全国経営学部長会議(日本橋)。グローバルスタディーズ学部運営委員会(湘南台)。

第42回全国経営学部長会議を開催。

昨年は幹事校で、三菱の丸ビルで開催した。今年は三井の日本橋コレド日本橋で開催。杉田学部長と一緒に出席。

今年の第一部のテーマは「経営学教育を通して学生にどのような知識や能力を身につけさせるか---チューニングの取り組みを参考に考える」。 

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 質保証。学位プログラムと科目単位での学習成果。それぞれのDCA.具体性。

学科単位の履修系統図。

「あなたはこの授業で何を身につけましたか?」

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 第二部は「日本橋の街づくり」とういテーマで三井不動産の新原上席主幹の講義。

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第三部は「渋沢栄一に学ぶ資本主義のあり方」で渋沢健さんの講演。

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昼食は。渡辺客員教授三越の中華料理「紫苑」で食事を摂りながらじっくりと話をする。

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 帰りの地下鉄のコンコースで見かけた掲示には、先ほどの講演で話題になった情報があった。

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 16時半からは、湘南台のグローバルスタディーズ学部での学部運営委員会に出席。

19時半までの長丁場。「離学率」について発言。

 

「名言との対話」9月8日。木下尚江「人は実に事業の糸によってのみ、自己を永く世界に織り込むことが出来る」

木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日明治2年9月8日)- 1937年昭和12年)11月5日)は、日本社会運動家、作家。男性。

松本中学の万国史の授業で、英国王を倒したピューリタン革命の中心人物 クロムウェルのことを知り、「我心は寝ても醒めても一謎語に注中されている『革命!』」と感慨を覚え、以後、木下は学校で「クロムウェルの木下」と呼ばれるようになる。

木下はキリスト教に出合い、廃娼運動、禁酒運動などに専念するが、その後「信府日報」の主筆を経て、三国干渉に対する遼東還付反対運動で共闘した石川半山の後を継ぎ、「信濃日報」の主筆を務めている。

木下は選挙疑獄事件の容疑で警察につかまるが、「一年半の鉄窓生活は、僕の生涯にとって、実に再生の天寵であった」と述べている。人生の学問をしたのだ。

後に入社した毎日新聞では「世界平和に対する日本国民の責任」と題する論説を執筆し、以後、平和と反国体を唱える。田中正造足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に積極的に取り組み、日露戦争では 「人の国を亡ぼすものは、又た人の為に亡ぼさる。是れ因果の必然なり」と主張し、非戦運動を展開した。また 反戦小説『火の柱』を毎日新聞に連載し、ペンを武器に戦った。ジャーナリスト木下尚江は、生涯一貫して社会改革を唱えた熱血漢だった。

何かの事業で何かの役割を果すことは、その事業の中に自分を織り込むことだ。その事業を糸として世界に織り込むことができたなら、自己を世界に織り込んだことになる。自らが関与する事業に、広く、深く、自己を上手に織り込むことができたなら、永遠の命を授かったことになるということだという木下尚江の主張には共鳴する。

大学院で「図解・修士論文の書き方」を講義

夜は品川の大学院で「 図解・修士論文の書き方」講座。f:id:k-hisatune:20170907215621j:image

 以下、受講生のアンケートから。「体感」「実感」「役に立った」が多い。

・技術に頼らず、図解で確かな設計図が必要ということを改めて学び、大きく重要な学びになりました。心に刻みました。鳥観図を眺め足りない所を加えながら完成させて、論文作成の海原に出航します。

