インターネット放送局T-Studioの「名言との対話」第22回は、ミケランジェロ。「最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ」

インターネット放送局T-Studioの「名言との対話」第22回は、ミケランジェロ

「最大の危険は、目標が高すぎて達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を達成してしまうことだ」

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「副学長日誌・志塾の風」170901

・高野課長

・杉田学部長:松田義幸先生との会食日程。人事委員会案件。

・バートル先生:モンゴル出張の詳細。

・武井:入試の状況

・山本さん:T-Studio。次は人生100年がテーマで、日野原重明土屋文明を。

・松本先生:未来フェス2017京都の様子を説明

 

「名言との対話」9月1日。国吉康雄「「教育を受ける機会を与えてくれた国アメリカで、アメリカオリジナルの絵を生み出して描いてやろうと決める」

国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本洋画家20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。

日露戦争による国家財政の窮乏(国家予算の60倍の借金)から政府は口べらしのための移民政策を推進する。それに乗っかかって1906年国吉康雄(1889-1953年)はカナダ、そしてアメリカへわたる。鉄道の掃除夫、果樹園の季節労働者、ホテルのボーイ、そして一時はパイロットを目指すなどの苦労をしながら、奨学金をもらいいくつかの芸術学校で絵の勉強を続ける。

1924年の排日移民法でアメリカ市民となる道が閉ざされ、外国人居住者という身分になる。1941年の太平洋戦争勃発で、今度は「敵性外国人」となる。こういった流れの中で、国吉の立場は微妙になっていく。国吉はこの戦争の責任は日本の軍部にあるとし、民主主義国家アメリカの側に立って積極的に発言する。アメリカは国吉に敵・日本人を描くという使命を与える。
平和を訴えれば「敵国人」と非難され、芸術家の権利を叫べば「社会主義者」と言われる。そういう中で国吉が描いた作品は賞を受賞するが、「ジャップに賞を与えた」という批判にもさらされる。

「私は自分の女性はこうあるべきだと夢想しているユニバーサル・ウーマンを描いているのだ」そのために国吉が行ったことは、世界中に暮らすすべての女性の肌の色を混ぜ合わせたようだ。多民族国家アメリカを具体化しようとしたのであろう。岡山出身の国吉康雄の絵は、瀬戸内海の直島のベネッセハウスミュージアムで観ることができる。福武総一郎のコレクションだ。

 国吉が尊敬しフランスで活躍した藤田嗣治(1886-1968年)は、第二次世界大戦が勃発すると日本に帰国し、戦争画の第一人者として戦時の日本画壇を牽引した。二人とも祖国日本からは理解されない苦悩を背負っているのだが、国吉と藤田の姿は対照的だ。

アメリカ在住の敵性外国人の苦悩を背負った国吉康雄は、17歳で渡米して以来自身を援助し育ててくれたアメリカへの感謝の念を誰よりも持っていた。そしてアメリカオリジナルの絵を完成させて、アメリカ美術会議副議長、美術組合会長に推されるなどアメリカ人から最も評価された画家の一人となった。初志を貫徹した人生だった。

「全国地域リーダー養成塾」(一般財団法人地域活性化センター)で講演--「説得から納得の政策形成へ」

全国の市町村の公務員対象の講座。講演研修のタイトルは「説得から納得の政策形成へ」。9時から12時。市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷。

北海道東川町から愛媛県西伊予市まで40名。平均年齢35歳。女性6人。

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所属部署。

教育委員会。定住促進課。総務課。市民生活課。収納課。商工振興課。国民保険課。危機管理課。水産商工課。男女平等課。企画財政課。介護高齢課。企画政策課。財政課。危機管理防災課。産業観光課。使節経営課。総合政策課。建設課。建設環境課。用地対策課。総合政策グーループ。秘書企画課。税務課。上下水道部。経営戦略課。産業・観光・地域経済活性化部会。定住地域政策課。都市計画課。住まいまちづくり課。住民税務課。東京事務所産業振興部。東京事務所産業立地課。

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以下、終了後のアンケートから。

「文章がごまかしだらけであることにドキッとしました」「合意形成」「図解の必要性にびっくり」「鳥の目を意識」「業務の目標が抜け落ちていた」「町民に対して役場全体の仕事を図解して見やすいところに置いてはどうか」「子どもにやらせてみよう」「自分の仕事をいかに分かっていないか分かった」「仕事は問題解決ということに感銘」「日常的にやていきたい」「考えることを大切にしたいと決心」「知識よりも問題解決を意識したい」「非常に役に立つ」「活用します」「やる気が出た」「メルマガで学んでいきたい「「驚きました」「図解日本史を購入」「本を読みます」「目からウロコ」「仕事をごまかしてきた」「住民ニーズを意識」「頭を使った」「実践します」

