磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』--ー「歴史をつくる歴史家」

磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)を読了。

 「あとがき」(『この国のかたち』と「あとがきの後」(「二十一世紀を生きる君たちへ」「洪庵のたいまつ」)は再読したい。また大阪の適塾も訪問することにしたい。山陽の『日本外史』と蘇峰の『近世日本国民史』も手にしたい。

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

国民作家・司馬遼太郎歴史小説家ではあるが、むしろ「歴史をつくる歴史家」と呼ぶ方が正しくその実像を現しているというのが磯田の見立てである。

磯田が「歴史をつくる歴史家」という最大限の評価をしているのは、南北朝の興亡史『太平記』の作者・小島法師武家の興亡史である『日本外史』22巻を著した頼山陽織田信長から始めて国民国家日本の成り立ちの歴史『近世日本国民史』100巻をものした徳富蘇峰、そして日本の歴史を書き換えた司馬遼太郎である。

司馬遼太郎は自身の軍隊経験をもとに、昭和前期に成立した軍事国家日本が、なぜ軍事力の暴走によって無謀な戦争で国を壊滅させたのかを明らかにしようとして『国盗り物語から始まる』戦国、幕末、明治の日本を描いた。

司馬史観によれば、大革命というものは、最初に思想家(吉田松陰)があらわれ非業の死を遂げ、戦略家(高杉晋作)の時代に入り、そして技術者(村田蔵六)の時代になり完成する。予言者、実行家、そして権力者(山県有朋)が順番にあらわれると同時に革命の腐敗が始まるのだ。

司馬遼太郎の明治国家観では、政治の薩摩、官僚の長州、自由民権の土佐、人材供給の佐賀、教育の会津、文化と技術の加賀、そういった多様な人材が明治政府に集合し、革命を成功させたということになる。江戸時代の遺産が明治に実ったのが明治維新である。明治の特色は格調の高いリアリズムの浸透であり、それは独創を生むリアリズム(秋山真之)と、不合理な精神主義のリアリズム(乃木希典)で構成されていた。

日露戦争で勝利をおさめた1905年から1945年の太平洋戦争の敗戦に至る40年間は鬼胎(鬼っ子)の時代である。その鬼胎の正体は輸入したドイツから輸入した参謀本部に付着していた「統帥権」だった。統帥権天皇が持つ海軍を指揮する権限であるが、陸軍参謀本部と海軍軍令部が運用した。この超法規的な統帥権が昭和になって化け物のように肥大化した。日本国の胎内にべつの国家ー統帥権日本ーができたのである。

司馬遼太郎が生涯をかけて書き続けた歴史小説の「あとがき」が、『この国のかたち』であると磯田は言う。その「あとがきの後」が、『二十一世紀に生きる君たちへ』であり、『洪庵のたいまつ』である。

歴史家である著者が、鳥瞰的に司馬遼太郎を論じたわかりやすい、そして納得感の高い本になっている。この本は2017年5月発行で12万部となっているが、さらに売れ続けるだろう。

 

「名言との対話」11月19日。ドラッカー「21世紀に重要視される唯一のスキルは、新しいものを学ぶスキルである。それ以外はすべて時間と共にすたれてゆく」

ピーター・ファーディナンドドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリアウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。マネジメントの発明者。

『断絶の時代』『イノベーションの条件』『プロフェッショナルの条件』『ネクスト・ソサイエティ』など、ドラッカーの名著の大半は60代以降の作品である。そういう意味ではドラッカーは遅咲きの人であったともいえる。

「いかなる事業にあろうとも、トップマネジメントたる者は、多くの時間を社外で過ごさなければならない。ノンカスタマを知ることは至難である。だが、外へ出ることだけが知識の幅を広げる唯一の道である。」

「効果的なリーダーシップの基礎とは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に定義し、確立することである。リーダーとは、目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する者である。

「貢献に焦点を合わせることによって、コミュニケーション、チームワーク、自己啓発、人材育成という、成果をあげるうえで必要な基本的な能力を身につけることができる。」

「未来を予知しようとすることは、夜中に田舎道をライトもつけずに走りながら、後ろの窓から外を見るようなものである。一番確実な未来予知の方法は、未来自体を作り出してしまうことである。」

「不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。自らの強みに集中すべきである」

「まず何よりも、変化を脅威ではなく機会としてとらえなければならない。」「我々は今いる人間をもって組織をマネジメントしなければならない。」「ビジネスには二つの機能しかない。マーケティングイノベーションである。」「成果をあげる人の共通点は、行わなければいけない事を、しっかり行っているというだけである。」「成果をあげる人の共通点は、行わなければいけない事を、しっかり行っているというだけである」「成功する人に共通しているのは、ひたすらひとつの事に集中しているという点である。」

