認定NPO法人アジア教育友好協会(AEFA)をバートル先生(多摩大国際交流センター長)と訪問。

九段の認定NPO法人アジア教育友好協会(AEFA)をバートル先生(多摩大国際交流センター長)と訪問。

アジアの山岳少数民族のための学校建設・日本の学校との国際交流がテーマのNPO法人。谷川洋理事長と田中コーディネーターと面談。

里山学校。孫を連れたツアー。現地NGO。600万。山岳民族。大いなる多摩学会。ボランティア。ベトナムラオスミャンマーカンボジア。、、、。。。

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神保町でひいきにしていた岩波書店の後にできた「神保町ブックセンター」。

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  店内。本に囲まれた静かな喫茶。いい場所になりそうだ。

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「名言との対話」5月22日。平岩外四「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格がない」

平岩 外四(ひらいわ がいし、1914年大正3年8月31日 - 2007年(平成19年)5月22日)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代日本経済団体連合会経団連)会長。

平岩は「Cool Head,Warm Heart」が好きな言葉だった東京電力「中興の祖」木川田一隆社長の「地獄のしごき」で徹底的に鍛えられた。「アレはどうなった」「うん、コレだ」という二人のアレコレ問答は今では東電の神話になっている。

社長就任時には師事していた安岡正篤から王陽明の「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わず、もって大事をなすべし」という言葉を書きつけた書をもらった。平岩は自宅に掲げて、毎朝この言葉に励まされながら出勤した。老電と揶揄されるほど高齢化していた役員人事も焦らず納得ずくで若返りを成し遂げている。この時の考え方は「大国を治むるは小鮮を煮るが若くす」という老子の言葉だった。

勝海舟の「事いまだ成らず小心翼々。事まさに成らんとす大胆不敵。事すでに成る油断大敵」という言葉も常に心にあった。

意外な感じもするのだが、遊べば遊ぶほど人間の幅が広がるという平岩は、野球・乗馬・テニス・麻雀・パチンコ・映画・古書店巡りなどを愛好していた。

関西電力の小林庄一郎が「地位が上がるにつれて資質に磨きがかかって大きくなった人」と語ったように日々成長を続けた人であった。

平岩外四自身の言葉をみてみよう。

「問題意識があるところに常に進歩がある」「経営は常に逆境との闘いです」「経営者は今こそ”志”を持ち、企業は理想を追求していかねばならない」「辞める時には相談してはいけません。自分で決めないとだめです」「地球・市場・人間という3つのキーワードを基本にして問題を解決する際には”共生”という考え方が大切だ」。

 1976年の東京電力社長就任に記者会見で座右の銘を尋ねられて答えた「タフでなければ、、」はアメリカのハードボイルド作家・レイモンド・チャンドラーの小説の中で私立探偵フィリップ・マーロウが吐いた言葉である。ビッグビジネスのトップの言葉としての意外性から話題になった。殺人的スケジュールをこなすタフさとお客様へのやさしい経営を志したのだ。平岩は組織運営について言ったのだが、人びとは個人の生き方についての言葉として共感の波が広がった。私もその一人だった。蔵書は3万冊に迫る財経随一の読書家であった平岩だからこそ選んだ名言である。

 

人間 平岩外四の魅力―「ビジネスの心」を説く平岩語録

 

井上ひさしをイサム・ノグチに急きょ変更。

来月刊行予定の本で、ミニトラブル。

「11/17井上ひさしさんですが。ウィキの情報が間違っているのでしょうか、誕生日は11/16のようです。差し替えますか?」というメールが編集者からきたので、急遽11月17日の分はイサム・ノグチに変えることにした。以下、その原稿を書いた。やはり、一冊の本を出すには関門が幾つもある。

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11月17日(誕生日編)。イサム・ノグチ「自然が最大の彫刻である」

サム・ノグチ(Isamu Noguchi、日本名:野口 勇、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス生まれの彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。

父親の野口米次郎は有名な英詩人、小説家、評論家、俳句研究者であった。母親のアメリカ人の作家で教師のレオニー・ギルモアについては、後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」とイサムは語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。ドウス昌代イサム・ノグチ 宿命の越境者』に感銘を受けた松井久子監督が7年の歳月をかけて完成させた作品だ。私はこの映画の中で神奈川県茅ヶ崎での生活、不登校となったイサム、そしてイサムの芸術的才能に気づきアメリカへ送り出す母親の愛情、、などを興味深く観た。