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「名言との対話」8月31日。岡田紅陽「一生に一度でいいから会心の一枚を撮ってみたい」

岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影。1925年写真スタジオを設立。主に山岳写真、風景写真を撮影、富士山の撮影をライフワークとした。1952年日本写真協会を創設。

早稲田在学中に、大隈重信学長から「目的に向かったら命を捨ててかかれ」という訓諭があり、「そうだ。一生を棒に振ってもいい。早く悔いのない目的を探してそれに命を捨てるつもりで頑張ることが先決だ」と決心する。早稲田の19歳の時に河口湖湖畔で富士山と出会ってから77歳で没するまで富士一筋の生涯だった。

紅陽という号は、夜明けの紅富士からとった。富士の山肌が紅に輝きだす夜明けの荘厳な姿に感動し浮かんだ言葉である。この人は「富士こそわがいのち」と言ったのだが、その言葉通り、生涯を賭けて命がけで富士山の写真を撮り続けた。約40万枚の原板がある。一つとして同じ構図のものはない。記念館の写真はどれも息をのむような美しさだ。現在の五千円札の裏側の「本栖湖の富士」は紅陽の作品である。郵便切手への採用も30作品を超えている。

「瞬間を逃さずにシャッター。距離と山の大きさ。光線の角度の予備知識。小型カメラでは山頂から4-5里がもっともよい。」

「彼女は全く稀にみる妖麗な美人ではあるが、気まぐれな、しかも神経質な女性でもある。、、、全く私は手に負えないむずかしい恋人を持ったものである。」

徳富蘇峰は「富士山をこれほど美しく、気高くとれる写真家はほかにいない」と言い、川端康成は「、、、、古来の画人、文人にも、50年を富士一山にのみ取り組み、打ち込んだ者はあるまい」と紅陽を語っている。

紅陽は制作日誌を書き続けている。使用したカメラ、レンズ、フィルター、乾板とフィルム、露出、絞り、現像、印画紙などを詳しく記している。同じ被写体を二度と撮らない、同一の失敗を二度と繰り返さぬ、戒めの手段である。こういう心掛けの岡田紅陽にして「会心の一枚」はなかったという。

T-Studio 久恒啓一の「名言との対話」第21回--「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 (「幸福が来たら、ためらわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね」)

T-Studio 久恒啓一の「名言との対話」第21回をリリース。

多摩大学創立25周年記念ファシリティ 『T-Studio』では、地域への情報発信拠点として「課題解決型情報番組」を制作し、インターネットを通じて発信しています。

久恒啓一の名言との対話』は、10年に亘る偉人の記念館を訪ねる旅から生まれた番組です。全国で(一部海外)約800の人物記念館を訪問し、見えてきた日本の真の近代史、時代を超えて心に響く偉人の名言を、独自の視点で紹介します。

今回のテーマは、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』。

三菱一号館美術館「レオナルド×ミケランジェロ展」イタリアルネッサンス時代の二人の天才の企画展に足を運び、、万能の人 レオナルド・ダ・ヴィンチの才能に、名言をとおして迫ります。」

久恒啓一の名言との対話第21回 - YouTube

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午前は、人間ドックで検診。

午後、大学で仕事。

 

「名言との対話」8月30日。アーネスト・ラザフォード「物理のげ原理をバーのウエイトレスに説明できないのであれば、それはウエイトレスではなく、その原理に問題があるのだ」

アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS, 1871年8月30日 - 1937年10月19日)は、ニュージーランド出身、イギリスで活躍した物理学者化学者ノーベル化学賞を受賞。

α線β線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学の父」と呼ばれる。ラザフォードは慈愛心に満ち、若い研究所員たちを、ボーイズ(息子たち)と呼んで、まさに父のように指導していた。

ラザフォードはα線の散乱実験を行い原子核を発見し、原子核に原子量の大部分と電荷が集中しているラザフォードの原子模型を発表し、大衆が原子核を想像する際の原形となった。α線窒素原子に衝突させ、原子核の人工変換にも成功した。そして。中性子の存在、重水素の存在も予言した。

