土屋文明文学館。草津ベルツ記念館。

群馬県土屋文明文学館を5年ぶりに再訪。

 青木上に 榛名を 永久の幻に 出でて帰らぬ 我のみにあらじ

70歳で詠んだ歌。事情があり故郷に帰れなかった文明の哀しみが現れた歌だ。 

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 群馬町生まれの山村暮鳥の「風景」。

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ガイドの関根緑さんと。90歳の元教師。あまりの元気さに驚く。終わってお茶を一緒にいただく。 

土屋文明は、生涯の転機に、常にいい人に出会っている。

土屋文明のテーマは万葉集研究だった。文献研究とフィールドワーク。

昭和61年の文化勲章は同郷の中曽根総理からもらっている。96歳。

土屋文明は100歳で天寿を全うしている。

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 土屋文明は選者として「生活の真実の表現がなされた歌」を取り上げた。

文明は歌人としてよりも、選歌者として自信があった。

「短歌は生活そのものである」

茣蓙(ござ)の上ぼ吾をあはれと人や」みる背骨いたむまで選歌つづけて

長江は青き園はらに一筋に最も西は天に開かれり(中国)

恙なくか帰るを待つと送る君に否まず肯はず行きし君はも(51歳)

足も引かず六十六になりぬればなほ六十年生きる気がする

相共に九十年をめざしつつ早くも君はたふれ給うか

終わりなき時に入らむに束の間の後先ありや有りてかなしむ

 

草津の「ベルツ記念館」。

 エルウィン・フォン・ベルツは、日本近代医学の父。

草津温泉を有名にした人。妻は日本婦人の花。24歳の年齢差。

27歳で来日、29年間滞日。

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 ベルツは、明治25年東京帝国大学名誉教授。明治38年勲一等旭日大綬章。伊藤

博文ら明治の元勲と親交があった。

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「名言との対話」テニスン「自分に対する尊敬、自分についての知識、自分に対する抑制、この三つだけが人生を導き、生活に絶対の力をもたらす」

初代テニスン男爵アルフレッド・テニスンAlfred Tennyson, 1st Baron Tennyson, 1809年8月6日 - 1892年10月6日)は、ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人。美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。

1842年『Poems by Alfred Tennyson』で名をなし1845年に年金を授与された。1847年叙事詩『The Princess』を発表し、1850年ウィリアム・ワーズワースの後継者として桂冠詩人となった。この年に結婚している。1855年『Maud』、1859~64年にかけてアーサー王伝説に取材した『国王牧歌』や、哀れな水夫の物語詩『イノック・アーデン Enoch Arden』(1864年)、『Locksley Hall Sixty Years After』(1886年)を発表し、1884年にはテニスン男爵に叙せられた。詩人であるだけに、言葉がいい。

一人の敵も作らぬ人は、一人の友も作れない。

・男というものはどんなに違いがあってもせいぜい天と地の差だ。だが女というものは、一番良い女と一番悪い女の差は天国と地獄ほどの違いがある。

・希望がが人間をつくる。大いなる希望を持て。

・あまりに多様な世界、あまりに多い成すべきこと、あまりに少ない成し遂げたこと。

私はこれまで会ったすべての人の一部分だ。」。これは先日105歳で天寿を全うされた日野原重明先生が好きだった言葉である。

自分への尊敬と知識と抑制。つまり自分をよく知り、自分を大事にせよということだろう。それが人生を航海するための分かりやすい羅針盤だ。

品川:大学院修士論文審査会。大学院修士論文審査会。九段:非常勤講師への教育方針説明会。蕎麦屋で懇親会。

「副学長日誌・志塾の風」170805

  • 品川キャンパス

・10時:大学院修士論文審査会

・13時:大学院教授会

  • 九段サテライト

・15時:非常勤講師への教育方針説明会

私:「大学改革の多摩大モデル」

杉田学部長「本学の教育方針」

金教務委員長「教育方針」

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16時: 懇談・意見交換。

荻坂先生。関先生。荻野先生。市原先生。深沢先生。荒木先生。諸橋先生。手塚先生。大沢先生。河合先生。奥山先生。

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 ・17時:文庫カフェで懇親会

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 18時:知研の高橋さんと蕎麦屋で懇親。大館に関する提案を受ける。知研の今後のことも意見交換。