千葉市美術館で「ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画」展をみた。絵画を見つめる目の確かさと、絵画の本質を見抜、それを彼の名著の中に出てくる胸に刺さるような的確な言葉で表現しており、メモを熱心にとってしまった。さすが、ドラッカーだと改めてこの知の巨人の存在感に感銘を受けた。書斎には常に日本画が飾ってあった。執筆に疲れた時、ドラッカーは日本の山水画の中に入り遊んだ。そして正気を取り戻したのである。「正気を取り戻し、世界への視野を正すために、私は日本画を見る」というドラッカーは、日本美術の愛好者であり、研究者であり、そして収集家であった。

ドラッカーは1909年に生まれて2005年に亡くなっている。1909年生まれの日本人には、松本清張太宰治中島敦大岡昇平埴谷雄高らがいる。太宰治はずいぶんと昔の人のように思えるし、1992年まで健筆をふるった松本清張よりも10年以上長くドラッカーは活躍しているから、同時代を生きた感覚もある。やはり生年よりも没年が大事なのだと思う。

 経営の神様、P・ドラッカーはカリスマ型のリーダー論ではなく、手段としてのリーダーシップを論じている。そのポイントは「責任と信頼」である。言動の一致、一貫性ある発言などをリーダーシップの条件としている。それを踏まえた上で、今ビジネス現場で求められているのは、ファシリテーターという感覚で問題解決にあたっていくリーダーであると思う。そのためには、時代の尾変化に敏感であること、新しいものに興味を持ち続けること、そして勉強し続けることが必要だ。自己を常に革新していこうとする気概を持つ人でなければ今後のリーダーはつとまらない。

3年ぶりの千歳会--JAL札幌空港支店で働いた仲間との同窓会

3年ぶりの千歳会--JAL札幌空港支店で働いた仲間との同窓会

女性17名、男性31名、夫婦3組6名。合計54名の参加。

20代の時の、上司、先輩、同僚、などと久しぶりに交歓。人は想い出に生きる。青春時代の同じ時空の空気を吸った強い共感が会場に満ちていた。当時の写真に見入る人たちの真剣なまなざしを見よ!

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終了後、二郎さんと鶴さんと話す。

 インターゼミに駆けつける。

学長講話時の資料のみ受け取る。

週刊エコノミスト「日本の株式市場は意図的に形成された相場。公的資金の投入がなければ1万2千円を割る。政治主導によってゆがめられた金融資本主義。原油価格は需給だけでなくマネーゲームに左右される。金融取引税など新しい政策科学屋ルールづくりが必要だ」

ドラッカーから学ぶもの「時代との緊張。境界人。脱イデオロギー

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 松井先生。杉本係長。

杉田学部長と情報交換をしながら帰宅。

 

「名言との対話」11月18日。古賀政男「一言も褒めることなく、またけなすことなくして、私の曲をふと口ずさんで下さる人々だけが私の心の支え」

古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト明治大学マンドリン倶楽部創設メンバー。

国民栄誉賞を受賞した古賀政男の歌は「古賀メロディー」と呼ばれ愛された。「丘を越えて」(藤山一郎・1931年)、「酒は涙か溜息か」(藤山一郎)、「影を慕いて」(藤山一郎・森進一)、「ああそれなのに」(美ち奴)、「人生の並木路」(ディ句・ミネ)、「人生劇場」(楠木繁夫・村田他英雄)、「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)、「娘船頭さん」(美空ひばり)、「芸者ワルツ」(神楽坂はん子)、「無法松の一生」(村田英雄)、「思い出さん今日は」(島倉千代子)、「東京五輪音頭」(南春夫)、「悲しい酒」(美空ひばり)、「浜昼顔」(五木ひろし)、、。

河口湖の古賀政男記念公園の中に古賀政男記念碑がある。古賀は昭和20年8月までここ河口湖で過ごした。名曲「誰か故郷を想わざる」が前線の兵士たちに熱狂的に愛誦されたことで、政府から日本の大衆文化を守るために疎開して欲しいとの要請を受けて、この地の別荘で8月15日の敗戦を迎えた。このとき古賀は慕う青年たちに「これからは新しい時代が来る。皆で古い時代の垢を洗い流し、新生日本に向かって第一歩を踏み出そう!」と語り、河口湖に飛び込み心身を清め、霊峰富士に向かって新たな誓いを立てた。この石碑の裏には古賀政男音楽記念財団の山本丈晴理事長の名前があった。この人は古賀の内弟子で、日本一の美人女優・山本富士子の夫だ。

