原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書)--2017年度の日本エッセイスト・クラブ賞

原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書)を読了。

 2017年度の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した元東京高裁判事のエッセイ。

「寅さん」シリーズの山田洋次監督が「こんな裁判官がいる限りこの国の法曹界を信じたい」と推薦している。文体は柔らかくユーモアがあるが、裁判をめぐる本質的な問題点を指摘している本ですうコラム「裁判官の余白録」をまとめたものだ。

裁判の非情と人情 (岩波新書)

 裁判官という知られざる世界の「人事」について垣間見える点が印象に残った。

・著者が尊敬する裁判官の一人は起案書を直さない、自分の意見を言わない合議、被告人に自由に語らせる裁判を行いながら指導を受けたこの人は、最高裁判事になった。

・無罪判決を続出すると、出世に影響して転勤や外されたりする。これも残念ながら真実である。

・後先のことなど考えずに、個々の事件にベストを尽くすべきだ。

・自由に意見を徴し、議論をすべきだ。自由な議論とは、何を言っても、人事上の不利益を加えないということである。

・「しぶしぶとしぶからしぶへしぶめぐり しぶのむしにもごぶのたましい」(裁判官としての不遇をかこつ歌)

・法曹一元(裁判官は弁護士から選ぶ)が望ましい。

・出世は目標ではなく、あくまで結果なのである。

以上の記述などを読むと、やはりこの世界も人事は最大の関心事であり、しかもその美微妙な本音も見え隠れしている。どの世界も人事は一筋縄ではいかないようだ。

裁判は複数裁判官の合議であるから、質問を受けることがあり、手控えが重要だ。「読むだけで事件全体が把握できる」ものを書く。「全体を一覧できるチャートを作るのも一つのアイデア」だ。証拠の位置づけがすぐにわかる。、、このようなことも書いている。私は裁判所で講演を頼まれたことがなんどかある。最高裁、東京高裁、仙台高裁、東京地裁宇都宮地裁、横浜簡易裁判所だ。そこでは「図解コミュニケーション」をテーマに話をしたのだが、著者の全体を一覧できるチャートを教えていたことになる。裁判員制度の導入前後であり、図解に関するニーズが高まった時期だった。

著者は裁判官は文芸作品や小説を読むべきだ。なぜなら裁判官に欠けている、情と人情を勉強できるからだ、という。池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。

吉永祐介検事総長。龍岡資晃判事。香城敏麿判事。四ツ谷裁判長、石田穣一裁判長。、、以上のような尊敬する先輩の名前がでてくる。彼らに鍛えられて仕事を覚えていく。どこの世界でも同じだ。この本には「人間の器が違う」という言葉がでてくるのが印象的だ。仕事、趣味などトータルでみたその人の「器」である。器の大きい人に出会う喜びが仕事の喜びでもある。

著者には昔から法廷で面白いことがあると、すぐノートに書いておく習慣があった。ノートの題名は「法廷ちょっといい話」である(戸板康二「ちょっといい話」。また裁判官に取材してメモを取っていた。また長年の習慣は日記で、平成元年(1989年)から2017年まで続いているという。28年だ。「ノートと日記」がこの本の原材料となっている。

 

「名言との対話」10月24日。渡辺淳一「鈍さも見方を変えれば才能で、それこそが誠実さや、一途さ、信念といったものを生み出す原動力となるはずである」

渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち、1933年昭和8年)10月24日 - 2014年平成26年)4月30日)は、日本作家

渡辺淳一が65歳のときに建てられた札幌・中島公園の近くにエリエールスクエア札幌「渡辺淳一文学館」の渡辺淳一記念文学館は2009年に訪ねている。1階の書棚が司馬遼太郎記念館に似ていると思ったら、やはり設計・デザインは同じ安藤忠雄だった。1969年から2008年までの39年間で著書は139冊。年間3冊から4冊づつたゆまず生み続けていることになる。ひとひらの雪、化身、失楽園愛の流刑地などのベストセラーや話題作が途切れることなく出ているのは凄い。テーマは、恋愛。男女の愛。愛と性。

 先輩の伊藤整から「君ね、できたら一度でいいから、ベストセラー作家になりなさい」、ベストセラーを出すと人が寄ってきて、「書いてくれ、書いてくれ」とせかされ、追われて、そこで初めて隠れていた自分の能力を引き出される。ベストセラーを出した人間とその経験のない人間では力のつき方が違う」「だから、一度はスターに、時代の寵児になりなさい」と言われた。「これ(「ひとひらの雪」)を書いていて間違いない。男女ものでいいんだ。生涯これを書いていこう」と確信したのです。ちょうど50歳目前のときだった。

「たとえ才能が貧しくても、それを乱費せず、実感をベースに、自分がのめりこんでいけるものだけを書いていこうと。」
「日々、締め切りに追われて、気がついたらここまできていた、というのが本音である。」

渡辺淳一の世界2−−1998−2008 失楽園から鈍感力まで」(集英社)を読む。「前夜酒を飲んでも、朝早く起きて原稿を書き始めます。厚めの原稿用紙と鉛筆と消しゴムを使って、行きつ戻りつしながら書くのが男女ものに合うのです。」

私がまだ20代で北海道にいた頃、講演会を企画したことがある。渡辺淳一の名前を出したら交渉役になってしまい、何度か接触した縁もある、この作家の「鈍感力」(集英社)を2007年に読んだ。この小説家は男女の機微を描いた作品が多くファンも多いが、今回のタイトルはいつもの小説のニュアンスとは違うので、不思議に思っていた。妻がこの本を買っきて読んだあと、「どんな本なんだ?」という私の問いかけに「そうねえ。女性の鈍感力以外のところは、お父さん(最近はそう呼ばれている)のことを書いているようです」との答えだったことを思い出した「鈍感力」でゆこう!