 

 「名言との対話」8月5日。壺井栄「桃栗3年 柿8年 柚子の大馬鹿18年」

壺井 栄(つぼい さかえ、旧姓:岩井、女性、1899年明治32年)8月5日 - 1967年昭和42年)6月23日)は小説家詩人。主に一般向小説および児童文学童話)を主領域に活躍した作家で、戦後反戦文学の名作として後に映画化された『二十四の瞳』の作者として知られる。

壺井栄は醤油樽職人の6番目の子供であった。級長になるなど成績は良かったが一家が破産。15歳で坂出郵便局につとめる。26歳で上京、同郷の壺井繁治と結婚し、世田谷に住んだ。この時近所に林芙美子平林たい子夫妻がいた。夫はプロレタリア運動に参加する。31歳、宮本百合子、佐田稲子と知り合う。38歳で、処女作「大根の葉」を発表する。42歳、「暦」で新潮社文芸賞を受ける。以降活発な執筆を展開する。53歳のときに書いた「二十四の瞳」が映画化され栄は国民的な存在になる。57歳、壺井栄作品集25巻。67歳、内海町名誉町民、そして死去。壺井栄は、小説、童話、随筆等、生涯で1,400編の作品を残した。1992年に郷土の小豆島の映画村に壺井栄文学館が開館した。

 「突き飛ばされて転んだら、ついでにひとりで起きあがって、歩くとこを見せてやらにゃいかん」

「このひとみを、どうしてにごしてよいものか」

 小豆島の映画村では映画館があり無料で「二十四の瞳」を上映していた。この映画は子供の頃見ているが、戦争反対の作品だったことに驚いた。ひらいたひらいた、7つの子、村の鍛冶屋、荒城の月、仰げば尊し、などの歌が聞こえている。涙なしには見ることができない名作であった。

 「桃栗3年 柿八年  柚の大馬鹿18年」、これが遅咲きの栄の座右の銘である。自身は柚であると認識していたのだ。亡くなる直前の最後の言葉は「みんな仲良く」だった。

インターゼミ二日目:学長講演

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 ・課題解決力(ソーシャルエンジニアリング)=文献研究とフィールドワークで築いた自分の力とネットワークで得る他人の智恵の吸収。

・インターゼミ=グループ学習。年代の異なる仲間とのコミュニケーション。

・大学正常化ーー「真っ当に勉強しなかえれば」と2年間のだい学院で集中して社会科学的メソドロジーを学んだ。

三井物産。3ヶ月で辞表。先輩(大原)から「生意気、手伝え」。

・I,my,meの私生活主義。「あの時、どうしていたか?」。何を引き継ぐにか。世代。

・2017年夏:8月サンフランシスコ(スタンフォードの研究所)。8月後半から9月初旬(ウイーンの中東協力会議でエネルギー。ロンドンでBREXIT)。9月半ばからモンゴル(17世紀オランダ論)、、。

宗教改革500年:ルター1517年。活版印刷という情報革命で浸透。大航海時代、アメリカ独立、旧教からの革新(イエズス会、ザビエル、、)。1648年のウエストファリア条約で宗教からの政治の独立、オランダはスペイン(ハプスブルグ家)との80年戦争に勝利し独立。ここから現代史が始まった。

ロシア革命から100年:20世紀は社会主義に悩み抜いた100年。1970年代の日本の55年体制。自民対社会という代理戦争。ソ連崩壊。金融資本主義、反グローバリズム、ロシアの復活、、、。体制選択の融解。

・運命の5年間:1914年(第一次大戦)ー1919年(ベルサイユ講和会議)。日本はドイツの山東利権(英国との集団的自衛権)、1915年の対華21箇条の要求、」1917年のロシア革命シベリア出兵、、。親亜から侵亜へ。1923年に治安維持法、1930年代の日中戦争、太平洋戦争へ。