作曲家は膨大な曲を作る。65歳で亡くなる中山晋平は3千曲。古賀政男5千曲。浜口庫之助5千曲。服部良一3千5百曲。73歳で亡くなる古賀政男は5千曲。 80歳で亡くなる古関裕而は5千曲。2、3日で1曲の計算だ。

東京代々木上原にある古賀政男音楽記念館は財団法人古賀政男音楽文化記念振興財団が運営をしている。三階建ての立派な建物だ。地下には音楽情報とカラオケ・ルームがあった。古賀は若いときはあらゆるジャンルの作曲を手がけている。「社歌・団体歌」では、大川市歌、キャノン音頭、公明選挙音頭、日本税関の歌というもの展示してある。「スポーツ・レジャーソング」では、スキーの唄。プロレスの唄、リングの王者、、、。校歌も多い。明大マンドリン倶楽部の歌、九州大学医学部第二外科教室歌、、、。「ご当地ソング」も多い。宮城県のところを見ると、鳴子おどりがあり、「鳴子恋しや こけし娘、、、」というのがあった。

「私は日本のようにメロディ豊かな国はないと思う。」「歌や音楽は、最高のそして総合的な文明評論である。」「戦争のときも平和のときも、私は一生懸命自分の心に背かないように作曲してきたつもりである。」「クラッシックはきびしい父の音楽であり、歌謡曲はやさしい母の音楽だと思う。」

歌曲のライトモチーフは、みな「時代」であるという古賀は、「人々の支持や共感とは、大衆が直感的に、その曲がその時代をどうとらえていたかということの最大公約数的な回答にほかならないと私は思う」とも語っている。美しいものに「驚く」という才能が時代を感じ取る。その時代を生きる庶民が自分の歌をふと口ずさむ、それは古賀メロディーが時代をつかまえたということであろう。流行歌は時代そのものである。

長い一日:学部「立志人物伝」。「トレンドウオッチャー」収録。事務局との定例会議。赤坂。品川の大学院「立志人物論」。

「副学長日誌・志塾の風」171117

5時起床:ブログで昨日を総括。授業準備。

9時:大学に出勤。授業準備。

10時:久米先生と懇談、打ち合わせ。

10時40分:「立志人物伝」の授業。本日のテーマは「怒濤の仕事量:女性編」。

12時半:T-Studioでの「トレンドウオッチャー」の収録:久米先生との対談。テーマは「音」。ポッドキャスト、アマゾンエコー。

13時:事務局との定例ミーティング:杉田学部長。宮地事務局長・水嶋教務課長・川手総務課長。

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15時半:赤坂の野田事務所で仙台の富田さんと合流。

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18時:品川の大学院に到着。春学期の「インサイトコミュニケーション」の授業評価であるVOICE結果(5.0)をもらう。教授会で示された数字(4.95)と違う。なぜか?

18時半-21時40分:「立志人物論」の5回目。テーマは「怒濤の仕事量」。1月の最後の授業は都内の人物記念館の訪問と食事会というフィールドワークに決定。どこにしようか?

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以下、翌日5時までにフェイスブックに書き込まれた受講生の感想。

 ・久恒先生、第五回の講義、ありがとうございました。まず、今回の講義のテーマであった、怒涛の仕事量。圧倒的な仕事量をこなすことにより、そこから先に質の高い仕事が見えてくるのではないかと思いました。特に今の私は仕事を選んでいる場合ではなく、まずは先人たちに学び、仕事量を増やし、その報酬として更なる仕事を得たいと思います。そして、自分の世界を作るためにも、手塚治虫の言葉にあるように、一流の人に触れ、一流の文化に触れることが大切だと学びました。

・久恒先生、今日の講義ありがとうございました。与謝野晶子さんは本当に素晴らしい人間であると思う。17年間いつも妊娠状態、子供13人を育てながら、自分の作品を完成した。この想像できない仕事量、一般人には決して完成できないだろう。与謝野晶子さんは本当に「一能一芸」を深く究め、自分の人生のエネルギー、持っている才能と仕事に対する愛を生かせる。また、手塚治虫の作品は、普通の漫画ではなく、哲学を包む。昔は医者として戦争体験があったので、今の時代の漫画を大きな区別があると思う。『ブラックジャック』という一つの漫画を進みたい。主人公は手塚治虫と同じ医者であり、世界各地戦争がある場所に行き、色々な物語が作って、漫画で現実に対する思考を表現する。(中国人)

・第5講ありがとうございました。今週の師に, 樋口一葉を選定。彼女は幼少期 裕福な家庭環境で育つも, やがて父の事業が倒産。父と兄の死後は大借金を背負い, 母と妹で貧しい生活の中, 肺結核のため24歳で他界。当時は女性作家が珍しかったであろう時代に, 逆境をバネにした短い人生の中に世代を超えて読み継がれる作品が幾つかある。「何をなすべきかを考え, その道をひたすら進んで行くだけ」という生き方から, 置かれた環境に左右されず本業に取組む熱意と強いパーソナリティを感じました。