衆院選ドラマと主役たちの「出処進退」

今回の衆院選はドラマチックだった。

結果は与党の安定政権の継続であったが、対抗軸としてもう一方の旗が明確に立った。

首相への疑念、突発的解散、希望の党の出現、民進党の希望の党への合流、排除と選別、立憲民主党の立ち上げ、希望の党の失速、そして自公大勝・希望完敗・立憲大躍進、、、。

この過程で私たちが目撃したのは、政治の舞台で踊る人々の「出処進退」の姿であった。誰が本物で、誰が偽物か。巧言令色で見えていなかった本当の心や精神が白日のもとにさらされたのである。

利己、野心、奢り、離反、打算、、、、。疾風怒濤の嵐の中で、主役たちの覚悟と決断が透けてみえた一大ドラマであった。リーダーのあるべき姿、フォロワーシップのあり方、人間としての器量の大小、志の固さ加減、誠実さの程度、情勢分析力、そして決断力と実行力、次に向けての戦略と戦術、、、、、。

このドラマと今後の展開には、人の生き方を考えさせる材料が満載となるだろう。

 「副学長日誌・志塾の風」171023

研究室

・スケジュール

・打ち合わせ

・杉田学部長

ラウンジ

・山本さん

・酒井さん

 

「名言との対話」10月23日。「天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ 嗚呼荒城のよはの月」

土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日明治4年10月23日) - 1952年昭和27年)10月19日)は、日本詩人英文学者

質屋という商売には学問は要らぬという祖父から進学を止められた晩翠は、日本最初の和英辞典をつくった斉藤秀三郎の仙台英語塾に入る。その後、第二高等学校から東京帝大文学部にすすむ。30歳で故郷に帰った晩翠はその後3年間のヨーロッパ留学期間を除き、仙台で生活をする。64歳で定年になるまで続けた優れた教師としての仕事と、影響力のある著作の執筆にその生涯を費やした。1949年には仙台名誉市民、1950年には詩人として初めての文化勲章を受章している。2005年に晩翠草堂を訪れたとき、仙台には晩翠の教え子たちで構成されたこ晩翠会という会がまだ健在であると聞いて驚いた。事務局は仙台近代文学館にあるとのことだ。

晩翠草堂に掲げてある写真の中で、もっとも惹かれたのは「晩翠と教え子たち(二高教室にて)」という写真だ。壮年の晩翠を真中に50名ほどの高等学校生が笑顔で取り囲んでいる。敬愛された素晴らしい先生であったことをうかがわせる写真である。「教師・土井晩翠(吉岡一男)」というエッセーには「全国から来る学生の面倒を見たり、卒業してからの相談にのるなど学校内外でも尊敬される先生でした。」「人生を教えてくれる名物先生でした」とある。晩翠の自宅は太平洋戦争の空襲で3万冊の蔵書とともに焼けてしまった。それを見かねた晩翠の弟子たちがお金を集めてつくってくれたという曰くつきの家で今日の晩翠草堂である。

晩翠草堂には二部屋あり、ベッドのある寝室には「酒という文字を見るさえうれしきに のめといふ人 神か仏か(読み人知らず)」という自ら書いた書があった。酒好きだったのだろうと親しみを覚えた。築館出身の白鳥省吾の書いた額が飾ってあり晩翠に「詩聖」という言葉を贈っている。晩翠は求めに応じて200以上の校歌の作詞もしている。昭和35年からは、晩翠賞と児童賞(東北6県)が続いている。

案内のおじさんは的確な知識とあふれる熱意で説明してくれて感心したが、この草堂は仙台市の持ち物でもあり、「窓口サービスアンケート」の結果を張り出してあった。5点満点で4.87という高得点であり、そうだろうと納得した。

晩翠には第一詩集「天地有情」、「曙光」「暁鐘」「那破翁」「東海遊子吟」などの優れた作品がある。一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞だろうか。その4番を自分なりに訳してみよう。

「空の月は永遠にかわることなく存在している。栄枯は盛衰するという人の世の姿。月はそれが真の人の世の姿であると示そうとしているのであろうか。今は荒れ果てた城には栄えた時代の光はなく、ただ夜半の月だけがみえる」