・アメリカトランプの6ヶ月:国際論壇に注目。自前の羅針盤が必要な時代。古い産業の保護主義の産業政策とウオールストリートのマネーゲーマーの金融政策の対立。ひからびた産業を支援するホワイトハウスと先端ICTのシリコンバレーの対立。スティーブ・ジョブスはシリア人、、。政権の人事が固まっていない。しかし株価だけは史上最高を更新中。

・金融漢和で肥大化するウオール・ストリート。FINTECH。財政出動で負債増加。実力以上の生活をカードやローンで強要。トランプ現象にはプア・ホワイトの存在。アメリカは金融引き締めに、日本はマイナス金利。余ったマネーはエネルギー価格へ。果たしてデモクラシーは金融資本主義を制御できるか?

・社会人大学院:知の再武装。異次元の高齢化。80歳以上1000万、100歳以上7万。2050年に80歳以上は1600万、100歳以上は53万。100年人生。島津製作所6.5億円。トヨタ2.5億円。今、一生働いて報われるか? 知の再武装を! 大卒者の2つの知的欠陥。歴史観(近代史)の希薄さ。メルカトール図法の地図(地球儀ではない)。

・中年の危機の2つの克服:使命感と出会い。毒食わば皿まで。

・知的再武装。何を学ぶか。コンピュターサイエンス(AI・ビッグデータ)と来hサイエンス(生命科学)。高齢社会:テーマとライフワークが必要。NPO/NGOなどのスペシャリストになるには専門性が必要。智恵がいる。

ジェロントロジー(老人学)。医療、精神、活動、、、、。戦うジェロントロジー。

「名言との対話」?

インターゼミ合宿(箱根)初日

午後から箱根でインターゼミ合宿。9年目。

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 私から冒頭の挨拶:

・『ユニオンジャックの矢』。寺島の三井物産でぼ1975年のロンドン出張。1980年の中央公論「我ら戦後世代の坂の上の雲」まで。その後7年間の沈黙。私の1978年のJALロンドン空港の1年2ヶ月。1982年の遭遇。出会いの物語。

・「寺島実郎の気概と方法」というテーマで解説。

 教員発表:

野坂先生:経営学と地方創生。漁業・養殖業。宮城県の水産特区。イノベーションが必要。民間参入と協業化。漁業構造の問題。高付加価値化。

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 韓先生: 観光まちづくり。内部コンフリクト。由布院合併問題。滋賀県金江。 f:id:k-hisatune:20170804063810j:image

 丹下先生。

中小企業の海外撤退。開拓と撤退。35%が失敗。失敗事例の研究。販売・パートナー・人材。事前の取り組みがカギ。現地パートナーとの組み方。

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 水盛先生

大中華圏。 中国史は外国人である日本人には取り組むことができる。漢文、白話文。日本と中国の違い。

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  •  アジアダイナミズム班の発表「モンゴル帝国のユーラシア興隆史」

情報伝達力。駅伝システム。ロシア、オスマン、明、ムガール。モンゴルからみた世界観。中国の歴史とモンゴルの歴史の緊張感。継承と緊張。バランスよく、朝鮮とモンゴル。岡田史観。杉山正明

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  • 多摩学班の発表「若者にとって魅力ある多摩地域の創生」

市からの委託研究と保護者アンケート。健康寿命が1位。都市型城外高齢者ゾーン。老人の手が厚い街。スーパーメガリージョン。シェアリングビジネスの流れ。託児所。資格制度。研修。ダイナミズム、、、。

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  •  サービスエンタメ班の発表「ショピングモールという商業空間からみる消費文化と提言」

都市型モール。都市近郊型モール。田舎のモール。購買力の問題。SNSとの相関。京都。世代別。貧困か。マクロ統計とミクロ感性。

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社会科学もAI的知見が必要。西垣。松尾。正しい知見。認識する力と意識する力。認識するセンサー能力はAI。感動・涙。宗教などは人間。音を観ると書く観音。光を聞くと書く聞光。子育ての仕組み。謙虚に勉強する。