・今日の授業のコメント:漫画家の手塚治虫石ノ森章太郎の比較をしました。手塚治虫は、社会の倫理を教える内容で読む人の人生観に強い影響を与える作品です。石ノ森章太郎の作品は、どちらかといえば笑をとる内容で、今のテレビのバライティー番組の内容に似ています。私は手塚治虫ファンなので手塚治虫の方が好きです。

・久恒先生、講義、ありがとうございました。今回、私は与謝野 晶子さんの「人は何事にせよ、自分に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」という言葉に大変に啓発されました。好きなことをやれば、必ずよくやれると思います。従って、自分にとって、何がやりたいことを明確するのが非常に重要です。その後で、あの方面に向けて、色々な専門知識を身につけます。これに基づいて、職業を選択すれば、良いと考えます。また、志村ふくみさんの映像について、感想を述べたいです。なぜ志村さんが優れた作品を作成できるというと、心から物への尊敬を持っているからだと思います。実は、染めだけではじゃなくて、マンガでも、何事にせよ、同じじゃないですか。心から従事することに尊敬の念を抱いて、本気の気持ちを注いだら、どんな難局でも、切り抜けると思います。(中国人)

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23時時過ぎに自宅に到着。入浴、就寝。

 

「名言との対話」。11月17日。井上ひさし「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ゆかいなことをまじめにかくこと」

井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。『吉里吉里人『ひょっこりひょうたん島。』

『青葉繁れる』は、著者の精神的故郷である仙台で少年時代に妄想ばかりしていた男の思想的半自叙伝を、すべての権威を相対化してしまうパロディ意識で描いた愉快な青春小説、と文庫の解説にある。ヒロインの若山ひろ子(第二女子高生)は、若き日の若尾文子だ。2007年の「新装版あとがきに代えて」には、この小説を書いた理由が記されていていた。敗戦後、日本には三種類の大人がいた。第一群「わたしたち大人はまちがっていた。そのまちがいを子どもたちの前で明らかにしながら、この国の未来を、彼らに託そう」。第二群「わたしたちにまちがいがあろうはずがない。、、しばらくひっそりと息をひそめて復権の機会を待とう」。第三群「今日の食べ物はあるのか」。仙台の第一高等学校の先生たちはほとんどが第一群にあった人々だった。昭和20年代の後半から第二群の大人たちが「復古調」というお囃子にあわせて息を吹き返し、学校を子どもたちを管理する施設に仕立て直した。第一群の人たちが子どもたちを懸命に後押ししていた時代があったことを文字にのこしておきたくて、この小説を書いたとある。確かに先生たちの描き方には愛情がこもっている。青春小説の不朽の名作、というだけではなかったのだ。

 神奈川近代文学館の井上ひさし展」。仙台文学館の初代館長を9年つとめて、2007年3月に退任している。この文学館はいい企画をするのでよく通ったものだ。企画展で資料を眺める中で、この人の母親が偉い人だったということを感じた。世の中で名を成している人は母親が偉かった人が多い。

 井上ひさしの遺した蔵書は22万冊にも及ぶ。それを生前から山形県川西町に1987年にできた「遅筆堂文庫」に寄付しており、そこでは1988年から2012まで生活者大学校が開かれ著名な人たちが講義をしている。

「仙台に来る映画をすべて観よう」「日に三本の映画を観て、一日に約10-20枚の原稿書き、、」が若き日の自分に課したデューティだった。

「書き抜き帳」を用意して、本でも新聞でもなんでも、是は大事だと思うことは書き抜いていく。出典とかページ数とかも書いておく。そんな手帳が1年に5-6冊。一種の「知的日録」。情報のポケットをひとつだけにする。中身を単純に時間順に並べる。井上ひさしの知的生産の技術である。妻であった西館牧子は「下調べの丁寧さ、字のきれいさ、それを越える陽気な顔と愛嬌かな、と井上さんは自分を分析していた。」「古本あさりと図書館での勉強ぶりは鬼気迫るものがあった。」風呂場でも本を読む習慣があり、そのため湯気が出ないようぬるい温度にして入る。」と観察している。

 西舘好子さんの書いた「井上ひさし協奏曲」を興味深く読んだ。この本のオビには「誰も知らない「井上ひさし」がここにある」と書いてある。都会と田舎、笑いと哀しみ、才能と狂気、妻と夫、出会いと別れ、生と死、、、。すべては表裏一体、あんなにもつらく、楽しかった25年間ともある。この本を読み終えて、このオビがすべてを語っていると感心した。好子さんは「「世の中に新しいことを」と言う井上さんは、もっとお古い日本の男だった」と結論付けている。