丹羽宇一郎『死ぬほど読書』(幻冬舎新書)--仕事と読書と人間関係、そこから学ぶ人間理解。

丹羽宇一郎『死ぬほど読書』(幻冬舎新書)を読了。

総合商社・伊藤忠商事の中興の祖であり、民間人初の駐中国大使を経験し、また読書人としても有名な丹羽宇一郎の読書論。

実家は本屋。60年安保の名古屋大学法学部時代は学生運動家。検察官か弁護士を志望していたが、伊藤忠商事に入社。若い時代から続く読書の継続と、仕事に立ち向かう徹底した現場主義がこの人の勉強法だ。

死ぬほど読書 (幻冬舎新書)

語り下ろしの読みやすい本。参考になる点をいくつか。

・アメリカ駐在中は、大豆を扱う部署。農業、歴史、政治、産業に関する本を読んだ。

・読書でゴルフのシングルプレイヤーになった。

・40年以上、毎日30分以上の読書。本を読むために電車の終着駅に住んだ。毎週3冊、年間150冊。

・重要なところはノートに書き写す。このノートは唯一無二の、座右の書だ。

・優秀な人間ほど、隠し事をする。

・問題があるということは、懸命に生きている証。

・人生で大事なのは、仕事と読書と人間関係。そこから学ぶ人間理解。

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衆院選:数字をチェック。

投票率は53.8%で前回52.7%をわずかに超えた。劇的展開と台風直撃の中で。

・自民の比例の得票率35%(前回33%)

小選挙区:自民48%の得票率で77%の議席獲得。比例35%の得票率で40%の議席

・自公圧勝(310超で与党・安部首相は信任)。立憲が野党第一党

有権者の20%が期日前投票(63%アップ。2138万人)

・18歳・19歳:自民40%、希望11、立憲7。

無党派:立憲31%、自民21、希望18、、。

 

「名言との対話」10月22日。清水達夫「みんなが賛成するのは危険だ。それは新しくない。みんなが反対するから新しいのだ」

清水 達夫(しみず たつお、1913年10月22日 - 1992年12月28日)は東京府出身の編集者マガジンハウス創業者。

立教大学予科で学生劇団や同人誌に参加。電通に入社してからは「宣傳」誌を編集したが、のち左遷されたので退職し、大政翼賛会宣伝部に入る。戦後、1945年に岩堀喜之助の誘いで「平凡」誌を創刊。次いで「週刊平凡」「平凡パンチ」「anan」を創刊し、戦後を代表する大雑誌に育て上げて、清水は雑誌の神様と呼ばれた。

新雑誌創刊によって「社会の文化の質や構造、大衆の生活内容まで作りかえてしまう」、マーケティングよりは「身近な誰かをモニターにする」、「雑誌は表紙だ」など、のちに雑誌などの常識になっていくことを天才・清水達夫は打ち出していく。

雑多な情報を一つの体系的にまとめているから雑誌と呼ばれるから、雑然とした編集に陥りがちな雑誌の世界であるが、新雑誌を明快なコンセプトで未開のマーケットに打ち込んで成功させ、清水は雑誌の王国を創りあげた。

平凡社から社名変更をしたマガジンハウスとはJALの広報担当として木滑良久石川次郎と続く編集人脈が主導した「ポパイ」(都会型の若者に焦点を絞った20代のメンズファッション雑誌)、「ブルータス」(徹底的な特集主義で読者の興味を引くものの入り口を探す)、「ターザン」(カラダづくりの教本!快適なライフスタイルの追求雑誌)などの雑誌で縁があった。コンセプト、読者ターゲット、斬新な企画などに感心しながらつきあったことを思い出す。

清水は清水凡亭という俳号を持つ俳人でもあり、1951年から「淡淡」という句誌を主宰していた。1991年には私設の俳句美術館を滋賀県大津市に開設している。大津には松尾芭蕉墓所や句碑があることで有名な「義仲寺」がある。俳句と美術を組み合わせたのも新しい。生き生きとしたキャッチコピーはマガジンハウスの特徴だが、それは清水が俳人であったことも関係しているのではないだろうか。

驚きの提供、ワクワク感、常識破り、企画の切れ味、時代の波がしらの投影、、、、。まさに雑誌は新しさが勝負であり、企画編集には革新的な若い感性が不可欠だ。その精神を「みんなが反対するから新しいのだ」と名編集者は喝破したのだ。

中津北高・南高の関東合同同窓会。インターゼミ。がん研有明。

「がん研有明」の知人のお見舞い。1908年創立で100年を越える「がん研究会」は、渋沢栄一が尽力してできた団体だった。渋沢は500社の創立に関わったのだが、慈善事業・社会福祉事業には600だった。その一つが「がん研」だったことが分かった。

16時:インターゼミ。

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 学長講話

安藤忠雄展(国立新美術館)。76歳にして「挑戦」、ファイティングポーズ。笑顔のストイシズム。AI次代に建築家は生き延びることができるか? 縁。自分の旗を立てよ。セルフマネジメント。食いつく力。BS11「インド」。「中国」。「安藤」。