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 木村先生の総括:密度濃い時間。これからは凝縮。予定調和を超えよ。f:id:k-hisatune:20170804064308j:image

  •  18時から食事会:自分の将来。現在の関心。
  •  19時半から懇親会:獺祭を飲みながら。木村先生、バートル先生、荒井ゆか君、久保田先生、、、。
  • 21時から二次会:事務局の大部屋で懇親会。23時で私は退散。

「名言との対話」8月3日。岩崎小弥太「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」

 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年明治12年)8月3日 - 1945年昭和20年)12月2日)は、日本実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵

 岩崎弥太郎1834年生まれ)は、海運から始めて鉱業、造船業、保険、為替など事業の「多角化」を図った。二代目の弟・弥之助(1851年生まれ)は海から陸へと事業「領域を広げ」、丸の内・神田に10万坪の土地を買った。その後、弥太郎の息子の久弥を経て、弥之助の息子・岩崎小弥太は30年の長きに亘り社長業を続け、部門毎の「分社化」に取り組み重工(造船)、商事、銀行、地所と優れた企業をつくっていった。

巨漢の小彌太はケンブリッジのカレッジを優等で卒業している。当時ケンブリッジの優等生は後に東大総長や文部大臣を歴任した菊池大麓(1855ー1917)のみだったから、その優秀さがわかる。ちなみに夏目漱石は同時の官費でのロンドン留学生だった。

「我々は大いに競争す可きである。然し私は我々の競争をして量の競争たらしめず寧ろ質の競争たらしめたい」

 二代目岩崎弥之助は、中国陶磁も含めた東洋美術の一大コレクションを夢見ていた。絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣などを蒐集した。それを引き継いだ小弥太は、800を超える中国陶磁を学術的観点から系統的に蒐集している。その蓄積が 現在の静嘉堂文庫美術館に結実している。

「利潤を越えた目標」には、文化興隆のための美術館建設も入っていたのであろう。その考え方の伝統は、2010年に開館した三菱一号館美術の存在にも引き継がれている。

寺島実郎『ユニオンジャックの矢』(NHK出版)

寺島実郎ユニオンジャックの矢』(NHK出版)を読了。

 寺島の1975年以来40年以上にわたる文献研究とフィールドワークによる英国の観察と考察の集大成。生きてきた時代を通じて構築した英国に関する「全体知」と本人が言うことに納得せざるを得ない重厚な書である。

ユニオンジャックの矢―大英帝国のネットワーク戦略

漱石の言葉「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿れ、自ら捨てる勿れ、黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考えよ。誠実に語れ。しじつに行え。汝の現今に播く種はやがて汝の収むべき未来となって現はるべし」(フォーサイトの連載「1900年への旅」で向き合った言葉)

・「蓄積した歴史的体験を生かし、、、専門性を生かし、多様な人材を活用して課題解決に立ち向かう「全体知」がエンジニアリングの本質である。」

・「歴史の蓄積と相関の中で、世界を知る力を研ぎ澄ますこと、それが重要である」

 

内容については、読者自身が学ぶことにして、ここでは寺島実郎という知的巨人自身の新入社員から数年間の姿を追うことにしよう。

 1975年7月に寺島実郎は三物産社員として羽田空港からロンドンに到着し4ヶ月の出張をしている。会社とホテルと本屋を往復。夜はホテルで英国に関する本を読み込む。休日は大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、自然史博物館を何度も訪問。帰国後、「英国に関する考察」をまとめ、それが社内の小冊子になる。それを読んだ「中央公論」の粕谷一希編集長からの注文で1976年5月号の「中央公論」に「英国病の症状とは?」と題した論考を書く。そして1980年に「中央公論」に「我ら戦後世代の坂の上の雲」を書く。

私は、1978年7月に日本航空の実習派遣員として成田からロンドンに到着し1年2ヶ月を過ごした。英国内外の旅行、観劇、シェークスピアと英国経済の研究、ロンドン大学夜間に通うなど貯金せずに寝る間を惜しんで活動する。そして社内向けに「ロンドン空港労務事情」を書いて話題になった。それを読んだ労働経済学の泰斗・名古屋大学小池和男教授から日本的経営の実証研究として「中央公論」に紹介される。紆余曲折があり、結果的に「中央公論・経営問題」に一部紹介される。足元を掘れば時代とつながることが分かった。その後、1980年の中央公論の寺島論文を読み衝撃を受け、この男を目標・ライバルに勉強しようと決心する。