「単純さを信条として、いつも質素な人間でいる」ことを信条としたラザフォードは、自然現象の原理の単純化をどこまでも追いかけて、ついに原子の内部構造についての正しい理解の基礎までたどり着いた。そして誰にでも分かるような原子模型(モデル)をつくり、それによってで物理や化学が大いに発展していく。原理は常に単純である。

人物記念館の旅-800館目は土屋文明記念文学館

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 この夏の人物記念館の訪問で、本格的に始めた2005年以来13年目で800館を達成した。

記念すべき節目は「土屋文明」。

久恒啓一図解Web :: 人物記念館の旅 訪問記念館一覧

 土門拳http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/07/27/000000
本間光丘http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/01/000000
ベルツhttp://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/17/070822
片岡鶴太郎http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/07/000000
内田康夫浅見光彦http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/07/000000
藤原啓http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/08/000000
土屋文明800館目。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/12/000000

700館:大岡信。600館:大宅壮一。 

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「副学長日誌・志塾の風」8月29日。

-川手総務課長:理事長面談日程等

-水嶋教務課長:学生配布の手帳

-小林先生:『何がベンチャーを急成長させるのか 経営チームのダイナミズム』(中央経済社)をいただく。渾身の著書。 

何がベンチャーを急成長させるのか

-杉本係長:戦略会議打ち合わせ

-金先生:インターゼミのモンゴル調査(京都)。八王子コンソーシアムの講座。

-高野(滋)就職課長:新ルーム。キャリア、、。

-酒井主任:入試の状況

 

「名言との対話」8月29日。ジョン・ロック「 収入は、靴のようなものである。小さすぎれば、われわれを締めつけ、わずらわす。大きすぎれば、つまずきや踏み外しの原因となるのだ」

 ジョン・ロック(John Locke、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリス哲学者イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。

自由主義的な政治思想はイギリスの名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言フランス人権宣言に大きな影響を与えた。

ロックの権力分立論は各権の中で、立法権を持つ国会が最高の顕現を有すという君主の権限を制約するものであった。それは名誉革命に基づく穏健な立憲君主制を擁護する現実的な理論であった。これがのちにモンテスキューによる三権分立論にまで発展していく。

「いかなる人の知識も、その人の経験を超えるものではない。」

「われわれの知識は、すべて経験基づくものであり、知識は結局のところ経験から生ずるのである。」

以上の言葉も、理論よりも経験を重んずる思想が滲み出ている。「私は人の考えを最もよく知りたいときは、その人の行動を見ることにした」というジョン・ロックはやはり経験から智恵を汲む人であったようである。この経験主義は、イギリスという国の国柄を決めた感がある。

「美味とは食物そのものにあるのではなく、味わう舌にあるものである」という名言も面白い。味わう舌が問題だというのも、受け取る側の感覚が重視される。経験からいかに学ぶかも受け取る側の能力が問題となる。「経験論」は主体生がテーマだろう。そして「収入は靴と似ている」という比喩には膝を打つ。「身の丈」を重視せよということだ。ロックは、経験主義の人であった。

3年間の『学部長日誌』が完成

 「副学長日誌・志塾の風」170828

2012年から2014年までの3年間の『学部長日誌』が完成。全2巻。ブログに書いた日々の「学部長日誌・志塾の風」をまとめたものだ。

・杉田学部長:フットサル全国大会。PC会議、、、。

・梅澤先生:松田義幸先生との食事会

・杉本係長:戦略会議:就職・学生(離学率)

・高野課長:最近の学内情勢

・宮地局長

 

「名言との対話」。8月28日。ゲーテ「仕事は仲間を作る」

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツ詩人劇作家小説家自然科学者色彩論形態学生物学地質学自然哲学汎神論)、政治家法律家

ゲーテはイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。またヴァイマル公国の宮廷顧問、枢密顧問官政務長官つまり宰相も務めた。この人こそ、名言の宝庫だ。

「気持ちよい生活をつくろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ人を憎まぬこと、未来を神に任せること」

「努力する限り、人間は迷うだろう」

「この地方を説明せよというのか、先ず自分で屋根に登りなさい」

「大切なことは、大志を抱き、それをなし遂げる技能と忍耐をもつことである。その他はいずれも重要ではない。」

「私は常に敵の功績に注意を払い、それによって利益を得た。」

「何かを理解しようと思ったら、遠くを探すな。」

「世の中は粥で造られてはいない、君等は怠けてぐずぐずするな。かたいものは噛まねばならない。喉がつまるか消化するか、二つに一つだ」

ゲーテの書いた傑作では、ファウストは最後に言う。「努力することがわしのさがしていた満足じゃった!」神は、すべて努力なすものをすくいたもう、これがゲーテのメッセージだったのだ。。