・藤沢シンポジウム:観光・ホスピタリティ。異次元の高齢化XICT(IOT)の新プロジェクト。

・ハワイ:欧州戦線で活躍した日系人442部隊。ダニエル・イノウエ上院議員ダニエル・イノウエ空港。二つの祖国。

本居宣長サミット:小林秀雄と向き合うことになる。10年かけた「本居宣長」。からごごろからやまとごごろへ。和漢洋の教養。洋も疑問。江戸期は中国からの自立の過程だった。通貨・暦・学問。源氏物語もののあはれ古事記元寇が伏線となって日本のアイデンティティの模索から国学が誕生。北畠親房日蓮、、。

・明日の選挙:

・・投票率は上がらないだろう(前回52%。今回は上昇かという局面だが、19歳以下の240万人の投票率が低い)。

・・比例区自民党投票率は下がるだろう。30%を超えるか否か。(前回33%。投票率52%・得票率33%で全有権者の17%で議席の61%を獲得。小選挙区自民党比例区では「国家主義」へのためらいでブレーキ)。自公で307議席。300以下だったら与党は信任、安部には疑問がつく展開。

 

18時:九段下のホテル・グランドパレスで、中津北校・中津南高の関東合同同窓会が開催された。総勢500名以上の大きな会。北高の同期は7人が出席(女性は今仁(長岡)さんと吉松さん)。

・来賓席の以下の方々と談笑。奥塚市長(人口8.4万人)。仲商工会議所会頭(宮城大で一緒だった仲先生の兄。2000社会員)。南高同窓会長の清源弁護士(23回生。「邪馬台」の顧問)。北高の工藤校長(「団塊坊ちゃん青春記」の感想)。南高関東同窓会の久恒三平会長(弁護士。近所で遊んだ。相続の本。団塊と名言を送っておこう)

・2018年1月1日NHKドラマ「風雲児たちーー蘭学革命(れぼりゅうし)篇」:片岡愛之助が「解体新書」に功績のあった江戸時代の中津藩医前野良沢を演じる。19時20分から90分。

終了間際に抜け出して、居酒屋で同期5人で懇親。

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 「名言との対話」10月21日。江戸川乱歩「運命の鬼めは、甘い獲物を与えて、人の心を試すのだ。そして、ちょっとでも心に隙があったなら、大きな真っ黒な口を開いて、ガブリと人を呑んでしまうのだ」

江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、男性1894年明治27年)10月21日 - 1965年昭和40年)7月28日は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家推理作家。戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。日本推理作家協会初代理事長。探偵小説『怪人二十面相』、評論『幻影城』など。

中学卒業の年に父が破産し、単身上京。苦学しながら早大政経学部を卒業後は貿易会社社員や古本屋支那ソバ屋など職業を転々。ペンネーム(江戸川乱歩)はアメリカの作家、エドガー・アラン・ポオに因んでいる。ダーク・ロマンチシズムのアメリカのエドガー・アラン・ポーは、アメリカにおいて文筆だけで身を立てようとした最初の著名な作家であった。

「ぼっ、ぼっ、ぼくらは少年探偵団、、」で始まる、子供の頃に聞いたラジオドラマ「少年探偵団」の作者が乱歩であった。名探偵明智小五郎が主役の探偵小説には高い人気があった。『D坂の殺人事件』のD坂(千駄木の団子坂)には、ファンの店主が開いた「乱歩」という名前の喫茶店もあるという。

「探偵小説家たるものは日々夜々、ただもう、如何にして前人未到の大構想を構想すべきかに、心を砕きます。」という乱歩は実際に探偵として探偵事務所(に勤務していた経歴も持っている。

生涯引っ越した数は46回といわれているが、終の棲家となった池袋の旧・江戸川乱歩邸は、今では立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターになっている。2階建ての土蔵が厖大な蔵書庫をおさめる書庫になっている。

「うつしよは夢、夜の夢こそまこと」と、色紙や短冊への揮毫によく書いた乱歩の作品には、衆道少年愛少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙サディズムやグロテスク、残虐趣味などが織り込まれている。

乱歩には休筆期間が多い。「大正十四年に専業作家になってから現在まで満三十一年余だが、そのうち十七年休筆していたのだから、正味十四年あまりしか働いていない勘定になる。書いているより休んでいる方が多かったのである」と語るように、作品に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪した。長編小説を書くにあたって大まかなプロットを書く作家が多いが、この作家は場当たり的に執筆し、途中でストーリーが行き詰まり、途方にくれることもあったそうだ。

探偵小説界に一人の芭蕉出でよ」という乱歩は、新人発掘にも熱心で、知り合った横溝正史に上京を促し二人で探偵小説の時代を築いていく。そして高木彬光筒井康隆大薮春彦などを育てている。日本探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の創立と財団法人化に尽力し、寄付した私財1000万円の使途として1955年に江戸川乱歩賞が制定され、第3回より長編推理小説の公募賞となる。2017年現在まで63回で、森村誠一東野圭吾桐野夏生などが受賞している。晩年には大乱歩と「大」という尊称をつけて呼ばれるようになった。文学者で「大」がつくのは大谷崎こと谷崎潤一郎くらいだろう。

さて、冒頭の運命をめぐる警句には凄みがある。得意の絶頂にあるときこそ、危険などん底の割れ目に落ちる危険が待ち構えている。その鬼に呑まれた屍を私たちは人の世に無数にみることができる。