帰国後、知的生産の技術研究会で活動を始めた私は、『知的生産者の発想現場から』という本をつくろうとし、多摩大の北矢行夫先生の紹介で世田谷の寺島実郎を訪ねる。このとき、中央公論で読んだ論文の筆者がこの人だとわかる。それ以降、35年にわたり兄事する関係になり、ニューヨーク、ワシントンで仕事をした寺島実郎と、日本航空、知研、宮城大で定期的に接触し、そして多摩大では一緒に仕事をすることになり、現在に至る。

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中津北高校 同級生 松田俊秀君から『偉人の命日366名言集』の読後の感想が到着。ここまでしっかり読んでくれる人はありがたい。

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本当に力作ですね!偉人の定義や、誕生日より命日にした理由などがはじめにを読んでよく理解できました。 うるう年まで目が行き届き、2月29日は法然の命日とは知りませんでしたが、覚えておきます。今までの著書と趣が少し違い文字通り「座右の書」として味わい深いものがあります。はじめにで名言と思ったのは「人生100年時代を迎え撃つには、人生観を磨き上げなければとても対処できない」の一言です。人生の第四コーナにさしかかった私には人生訓を学ぶにはいささか遅い気もしますが、本著は余生の羅針盤となる珠玉の名言があふれており、この中で一つでも、二つでも実践することによりこれからの人生を充実したものにしたいと思いました。

 例えば「人生は悟るのが目的ではない、生きるのです。」「成長はまたつねに苦痛をともなう」などです。

 目次で不思議に感じたのは、お二人が「仕事の報酬は仕事である」を掲げていることです。藤原銀次郎土光敏夫、二人とも偉大な実業家ですね。

 ページを開くにあたり誰からスタートするか悩みました。私の誕生日が命日の偉人はピカソとは驚きを禁じえません。が、ピカソは飛ばしてやはり根っからの映画ファンとしては最初は黒澤明監督ですね。「悪魔のように細心に天使のように大胆に」の名言は心に電流が走ります。映画つくりの原点でしょうか?黒沢作品は殆ど鑑賞していますが、無理して三本に絞れば「羅生門」「七人の侍」「天国と地獄」になりますか?

 黒澤監督の新作試写会に必ず招待されていたのが井伏鱒二。(野上照代「天気待ち・監督黒澤明とともに」より)「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」は名訳ですね。一期一会を大切に邂逅を喜びたいと思います。釣の名人井伏鱒二が一目おく釣師が開高健ヘミングウェイみたいな開高健が示した出版人マグナカルタ9条では特に「読め!遊べ!飲め!」が心強くこれからも実践していきたい。(但し、飲んだあと転ばないように?!)サントリーのコピーライターとして残した名言もしびれます。たとえば「危機と遊びが男を男にする」 「悠々として急げ」の生き方で人生を激走した彼の死はあまりに早い。

 サントリーと言えば佐治敬三。「やってみなはれ」精神はサントリーの社是らしい。経営者で尊敬するのはヤマト運輸の故・小倉昌男。「小倉昌男 祈りと経営」読みました。小倉社長の知られざる苦悩が胸を打ちます。面談を申し込んだが叶わなかったようですね。

 水木しげる氏の幸福の7カ条は意味深でした。とりわけ「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ」には考えさせられました。「努力は全てを可能にする」という人もいます。水木氏は逆説的に言っており、真意は別にある気がしますが、、。何れにしても、本作品は含蓄に富んだ名言がみちており、生きる上で力となり勉強にもなりますので、友人や知人に購読を進めます。 

次の感想は小説家、画家、政治家の順にしようと思います。再スタートは世界に衝撃をもたらした三島由紀夫の死(命日1970-11-25)からですね。 ところで岡本太郎に昔お会いしたとありますが、新橋の「蛇の新」という居酒屋を岡本太郎が贔屓にしていたそうです。一度行きましたかね?まだでしたら案内します。   

