NPO法人知的生産の技術研究会:知研宮島の設立総会・講演会。

NPO法人知的生産の技術研究会。7月1日に知研宮島の設立総会。私は記念講演を行うことになっている。。広島、愛媛、、、。
 

 

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「副学長日誌・志塾の風」180514

12日の東京新聞の「遅咲き」特集。同僚や友人から「読んだ」との声が入り始める。東京新聞の読者も多いようだ。

担当の山本さんとT-Studioの「名言との対話」シリーズの相談。女性教員と客員教授

・中村その子先生「あわてず、さわがず、、、」

・梅澤先生「しなやかに」

・石川先生「?」

・渡辺さん:パンフ

・杉田学部長:情報交換

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「名言との対話」5月14日。鈴木俊一「節目節目に古井さんという人がいろいろな形で登場するんです」

鈴木 俊一(すずき しゅんいち、1910年明治43年)11月6日 - 2010年(平成22年)5月14日)は、日本政治家内務自治官僚。第9 - 12代東京都知事。

1933年(昭和8年)の内務省入省以来、国家公務員26年、東京都公務員24年、準公務員12年、計62年を地方行政に関係する仕事に一貫して従事し、東京都知事を4期16年つとめた。生涯現役で「官」の世界を生き抜いてきた人物である。

大学入学時から、内務省に入り知事になるか、外務省で外交官になるかを考えた末に3番で内務省に入る。強大な権限を持っていた総合行政官庁である内務省はGHQによって解体されるのだが、鈴木は最後の人事課長だった。

1979年に都知事に就任したときには、一般会計200億円、公営企業1500億円、計3500億円の赤字を背負っていた。処方箋をつくり、実現し、財政再建を果たしていく。内部改革では、職員定数のカット、退職手当の削減、管理職ポストの削減、特殊勤務手当を削除シルバーパスの制限、敬老金の改定、機構改革。、、、。

そして、私立高校への助成。環状線の建設。地下鉄12号線。多摩都市モノレール。都庁。都立大。国際フォーラム。東京武道館。葛西臨海水族館。江戸博。多摩中央卸売市場。姉妹都市。新宿副都心。東京オリンピック地震対策。都民住宅。ゴミのリサイクル。架橋。圏央道臨海副都心。首都高。営団地下鉄。メトロポリタンテレビ(MXテレビ)。羽田空港沖合展開。大阪万博。。、、、、。

都知事引退は1995年であるから、1959年から1967年まで8年間の副知事時代を含め24年にわたって首都東京の内外の整備に邁進している。出身が今の北多摩の昭島市であり、三多摩格差の解消にも力を入れていた。まさに地方行政の生き字引だった。

鈴木はまっとうな官僚であり、大向こうをうならせるような言葉は吐かないが、粕谷一稀が企画し御厨貴のオーラルインタビューで仕上がった475ページの大著『官を生きる 鈴木俊一回顧録(都市出版)』では、いくつか面白いことを言っている。

 「終戦といってごまかしているけど、とにかく戦争で負けたことははっきりしている」と笑いながら語っている。敗戦ではなく終戦という言葉はやはりごまかしだったようだ。

小選挙区制というのは政党構成が二大政党あるいは数個の大政党になっているという現実がないとなれない」。1955年の五十五年体制がそれであった。野党の分裂という現在の政治状況は小選挙区制にはふさわしくないということだろう。

「大蔵省は金、内務省は人」。内務省は地方行政の核となるゼネラリストを育てる風土があった。護民官という言葉があるように、地方は人が行政をやるところなのだ。

防災については、他のところで「市民が自分たちの安全を自分で守るのも当然のことである。公的機関が登場するのは、個人の守備範囲を超えたときのみで、災害当初、市民は「公は何もしてくれない」と思うぐらいの覚悟が必要だ」との見解を示している。

 

都知事4選の選挙では真向法で柔らかい体を見せて驚かされたことが記憶にある。鈴木俊一は2010年に99歳で死去。わずかに数ヶ月100歳に届かなかった。この人の立派な経歴の中でも古井喜実という若い時の上司がたびたび登場する。これほどの人でも大きな転機には必ずこの先輩に相談している。やはり、人には仰ぎ見る「師匠」が必要のようである。

官を生きる―鈴木俊一回顧録

 

 

VRのゴーグルでホラーを観賞

ラウンジで彩藤先生から、バーチャルリアリティ(VR)のゴーグルでホラーをみさせてもらう。立体映像とステレオ音声で楽しなんだ。機器は案外安い。

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・酒井先生(非常勤)