学部「立志人物伝」と、大学院「立志人物論」

「副学長日誌・志塾の風」171020

多摩

・客員の久米先生と情報交換「LINE@。超会社力。熱中小学校、、。

・「立志人物伝」の授業5回目。本日のテーマは「友」。

・事務局との定例会議:川手課長、水嶋課長、杉田学部長と1時間半の意見交換。

・杉田学部長と情報交換

品川

・滝川課長:研究開発機構評議員会の事前打ち合わせ

・「立志人物論」の授業:18時半から21時40分。以下、感想。

・久恒先生、本日もありがとうございました。文学作品も含めて古典や過去のものに興味がなかった私も、久恒先生の講義を受けるうちにどんどん興味が湧いていることを実感します。また、結婚と妻の出産後、諸々苦戦している私にとっては(お恥ずかしい話ですが)、川端康成の結婚の眼を読んでみたいです(課題図書が多くなかなか追いつけませんが)。三島由紀夫の嫉妬こそ生きる力だという言葉も新たな発見でした。何故ならば嫉妬は人間の醜い感情だと私は思っていたからです。しかし、ライバルに対して嫉妬という感情は切っても切れない関係であるならば、そこから湧き上がる力は大きなものであるでしょう。

・みなさん、お疲れ様でした。本日の感想です。三島由紀夫のエッセイ「気狂いピエロ」。ジャンポール・ベルモントを思い出したのは私くらいか?物語はみなさんご存知の通り。奇しくも、本編では本日出てきた作家らと同様に、自らの人生を自らの手で終結させる。その理由は数多あれど、根底にはそれぞれの内心に潜む「美学」があるのではないか?そんな風に思えてならない。その行動が美学に基づいたものだったとしたら、彼等は「入定」したのではないか?特に三島由紀夫切腹は、実は切腹と言う行為を通して入定を強くイメージしたのかもしれない。そして、永遠の「生」を獲得したのである。こんな見解を、西田幾多郎鈴木大拙にぶつけてみたら、彼らは何と答えるのだろうか?偉人の見解を聴いてみたいものである。本日も、大変面白い時間をありがとうございました。

・昔の偉人からも学べるように, 切磋琢磨する友人, 一目置くライバル, 従事する分野の師を持つほうが, 己が人生 実りあるものになると改めて感じる。今夜の私のヒーローは, 三島由紀夫氏。若輩である私は, 文学作品以外あまり彼を知らないが, 物事の考え方や洞察力, 先見の明, 残した名言「嫉妬こそ生きる力である」に共感を覚えたからだ。数年前まで両親(民×官)が共働きだったこともあり, 幼少〜青年期の私を育ててくれた祖父母がよく口にした「若い時の苦労は買ってでもせよ」, その人生をとりわけ民間外資時代は歩んできた。グループ企業内外の政治問題に疲弊しただけでなく, アラブ革命の混乱期にあっては命を二度失いかけたこともあるが, 公私において優れた同志や学友への羨望の念は, 私のバイタリティを強くしたであろう, と振り返っていた。研究補助をする現職場は, また別の意味で嫉妬をおぼえる。

三島由紀夫のエッセイを昔読んで印象に残ったこと。<気狂いピエロ>というのがあり、ピエロは職業としてお客を喜ばし笑わすのを仕事としています。たとえ自分が悲しいことがあって心では泣いていても、顔では笑ってお客を笑わせる。それがプロの仕事だと書いてありました。岡本太郎は、よっぽどの自信家であったと思います。自信がなければあのような大胆なことはできなかったと思いました。私は仕事に完璧、完成はなく常に勉強し経験しよりよいものにする過程であると思い普段から謙虚になって実行しています。今日も有益なフルーツフルな授業ありがとうございました。

・本日もありがとうございました。本日の講義で最も印象に残った人物は岡本太郎でした。私自身、芸術には全く興味がなく、また芸術家と呼ばれる方たちは一般人とは違う独特の感性や人間性があるため、なかなか真似をしようとしたり、生き方を参考にするという発想がありませんでした。しかし、本日の講義で岡本太郎という人物について学ぶなかで本当に立派な言葉を残していることをはじめて知りました。特に「調和はぶつかり合った後に生まれるもの」という言葉が印象に残りました。私たちの業界では会議や研修のたびに医療と介護の連携をよくしよう、お互いを理解しようという言葉が出てきます。一見耳障りのいい言葉ですが、実際はお互い本音の議論は行われず、ただ表面的な付き合いをしているだけだと常日頃から感じていました。だからこそこの岡本太郎の言葉が印象に残りましたし、いつも本音でぶつかり合えるような関係を地域の関係機関とも築いていきたいと思いました。また次回もよろしくお願いいたします。