・図解によってもの事が理解しやすくなることをじっかん。日頃の講義以上にためになった。

・まずは論文の設計図づくり

・新しい関係姓を見つけたい

・こんなにわかりやすいとは!来春にはぜひ受講したい。

・実習で思いがけず文章がスラスラと書けて驚きました。大変興味。訓練を続けたい。よかった。

・腑に落ちた。

・図解を使うと集団の理解がすすむ。

・改めて原点に戻った印象。

・相手を説得するための最適なプロセスを学びました。先生の著書を拝読し論文作成に生かします。

・全体を見る眼、関係性、つながり、、、こういうことが短時間の中で体感できました。図解が文章の設計図であることが大変腑に落ちました。

・頭スッキリ。体感できました。

・シンプル、明快で、頭の中がスッキリしました

・図解の重要性と有効性がよくわかりました。文章がスムーズに書けた。実体験でより理解が深まった。

・文章と箇条書きがいけない、といのは新たな発見でした。図を作成し関係を明らかにし文章にする。この順序で論文を仕上げたい。理解が深まることを実感。

・全体観を捉え、自分の考えを明確に打ち出すことの大切さを認識した、物事の関係性。仕事プライベートにも有効。豊かに生きるために取り組みたい。

・実践したい。

・大変にわかりやすい講義でした。

・春学期に受講しなかったことを後悔しました。図で考えるクセを意識し始めたがまだまだだと実感。図解の効力を実感。

・頭の中がシンプルになり楽になった。論文執筆への漠然とした不安が軽減された。

以下、留学生。

・勉強になった。教わったことを自分で真剣に。

・知識もそうだが、広い視野から見れるようにしたい。

・この「講座は役に立った。

・図にする技術があれば、生活・仕事にとても役に立つ。

・素晴らしいです。考えるということがこの授業でわかりました

・頑張って修士論文を書きます。

・論文執筆に凄く役に立つ。

・本当に役に立つ。簡単に論文が書ける。

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午後は大学:学長室・山本さんとインターネット放送局の企画と今後をテーマに雑談。

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「継続」「変化」「生涯」「多様性」「顧客の変化」「生き方革命」「100年の旅人」「生涯現役」「生涯学習」「生涯活動」「生涯健康」「変化と成長」「特徴を磨くき続ける」「対応力」「包容力」「素直な姿勢」「独身住まい」「価値の再編」「時間財」「老モデル」「プロジェクト単位」「匠」「精神的なこと」「方法の知恵」「知恵の回展」「課題解決」「マーケティング」「予防医学」「セルフメディケーション」「物語・ドラマ・ストーリー」「学習・練習・鍛錬」「健康経営」「情報ドラッグ」「幸福」「北欧のライフスタイル」「生涯構想」「新しい役立ち方」「体験学習」「トライアル」「継承」「個人ミュージアム」「編集と経営」「スクールとレッスン」「スモール」「整理と活用」「好きだから」「先行変化」「出会いと発見」「ロングライフデザイン」「証」(谷口正和『100年の旅人』よりキーワドをピックアップ)

 

「名言との対話」9月7日。エリザベス一世「私はイギリスと結婚したのです」

エリザベス1世: Elizabeth Iユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年4月3日ユリウス暦1602/3年3月24日))は、イングランドアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。

6度の結婚を重ねた放蕩の父ヘンリー8世、血まみれのメアリー1世の時代を生き抜き、賢明であったエリザベスは25歳で女王に即位する。

 「私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます。、、私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです」(女王となったときの所信宣言)

エリザベスの統治の中で、スペイン(フェリペ2世)の無敵艦隊を破ったアルマダの海戦いは歴史的な意味を持っている。「私がここに来たのは、皆と生死をともにするつもりであり、王国と国民の名誉のために命を捨てる覚悟だからです」。戦いに出陣するイギリス軍への激励の言葉である。イギリス軍は奮起し、世界最強といわれた無敵艦隊を破った。制海権を握ったイギリスは大英帝国への道を歩み始めるのである。

エリザベスはイギリス国教会を確立させ、またイングランドの国際的地位を高める善政を行った。エリザベスの治世は国王、協会、議会がバランスよく機能した時代だったと、後に理想化されたそして。この時代にはシェークスピアやマーローたちが円熟期にあったのである。