第二次世界大戦の勃発に伴い、在米日系人の強制収容が行われた際にはイサムは自らアリゾナ州日系人強制収容所に志願拘留された。しかし、アメリカ人との混血ということでアメリカ側のスパイとの噂が立ち日本人社会から冷遇されたため、収容所からの出所を希望するのだが、日本人であるとして出所はできなかった。イサム・ノグチは二つの祖国を持っており、その悲哀を経験している。

「彫刻は不完全でいい。完成させるのは遊ぶ子どもたちや、季節、自然である」「肝心なのは見る観点だ。どんな物をも、一個の古靴でさえも彫刻となるものはその見方と置き方なのである」

ノグチは多作な彫刻家であり、ユネスコの庭園(パリ、1958年)、チェース・マンハッタン銀行ビルの沈床園(1964年)、IBM本社庭園(1964年)、、イェール大学ベイニッケ(バイネギーレア)図書館の沈床園、、、など世界中を舞台にし、1987年にロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受勲している。日本でも、門(東京国立近代美術館、1962年)、オクテトラ、丸山(こどもの国の遊具、1966年)、万博記念公園の噴水(1970年)、つくばい(最高裁判所内、1974年)、天国(草月会館内、1977年)、土門拳記念館の庭園(1983年)、タイム・アンド・スペース(高松空港、1989年)、ブラック・スライド・マントラ(1992年)、モエレ沼公園(1988年 - 2005年)、イサム・ノグチ庭園美術館など膨大な仕事を残しており、1986年には日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞している。

イサム・ノグチは、1969年からは四国香川県の五剣山と屋島の間にあり庵治石の産地の牟礼町にアトリエと住居を構え、以降20年余りの間、ニューヨークとを往き来し制作に励んだ。1999年にできた「イサム・ノグチ庭園美術館」を訪ねたが予約制だったので入れず、外から見物したことがある。ノグチは「地球を彫刻した男」と呼ばれたのだが、自身は最大の彫刻は地球の自然であると語っている。ノグチの最大の師匠は大いなる自然であったのだろう。

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1年ぶりにホームコースである「相模湖カントリークラブ」で好天に恵まれて弟とプレー。スコア以外は最高だった。美しい風景の連続でストレスを発散できた。

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5月21日。藤山寛美「順番を待っているだけの人間には永久に順番が来ない」

藤山 寛美(ふじやま かんび、本名:稲垣 完治(いながき かんじ)、1929年6月15日 - 1990年5月21日)は、日本喜劇役者

新派の二枚目役者だった父・藤山秋美よりも役者としても人間としても寛大になれという意味で、寛美という芸名がついた。「あんまり下手やと、草葉の陰でお父さんが泣きはるで」と言いつのるのにたいして、「お母はん。どの辺の草むらで泣きはるの」と訊いたという逸話も寛美らしい。

 「遊ばん芸人は花が無うなる」というお茶屋を経営していた母親キミの教えを守り、金に糸目をつけず豪遊した。「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれ、戦後の上方を代表する遊び人として多くの逸話を残した。銀座のクラブのドアマンに車をチップとしてプレゼントしするなど湯水のように金を使いまくった。その結果は現在の価値で10億前後で破産でし、松竹をクビになる。

松竹新喜劇は寛美がいなくなると火が消えたようになり、寛美を呼び戻す。それから20年、244ヶ月連続無休公演という世界記録を樹立した。大阪、京都、名古屋、東京、地方巡業で、一ヶ月のうち25日は、昼3本、夜3本の公演、その他の日は稽古という猛烈な日々であった。公演の回数としては3万回を越えるという途方もない記録である。

1959年から寛美のアホ役の集大成ともいえる舞台『親バカ子バカ』のテレビ放送が始まり全国にファンをつくった。私はこの番組で家族と一緒に大いに笑ったものだ。ただ、家族との関係は悪く、寛美は自宅でダジャレをいうと、「何が面白いのん?」「しょうもない事言うてんとはよ食べ!」と冷たくあしらわれていたそうだ。

「わしはいいぞ。 せやけどな、お金を払って見に来てくれるお客さんに、そんな芸でええんか!」

寛美の楽屋には「芸」の一文字が掛けられていた。 辞世の言葉は「いい脚本はないか いい芝居がしたい」だった。

1951年に「桂春団治」では、寛美に与えれのは主役の渋谷天外に「ツケを払うとくなはれ!」というセリフだけだったのだが、アドリブで延々とアホ役を続け、人気が沸騰した。やはり、寛美はただ順番を待つ人ではなかった。与えれたチャンスで出番をもぎ取る。その姿勢を生涯貫き、ついに喜劇王となったのだ。順番を待つだけの人には永久に順番は来ない。至言である。

 

 

 

 

 

 

 

 