・ 岡本太郎に対して印象が深いです。「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」という言葉が今私読んでいる本に似っている。本はアシモフの『神々自身』です。第2部の主人公は未知のことに好奇心を持つ、行動も他の人と違うので、いつも弄られます。最初はよく泣くが、最後は気にせず、岡本太郎が言うような感じになります。自分は正しいかどうか、自分はどんな道を選ぶか、自分にしか決められません。先生が「文学者の自殺が多い」と言いました。最初、私は「このような天才が世界の真実を見極めて、能力に限りがあり、作品だけ他のことはできません。失望、絶望など世界に対して、自分に対して嫌な気持ちが生み出す、そして自殺しました。」と思いますが、授業の最後のディスカッションで、他人から「天才の美学かもしれない、人生の頂点に永遠に止まりたい」と言う見解もあります。本当に偉人に直接聞きたい。

・今回は、印象に残った人は岡本太郎志賀直哉です。岡本太郎は「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ。」という言葉があります。実は、私は高校生の頃、周りの目線を極めて気にする人でした。従って、あの時、自分の考え方や本音などをはっきりと吐けなくて、様々なこともできなかった。大学に進学した後、親友に影響されて、ますます他人の目線を無視して、自分の考え方通り、自分の生活をすることが好きになりました。どんどん新たで様々な可能性が出てきました。ですから、この言葉を読んだ時、共感を捉えるみたいです。(留学生)
志賀直哉の映像を見せてくれて、感想が大変出てきました。「自分に才能を与えてくれるなら、寿命を縮めていい。才能を与えられるなら、悪魔に身を売ってる」という話を聞いた時、本当に泣きたいぐらい感動します。自分自身が感情的な人です。また、最近の生活、うまくいかなくて、もう我慢できないことが起こったから、その言葉を聞いて、新たな道を発現するみたいで、治される感じです。誰でも、何のために、(相手が家族でも、親友でも、好きなことでも、好きな人でも)自分の全てを出してもいい時があると思います。志賀直哉が書きへの情感は私を感心させます。私達も同じじゃないですか。自分の熱情を出して、その上、日本の諺の「石の上にも三年」が言った通りやれば、いいんじゃないですか。(留学生)

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「名言との対話」10月20日。河上肇「人はパンのみに生きるものに非ず、されどまたパンなくして人は生きるものに非ず」

河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者 

美術人名辞典では「経済学者・社会思想家。山口県生。東大卒。ヨーロッパに留学中法学博士号を受け、帰国後京大教授となる。またマルクス主義の研究と紹介に努め、青年層に多大の影響を及ぼした。のち大山郁夫らと実践運動に入り新労農党を結成したが、理論的誤りを認め大山らと別れた。獄中生活の後、自叙伝等の執筆に専念した。昭和21年(1946)歿、68才」と人生を総括されているが、よく調べると河上肇の心の軌跡が滲んでいない感じがする。この人の人生こそ、波瀾万丈だった。

故郷の山口県岩国から上京し東京帝大に入学するが、東京における貧富の差にショックを受ける。足尾鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付し話題になる。帝大卒業後は経済学によって人々の幸福に貢献しようと考える。京都帝大教授時代に書いた『貧乏物語』がベストセラーになる。河上のマルクス主義解釈の批判を受けてそれを認める自己批判を行い発憤して『資本論』などの翻訳をすすめる。京都帝大を辞職し労働農民党の結成に参加するが、批判し決別。その後、共産党に入党。1933年に治安維持法違反で検挙され、獄中で転向を発表。出所後は『自叙伝』を執筆。終戦後、活動への復帰を予定したが体調不良のため果たせなかった。戒名は天心院精進日肇居士だった。日々の精進と名文家であった河上肇の人柄を彷彿とさせる。
1907年には沖縄における舌禍事件があった。河上は沖縄の独自性を発揮せよとの論陣を張ったが、日本本土との画一化を志向する当時の沖縄のリーダーたちには響かなかった。
人道主義的情熱が強く感激グセのあった河上肇の人生は傾倒と批判と自己批判の連続であり、紆余曲折とアップダウンがまことに激しいが、「貧乏」を無くそうという志は一貫していたことがうかがえる。その思想遍歴の支えは、宗教的真理を信じることと社会科学としてのマルクス主義であった。河上自身も「辿りつつふりかへりみれば山川を越えては越えてきつるものかな」という歌を詠んでいる。
『貧乏物語』では石川啄木の「働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手を見る」を引用し格差社会の改革を貧困側から描き、格差を解消すべきとした。冒頭の「人はパンのみに生きるものに非ず」は広く人口に膾炙したが、続く「されどまたパンなくして人は生きるものに非ず」との対であったことを忘れてはならない。人の世のこの真実を念頭に生きていかねばならない。

リレー講座:金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際政治と日本」

関厚夫『次代への名言--時代の変革者編』(藤原書店)を読了。

 司馬さんのあしあと:「坂の上の雲」「竜馬がゆく、の風景」

日本の品格:「武士道の系譜」「経営者列伝」「信長と秀吉」「晋作と松陰」

和華一如:「子、曰く」

著者は産経新聞の記者で、「名言」をテーマにしている人。

次代への名言 時代の変革者篇

 秋山好古「若いころはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである。」

正岡子規「人間のえらさに尺度がいくつもあるが、最小の報酬でもっとも多く働く人ほどえらいぞな。」

坂本竜馬「人間はなんのために生きちょるか知っちょるか? 事をなすためじゃ。」

西郷隆盛「イヤ生命(いのち)もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、と云った様な始末に困る人です。但し、あんな始末に困る人でならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓ひ合う訳には参りません。」

勝海舟「武士道は人道と云ふてさしつかへないよ。」

五代友厚「人と己の論、五十歩百歩なる時は、必ず、人の論を賞めて採用すべし。」

渋沢栄一孔子を称して偉大なる平凡人というても適当であろう。」

徳川家康「天下国家を治めるものは、孟子をよくよく味ふべし。」

王陽明「人間というものは、現実にぶつかって錬磨するという修行を経てはじめて、大きく前に進む。」

吉田松陰「吾れの得失、当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ

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「副学長日誌・志の風」171019

研究室で書類の大整理。やっとスッキリ!