「私ほど臣下をを愛する国王はいないでしょう、、、神が私を高い地位に上げて下さいましたが、私は貴方達の愛とともに統治をしてきたことこそ、我が王冠だと思うのです」とエリザベスは議員たちにいつも語りかけていた。そのエリザベスは生涯独身であり、また後継者を指名しなかった。「処女王」「栄光ある女人」「善き女王ベス」などと呼ばれている。冒頭の言葉にように、イギリスと結婚したと言ったエリザベスは、69歳までの44年間を女王として君臨した生涯を送った。

3年間の「学部長日誌」、2年間の「副学長・学部長日誌」が完成。

毎日書いているこのブログの中に、2012年から2014年までの3年間「学部長日誌・志塾の風」、2015年から2016年の2年間「副学長日誌・志塾の風」というコーナーを設け、業務に関する動きを記してきた。

その内容を抜き出して、冊子にしたものが出来上がった。

私個人の仕事の記録であるが、学部長や副学長という役職のマニュアルとしても読むことができるかも知れない。

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学部長日誌:1035ページ。

・2012年版:361ページ

・2013年版:294ページ

・2014年版:380ページ

 

副学長・学部長日誌:521ページ。

・2015年版:276ページ

・2016年版:245ページ

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杉田先生:松田義幸先生との面談スケジュール、科目担当者の件

小林先生:著書の件

飯田先生:読書への回帰イベント

高野課長:情勢

 

「名言との対話」9月6日。岩城宏之「生きがいというものは、目前の仕事を自分にとってやりがいのあるものに変えようという実に個人的な努力から生まれるはず」

 岩城 宏之(いわき ひろゆき1932年9月6日 - 2006年6月13日)は、日本指揮者打楽器奏者。

 専門の指揮に関する名言は、「僕は一回演奏すると、そこでスコアを捨ててしまいます。毎回新しく買ってまっさらから勉強します。前のものを頼りにしたくないからです。」「本当の伝統は昨日までのすべてを壊してもう一度作り上げて、たまたま3年前と同じになるというものでしょう。」などであり、毎回勝負をしていることがわかる。

私の印象は別のところにある。岩城宏之『男のためのやせる本』を20代の後半に読んだことがある。太っていると感覚と皮膚との間に肉ができ、外界を正しく認識できないと言う。太った岩城氏の腕で頭をガツンとなぐられた気がしたものだ。彼は太っていたが、一時期とてもやせたことがあった。そのときに書いた痩せるための本である。

「お愛想、へつらい、ハッタリ、酒、ホステス」「どうしても男の30才は太る危険信号の出る時期だ。」「精神の緊張がゆるむからだろうか。」(ちなみに岩城氏は、84キロの体重を数ケ月間で67キロにまで落としている)「主食以外のものを先に食べ、足りない分だけメシを食う。」「肉はとり肉」「ライスを3分の1残す習慣」「酒は低カロリーのウイスキー」「つまみはとらない」「飲む日は朝食を控えめに」「理想体重よりーキロ落としておけ」「10日に1度、ハメをはずす日を決める」「要は、胃袋に『むかしの感覚』を思いださせばいことだ。」「一筋に没頭するものをもっている男に中年太りは無縁」「武人は太っていない」「挫折した時、恋が終わった時に太りだす。」「減食でほんとうの味を知る」「節食をすると頭が冴えてくる」「視野が広くなる」「神経が鋭敏になる」「ゆとりができる」「オシャレに気をまわさなくなる」

太っている動物のオスは、動物の本能である生殖の場面でも、生存をかけて自己を主張する度合いが減ってくる。闘争心が失われるのである。だから自分のメスが他のオスに取られても戦って取り返そうとしなくなることが多いそうだ。これは動物としての堕落だろう。太っていては戦えない。

  氏は更に生きがい論にまで言及する。そして酒場で交わされる上司や仕事への不満を吐露する「サラリーマンのくり言に同惰はできない」と言い、血の滲むような自らの努力で獲得した「やりがい」の延長線上に「生きがい」が登場すると喝破している。岩城裕之には、戦うことを教えてもらった。