日本にも東京ゲーテ記念館という不思議な建物がある。設立者は粉川忠という実業家だ。ゲーテに魅せられた粉川は「ゲーテのための考彰館を作ればいいんだ。そこへ行けば、ゲーテのことがなんでもわかるような」と志が定まった。ここで粉川は自分の心を鼓舞するために数条の誓いを立てる。1.すべて独力でやる、 2.ゲーテの資料を集めることだけを目的とする。 3.ゲーテを利用して金儲けをしない。4.事業が完成するまで故郷の土を踏まない。そしてとうとう素晴らしい記念館を完成させる。こういう日本人の存在もゲーテの大きな影響力を示している。

考え方や価値観が同じの仲間と一緒に仕事ができたら楽だろうと考えがちだ。しかし一緒に仕事をすると対立に陥ることが多くなる。そうではない。ある目的のために、考え方の違う人たちと一緒に取り組むと、多くの困難が待ち構えている。その困難をともに乗り越えて目的を達成するプロセスの中で同志になっていくのだ。仲間が仕事をつくるのではない、仕事が仲間をつくるのだ。

大祥忌。永六輔。阿部次郎。

今日の収穫。永六輔(孫・永拓実)。

・一日100通の葉書を書く

・著書は100冊近く

・「上を向いて歩こう」は安保闘争に敗れた若者のために書いた。

・「無駄なことは何もない。無駄にする人がいるだけだ」

・メモ用の手帳を常に携帯し言葉を大切にした(言葉の採集家だった)

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義母の3回忌を高源寺(曹洞宗)にて執りおこなう。忌日の法要について住職の話から。3回忌は大祥忌。心を切り替えて前向きに。健康と無事を祈り供養する。

初七日 初願忌・所願忌・始善忌・哭添忌。三途の川に到着する日。裁きが決まる日
二七日 以芳忌・以訪忌・到彼忌・總分忌
三七日 洒水忌・孝力忌・光喜忌・何經忌・阿經忌
四七日 阿經忌・阿況忌・相等忌・延芳忌・遠方忌・暗命忌・何經忌・向圍忌

四九日 この世とあの世をさ迷う。中陰の49日。成仏を願い極楽浄土に行けるように、家族や親族のほか、故人と縁の深かった方々を招く。忌明けの法要。ここまでが忌中。
五七日 小練忌・小斂忌・芳明忌・小飯忌・離延忌・今離忌・重苦忌・法命忌・上賓忌

六七日 檀弘忌・前至忌・脱光忌・休新忌
七七日 大練忌・大斂忌
百箇日 卒哭忌・出苦忌・幽回忌・百朝忌・齒若忌。泣くことをやめ悲しみに区切りをつける日
一周忌 小祥忌・邊哭忌。丸1年。少しめでたい。
三年忌 大祥忌・休安忌。丸2年経った3回忌。次の安住の世にいく。めでたい。
七周忌 休廣忌・周遠忌・遠波忌・超祥忌・七霜忌
十三年忌 稱名忌・遠方忌・寂語忌
十七年忌 慈明忌

二十三回忌
二十五年 大士忌
三十三年忌 本然清淨忌・冷照忌・阿圓忌・須陀圓忌

五十回忌 最後の年忌。弔い上げ。
百年 一會忌

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「名言との対話」8月27日。阿部次郎「死は生の自然の継続である。最も良き生の後に、最も悪しき死が来る理由がない。死に対する最良の準備が最もよく生きることにあるは疑いがない」

阿部 次郎(あべ じろう、1883年明治16年)8月27日 - 1959年昭和34年)10月20日)は、哲学者美学者、作家仙台市名誉市民

学生時代に読んだことのある阿部次郎32歳の作品『三太郎の日記』は、倉田百三『愛と認識との出発』と並んで私たちの時代までの大学生の必読書だった。またもう一つの流れ「岩波文庫」を創刊した岩波茂雄とは一高時代からの同級生で、寮が同室だったこともあり、生涯の親友だった。友人が金に困っているのをみかねて岩波の金を借りてやろうかなどと書いた手紙も残っている。この二人が人格主義にもとづく教養主義を主導したのである。年譜を読むと、岩波が2歳年長だが、奇しくもこの同じ8月27日生まれである。