ルドン--秘密の花園。

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三菱第一美術館で「ルドン--秘密の花園」展を観た。

1840年フランスのボルドー生まれ。建築家になるための美術学校を失敗。建築から絵画に転向。文学への関心も高く、筆(絵画)とペン(文筆)のどちらの道に進むべきか悩んだこともあり、作品名や自伝的な文章には意を砕いた。そして人の目をくらまそうとする韜晦癖があったため、なかなか絵の真意がわかりにくいところがある。

20歳の頃に知り合った植物学者クラヴォーから文化的な洗礼を受けて知的好奇心は貪欲だった。クラヴォーから顕微鏡の世界を紹介された。ゴーガンとも交友があった。その影響もあったのか、樹木に対しては特別の関心を持っていた。「それは地下水があることを知らせる。それは生命の至上の努力なのだ」からだ。

ルドンの絵はディテールを重ねながら曖昧さを残し、鑑賞者の多様な解釈を誘う。「暗示的」という言葉がルドンにまとわりついている。同時代の風景画を画題とした印象派とは違い、ルドンは幻想の世界を描き続けた。孤高の画家である。

待望の長男の死の3年後に次男が誕生を機会に作風が変化し、50歳を過ぎて鮮やかな色彩を用いるようになった。花瓶にさした花を描いた一連のパステル画を描くようになり、最初の本格的な装飾画。「グラン・ブーケ(大きな花束)」は1901年にドムシー男爵の城館の壁面に設置された。1904年、65歳のときにナポレオンが定めたフラン最高の栄誉であるレジオンドヌール勲章をもらう。

日本では大正時代の画家がルドン蒐集している。特に京都画壇の日本画家が熱心だった。岡鹿之助(1898-1978)は晩年のルドンのアトリエを訪問している。

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「名言との対話」5月20日牧野剛「 曲がったキュウリ」

牧野 剛(まきの つよし、1945年9月24日 - 2016年5月20日)は、日本の評論家市民運動家。河合塾講師。

 名古屋大学文学部国史科では社会主義学生同盟マルクス主義戦線派して活動。職を得た河合塾では、成績の低い学生のためのベーシックコースや大検コースである「コスモ」などの創設を提案し実現させたアイデアマンであった。1984年大学共通一次試験国語現代文問題と同じ出典の文章を直前の河合塾全統模試で出題、「問題を的中させた」として一躍大学受験界の寵児となっている。

参議院愛知県選挙区再選挙愛知県知事選挙、名古屋市長選挙などに立候補する際は、立候補者に議論を持ちかけることが目的であると語っていてその通り落選。1988年に予定されていた名古屋オリンピックへの招致反対運動にも参加するなど、政治の誤りを正す運動や政治を行う者への直接的な議論を求めるなど、政治的な興味を持った活動をすることで知られていた。

河合文化教育研究所に作家の小田実、精神医学の木村敏、哲学の廣松渉、フランス18世紀研究の中川久定東洋史谷川道雄の4人の学者を同時に主任研究員として招いている。

1996年には、「日・中・韓の大学入試統一試験を社会的・文化的に比較分析する」という東アジア3国の入試を考えるプロジェクトを発案し、3国にわたる衛星シンポジウムを実現させた。広い視野で教育問題や入試問題を考えていた。

80年代に「予備校文化」というものが、それまでの公教育や大学の既成の制度の間隙を縫って世の中 にクローズアップされてきた時、先がけて河合塾で率先して創り上げ、広く予備校文化を文化たらしめようとした。

やりたいことをやり、全力疾走した充実の人生だった。最後の著者は『原点としての恵那の子ども時代』(あるむ、2016年)だった。

河合塾の名物講師であった牧野剛は「曲がったキュウリ」を合い言葉に、弱者の視点に立って権力の腐敗を衝く姿勢は、多くの学生に共感を呼んだ。現在の立憲民主党辻元清美は教え子である。曲がったキュウリは八百屋などで選別されてしまい、お店に並ばずに処分されてしまうことが多いが、まっすぐなキュウリと比べても味は変わらず、むしろ強いという意味である。それは弱者に向けての励ましの言葉である。牧野剛はまがったキュウリに未来を託そうとしたのだ。

 

 

 

 

         

インターゼミ(社会工学研究会)

インターゼミ(社会工学研究会)。

・新人の自己紹介

・バートル先生(国際交流)・金先生(アクティブラーニング)