中澤日菜子「ニュータウンクロニクル」(光文社)。「『致知』に『偉人の命日366』の書評。

中澤日菜子「ニュータウンクロニクル」(光文社)を読了。

 ニュータウンクロニクル

 1971年、1981年、1991年、2001年、2011年、と10年ごとのニュータウンを描写し、2021年の姿を描いた小説。この間の時代と社会の動きが上手に描写されている。

高卒でニュータウン多摩ニュータウン)のある市役所(多摩市役所)に入り都市計画課に配属された18歳の主人公は、50年後の2021年には68歳で、シルバー人材センターで働いている。

50年前に「社会をより良くしていこう」という志を持って活動し、一度は活動を休止した「ニュータウンの未来を拓く会」は、40年後に再び活動を開始し、2021年には小学校跡を使って、格差社会の中でこぼれた子ども達を主な対象とした「ひまわり食堂」をオープンしている姿がある。「倒れた老木からひこばえが芽吹くように、鳥の運んだ種が遠い地で花咲かせるように」。

そしてニュータウン再生計画が未来へ向けて着々と進んでいる。「町も、そしてひとも「いのち」を繋いでいく」という結論になっている。

私は2008年からニュタウンの一角にある多摩大で働いているから、その前の時代はよく知らない。この小説でこのニュータウンに入居が始まった時代からの数十年間の具体的な暮らしのイメージが理解できた。大震災の起こった2011年から6年経った時点に今立っているのだが、多くの関係者が協力してこの小説に描かれたよりはもっとダイナミックな姿をみせたいものである。

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雑誌『致知』19月号に拙著『偉人の命日366名言集』の書評。

仕事術や図解思考で知られる著者のもう一つのライフワークは「人物記念館の旅」。2005年に始めた全国の人物記念館を巡る旅は800館を超えたという。

本書はその旅先で出合った偉人の名言などを366日(閏年を含む)、それぞれの命日に収録。逸話を交え、人生を概括した著者の解説も興味深い。

「人間がこれだけはと思い切ったことにしがみついていると、大体ものになるものだ」(山本周五郎)、「成長はまたつねに苦痛をともなう」(鈴木大拙)など心の糧となる生きた言葉に出合うことができる。

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「名言との対話」9月5日。棟方志功「わだばゴッホになる」

棟方 志功(むなかた しこう、1903年明治36年)9月5日 - 1975年昭和50年)9月13日)は日本人板画家青森県出身。20世紀美術を代表する世界的巨匠の一人。

世界中のあらゆる国際展で日本人が受賞するのは版画だけである。それは、油絵を西洋のものまねに過ぎないのではないか、日本独自のものは版画ではないか、あのごゴッホでさえ日本の版画に心酔していたではないか、と版画家を志した棟方志功と日本の勝利である。

棟方は版画を板画と書く。木の魂に彫るということなので、板という文字を使うほうがしっくりくるのだという。板の声を聞き、木の中にひそむ詩を掘り出すのである。

「一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一つずつ、そこへ置いていく。作品に願をかけておいていく、柵を打っていく。この柵はどこまでも、どこまでもつづいて行くことでしょう。際際無限に。」

「神よ、仏よ----全知全能させ給え。」

秋田県田沢湖芸術村に本拠を構える劇団わらび座のミュージカル公演の「棟方志功 炎じゃわめぐ」をみた。わらび座のテーマは常に東北を意識していて、ミュージカルとしての質の高さもあり、私はファンである。ニューヨークでのシーン、柳宗悦との出会いのシーンなど、とても良かった。

青森の棟方志功記念館の紹介ビデオは「彫る 棟方志功の世界」というもので1975年の作品だったから亡くなる直前のものである。人懐っこい笑顔の棟方が、ブツブツいいながら、そしてベートーベン(畳みかけるようなリズムは棟方の欲する板画の切り込みに通ずるという)の喜びの歌を歌いながら一心に彫っている。シャツ一枚が仕事着である。裸足で毎朝歩くのが唯一の健康法であり、そのユーモラスな歩く姿もみることができる。「神よ、仏よーー全知全能させ給え」と書いた棟方のライフワークに打ち込む気迫に感心したことを思い出す。棟方志功の迫力ある人物像と仕事振り、圧倒的な仕事量に強い印象を受けた。あの目、あの動き、あの笑顔!