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「名言との対話」8月2日。中坊公平「世の中で一番大切なもの、人間にとって最も大切なもの、それは「思い出」ではないか」

中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年8月2日 - 2013年5月3日)は、日本弁護士大阪弁護士会)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議21世紀臨調)特別顧問。菊池寛賞受賞者。

森永ヒ素ミルク中毒事件豊田商事の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構の初代社長をつとめた。1999年に設置された司法制度改革審議会において委員として参加し、法科大学院裁判員制度の導入に尽力した戦後日本を代表する弁護士であり、「平成の鬼平」とマスコミ各社に名付けられた。実在の人物であり悪を懲らしめる「鬼平」と呼ばれた火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする池波正太郎の捕物帳『鬼平犯科帳』に因んだ言い方である。

私は太陽電池で動いており、妻が私のお日さんなのだ。」(いい家庭をつくることは男子一生の事業である)

「いろいろな仕事の条件や内容を調べて、自分に適合する仕事を探そうとすること自体が、私は違うだろうと思っています。それよりも、いかに自分の能力を上げるか。現場へ行って本質をどのようにして発見できるか。その力を自分のものにする技を磨くことがもっと重要なのですね。」(就職は、現場での修行と思え。場所はどこでもいいということだ)         

「少なくとも三つ(牧師・医者・弁護士)の職業はですね、人の不幸を金に変えてはならないというのが厳然たる倫理だと思うんですね」(やはり、鬼平と呼ばれるだけのことはある)

冒頭の「思い出」とは、「家族と過ごした楽しい思い出。必死になって仕事に打ち込んだ思い出。心を分かち合った友人との思い出。そんな多くの思い出こそが人が生きてきた証であり、最後にやすらかな幸福感をもたらしてくれる」と本人が解説している。中坊公平はこころやさしき人であることがわかる。やはり「平成の鬼平」にふさわしい。

本間光丘(酒田)--「金は金をうむ、徳は得をうむ」という商人経済学

本間光丘。

先日、山形の酒田で本間美術館(休館)の脇に立つ清遠閣を見学した。本間とは「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」とうたわれた本間家である。

この本間家には有名な人物がいるはずだと思い、調べると本間光丘という名前がでてきた。本間家は染物・金物・小間物商で、二代目のときに米相場で財を大きくした。

享保17年(1732年)に三代目として本間光丘が生まれる。

その60年前に河村瑞賢が酒田に来訪し、御米置場を設置し西回り航路をひらき、酒田は栄える。

光丘19歳で姫路の奈良屋に修行に出て、22歳で酒田に戻る。27歳、西浜植林を開始。32歳、藩に金千両を献じ御小姓頭支配となる。36歳、藩に2万4千俵を献納し、飢餓に備え分置する(貯籾の創始)。39歳、家道訓7箇条を制定。44歳、藩財政再建の全権を委任される。50歳、藩財政ようやく回復。52歳、奥羽大飢饉(天明の大飢饉)も貯籾2万4千俵が大いに役立つ。62歳、米沢藩上杉鷹山より協力依頼あり。64歳、庄内藩農政改革について上書。69歳、高田屋嘉兵衛来酒。70歳、没。この年鳥海山が大噴火。

強風による砂塵の害を除くために西浜の防砂林を植える事業に着手する。ぐみとねむの木を植えて土台にして砂を固め、そのあとに松を植えようとした。松苗は能登に200万本を注文。5年後の1762年、30歳で町年寄格、防砂林がなかば完成。完全な完成は植林を始めてから60年以上後である。この植林事業は本間家の継続事業となった。酒田は風沙の害から免れた。

44歳から関わった庄内藩の財政改革を命じられる。借金はそのままで赤字を出さないようにして財政の回復を図った。また収入を定め、支出を抑え、被災は計画的に年賦償還する。藩士には低利融資、農民救済にも基金を献上し低利融資で貸し出した。50歳の時には藩財政は余剰金をだすまでに回復した。天明の大飢饉では光丘が蓄えた荒籾を放出して領内からはひとりの餓死者も出さなかった。