  井上ひさしは 「一番大事なことは、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書くということ」を自分に課していた。冒頭に掲げ言葉は井上ひさし文学の真骨頂だ。誰でも書けることを、誰にもわからない文章で書くことはやめることにしよう。

リレー講座:浜矩子「これからどうなるグローバル経済と日本」。

副学長日誌・171116

・こえラボの岡田社長来訪:ポッドキャスト配信の打ち合わせ

・杉田先生:学部運営委員会

・金先生:ディプロマポリシー

・小西先生:ディプロマポリシー

・黒瀬学生課長:多摩祭の総括。OB会の方向性。

・彩藤先生

・杉本係長:戦略会議

・高橋茂人さん来訪:知研の打ち合わせ。

・リレー講座の浜矩子先生と懇談

・本日のリレー講座:同志社大学の浜矩子先生「これからどうなるグローバル経済と日本--反グローバルの落とし穴」

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 ・グローバル時代とは何か:スケールの大きさと速い速度のグローバル化。格差と貧困。人に冷たい世の中。これに対し、フランスの極右ルペン党首「右も左もない。グローバルと愛国の対決だ」という国粋主義の危険な主張の登場。そうではなく、グローバリズムとどうつき合うかが重要だ。

・グローバル時代の本質1:誰も一人では生きていけない時代。3・11後の福島の部品メーカーの操業停止で世界中で自動車生産が止まった。支え合う共生の生態系ができている。本質2:誰も親分になれない時代。突出できない、、、。グローバル時代は仲良くやらざるを得ない時代だ。3つの落とし穴がある。

・1:引きこもり型落とし穴:トランプ大統領。2:拡張主義型落とし穴:安部首相。共通点は幼児性凶暴性(ヒステリー・大人の感性の欠如・反撃・被害妄想)と人のために泣くことができない(もらい泣きはない)。相違点:引きこもり型のトランプ大統領就任演説170120「アメリカ・ファースト」。拡張型の安部首相の170120の施政演説「世界の真中で輝く国造り」。誇大妄想。「ASEAN、オーストラリア、インドと環太平洋諸国」。大東亜共栄圏より広い。戦後レジームからの脱却とは戦前の大日本帝国への帰りだ。一見オープンにみえるのがやっかいだ。安部「TPPは経済的価値だけでなく、戦略的価値が重要」。これは21石版大東亜共栄圏という下心。

・人殺しの落とし穴:働き方改革は労働生産性の向上がテーマ。実行計画では「同一賃金」「長時間労働の是正」「柔軟で多様な働き方」を提示。労働法制で縛られないフリーランサーの勧めであり、労働者の権利は保全されない。一見よさげに聞こえるが、人を使い倒す、人殺しの落とし穴だ。気をつけよ!

 

18時: 荻窪の日本地域社会研究所での3木会:落合社長、岡田さん、哲学者、池淵さん、、。

 

「名言との対話」11月16日。石田退三「金ができたら設備の方へ回せ。人間で能率を上げてはいかん。機械で能率をあげよ」

石田 退三(いしだ たいぞう、旧姓澤田、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長会長。

石田退三は戦後のトヨタ自動車の立て直しを行った人物で、豊田英二とともにトヨタ中興の祖と呼ばれ、トヨタの無借金経営体質を築いた。

「とにかく、世の中を生きていくには、何か一つの業界で「ああ、あの男か」といわれるところまでのしておけば、一度や二度どんな失敗があっても、かならず再び起ち上れるものだ。」

 「トヨタを追撃するという姿勢でなく、いい品物をつくって出すという考えでないとトヨタを追撃できませんよ。」

豊田喜一郎が人員整理の責任を取り辞任した後に、1950年の大規模ストライキ中にトヨタ自動車工業社長となった。そのとき「誰もやり手がなければやってもいい。ただし、私に任せる以上は、はたからクチバシを入れるのは一切差し控えてもらいたい」と条件をつけた。

冒頭の言葉は、激しい労使交渉を経験した後に語った言葉である。能率を上げるのは機械だ、人ではない。石田退三の経営方針は人を大事にすることだった。無借金経営を実現したカネの使い方もそうだが、ヒトの使い方についても、温かい方針を貫いた経営者である。このような石田退三の精神が今日のトヨタ自動車の骨格をつくったのだ。

田町で「吉田敏夫さんをしのぶ会」。東京ステーションギャラリーでシャガール展。丸の内の日本興業倶楽部で坂村健先生の講演「オープンIOTの考え方と実践。IOTからIOSへ」。