人は目標とする人がいるかいないかは、決定的に重要である。目標に届かずに死ぬまでその道を歩き続ける人もいる。目標に近づくにつれて、それていくことになる人もいる。目標の向こうに、そしてそれた道の方向に見えるもの−−それは自分自身の姿である。棟方志功は「ゴッホにはならずに、世界のMunaktaになった。」この言葉は友人の草野心平が贈った詩の中にある。因みに、73歳で逝った志功の墓碑はゴッホと同じ形に作られているそうだ。人は何になるか?-----人は自分自身になっていくのである。

岡山で行政マン研修を丸一日

9時から17時までの一日。40人。

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以下、受講生のアンケートから。

-図には個性がでるという意味がよくわかった。自分の立ち位置が様々な視点から分かった

-何が重要か見極めたい。ひとりよがりにならないように気をつけたい。

-この講座は頭を休める時間がなかったので、いい意味で疲れた。

-ハードでした。

-あやふやなだったものが、図解作業を経て自分なりにかみ砕いたものになった。

-図解にすると情報量が格段に増える。

-もっとも良い点は、議論のマッピングができることだ。マンダラ、、、。

-カタカナ語はあやふやに使われており驚いた。専門用語もわかりやすく説明したい。

-図解は、これほどまでに頭をつかうのかと思うほど頭を使った。でも描き終えたときは頭の中が整理されて、スッキリした。

-何が不足しているかも気付くことができた。

-有用性とノウハウmの理解がすすんだ。

-住民の声の分析の時間で、ミニマップの穴埋めをやったが、いい言葉が浮かばなかった。

-納得の重要性に気付いた。

-他の部署との連携について深く考えるキッカケになった。

-納得型行政を推進するためにこの技術を役に立てたい。図解形式のプランを各部局ごとに手作りするおは有意義で検討すべきだ。クレームは盲点というとらえ方は大切だと思った。

-納税者を意識した。先生の本を読んで勉強しまう。

-役所全体の中で自分の立ち位置を再確認できた。とても役に立つ。

-相手の意見を引き出すことにも有効だ。

-「物事の本質」を熟考したり、図でやりとりする中で、納得していく。「」

 

 三光荘の談話室で「長野文庫」を発見。

長野四郎は、岡山県知事を六期24年つとめた人物。

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「名言との対話」9月4日。丹下健三「機能的なものが美しいのではない。美しきもののみ機能的である」

 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。

丹下は東京帝大工学部建築学科には2年の浪人の後に入学しているし、一躍有名になった広島平和記念公園が完成した時には既に40歳になっており、早咲きの人ではなかったのは意外だった。丹下は膨大で優れた仕事を実現し、晩年に向けてしだいに重きをなしていく。

丹下の国内の作品。代々木国立屋内総合競技場。日本万国博覧会マスタープラン。草月会館赤坂プリンスホテル広島平和記念資料館・平和記念館。山梨文化会館。静岡新聞静岡放送東京支社。在日トルコ大使館。在日ブルガリア大使館。ハナエ・モリビル。愛媛県文化会館。兵庫県立歴史博物館。横浜市立美術館。そして威容を誇る新宿の都庁、お台場のフジテレビ、、、。丹下の仕事は全世界にわたっている。サウジアラビア王国国王宮殿。ナイジェリア新首都計画。WHO本部計画。クエート国際空港。キングファイサル財団本部、、。