・学長講話

薬師寺法相宗。仏教の5識、、。動物と人間。DNA1.04%の違い。機械と人間。2025年シンギュラリティ。認識(recoginaize。記憶・計算)と意識(consicous)。人間は木から落ちた猿。二足歩行。脳の発達(1.5キロ)。1.04%は言語とコミュニケーションに関する部分。人間の不合理・愛情。田舎の高齢は農業と宗教(神社・杜)。7.7万の寺院のうち2万は住職がいない。檀家がいない。廃寺へ。都市郊外型高齢化と宗教。新中間層の精神的支えは何か。ベッドタウン。日本人の拠り所は何か。ネットワーク。多摩の戦後人。中心概念なき人びと。ボウフラ的人生。思想・宗教・哲学。

・各班でのミーティング

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 杉田学部長の車で意見交換しながら帰宅。

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「名言との対話(平成命日編)」5月19日。中埜又左エ門「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」

七代目中野(中埜) 又左衛門(なかの またざえもん。本名は中埜政一。1922年11月28日-2002年5月19日)は、日本の経営者。半田市名誉市民。

中野(中埜) 又左衛門は、尾張国半田(現在の愛知県半田市)の醸造家で、ミツカングループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名である。初代は1804年(文化元年)中野又左衛門家を興した。200年以上を経て、現在のミツカンは売上高2486億円(2016年度)、従業員2900名の大企業となっている。

1952年、六代又左衛門の後を継ぎ長男の政一が中埜酢店の社長に就任する。30歳の政一が社長になってまっ先に手がけたのは、酢の全面びん詰めである。そための高額な機械の購入など資金が必要だった。戦後の農地解放などで、資産の大半を失っていた中埜酢店や中埜家には余裕はなく、融資を受けるために複数の銀行を奔走した。

 1954年にはオートメーションによるびん詰めがスタート。さらに1956年には卓上酢びんを開発する。徹底した生産の合理化を推し進めるとともに、東京工場、福岡工場、大阪工場、栃木工場を次々と新設していった。高度成長期には「100%醸造ミツカンだけ」、「この子には、まじりけのないものを与えたい!」のキャッチフレーズで純正食品キャンペーンを展開し、確かな品質と安全性を訴えた。さらに、食生活の変化をいち早く捉えて、味ぽんやドレッシング、中華調味料、おむすび山などの新製品を開発し、次々に世に送り出してヒットさせ、ミツカングループを今日の総合食品メーカーへと押し上げた。

1971年にはサンキストグロワース社との提携をスタート。1977年には「ナカノUSA」を設立。米国の食酢有力企業AICを買収して本格的なアメリカ進出をはたし、東部や中西部でも買収を進め、全米有数の食酢企業となった。七代目は1983年の年頭挨拶で「売り上げ1千億円達成」を唱え、その目標も1993年頃には達成している。創業から200年を超えたミツカンの歴史の先には、“世界”という地平が広がっている。

1960年の七代目の襲名にあたり又左衛門を又左エ門に改めると発表した。「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」という理由だった。歴史的な名前をそのまま受け継ぐのではなく「新しいミツカンを作り上げていく」という決意の表れだった。七代目は自らの名前を書くとき、見るときには、この決意を思い出していたであろう。初心を忘れないように自らを励ます仕掛けだったのだ。その心意気が七代目を「中興の祖」に押し上げたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

大学院の授業:テーマは「自民党憲法改正草案と現行日本国憲法」の比較図の作成・発表・議論。I can learn the very basic knowledge that all the global citizens need to know.

10時:橘川先生

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10時40分:学部の授業。

13時:事務局との定例ミーティング。

14時:杉田学部長と意見交換。

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品川キャンパス。

18時:大学院瀧川課長:研究開発機構評議員会の打ち合わせ

18時半。大学院の授業。テーマは「自民党憲法草案と現行日本国憲法」の比較図の作成。出席は16名。

図解作成中。

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発表と議論。

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 以下、出席者の感想から。

・ 図解により何をするか?比較なのか、プレゼン(説明)なのか、自分で理解するためなのか、その目的によっても図解の仕方が大きく変わるのがよく分かりました。図解する人が頭を使う分、周りの人は短時間で理解しやすくなり、最終的に全体の時間短縮につながるように思いました。ありがとうございました!