9時半から人事委員会:専任教員選考。非常勤採用。

 12時から田町のJALシティで開催された「吉田敏夫さんをしのぶ会」に出席。

JAL広報部時代の先輩。100人弱の懐かしい面々が集った。吉田さんが幹事となった同窓会のような会となった。吉田さんの前後4年の人が大半で、私の同期は環と二人で最年少か。

吉田トシさんは個性豊かな豪傑。課長時代に社長に直言していた姿を思い出す。深く広く影響を与えた人物だった。偉い人だった。

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 奥様「60歳を過ぎてから体が悪くなってきた。心筋梗塞胃がん、最後は肺がん。俺は故郷で死ぬ、仙台に帰る。痛い、苦しい、グチも言わず見事だった。哲学者のように耐えていた。鳥が飛び立つようにサーと亡くなった。」。日記から「天命を受けて最善の努力。人間的な姿。天命と戦う。凡庸だけど反抗心。人生は山。」

羽根田「剛胆。磊落。気配り」

新町「砂漠のオアシス。三屋清左衛門残日禄から」

梶「彼には日航は器が小さかったか。日本一の広報マン」

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終了後は、環君とコーヒーを飲みながら歓談。

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夜のセミナーまで時間があったので、まず東京ステーションギャラリーで「シャガール展」をみる。

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 次に、丸善オアゾで本を3冊購入し、名物の早矢仕ライスを食べる。

手塚治虫書店あり。

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 19時:寺島文庫リレー講座は坂村健先生の「オープンIOTの考え方と実践。IOTからIOSへ」。坂村先生は東大退官の後、東洋大学情報連携学部長に就任。

東洋大学創始者井上円了(1858-1919年)。東大文学部哲学科一期生。哲学館。妖怪退治。社会不安を統計データで解消していく。哲学とは人生や世界観の根本原理を考えること。設計図。実用性。心の近代化が必要と説いた。哲学館事件で退任し生涯学習に転身。5400回の講演行脚。(井上円了記念館は一度訪問したが休みだったので再度訪れよう)

・日本は少子高齢化人工知能が迫ってくる。世界では小学校からプログラミングを教えている。プログラミングは簡単になってきた。開発環境。ネットでクラウドにつなぐ。設備も持つ必要はない。少しプログラミングを学べば凄いことができる。日本の法律はポジティブリスト型でありイノベーションが起こしにくい。ハンコ、印紙。紙も電子も。ETCも現金も。全部やろうとするからできない。アメリカはネガティブリスト型の法体系。書いていないことはやっていい。インターネットは自由に使える。

・中国:モバイルペイメント(アリペイ・Wechat)。スマホがお金・通貨。QRコード。乞食への恵みもQRコード。現金を持たない社会へ。mobike(シェアリング自転車)。どこで乗ってもどこで降りてもOK.QRコードの組み込み。1年500万台。世界中100都市。一日2500万回。道路の混雑状況のビッグデータを自治体に提供。クラウドですぐれたユー材にはインセンティブを与える仕組み。IOTはコンピュータを組み込んだ物のネットワーク。違反者は拒絶。途家(Tuija)はシェアハウスのマッチングサービス。利用者を遠隔監視。罰金の自動引き落とし。

・オープンなIOT:IOTという言葉に収斂してきた。インターネットでモノを繋ぐ。普及のカギはオープン性だ。APIの公開。クローズではダメ。「オープンIOT]。APIエコノミー。系列や業界を超えるVCMプラットフォーム。IOTからIOS(service)へ。

・坂村の開発したトロンは世界標準として全世界に展開。米国の学会に知的所有権を寄贈。ハヤブサ、H2ロケット、デジカメ、プリンター、FAX,楽器、クラウンのエンジンなどにもトロンが採用されている。

・AIはIOTにとって重要。大量データをAIで解析。ロボット化っも重要。強化す学習。プログラミングなしでトライさせて学習させる。並列学習ですべてのロボットが成功を共有する。ロボット同士の勝負を繰り返すとロボット自身が定石をつくる。脳のニューラルネットワーク

・新しい教育が必要だ:論理性の強化。AIと問題をつなぐプログラミングを少し学べばよい。基礎学力としてのプログラミング。文・芸・理融合。高い専門性とチーム連携力の高い人材。

東洋大学赤羽キャンパス(隈研吾坂村健):INIAD。mooks.電子図書館。オンドセンサー、鍵、、ペーパーレス、、、。連携(コラボレーション)。自分で考える力。多様性。社会人教育の必要性。プログラミングとコミュニケーションは1年生の必修。

 