 1950年代は、丹下は建築デザインだけでなく、文章を用いた建築理論においても日本の建築界をリードした。縄文と弥生の二項対立を丹下弁証法で高い次元の「合」にしていく。向かって左と右に対極的な形を置き、その中心を進んだ先に小さいがシンボリックな存在が見えるようにする。倉敷市庁舎は縄文的表現。香川県庁舎と倉吉市庁舎は縄文から弥生の過渡期のコンクリート作品。東京都庁舎は弥生的伝統の鉄による表現。

丹下健三は、日本の伝統を否定し、変革しつつ、しかも正しく受け継ぐことを信条としていた。実用品としてつくられた物には美があるというにのは「民芸」の考えだが、丹下はそうではないという。徹底して美を追究すると、自然に機能的にも優れたものができるという考え方だ。それが数々の建築作品を生んだ。

岡山〜吉備真備。佐藤一章。田中塊堂。いがらしゆみこ。林原一郎。土光敏夫。

伊藤さんの案内で、岡山の人物記念館の旅。

 吉備真備の居館跡。

 奈良時代の政治家。695年ー775年。正二位右大臣。81歳で死去。学問の神様。

「軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始、、」という善政を行った人物。吉備朝臣の姓を勅許され改名。

留学生として、次には遣唐副使として、二度も唐に入った。

当時の唐の玄宗皇帝が才知に感じ、帰国させなかったという逸話が吉備大臣入唐絵詞になっていて、その物語の一部がこの像のそばに彫られいる。知識を試され、囲碁を名人と対局させられ、野馬台の詩の謎を解き、幽閉させられた時は日月を隠し天地を暗闇にした。それで玄宗皇帝はようやく帰国を許した。

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 吉備大臣館。

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 吉備大臣産湯の井戸。星の井。

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 やかげ郷土資料館。

矢掛町山陽道の宿場町。小田川を往来する高瀬舟の川港。鷗外の「高瀬舟」か。

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画家・佐藤一章。 1905−1960年。東洋の伝統を生かした絵画を描く。東京美術学校西洋画科。在学中から帝展に入選。三度中国に渡る。昭和20年に岡山に帰り地方での初めての日展を誘致、岡山大学に特設美術科を創設。昭和30年に岡山大学教授を辞し川崎に転居。

 

書家・田中塊堂。1896ー1976年。79歳。かな書法を研究し、古筆を研鑽。かな作家。1960年帝塚山学院短大教授。1961年「書道より見たる日本写経史の研究」で文学博士。1966年帝塚山学院大学教授。1973年日本書道美術館初代館長。1975年勲三等瑞宝章。1976年死去。

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低地で水害を除くため、本陣石井家の裏門の水楼と大庄屋福武家の物見があった。これに因んで水見やぐらを象徴とした資料館を建てた。ベネッセの福武の先祖か。

 本陣・石井家。佐賀から33日、江戸から20日。参勤交代は一日40−60キロの行程。夕刻6時半到着、翌日6時出発。西国大名が宿泊。幕府の官吏、僧侶、、。天璋院篤姫も宿泊。

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 蛇腹式の立体地図。8巻で75メートル。中国行程を描いた絵地図。参勤や帰国の旅の地誌的知識。山陽道の左右の名所が書かれている。

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倉敷。いがらしゆみこ美術館。

北海道生まれ。高校時代に単身上京。1968年高校3年にデビュー。 少女漫画「なかよし」の専属作家。1975年の「キャンディ・キャンディ」が大ヒット。1976年アニメ化で一大ブーム。1977年、第1回講談社漫画賞。1999年、山中湖のいがらしゆみこ美術館がオープン(ここは訪問した)。2000年、キャンディ・ミュージアムいがらしゆみこ美術館 新館」が倉敷にオープン。