憲法という普段あまり深く意識しないものに対して興味を持てる講義であった。言葉の言い回しや表現の曖昧な部分、解釈の範囲が重要になるので、図を描くときについつい細かくなってしまう。そのために全体像が見えにくいという状況に陥ってしまう。個別の表現よりも何を変えたいのかというコンセプトとロジックを理解して大枠を掴み、実例の引用で代表する事例を示し、その根拠と問題点を示して図式化するというアプローチが必要だと感じた。今後行われる実際の憲法改正の議論に際してもいきなり個別の文面の是非を問うのではなく、改正したい意図と何処までの拡大解釈を狙っているのか、真の理由など含めて国民に真摯に説明する責任が政府にはあると考える。

・図解について、3回を受講してコツが掴めてきた何を捨てるか?描き直すことで整理されていく。日頃の問題意識がないと深い質問ができない。why思考がない図解は浅い。
・自分のテーマは憲法改正戦争放棄、安全保障)?メリカに国防を今後永久に頼るのか?完全自前に向けて舵を切っていくのか?バランスを取っていくのか?国民のほとんどが思考停止しているところ。教育によって骨抜きされている。ところでもある。 軍事 ・武器を持たない平和   軍事・武器を持つ平和でも自衛のための軍はある。「どういう日本国にしたいのか」からの憲法改正
・今日の授業は、憲法改正自民党草案について、文章の比較だけでなく、なぜそうなっているのか、その背景について考えることの重要性を学びました。この短い時間のなかで改正のポイントが分かり考えを深めることができ有意義な時間でした。私は天皇、について担当しましたが図解して比較し、なぜここを変えるのかフォーカスすることにより、背景をより鮮明に理解することができるような気がしました。それでもまだ先生の一言で気づかせていただく場面が多く、なぜを増やしていくことを意識したいと思いました。第9条がメディアでも多く取り上げられますが、一つ一つ議論されみていかないといけない、とても不安になりました。

憲法改正自民党草案について、私は地方自治を担当しました。条文比較をする時は、新旧対照表が分かりやすいかなと思い、項目別に整理してみました。今回は文章比較だけでなく、思想背景も比較してみました。皆さんのプレゼンを拝聴して、曖昧な条文を具体化する改正そのものは素晴らしいと思いますが、全般的に国家組織を上位概念とし、国民を下位概念にしようとしている意図を感じました。現行憲法は曖昧ながらもリベラル、自民党草案は具体的ながら保守的。上に立つ存在が国家運営を正しくコントロールできれば良いのですが、国家組織の個人への介入を強める印象を受けました。大日本帝国憲法治安維持法をうかがわせる要素が含まれていて、これが草案通りに施行されたらと思うと、不安になります。メディアが普段取り上げるのは第9条ばかりの印象ですが、他の項目もきちんと報じて我々がチェックして行く必要性を感じました。

憲法改正の中身を現行法案と自民の草案について、キーワードとなる項目や表現を図解にして比較することで、何が違うのか?ポイントがどこか明確になりました。私の課題は比較するものがない新しい草案だったため、関係図みたいでしたが、使用用途によって図解も描き方が変わるのだなと感じました。今日は話題の憲法についても知れて大変勉強になりました。
・私の担当は<戦争の放棄・安全保障>でした。現行憲法では、第2次世界大戦の日本の敗戦経験から、無条件で戦争を放棄する。放棄することが主でした。憲法改正自民党案は武力を用いた侵略戦争は全面的に行わない。ただし、国や国民を守るための自衛戦争国防軍を持って行うことができるというものです。しかし、現行憲法においての戦争の放棄を侵略戦争の解釈として、現在の実質的軍隊である自衛隊を現行憲法の中に認める案も出ている。いずれにしても、侵略戦争は行わない。自衛戦争は行うという方向性に進んでいる。以上今回の授業の感想です。自分自身の考えを整理するのに図解はとても有益だと感じました。これからも宜しくお願いします。
憲法改正自民党草案について、文章の比較だけでなくなぜそうなっているのか、その背景について考えることの重要性を学びました。この短い時間のなかで、草案のポイントを知ることができ考えを深めることができ有意義な時間でした。天皇の章の条文を担当。大きく3つの異なる点にフォーカスできました。象徴→元首、国事に関する行為のみ→のみ削除、限定されない 助言と承認→進言 目上の人に意見することいろんな考えがあると思いますが、政治力に利用されないか、不安を感じます。メディア情報に流され 9条に目が行きがちでしたが、一つ一つが議論され見ていかないと取り返しのつかないことになりそうな、なぜの背景を考える、意識していきたいと思います。
・「家族・新しい権利など」を、させて頂きました。イメージが出来て、書き始めると、仕組みが分かって、「いまいちピント来ない」、と感じていた条例も、色んなところに繋がりがあることが、分かりました。思い切って、手を動かす大切さを学びました。
・言葉足らずであることは、時々自分でも感じるので、意識して、気を付けていきたいと思います。