 ラウンジ

・山本さん:T-Studio「名言との対話」。次回はセンテナリアン、日野原重明片岡球子に。

・高野課長と趙先生

 研究室

:知研の高橋茂人さん:パンフレットの更新。この週末に取り組むことにしようか。

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リレー講座:本日の講師は金美徳先生「朝鮮半島をめぐる国際政治と日本」

・核保有国:国連安保5ヶ国+インド・パキスタンイスラエル北朝鮮(?)

金正恩の5年間:金日成46年間にミサイル15発。金正日18年間に33発。金正恩5年間に81発。

拉致問題:2002年の小泉訪朝。2004年に5人帰国。日朝平壌宣言でグランドデザインを明確にした。その後13年間、動かない。

北朝鮮の主張:1.核兵器保有国と認めよ。2.朝鮮戦争終結を(米中北の休戦協定から米朝の平和条約を結べ。韓国の李承晩は拒否)

北朝鮮:164ヶ国と国交。米・日・韓・台のみ国交がない。

金正恩:33歳。母は大阪生まれ。7年間のスイス留学。6人兄弟の5番目。金日成軍事総合大学情報工学金日成軍事総合大学で砲兵指揮を専攻。三男。子供3人。妹は今回ナンバー4に。処刑140人。

脱北者:3万人。日本にも0200人。

・経済:GDP3.6兆円(和歌山県)。韓国の45分の一(2.2%)。一人14.6万円(年)。月1.2万円。韓国の22分の一(4.6%)。3.9%成長、6年連続プラス。貿易マイナス23%。50ヶ国5万人の海外労働者で2000億円。4大経済戦略(IT・観光・労働者輸出・資源開発)。

・理論的分析:悲観論(日本)。楽観論(北朝鮮)。南北経済共同体論(韓国)。館理論(米国・中国)。利害関係論(欧州・ロシア)。

地政学的分析:3層構造。民族問題(韓国と北朝鮮)。地域冷戦(米国・日本とロシア・中国)。国際冷戦(米国とロシア・中国)。

・モンゴル報告

・歴史的分析(朝鮮戦争史):国連軍は22ヶ国・100万人。北朝鮮は中ソを含め100万人。トルーマンスターリン毛沢東、李承晩、金日成。300万人が死亡(10%)。第二次世界大戦で日本は300万人が死亡(4%)。戦争孤児10万人。離散家族は1000万人。マッカーサー「中国への原爆使用を提案」、トルーマンは拒否し解任。

北朝鮮「核は国体そのもの」。リビアカダフィ(崩壊)。ウクライナ(ロシア侵攻)。イラン(トランプの破棄)。米の先制攻撃には中国は介入。

・韓国の核武装60%。日本にも核武装論。

・圧力強化による対話交渉:軍事圧力。米国の先制攻撃(韓国人100万人死亡)。北朝鮮の先制攻撃(ソウルと東京で210万人死亡。770万人の負傷者)。武力衝突による経済損失は100兆円。北は10兆円の支援を求め、日米間は1兆円。ペリープロセス(核放棄の見返りに北の体制を保証)で雪解け、ブッシュ政権で方針転換。6ヶ国協議にペリープロセス反映、2003年以降未開催。2017年4月プーチン再開を提。

金正恩との直接対話:核・ミサイル抛棄なら金正恩訪米を提案)

・仲介:スイス。9月にジュネーブ米朝の接触。スエーデンノルウェー

・中露主導の安保グランドデザイン(2017年7月):中断、交渉、武力不行使原則、一括妥結、安保体制、米朝国交正常化。

・日本の課題:圧力だけで良いのか。日朝平壌宣言をもう一度働かせ(一度受け入れている)。半島の統一となれば8000fu万人の大国が現出、脅威。被爆国として北東アジアの非核化に向けてのグランドデザインを書け。

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夜は、品川の大学院で院運営委員会に出席。

 

「名言との対話」10月19日。高橋荒太郎「私は機会があれば何度でも経営方針を話します。なぜなら経営方針というものは、一度聞いただけでは分からず、何回も何十回も聞いて分かるからです」

高橋荒太郎(1903年10月19日-20034月18日)。昭和時代の経営者。

小学校卒業後、商店で丁稚として働きながら神戸商業補習学校を卒業。朝日乾電池にはいり、常務。業務提携先の松下電器(現パナソニック)に途中入社し、専務、副社長をへて、会長。松下幸之助片腕として,フィリップス社との提携,経営管理体制の整備につとめた。