阿部次郎自身も19才から71歳まで断続的ではあったが、日記をつけ続けた。仙台の阿部次郎記念館では大正5年12月9日の漱石の逝去時に「夏目先生死す。通夜、雪とまがふ月夜、、。」と書いた博文館発行のポケット日記も見ることができた。

同郷の者との親交が深かったようで、写真嫌いだったが同郷の土門拳が撮った写真は気に入っていたそうだ。山形県松山にある記念館は、次郎の文字が入っていない阿部記念館だった。記念館の近くの小学校には阿部襄という名前の石碑が建っていたので不思議に思ったが、切妻造りの平屋の実家をみて納得がいった。

次郎は東京帝大を出て東北帝大教授、三也は陸軍大学出身の軍人、余四男は東京帝大を出た動物学者で広島文理科大学教授、勝也は東京帝大を出た歴史学者で九州帝大・北海道帝大・東北帝大教授、六郎は京都帝大出身の文芸評論家で東京芸大教授、という具合に秀才一家だった。次郎だけが特別なのではなく、阿部家そのものがこの地域の誇りだったのである。阿部記念館と名付けたのもわかった。当主であり次郎の祖父に当たる七郎右衛門と祖母にあたるわかのの写真がある。このわかのが立派な人格者で、阿部家の精神的なバックボーンとなった。偉いおばあさんだっとの説明があった。

次郎は毎年正月に遺言を書いている。新しい遺言を書いたら前の遺言は破棄しているのだが、珍しく昭和16年元日版の遺言状が展示してあった。参考にしたい習慣である。

「白雲の行方を問はむ秋の空」(三太郎の日記)

「愛とは他から奪うことではなくて、自己を他に与えることである。」
「自嘲は強者のものである。自己憐憫は弱者のものである。」
「人間は長生きしなければ駄目だ」と語っていた阿部次郎は59歳で東北大学法文学部長に就任するが、翌年軽い脳溢血で辞任する。定年退官後はどのような知的生活を送ったのだろうか。脳軟化症で入院し、翌年76歳で人生を終える。良き生を全うできたのだろうか、気になるところである。

「未来フェス2017in京都」の初日:「日本再編集会議PART.1」(同志社大学)

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主宰の 後藤健市さん「ライブが21世紀。イキバリ(行き当たりバッチリ)。志民。クオリティ」

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安達明子。本帯リメイクショップ。

小島雅子。株式会社メガミ代表。

私(久恒啓一)は「人物記念館の旅から--地域と日本再生のカギは偉人の顕彰にあり」というテーマで発表。

内容 「二つの提案。大鳥瞰図絵と人物記念館。温泉とグルメの旅から、知的な旅への転換という趣旨で、13年で全国各地の人物記念館800館を踏破。、、、日本近代史の旅。地域の偉人の発見と感動。偉さとは影響力。福沢と渋沢。地元の評判と世間の評価。没年が重要。師匠とライバル群像。中年の危機。本物の日本人の7つの条件。名言・格言・金言。史上最高の総理。東京暗殺ステーション。遅咲き偉人伝。自伝と追悼文集。人生百年時代の多彩なモデル群像。、、。地域の偉人の発掘と顕彰こそ、地方観光の資源です。日本人の再生は偉人の顕彰にかかっています。」

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清水大樹。RBL教育。関係性学習。

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 村井知敬。困り続ける。自分で解決できない。サイクル。

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松井知敬。株式会社オヤノミカタ代表。f:id:k-hisatune:20170826192502j:image

川本有哉。かばんばか代表。鞄職人。f:id:k-hisatune:20170826191950j:imagef:id:k-hisatune:20170826191756j:image

運動会屋。800件。リピート率90%。手軽でローコスト。ハイテク運動会。

ワールドキャラバン。ハッカソンf:id:k-hisatune:20170826191805j:image

日本ライトフライ級の現チャンピオンの久田哲也さん。32歳。世界を目指す。 

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野球ユーチューバーの向祐哉。野球で世界を笑顔に。

これでどこまで食っていけるか。27歳。f:id:k-hisatune:20170826192126j:image

 