自民党草案と現行憲法を図解して比較。・図解により追加、削除、変更部分が明確になる ・長すぎないキーワードの抽出が重要 ・図解で考えることにより草案について疑問に感じる部分が出てくる地方自治、他の草案について ・草案は具体的になる一方、あらゆるものに規制がかかる印象もある ・改正の大きなイメージは「自由から規制」、「中央集権の強化」こういうものは、さらっと読み流しがちですが、図解し理解しながら考えることで、気になる部分が結構出てきました。

・今回は二つの対象を比較して図解にするという課題、そしてそこから見えてくるものは何かというもの。頭の柔らかさが大事になってくるワークで、非常に苦戦しました。慣れもあるかと思いますが、日々の生活の中で柔軟に図解表現するようなトレーニング方法はありますか?講義中のメモ、手帳へのメモ、それらもなるべく丸や矢印を使うように心掛けています。

・苦手な難しい分野も、図解しようとするメンタリティから、ポイントを抑えられるようになる。他のクラスメイトの整理の仕方、発表の仕方、議論に参加する態度などが勉強になりました。

以下、留学生。
・今日の講義のテーマが素晴らしいと実感しています、発表を聞く同時にいろんな分野の憲法上に関する情報と知識が勉強できます。皆様の図示方と発表は上手と実感しています、特に私と同じ権利と義務のテーマについて発表した方が文を細かく読んて、うまく図解して発表しました、彼女の発表をみて私は自分の不足を認識を取りました。外国人として日本の憲法と政治普段あまり深く意識をしなかった、そしてまだ日本語の読むことがうまくいかなかったので、今回の発表がめちゃくちゃ難しくなった、個別の表現よりも何を変えたいのかというコンセプトとロジックを理解しが必要だと思います。憲法は国家の最も高い法律の効力を持つ根本的な法律は、通常、1つの国家の社会制度、国家制度、国家機関、公民の基本的な権利と義務などを規定している。日本に生活する憲法を守って、勉強しなければならないと考えています。
・現行憲法自民党草案を比較しながら、図を描きました。やはり文書からポイントを指摘する能力がまだ不足です。その上、自分の頭の中で整体構造を形成することが難しいと思います。また、書いた図を通して、全体像をきちんと伝えられないです。これから、頑張ります。
・今回 私の担当は「司法・内閣」の文章です。日本の政党構成とかとベトナムのはけっこう違いので、私にとって、なかなか難しいと思います。しかし、先生に頂いた文章を読んで、レジュメをして、発表してから、内閣の構成や内閣の職務などを理解できると思います。詳しく分かるように、自分で調べたいと思っています。次回も頑張ります。

・First, I want to thank to professor Hisatsune for today’s topic that I am really excited to learn.The mass media speaks quiet a lot about the changing of the Japan Constitution. And I really want to figure out what is the changing; what is the matter if it would be changed; how it would effect the other countries if it would be changed.Today’s task helped me to have a look into the detail of the changing of the Constitution.In this business school, I can learn many skills for business in the other classes. Only in the class like the class of “Insight communication”, I can learn the very basic knowledge that all the global citizens need to know.

憲法前文と自民党案は、さまざまな差があるの中で天皇を日本 の元首とするし、戦争は再度に起こらないことが抜けているのである。即ち総理大臣の権限は最も強くになっているのである。個人的な観点は現行憲法自民党案が最も組み合わせになったのが良いと思う。

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「名言との対話」5月18日。伊藤ユミ「追いかけて追いかけて すがりつきたいの あの人が消えてゆく 雨の曲がり角」

伊藤 ユミ(いとう ユミ、1941年4月1日 - 2016年5月18日)は、日本歌手で、ザ・ピーナッツメンバーである。ザ・ピーナッツ伊藤エミは姉。

ほくろのある方が姉の伊藤エミで、ない方が妹の伊藤ユミだ。沢田研二と結婚し、後に離婚した姉エミも2012年6月、がんのため71歳で亡くなっている。

二人は10歳の頃、NHK名古屋放送局唱歌隊に姉のエミと共に所属し、ペアで歌うようになる。その後、名古屋市内のレストラン伊藤シスターズとして歌っていた所を渡辺プロダクションの社長、渡邊晋スカウトされ、1959年2月11日ザ・ピーナッツとして歌手デビューする。ヒット曲を連発させ、国民的人気を博して昭和の歌謡史に大きな足跡を残した。

テレビ創生期だった61年、日本テレビ系の音楽バラエティー番組「シャボン玉ホリデー」の司会に起用された。またフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢された。この二つの番組はよく見た記憶がある。発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上。ユミは引退後はファッションデザイナーになった。