キャンディ・キャンディは累計単行本1200万部。初版100万部。

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作品集。

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 岡山に戻る。林原美術館

清明上河図」をみる。超高精密のデジタル画像も。f:id:k-hisatune:20170903210444j:image

文人画。明の蘇州の文人画の始祖・沈周(1427ー1509)。聖蹟図巻。

 林原一郎。

岡山財界の雄。祖父の水飴会社を発展させ、巨万の富を得て、これを美術品に替えた。浅見のメ明と卓越した審美眼で、藩主池田家の蒐集品以外にも優れた作品を蒐集した。52歳の若さで没した。その遺志を継ぎ1961年に財団設立。1963年にコルビじぇの弟子・前川国男の設計で1964年に完成。

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 土光敏夫記念苑。「日に新たなり 日々新たなり」。岡山生まれ。91歳。f:id:k-hisatune:20170903210510j:image

 夜は知研岡山の仲間との食事会。

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「名言との対話」9月3日。広岡浅子犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません」

広岡 浅子(ひろおか あさこ、旧字:廣岡淺子。1849年10月18日嘉永2年9月3日) - 1919年大正8年)1月14日)は、日本の実業家、教育者、社会運動家

日本女子大成瀬記念館で買った「広岡浅子関連資料目録」を読んだ。NHK朝の連続ドラマの主人公・広岡浅子の講演録が納められており、興味深く読んだ。「なぜ老年になっても元気なのか」という問いに、「無限の希望」があるからだと答えて、少女時代から老年に至るまでの「希望」を語っている。彼女の一生がわかる。

少年時代「我日本の旧習を脱し暇あれば男子と共に素読して、必ず女子の頭脳は開拓せらるべしとの希望を以って、大に力を養ふ事に努めたり」

青年時代「広岡家は大阪の富豪なれば、其主人は少しも自家の商業に関せず、万事支配人政治にて、日毎、謡曲茶の湯等の遊興を自己の業の如く思慮しつつあるが如し。之を見て余は斯くの如き有様にて永久に家業繁盛の継続するや否やの疑問を生ぜり。故に一朝事あれば己れ自ら起たざる可からずと意を決し、其準備に努めたり。そは簿記法、算術、其他商業上に関する書籍を、眠りの時間を割きて夜毎に独学し、之れに熟達せん事を我が希望とせり。」

壮年時代「断然意を決し日本女子大学校発起者に加名するの栄誉を担へり。、、、将来の希望に向って尽力するをこよなき愉快なる事となしたりき。」

老年時代「我希望の果されん日は前途尚遼遠なるを覚ゆ。然れども死生の別を考慮する暇あらず。今尚無限の希望に充ちて、百年の計画を行ふ之れ余が老いぜざる大なる原因ならずんばあらず。」

日本女子大の学生たちへの講演録から。「犠牲的精神を発揮して男子を感化する者とならねばなりません。」「人格修養の最も簡単な一方法は、一挙手一投足も無意味にしないと云う事であらうと思います。」「男子を感化し、男子の力を悉く有益高尚なる目的の為に、捧げさせる事が出来るのであります。」

広岡浅子の主張は、女性自らが主人公になることもいいが、家庭を持っても日本婦人は男子を日常的に感化し、無駄なことをやめさせ、社会のために働くように仕向けることである。広岡浅子は1919年1月に逝去しているのだが、10歳ほど年下の日本女子大創設の成瀬仁蔵もその3月に60歳で卒している。ほぼ同時に亡くなるのは偶然であろうが、二人の志は次世代に引き継がれていく。

小林秀夫『何がベンチャーを急成長させるのか--経営チームのダイナミズム』(中央経済社)

小林秀夫『何がベンチャーを急成長させるのか--経営チームのダイナミズム』(中央経済社)。多摩大の同僚の小林先生の著書。

「史上最短で東証一部に上場した企業に、創業メンバーとして参加した経験をもとに、草創期の舞台裏をエスニグラフィで解明しつつ、ベンチャー参画によるキャリア形成も探究」。 

何がベンチャーを急成長させるのか

成功したベンチャー企業では、トップのカリスマに焦点が当たる。しかし、実際はトップを中心とした経営チームが創業時代を牽引する。この経営チームの働きについて、自らの11年間の起業経験を題材に理論化した労作だ。