「名言との対話」11月15日。歌川国芳「「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日1798年1月1日) - 文久元年3月5日[2]1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師

歌川国芳は、北斎、広重と同じ江戸後期を生きた浮世絵師。広重とは同年生まれ。日本橋染物屋に生まれ、10代で歌川豊国の弟子となったが、30代で人気絵師になるという遅咲きだった。

浮世絵専門の太田美術館で「破天荒の浮世絵師 歌川国芳」展を観た。国芳は63歳で亡くなるが、年譜を見ると48-52歳の間が最も仕事が活発だ。

2010年に府中美術館で開催された「歌川国芳--奇と笑いの木版画」展。7年経ってこちらの構えも違っているせいか、国芳の現代的なスタイルに感銘を受けた。歌川国芳は、豊国門下で、兄弟子は国貞(三代豊国)。41歳の頃、河鍋暁斎が7歳で入門している。国芳の画風を暁斎が展開したのだ。「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年も弟子であり、その画系は芳年年方清方深水という風に昭和期にまで続いている。

老中水野忠邦による天保の改革では、質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受けるが、国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。国芳を要注意人物と徹底的に幕府からマークされている。

武者絵の国芳」と言われたが、武者絵以外にも役者絵、美人画、名所絵など様々な作品を世に残している。西洋画に注目してその写実技法を取り入れ、リアリティの強い作品を生んだ。「相馬の古内裏」という作品に描かれている巨大なガイコツは「西洋の解剖学の書物を研究した成果」と言われている。ユーモアに富み、気骨のある、そして進取の気象に富んだ痛快な人物像が浮かんでくる。

今日の収穫:俵万智。奥本大三郎。瀬戸内寂聴。イエス。ペイパル・マフィア。福田恒存。坂村真民。

今日の収穫

俵万智:「短歌でも俳句でも小説でも音楽でもいいのですが、自分に合った表現手段を持っているのはなかなか良いものなんですよ」「別れ来し男たちとの人生の「もし」どれもよし我が「ラ・ラ・ランド

奥本大三郎『ファーブル昆虫記』訳全10巻20冊。ファーブルが約30年かけて書いた『昆虫記』を同じく30年かけて訳した書。

瀬戸内寂聴「人が生きるということは、命と同時にその人おみに授けられた才能の芽を心をこめて育て、大輪の花を咲かせることにつきると思います」

・イエス「汝らは地の塩なり。塩もし効力を失はは、何をもてか之に塩すべき。後は用なし、外にすてられて人に踏まるるのみ。汝らは世の光なり。山の上にある町は隠るることなし。また人は燈火をともして升の下におかず、燈台の上に置く。かくて燈火は家にあるす凡ての物を照らすなり。かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父を崇め為なり」(マタイ伝福音書

・イエス「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。己が生命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし」(ヨハネ福音書

・ペイパル・マフィア:イーロン・マスクはスペースXやテスラ・モーターズ。リード・ホフマンはリンクトイン。チャド・ハーリーとスティーブ・チェンはユーチューブ。ピーター・ティールは頭一つ抜け出して、メトセラ財団(不老不死)、シーステティング研究所(海上の独立国家建設)、トランプ支持によりホワイトハウスを乗っとった。

福田恒存「日常的でないものにぶつかったとき、即座に応用が利くということ、それが教養というもの」

坂村真民「ふかきを きわめ あさきに あそべ」

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「副学長日誌・志塾の風」171114

・秘書とスケジュール調整

・藤村さんと高野課長と面談:多摩大事務局長だった方。現在は野田事務所。

・杉本さん:戦略会議「研究」

 

「名言との対話」11月14日。力道山「男が人の上に立って成功するには、方法はたったひとつしかないぞ。それは過去に誰もやったことないことを、一生懸命やることだ」

力道山(りきどうざん / Rikidōzan、朝鮮語역도산(ヨットサン、Yeokdosan / Yŏktosan)、朝鮮文化語력도산(リョットサン、Ryeokdosan / Ryŏktosan)、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本プロレスラー

二所ノ関部屋に入門し25歳で関脇に昇進し、将来の横綱大関を嘱望されていたが翌年突如廃業する。29歳、プロレスに転向し日本プロレス協会を設立。シャープ兄弟との連戦は、テレビ放送の開始という追い風を受けて、一大ブームを巻き起こす。1963年のデストロイヤとの一戦は平均視聴率64%を記録した。力道山は伝家の宝刀「空手チョップ」で日本中を熱狂させた。