米沢藩などへの大名貸しをする場合、使途や返済方法を含めて相手の回生方法を考えた。相手に感謝され、自分も豊かになるという方法だった。

光丘が先代から引き継いだ財産は田地350俵・現金1000両。光丘一大で田地1万6千俵。現金13万両、貸金54781両、銀5万であった。その経営哲学は「金は金をうむ、徳は得をうむ」だった。光丘は金融資本家となった。倹約・勘定・才覚・信用という商人経済学と、本家中心の16分家集団の鉄の団結。この思想によって江戸中期から昭和初期まで200年以上にわたり本間家は身代が増えていった。

本間光丘の商人経済学はさらに研究する価値がある。

 

「副学長日誌・志塾の風」170801

・研究室で近藤秘書と打ち合わせ

・ラウンジで高野課長と雑談

・入試の酒井さん:大分から志願者あり

 

「名言との対話」8月1日。宮本常一「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ」

宮本 常一(みやもと つねいち、1907年8月1日 - 1981年1月30日)は、日本民俗学者、農村指導者、社会教育家。

宮本常一は、1939年(32歳)以来、73歳で死に至るまで40年以上にわたって日本各地をくままく歩き、民間の伝承を克明に調査した。

23歳の時に投稿した論文が柳田国男の目にとまる。そして3年後の25歳で生涯の師・渋沢敬三と出会い、4年後の32歳でアスチック・ミュジアムに入り、以後40年にわたって本格的な民族調査に没頭する。53歳で書いた代表作「忘れられた日本人」で脚光を浴びた。

「旅する人」宮本常一民族誌を中心にした柳田国男民俗学に疑問を持つようになる。「生活誌」を大事にすべきであり、生活向上のテコになる技術をキメ細かく構造的に見ることが大切だ考える。客観的なデータを整理・分析する民族誌ではなく、民族採集の仕事は「生きた生活」をとらえることにあるとする。実感を通して観察し、総合的にとらえる生活誌を重要視した研究を行った。

宮本常一の所属した渋沢敬三のアチック・ミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収されて網野善彦(1928-2004年)の活動の場になる。網野は中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにした。その系統の中に赤坂憲男の東北学もある。

宮本常一は日本を探検した人である。人々の生活誌を書いた。代表作『忘れられた日本人』を宮本は「紙碑」と言っている。石碑ではなく、紙というメディアに書いた碑である。確かに石碑に書かれた内容は時間が経つと風化し読めなくなるが、紙碑に記した内容は永遠に残る。本を書くという仕事は、紙の碑を残すという業なのだ。宮本常一の志の高さをみる思いがする。

行政マン研修「図解思考力向上講座」

 公務員研修「図解思考力向上講座」。丸一日。人数は40名弱。

以下、アンケートから。

・図解はとても包容力があります。

・仕事やり方を見直すきっかけになった。

・仕事に対して初心の戻り見つめ直す良いきっかえになっら。

・学校の制度の改正・運用等を伝えるのに有効。相関を明確にして今の自分の責任を改めて認識するいい機会になった。

・いかにものごとの本質や流れを見えていなかったかが浮き彫りになった。図解が本質を追求できることを知るとれも驚きました。

・新鮮。頭をよく使う物だと実感した。

・発想が面白い。次回はより実践形式で学ぶ研修を受けたい。

・関係性や重要度を再確認できた。誰に対して、何の目的で、、。

・図解の応用範囲の広さに驚いた。説明上手は図解も上手と思いだした。

・楽しみながら自己分析できる面白い手法。

・最近、職場の資料も図が多くなる傾向にありますが、ポイントを教わり勉強になった。合意形成に文章よりも図解の方が良いということはとても納得できたので、自信を持ってすすんでいきたい。