トップ個人、10人ほどの経営チームの形成、人間関係の変化、社内政治の登場、ストックオプションを手にしている創業・経営チームとそれ以外の社員との軋轢、常態ともなった危機の連続、そして株式上場、、、。この間の実態を観察、インタビュー、経営理論などを用いて丹念に追っている。トップの個性への評価や批判なども率直に語られており、ノンフィクション的にも読める学術的色彩の強い注目すべき書物だ。

自分にとって重要な、30代半ばから40代半ばにかけての創業経験というキャリアを十全に総括し、そして学者としての出発を宣言した書になっっている。

起業というとハードルが高くなるが、創業時の経営チームへの参画者を増やすことが重要だとの指摘は納得感がある。人、物、金、情報、などの経営資源の専門家として創業時の経営チームに参加、参画することはキャリア形成の面でも大きな収穫があることがわかる。

起業、創業時のダイナミックな動きに参加しようとする人材が増えることに、この本は貢献するだろう。またわが大学の次のステージを考える際にも、大いに参考になる。

 

「名言との対話」。9月2日。柳田誠二郎「結局、思想です。思想が人間を支配するんだ」

柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年明治26年)9月2日 - 1993年平成5年)11月18日)は、日本実業家日本航空初代社長を務めた。

日本銀行に入行し、理事を経て副総裁をつとめたが、戦後の公職追放で1946年に日銀を去った。

「どんな仕事でも3年ぐらいしないと基礎はできない。まして航空事業には10年間のブランクがあり、まったくの無一文から始めたのだから、そんなに早く良くなる方がむしろおかしい。しかし、世間はそう思わないから、我々としても焦る必要はないが、できるだけ早く1銭でもいいから黒字を出すように努力しましょう。」

終戦後ゼロからスタートした日航は、3年間で10億円の赤字を出していた。初代柳田は日銀出身者で航空産業は未経験だった。以上は柳田誠二郎に送った専務の松尾静麿(二代目社長)の手紙である。柳田は1951年8月から1960年12月まで社長をつとめた。

柳田は大学時代に禅宗に打ち込んだ。亀井貫一郎にすすめられ岡田虎二郎を訪ねて以降、晩年まで岡田式静坐を続けた。柳田は『私の履歴書』に「大学時代は夜寝るのも惜しんで猛勉した。そのうえお寺にこそ行かなかったが、依然禅宗に打ち込んで家で座禅を続けていた。そして先人にならってわが身を苦しめ、それに忍耐し、克己努力することばかりやっていたので、いつか精神主義が勝ちすぎ、気ばかり強くなっていた。」と書いている。

私は「臆病者と言われる勇気を持て」という安全に関わる名言を残した松尾静麿の後の、朝田、高木、山地、利光、近藤という5人の社長の時代を過ごした。新入社員の時に「トップと語ろう」という企画に応募して朝田社長と会ったとき、「久恒君は大分か?」と言われて驚いたことがある。本社勤務となった30代半ば以降は、山地、利光の近くで仕事をし、辞めるときは近藤社長から激励されたことを久しぶりに思い出した。

柳田誠二郎は、明治26年生まれで、平成5年に亡くなっている。日清戦争の直前に生まれ、日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦、敗戦と米軍占領、朝鮮戦争、高度成長、絶頂期、そしてバブル崩壊まで生き抜いた。100年人生だった。

奈良の法隆寺での会合で寺島実郎さんから北陸経団連のトップに紹介されたとき、私が日本航空出身だというと、この人は伝説上の人物だった柳田のことが話題にした。若い頃、仏教関係の勉強会で影響を受けたという話だった。冒頭の「思想」が人間を支配するという言葉は、柳田の仏教に関する勉強を継続していたというバックグラウンドを知ると納得できる。自分で自分を鍛え、揺るぎない思想を創りあげた人物だったのだろう。思想が個人を支配する。そして個人を通じて集団も支配する。だから思想が大事なのだ。