・大澤先生(非常勤):今年の授業の様子。本務校。

・後藤先生:学修サービス

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 「名言との対話(平成命日編)」5月15日。高坂正堯「古典を読んでわからなければ自分をアホだと思いなさい。新著を読んでわからなければ、著者をアホだと思いなさい」

高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年昭和9年)5月8日 - 1996年平成8年)5月15日)は日本国際政治学者

「近代の超克」を唱えた哲学者高坂正顕の次男。師事した猪木正道は高坂の没後に、「高坂は僕が教えた中では、ピカイチの天才だった」と回想している。高坂の弟子には中西輝政、出口治明などがおり、多くの研究者を育成した。「阪神戦の為に休講」にするほど熱烈な阪神ファンだった。また升田公幸三を二番続けて破ったほどの囲碁の打ち手でもあった。

論壇にデビューした当時は坂本義和らの「非武装中立」が注目を集めていたが、高坂はその道義的な価値を認めつつ実現可能性の難しさを指摘、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張した。この論敵との論争をしたが、坂本の書の書評では「私は敬意と共に異論を称えたい」という言葉で結ぶなど最後まで礼を失わなかった、という高坂を見い出した粕谷一稀の証言がある。

歴史を基礎的教養とし、その上に政治的事件の連続としての政治史を構築していった 高坂の視点は進歩史観ではなく、現実の社会や歴史は成熟してゆくが、やがて変質し崩壊してゆくものであるという古典的なペシミズム、保守主義に貫かれていた。英国史を趣味としていた高坂にとって大事なことは歴史への考察であり、構想であった。

高坂の『現実主義者の平和論』『古典外交の成熟と崩壊』『文明が衰亡するとき』『宰相吉田茂』『海洋国家日本の構想』などから 、今日の日本にも当てはまる言葉を、以下に拾う。

・善玉・悪玉的な考え方は、われわれ人間が行動力には勤勉でも、知的には怠惰な存在であることに原因している。

・第二党とは明日にでも実現できることを語る政党であり、異端とは、いつ実現できるか判らない理想を語る人々である。ともにその独自の使命を持っているが、その機能は全然異なるものである。

・今後ナショナリズムに精神的な価値を与えないことこそ、われわれのもっとも必要とすることなのである。いったんナショナリズムを崇高化すれば、それは絶対のものとなり、それ自身が目的となり、したがって妥協不可能なものとなってしまう。

日本の外交は、たんに安全保障の獲得を目指すだけでなく、日本の価値を実現するような方法で、安全保障を獲得しなければならないのである。

 コメンテーターとしてテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」にも出演したり、「朝まで生テレビ」の初期にもパネリストとして出演している。世界まるごとHOWマッチ毎日放送制作・TBS系列)のゲスト解答者でもあった。私は高坂のひょうひょうとした風貌と京都弁の柔らかい言動は主としてテレビを通じてしか知らなかった。今となっては恥ずかしい思いがする。

29歳で「現実主義者の平和論」でデビューした高坂正堯は「私は下賀茂に住まう京都人として死にたい」とつぶやき、若くして惜しまれながら世を去った。

この文章を書きながらもはや古典となった感のある高坂正堯の書を含め、やはり古典に親しむべきであるとの想いを強くした。

忘れえぬ人びと (第1巻) (粕谷一希随想集(全3巻))

 

NPO法人知的生産の技術研究会:「知研東北」の設立総会・記念講演。

 NPO法人知的生産の技術研究会。「知研東北」の設立総会・記念講演。f:id:k-hisatune:20180514062123j:image

 

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「名言との対話(平成命日編)」5月13日。瀬戸雄三「リーダーは不満や行動ができない理由などを引き出して負担を取り除かねばならない」

瀬戸 雄三 (せと ゆうぞう、1930年2月25日 - 2013年5月13日) は日本の実業家

絶頂期に入社し30年続く転落で「夕日ビール」と揶揄されたアサヒビールの社長としてスーパードライを無敵の商品に育て上げた人である。1992年に社長になって「キレとコク」のスーパードライに「鮮度」を加える。社内の軋轢を乗り越えて製造後20日以内の出荷を10日を宣言し、その後も手を緩めることなく5日にするという目標を達成している。製造から物流にまで徹底的に改革したのだ。97年にはスーパードライはついにナンバーワンになった。私もこのうまいスーパードライのファンになった。現在では3日以内となっているそうだ