・次回は活用方法の事例もうかがいたい。次年度の新規重点事業を考える時期なので、頭の整理ができて大変参考になりました。

・図にすることで、言葉のつながりや物事がとらえやすくなることを実感。

・鳥瞰することで関係性がよくわかった。

・期待以上の成果を得られた。日本史の図解にも興味あり。

・甘かった。日々の考えの足りないことを思いしらされどっと疲れました。税金をいただき身としては毎日、このくらいの深度でものごとを考えなくてはならなかったと反省。実習形式で先生にリアルタイムで添削してもらえ、ヒントがいっぱいで勉強になりました。

・次回は、テクニックも。ファシリテーショングラフィック(議論の円滑化)も。

・図解には創造力と想像力が必要。自分の思考のクセもでる。

・自分の業務が他の部署や最終受益者とどう関わっているかを再考するきっかけになった。手で描くことで、深く考えながら試行錯誤できた。

・税金をトップの承認を得て使わせてもらっていることを改めて再認識する良い機会となった。

・図解することで、最終的な目標がクリヤになることがわかった。作成した図は他の同僚とシェアすることも有効。我々は目的と手段を混同しがちであるので、ゴールは何かを意識しながら日々を過ごしたい。

・文章はごまかしがきくというのは意外。いざ、図解してみるとなりほど!

・自分の仕事のレベルを上げるきっかけになりそうなので、しっかり身につけたい。

・文章では人それぞれの理解が違っているのでトラブルになるというのはショックだったが、実際の例題で体験すると納得した。

・文章はたった2行でも人によって受け取り方が違うことにハッと気づかされました。

 

「名言との対話」7月31日。小谷正一「いつだって時代は過渡期だし、キャンパスは真っ白なんだよ」

小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。

 「新聞のフォーマットというのを作ったといわれている。確かに、戦前までの新聞は、一面は活字だけらけだが、大きな写真でドーンとあって、100号活字で見出しがあるというスタイルは戦後のものだろう。これは、大阪毎日新聞の時代に小谷さんが作ったと聞いている。

 次に、日本で最初の「イベント」というのをやった男である。、、大阪毎日の編集局長時代に、「毎日新聞」という言葉を「朝日新聞」に掲載したいと思った。それで、当時、甲子園球場に四国から牛を連れてきて「闘牛大会」というイベントをやった。人が集まって事件になるから、朝日新聞も、毎日新聞主催のこと出来事を記事にせざるを得なかった。これが日本でのイベントというもののスタートだとされている。まだ無名の井上靖が、小谷さんをモデルにして「闘牛」という小説を書き、直木賞を取る。

 新聞の世界で名をはせた次は放送である。ちょうど、大阪毎日放送という民間放送がスタートする時代で、小谷さんは(たぶん)最初の民放の編成局長になる。これは本人から聞いたんだけど、彼はグラフ用紙を買ってきて、1週間分の番組表を全部一人で作った。500の番組だった。今のテレビ番組表の骨格を作ったのだ。

 新聞・イベント・テレビのプロトタイプを作ったあとは、広告の世界に入る。いわゆるSP(セールスプロモーション)だ。60年代から70年代にかけての、高度成長とともに発展した、日本の消費社会・広告社会の中で、電通PRを舞台にした、小谷さんの役割は大きかった。例えば、銀座のソニービルがあるでしょう。あそこの入り口のところで、いろんなイベントやってますよね。今では、銀座の風景になじんで、当たり前のようになっているが、あれだった、最初は、誰かが仕掛けたのである。小谷さんである。社会全体をメディアの舞台として認識した、最初のメディアマンだったのである。

 そして、大阪万博である。小谷さんは住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っているが、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。」

以上が、小谷正一を師匠とした私の友人の橘川幸夫が語る小谷の業績である。

小谷正一は年越しの名刺を持たない男」といわれたように、一つの仕事を成し遂げると未練なく次の会社で仕事に取り組むというスタイルを貫いた人だ。

時代の過渡期に巡り会って縦横に仕事ができた幸運をうらやましがった後輩に向けて語ったのが冒頭の言葉である。そう、いつだって時代は曲がり角にあるし、いつだって過渡期なのだ。遅れてきた青年などはいない。真白いキャンパスに自由に絵を描こう。