を征服し、、、、日本化せしめるべからず」とし、国家教育を輸出する。台湾における教育は日本語によっておこなうという基本原則を採用した。台湾の日本化は、「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。台湾に記念館がある。

貴族院議員になった伊沢は、67歳で没するまで20年間を廟議の人として過ごす。学制研究会を組織し、清国賠償金から教育費として1千万円を獲得する。
伊沢は再び東京高師の勅任校長となるが、激務の中で病に倒れ、やむなく辞職する。時に50歳。

「凡そ天地間に無用の者を助けて置く理由は無い。、、然らば生きてをるといふには其れだけ任務、則ち大命といふものがある筈である。、、唯此大命に従って生活すべし」として伊沢は信仰の人となった。
その伊沢は吃音矯正事業に取り組み楽石社を設立する。没した翌年に開かれた創立15周年記念会では、矯正者総数は5367名に及んだと報告されている。中国での事業も成功し、「神か仙かほとんど人に非ず」とまで激賞された。

強靭な体力、不屈の意志、異常な才幹、緻密な頭脳の独創の人であった。台湾総督をつとめた弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。

伊沢は教育に関するパイオニアではあったが、性格が強く、対立を起こし、途中で後任に仕事を託し、自らは新しい課題に挑戦していった。後に大臣にも大学総長にもならなかったのは性格の故だった。

 信州高遠藩の下級武士の家に生まれた伊沢は出郷にあたって「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」と志を父に向かって述べている。そしてその志のとおりの軌跡を歩んだ。一人の人が生涯においてなし得る限界に挑戦したともいえる。まさに万難千苦をなめ尽くした。その志や見事だ。