第42回全国経営学部長会議を開催。
昨年は幹事校で、三菱の丸ビルで開催した。今年は三井の日本橋のコレド日本橋で開催。杉田学部長と一緒に出席。
今年の第一部のテーマは「経営学教育を通して学生にどのような知識や能力を身につけさせるか---チューニングの取り組みを参考に考える」。
質保証。学位プログラムと科目単位での学習成果。それぞれのDCA.具体性。
学科単位の履修系統図。
「あなたはこの授業で何を身につけましたか?」
第二部は「日本橋の街づくり」とういテーマで三井不動産の新原上席主幹の講義。
第三部は「渋沢栄一に学ぶ資本主義のあり方」で渋沢健さんの講演。
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昼食は。渡辺客員教授と三越の中華料理「紫苑」で食事を摂りながらじっくりと話をする。
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帰りの地下鉄のコンコースで見かけた掲示には、先ほどの講演で話題になった情報があった。
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16時半からは、湘南台のグローバルスタディーズ学部での学部運営委員会に出席。
19時半までの長丁場。「離学率」について発言。
「名言との対話」9月8日。木下尚江「人は実に事業の糸によってのみ、自己を永く世界に織り込むことが出来る」
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。男性。
松本中学の万国史の授業で、英国王を倒したピューリタン革命の中心人物 クロムウェルのことを知り、「我心は寝ても醒めても一謎語に注中されている『革命!』」と感慨を覚え、以後、木下は学校で「クロムウェルの木下」と呼ばれるようになる。
木下はキリスト教に出合い、廃娼運動、禁酒運動などに専念するが、その後「信府日報」の主筆を経て、三国干渉に対する遼東還付反対運動で共闘した石川半山の後を継ぎ、「信濃日報」の主筆を務めている。
木下は選挙疑獄事件の容疑で警察につかまるが、「一年半の鉄窓生活は、僕の生涯にとって、実に再生の天寵であった」と述べている。人生の学問をしたのだ。
後に入社した毎日新聞では「世界平和に対する日本国民の責任」と題する論説を執筆し、以後、平和と反国体を唱える。田中正造の足尾銅山鉱毒事件問題や普通選挙運動に積極的に取り組み、日露戦争では 「人の国を亡ぼすものは、又た人の為に亡ぼさる。是れ因果の必然なり」と主張し、非戦運動を展開した。また 反戦小説『火の柱』を毎日新聞に連載し、ペンを武器に戦った。ジャーナリスト木下尚江は、生涯一貫して社会改革を唱えた熱血漢だった。
何かの事業で何かの役割を果すことは、その事業の中に自分を織り込むことだ。その事業を糸として世界に織り込むことができたなら、自己を世界に織り込んだことになる。自らが関与する事業に、広く、深く、自己を上手に織り込むことができたなら、永遠の命を授かったことになるということだという木下尚江の主張には共鳴する。