力道山の死後、プロレス界を背負ったジャイアント馬場アントニオ猪木力道山の弟子である。日本プロレス界の礎を築いた力道山の功績は大きい。

さがみ湖リゾートプレジャーフォレストさがみ湖ピクニックランド)は、実業家でもあった力道山が建設しようとしたゴルフ場の跡である。1963年、暴力団員から登山ナイフで刺され、それがきっかけとなって死去する。享年39。

性格は粗暴で、感情の起伏が激しく、常に問題を起こしていた。しかしルーテーズ、フレッド・ブラッシー、カール・ゴッチジェス・オルテガ、デストロイヤーらと名勝負を繰り広げ、子ども時代の私も熱狂した記憶が鮮明だ。

その力道山は、プロレスという「過去に誰もやったことのないことを、一生懸命」にやったのは間違いない。開拓者魂にあふれた人生であった。

橋本卓典『捨てられる銀行2 非産運用』

 橋本卓典『捨てられる銀行2 非産運用』(講談社現代新書)を読了。

捨てられる銀行2 非産運用 (講談社現代新書)

金融庁の動きに注目!

日本の家計金融資産は現在1700兆円にまで達している。一方で、1995年との比較では205年末でアメリカが3.11倍、イギリスが2.27倍であるのに対して、日本は1.47倍に過ぎない。この3年の200兆円の増加は株の押し上げ効果が大きい。このうち、900兆円は眠ったお金の現預金である。年1%の運用で9兆となりGDP(530兆円)は1.7%増加となる。

日本の投資信託の規模は160兆円に過ぎない。購入時の手数料は3.2%で、アメリカ0.59%、。信託報酬は日本1.5%、アメリカは0.28%であり、手数料負けになってしまう。しかも過去10年の平均収益率はマイナス0.11%だ。アメリカはプラス5.20%。これでは資産形成ではなく、資産搾取だったことになる。

年金積立管理運用独法(GPIF)は130兆円、郵貯近郷200兆円、かんぽ生命85兆円を合わせると政府関連の機関投資家の総額は425兆円に達する。

個人の資産運用こそが日本に残された成長産業であるとの考えから、金融庁は過去の失敗を反省し大改革中である。「資産運用のリターンが低い。手数料稼ぎを目的とした顧客不在の金融商品sale。手数料水準やリスクの所在がわかりにくい」、こういった課題の解決のたえに、金融機関には顧客本位の業務運営を行うよう指導が始まっている。

機関投資家の運用先は日本国債中心であったのを、株式、外国株、外国債券への配分を高めたことによって、株式市場の成長と資産運用の発展を期して、日本における資金の流れを変えてきている。そのインフラのもとに、金融機関や家計資産の運用力を高めていこうとしている。

富裕層はプライベートバンキングなどを利用している。金融資産1000万円以下はインターネットを活用している。問題は、中間層だ。ここをターゲットとしたサービスはほとんど存在していない。

金融庁は金融機関へは「手数料等の明確化」「わかりやすい情報提供」「顧客にふさわしいサービス提供」などの顧客本位への転換を促す7項目の方向(フィデユーシャリー・デューティ)を示している。これが踏み絵となっており、金融機関は選択を迫られている。こうやってみると、最近のみずほの1万9千人の人員削減などの動きは、この備えであろう。厖大な公的資金の運用改革の流れの中で、1700兆円に及ぶ個人資産の運用が日本に残された成長産業となっていることは間違いないようだ。

 

「名言との対話」。11月13日。細川忠興「家中の者どもは将棋の駒と思え」

細川 忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名

足利氏の支流・細川氏の出身で、足利義昭織田信長豊臣秀吉徳川家康と、時の有力者に仕えて戦国の世を生き抜き、肥後五十二万石の基礎を築く。

関ヶ原の論功行賞で丹後12万石から黒田豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増した。前領主は黒田長政である。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。その後中津城から完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。

正室明智光秀の娘・玉子で、細川ガラシャ夫人として知られている。 父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。

「天下の政治は、四角い重箱に丸い蓋をするようになさいませ」。2代将軍徳川秀忠に、天下の政治をどのようにすればよいか聞かれてこのように答えている。あまり細かいことを指摘するなという教えである。

父・細川幽斎はまれにみる才人であった。忠興は「齢八十にして、親父の云うことようやく心得たり」と述懐している。忠興は努力の人であった。

冒頭の「将棋の駒」は息子へ忠隆が部下の統制について尋ねたときの回答である。つまり飛車や角などは重役陣であり、金銀は中枢を担う管理職であり。桂馬や香車は戦闘現場で働く指揮官である。それぞれが大事な役割を果たす大事な部下だ。「しかし、一番大事にしなければいけないのは歩だ。歩を大事にしない王はやがて窮地に陥る」と最後に述べている。先にあげた徳川秀忠に対する答えと同様に、トップの心構えとして出色の教えである。