 昼食会は、このイベントのキーマンが集合。

橘川さん:このイベントの主宰者。

伊藤清隆(リーフラス代表):スポーツスクール。先生の過重労働軽減。500名の正社員。

フィンテックの高崎さん:インドから帰国。シリコンバレーに。アフリカのケニア、中東、インド。ロンドンに事務所。銀行口座がない人を搾取するシステムに反旗。パン屋のノウハウ学校。

帯広の後藤健市さん:地域起こし。ライブ感覚。

アミタ社長の熊野英介さん(信頼資本財団理事長)。人間は信頼できるかを実験。無利子・無担保・無保証。8年で31件こげつきなし。

こども芸術大学の田中洋一校長。岡崎太郎さん:子どもとお母さんの教育。メソッドの蓄積。日本も出る。

鈴木太夢さん:住友40年。CBバンクで第二の人生。没企画の実現担当。

岡崎太郎:通販コンサル。やずや、、。福岡。

梅垣さん:通販。沖縄。

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午後の部。

熊野さんの挨拶。

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後藤健市:人生にの野遊びを。スノーピーク。新潟。キャンプ。本物。

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仁上さん:講演258本目。図書館サービス研究会。2割の固定客相手。

鴨志田由田貴。作戦本部株式会社。むかし未来。デジタルミュージアム

メディア向けセールスキット。著作権の問題。伊豆大島

ビール世界一。

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 野村信吾さん。地球倶楽部ネットワーク2000。ヘキサゴン。メガフロート。東京震災で72時間以内に100万人を救出。ファームフロート。f:id:k-hisatune:20170826192340j:image

宮外真理子:通訳翻訳サービス。持続可能なキャリア。

青山一郎:少子高齢化時代の新聞販売店活用術。シニアへのサービス。

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菊岡信義:アジア教育友好協会。ラオスに学校。

秋山怜史さん。建築士。ペアレンティングルーム。シングルマザー大将。

子育て

マンション。

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水野さん。明石工業高専の試み。VUCAブーカ時代。f:id:k-hisatune:20170826192555j:image

リーフラスの嶋中さん。自分よし、相手によし、会社によし、社会によし。30都道府県41事業所。608名。スポーツを職業にする。f:id:k-hisatune:20170826192616j:image

農民ロッカーの和気優さんの激烈なメッセージ。現在大分県臼杵市在住。

土、水、空のドミソラの歌。農・食・音の旗。下北沢の農民カフェ。洗脳。奴隷。古代米。ゲストハウス。5000坪。常識を覆せ。f:id:k-hisatune:20170826192749j:imagef:id:k-hisatune:20170826192806j:image

オヤノミカタ。

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 本気。熱意。優しい。善意。熱中。爽やか。元気。行動力。バイタリティ。面白い。

課題解決型起業。多彩なテーマ。困り事解決。青年の主張。、、、

ということで、日本と世界の「未来」が信じられる気持ちで会場を後にした。

 このイベントは、本日の夜、明日と続く。

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以下、途中。

 

「名言との対話」8月26日。コロンブス「0から1を創るのは、難しい。1から2を作ることは、易しい」

クリストファー・コロンブス1451年頃 - 1506年5月20日)は探検家航海者コンキスタドール奴隷商人。定説ではイタリアジェノヴァ出身。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したひとりである。

地球が球体であることを証明し、アジアへの短い航路を発見しようと壮大な計画をもつコロンブスは、ポルトガル王室、そしてスペイン王室に執拗に提案を行っている。紆余曲折を経てスペインのイサベル一世は、ようやく計画を承認し、サンタフェ契約を結ぶ。成功の暁には、コロンブスに地位と利益を保証されていた。契約に基づき富を手にしたコロンブスは、「富は人を豊かにはしない。それは人をより忙しくするだけだ」という言葉も残している。

1492年にインドを目指して就航し、サン・サルバドル島に到着。翌年の二度目の航海は植民が目的であり、インディアンを弾圧している。コロンブスは最後まで発見した島々をアジアだと信じていたが、実際は未知の新大陸だった。新大陸への航海は4度を数えたが、地図にはアメリゴ・ヴェスプッチの名前を記されて、新大陸はアメリカと命名されてしまった。後世の評価は様々だが、大いなる冒険を断行し、知られざる新大陸を発見す功績は不朽である

「誰にでもできることでも、最初にやろうとするには閃きと勇気が必要だ」、これは「コロンブスの卵」で知られるエピソードの時にコロンブスが語った言葉だ。「0から1」、つまり最初に始めることにこそ大いなる価値があるということだ。