冒頭に掲げた「追いかけて追いかけてすがりつきたいの.あの人が消えてゆく雨の曲がり角」で始まる『恋のフーガ』(作詞:なかにし礼。作曲:すぎやまこういち)、そして「哀しいことも ないのになぜか 涙がにじむ」で始まる『ウナ・セラ・ディ東京『(作詞:岩谷時子。作曲:宮川泰)、「京都 大原 三千院 恋に破れた女がひとり」で始まる『女ひとり』(作詞・永六輔。作曲:いずみたく)など、今でもかわいらしい姿と高い歌唱力と魅力的なハーモニーが甦ってくる。歌は人びとの人生に影響を与える。亡くなって気づくことが多いのだが、歌手という存在は偉大である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多摩キャンパスで仕事。夕刻から代々木、荻窪。

多摩キャンパス

・佐保君:ZOOMの研究。

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・松本先生:昭島の企業サミット。大いなる多摩学会。谷川洋。アジア子ども未来研。渡辺さんとの懇談。出版会日程。、、、、。

・高野課長:薬師寺

・増田先生:近況

・高橋さん:知研の打ち合わせ

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代々木:知研のミーティング。高橋副理事長、福島事務局長と。以下、概要。

・セミナー案:6月落合。7月久恒。9月佐谷恭。10月水盛。11月高津玉枝。12月忘年会。3000円。1万円。

・毎回のセミナーの前に幹事会(本部理事と幹事:小野・根岸・池淵・猪俣)。

・事務局引き継ぎ:会員管理、郵便、、、。八木会長との詳細引き継ぎ。

・知研フォーラム編集体制:編集委員長。地域ごとに編集委員を指名。ウェブ中心。

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荻窪の地研:落合社長。高橋さん。

・新著:6月中に出来上がる「偉人の誕生日366名言集」の校正。編集の大泉さんからの質問に答えながら終了。TRCから120部の注文あり。

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・6月22日のセミナー:講師は落合社長。テーマは「本を出しませんか?」。

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「名言との対話(平成命日編)」5月17日。古岡秀人「戦後の復興は教育をおいてほかにない」

 古岡 秀人(ふるおか ひでと、1908年12月15日 - 1994年5月17日)は編集者、出版事業家。

 筑豊炭田の監督の息子として生まれ、5歳の時に坑内事故で父を失い、母子家庭で苦労して育つ。1928年小倉師範学校(現福岡教育大学)を卒業し、小学校教師を務める。1935年小学館へ入社し、相賀武夫のもとで働き、『小学三年生』編集部で頭角をあらわす。

1946年1月1日学習研究社を創業。小学館の学習雑誌の成功を見習って「五年・六年の学習」を創刊し成功を収める。1982年二部上場1984年一部に指定変更。社員数が2000名を突破してからも、合計80誌に及ぶ雑誌やあらゆる単行本の企画に関わりつづけ、大プロデューサーと呼ばれた。

 一方で古岡秀人は、父を亡くした自らの苦労に鑑み、1980年に私財10億円に基づき財団法人古岡奨学会設立し、父を亡くした子供に援助の手をさしのべている。

古岡秀人は、戦後の復興の中心テーマは「教育」だと考えて教育事業に邁進し成功する。私の中学・高校時代は、学研の学年毎の「コース」とと旺文社の「時代」がライバルであった。私は学研派であり、毎月の配本を楽しみにしていたから、古岡のおかげで勉強に興味を持ったともいえる。

古岡は学研の社員には早くから「高齢化時代に社会貢献できることを用意しておきなさい」と語っていた。現在の学研ホールディングスは、「​教育」を基軸に多岐にわたる出版事業、塾事業、教材・教具の制作・販売、保育園の運営に加え、創業者の言葉通りに高齢者住宅、介護サービス等、医療福祉分野にも事業を展開している大企業となっている。今日の学研の隆盛は古岡秀人の時代を見る「目」が冴えていたことを証明している。時代をどう見るかが事業の成否を決める。

 

 

 

 

 

品川の多摩大大学院で「アジア子ども未来研究会」の初会合。アジアと子どもに未来がある。

 

 

 13時から、品川の多摩大大学院で「アジア子ども未来研究会」の初会合。対象は商社、メーカーなどのアジア担当者。ノンフィクションの児玉博(大分出身)さんとも挨拶。

・主催者挨拶:橘川幸夫(デジタルメディア研究所)「DOという主婦マーケッティングのシステム。まずアジアに生活者ネットワークをつくろう。日本語のeラーニング。商品開発につなげよう」

・上昌広(NPO法人医療ガナバンス研究所理事長)

・宮澤保夫(星槎グループ代表。公益財団法人世界こども財団理事長)

藤原和博さん(JAL時代に一緒に遊んでいた人。教育実践家):「日本と同じ3万校へ」。

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講演:谷川洋(認定NPO法人AEFAアジア教育有功協会理事長)