戦後にベンチャーから始まり、日本を代表する大企業となったリーダーには彼を支えるサブリーダーがいた。例えばソニーの創業者である井深大には盛田昭夫がいた。本田技研工業の創業者、本田宗一郎には藤沢武夫がいた。同じように松下幸之助には高橋荒太郎がいたのである。

高橋荒太郎が言うように、リーダーは、方針について常に同じ話を繰り返し語り続けねばならない。繰り返し聞きながら、少しづつ理解が増していく。その都度、腑に落ちる部分が違う。自分の仕事や社会の動きの中で、自分の組織と自身の立ち位置が明らかになり、次第に確固たる信念として固まってくる。逆境を迎えた時、その確信がよりどころとなるのだ。「松下電器の大番頭」と呼ばれた高橋荒太郎は「会社を訪問したらトイレを見る。トイレが汚かったら、取引はしない。」とも言う。そういった人柄に心酔する人は今も多い。

「知研フォーラム」338号--10月セミナーと11月セミナー

「知研フォーラム」338号が届く。

10月25日のセミナー「イタケ島便りに書いたこと」。講師は都築義一(生物学者)。19時から。渋谷区千駄木。会場 BVハウス(http://goo.gl/W35SPc

11月10日のセミナー「バグは本当に虫だった&知研関西30年の歴史」。水谷哲也(エムアイティス代表)。19時から。渋谷区千駄木。会場 BVハウス(http://goo.gl/W35SPc

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 以下、理事長メッセージ。

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人生百年時代を迎え撃つ「知の再武装」を!

            NPO法人知的生産の技術研究会

              理事長 久恒啓一

「知的生産の技術」研究会(知研)は、1969年に発刊された名著・梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)に触発されて、梅棹先生を顧問に東京オリンピックから数年を経た1970年に創設されました。そして二度目の東京オリンピックが開催される2020年には創立50周年を迎えます。

 この間、70年代から始まる高度成長と日本の最盛期の20年と、バブル崩壊後の失われた25年の間に市民に向けて開催したセミナーは、2017年現在で約800回を数えています。評論家、学者、マーケッター、探検家、ジャーナリスト、作家、ノンフィクション作家、編集者、都市プランナー、経営者、弁護士、発明家、ビジネスマン、コラムニスト、教育者、官僚、冒険家、、など各分野の第一線で活躍する人物たちの知的生産とその技術を、学んできました。その成果は多くの出版物となって、多数の市民を励ましてきました。

 超高齢化時代を迎えつつある現在の日本は、80歳以上は1000万人を越え、100歳を越える人も7万人を数えています。この異次元の高齢化は、2050年を迎える頃には80歳以上は1600万人、100歳以上は53万人と予測されています。

55歳から34年かけて世界最大の著作『近世日本国民史』100巻を書いた徳富蘇峰は「世に千載の世なく、人に百年の寿命なし」と言いましたが、今や私たちはまさに百年の寿命を手に入れようとしています。

 今から迎える「人生百年時代」を迎え撃つには、老若男女を問わず、個人個人がしっかりした人生観を磨きあげなければ人類が初めて手に入れるこの厖大な時間に対処できるものではありません。これからは、生涯をかけて研究するテーマがこれまで以上に必要になります。

 想像を絶する異次元の高齢社会の主役となる私たちには、改めて知の武装が必要な時代となりました。生涯学習、ライフワーク、志、、、、という言葉が今ほど切実になった時代はありません。

 人生百年を迎え撃つために、「知の再武装」をともに目指しましょう!

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「副学長日誌・志塾の風」171018

多摩キャンパス

-人事委員会:昇格案件(今後の抱負が大事。期待も。)採用経過報告(大学PRも添付しよう)。

-学部運営委員会:地域学生センターの件を議論し、学部としての方向を確認。

-松本先生:「声ラボ」(BS多摩)と。

-学長から電話:宮城大卒業者の情報共有。

 目黒(学園本部)

-2018年度教員採用内定者の理事長面談:キャリア担当とビジネスコミュニケーション担当。杉田学部長と。

-理事長:地域学生センターについての報告と今後の方向の確認。前へ。

-内定者と懇談:杉田学部長と二人で大学の現状と期待を語る。今後のスケジュールも。不安を解消してもらう。

 

「名言との対話」10月18日。アンリ・ベルグソン「生存するということは変化することであり、変化するということは経験を積むことであり、経験を積むということはかぎりなく己れ自身を創造していくことである」

アンリ・ベルグソン(1859年10月18日--1941年1月4日)。フランスの哲学者。

1927年にノーベル文学賞を受賞。20世紀半のフランスの知的世界の中心人物。

「どこまで行けるか、確かめる方法は唯一つ。すぐにでも出発して、歩き始めることだ」

「持続とは変化を続けることである。変化とは自己の中に「非自己」を取り込むことである」

すぐに始めること、経験を積むこと、それを続けること、そして変化を持続すること、それが自分を創造することだ。この哲学者の人間観には賛成だ。人間とは進化を重ねる者であり、自分自身を創造する者である。