アジアに学校建設。商社マンを辞めた60歳から75歳までの15年間で272校建設。保健衛生が大事。現場主義。井戸とトイレ。水。姉妹校。500-700万。孫を連れて行かないか。大学生の参加も。熟年者ボランティアが足りない。ホストファミリーにならないか。よろい兜を捨ててみないか。住民参加と国際交流。日本の子どもたちに志を持たせたい。

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谷川さんから著書を頂いて読了。事務所は九段にあるから訪ねてみよう。

奔走老人

 

留学生トークセッション「アジアの若者たちの本音を聞く」。ファシリテーター:近藤純夫(子ども調査研究所主任研究員)。スリランカ、ネパール、バングラシュ、フィリピン、ベトナムの留学生へのインタビュー。

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日本の印象「きれい。天国のよう。安心。おしん。仕事第一。子どもを持つのが面倒という空気。子どもは自立している。日本で就職。食べ物が好き。アニメとマンガ。ドラエモン。ワンピース。時間を守る。マナーを守る。安全。協調性。、、、」

 

挨拶。

・ (株)ドゥハウス代表取締役高栖祐介「金だけの支援でなく。定性マーケティング

・顧問林光「マーケティング

・顧問久恒啓一「アジアダイナミズム。多摩大の社会人大学院のPR」

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 午前、三菱一号館美術館「ルドン--秘密の花園」展を訪問。

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 「名言との対話」5月16日。邱永漢「人生とは、「お金」という煉瓦を「時間」というセメントで積み上げていく作業工程」

邱 永漢(きゅう えいかん、1924年3月28日 - 2012年5月16日)は、日本および台湾実業家作家経済評論家経営コンサルタント

日本統治下の台湾生まれ。父は台湾人、母は日本人。李鄧輝は台北高校の同級生。東京帝大経済学部卒。1955年『香港』で直木賞を受賞。食通・美食家としても有名。

お金儲けの神様と呼ばれた。日本ではドライクリーニング業・砂利採取業・ビル経営・毛生え薬の販売。ビジネスホテル経営の元祖でもある。台湾などではコーヒー栽培事業のほか、建設機械販売、高級アパートメント経営、パン製造販売、レストラン経営、漢方化粧品・漢方サプリメント販売、人材派遣業などの事業を営んだ。

膨大な著書から、人生のアドバイスの部分を以下にピックアップ。職住接近のすすめ。寝食を忘れる仕事に就く。お金と時間のバランス。多忙な人は忙しいとは言わない。時間の使い方は必要に迫られて覚える。自分に実行できないことは話さない。講演があると途中で執筆ができる。仕事を覚えるなら大企業には勤めるな。新しい成長産業に賭けよ。隠退時期をまず決めよ。安楽死の時代がくる。芝居と人生は退屈しないうちに終わらせるに限る。69歳で250冊の著書。年200回の講演。お金の悩みは万人。根っこから引き抜いてマンネリの人生から抜けだす。名所旧跡より市場。時間は足りないぐらいがちょうどよい。死ぬまでにお金をきれい使ってしまう。志半ばで倒れる野が理想。年寄りとはつき合わない。鏡の中の自分を信じない。中金持ちで十分。お金は使って完成。お金を貯めようと思うなら天職を見つける方が先。貯蓄十両、儲け百両、見切り千両、無欲万両。

最近では中国広州に出張した時に、『食は広州にあり』を読み、広州美人を娶り、白亜の洋館に在り、自ら包丁を手にする邱永漢の美食に関する薀蓄を堪能した。「解説」では丸谷才一が食べ物に関する傑作を4冊挙げている。その中の一冊だ。他は、木下謙次郎「美味求真」。吉田健一「舌鼓ところどころ」「私の食物誌」。檀一雄「漂流クッキング」。

お金や株に関する著書が多く、文壇からは異端視されたが、人気は高かった。私も若い頃には読んで参考にしていた。邱 永漢は文筆業に志があったのだが、人から相談を受けて事業や資金運用についてアドバイスをしているうちに、自分で実験した方が早いと考え、好奇心と冒険心を発揮して様々な事業に手を染めた。お金の悩みはあらゆる職業、あらゆる年齢の人にまたがっている。悩みは秘密と重なっているから自然に天下の情勢に通ずるようになったという。充実した人生の鍵は、お金と時間の相関にある。

 私は77歳で死にたい?逆算の人生計画? (光文社知恵の森文庫)食は広州に在り (中公文庫)野心家の時間割―人生の勝者となるために (PHP文庫 キ 1-4)