日経新聞私の履歴書」が元となった自伝『月給取りになったらアカン』(日経)を読んで、たたき上げの営業マンのファイトあふれる、足が地に着いたリーダー論に共感した。

・よい人材をいかにやる気にさせるかがリーダーの役目である。

・リーダーは演出家である。

・社長業は駅伝と同じだ。必死で走り、順位を上げて、バトンを渡す。

・リーダーは、目標を達成するために組織の先頭に立って一番つらい仕事をする。

・リーダーは情報の坩堝(るつぼ)でないといけない。

・経営者は、明快な方針をわかりやすい言葉で組織に示し、組織をダイナミックに動かしていくことが重要だ。

波瀾万丈での企業人生を送り、「変化と挑戦」を続けた瀬戸雄三のリーダー論の中で、私は不満や理由を取り除き現場の負担を解消するという考えに共鳴する。公式な報告だけでなく、現場の本音の「生」の情報に接して、情報の坩堝となって問題のありかをとらえるべきだ。スーパードライと同様に問題の「鮮度」に敏感に反応し、明快な解決策を講じ、すぐさま実行していく。そのサイクルをまわす役目が目指すべきリーダー像であろう。

月給取りになったらアカン―私の履歴書

 

 

 

 

 

本日の東京新聞・中日新聞の「遅咲きの人 伊能忠敬的生き方」特集にインタビュー記事。

本日12日の東京新聞中日新聞の4面「考える広場」は「遅咲きの人 伊能忠敬的生き方」特集。伊能忠敬没後200年。漫談家綾小路きみまろ「あきらめず人生幸せ」、不動産会社社長・和田京子「主婦から80歳で起業」、私「長寿 いつでも咲ける」というタイトルで一面全部を使ってインタビューに応じている.

 

www.tokyo-np.co.jp

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◆長寿いつでも咲ける 多摩大副学長・久恒啓一さん

 人生百年時代と言われます。それを健康面やお金の問題からリスクと捉える人が多いのですが、私はチャンスと捉えるべきだと考えています。自分のライフワークが完成する可能性が高くなるからです。長寿時代を生きるためのモデルとなるのが遅咲きの人です。四十代で咲かなければ五十代で咲けばいいし、その先でもいい。いつでも咲けると思いながら生きていけばいいと思うんです。

遅咲きの人には、いろいろなタイプがあります。「二足のわらじ型」は、職業を持ちながら別の分野にも取り組み、最後はその分野で歴史に名を残すような人です。伊能忠敬はこのタイプでしょう。脱皮するようにどんどん変わっていく人、一心不乱に一つのことに取り組み、時間をかけて立派な業績を上げる人もいます。

 タイプを問わず、共通するのは、だんだん良くなっていくという点です。磨かれ、蓄積されて高みに上っていく人がほとんどです。早咲きの人は途中でダウンして、そのまま上がってこないケースもある。遅咲きの人には蓄積があり、その間に成熟していく。土台がしっかりしているのです。

 遅咲きとは、凡人が時間をかけてこつこつと蓄積し、非凡になっていく過程でもあります。これが遅咲きのいいところです。学生に講義をしていると、早熟の天才より遅咲きの人に関心を示します。天才は普通の人間の参考にはなりません。若者はみな不安で悩みも多いのです。だから、人生の途中から頑張った人の話に感銘を受けるのでしょう。遅咲きの人は若い人にも勇気を与えてくれます。

 伊能忠敬は五十歳を過ぎて家業を離れたとき、勉強のため家を出ると言いました。周囲から「そんな年齢になって測量なんてやめてくれ」と反対されましたが、彼は「わしは五十一歳になったばかりだ」と言い、年下の学者に弟子入りする。彼は、余生はいらないと言ったそうです。自分のやりたいことをやるという意味でしょう。

 忠敬のような生き方が今後、もっと注目されてもいいと思います。仕事を中心にしながら自分の興味のある分野を深掘りしていくことです。それが遅咲きの花となるかもしれません。大輪の花でなくても、自分が満足できるレベルになればいいのではないでしょうか。

 (聞き手・越智俊至)

  <ひさつね・けいいち> 1950年、大分県生まれ。九州大卒。日本航空を早期退職。宮城大教授を経て2008年から多摩大教授。15年から現職。『遅咲き偉人伝 人生後半に輝いた日本人』など著書多数。

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「副学長日誌・志塾の風」180512

・品川:大学院教授会

・九段:多摩大OBの岡君から近況報告あり。外資系企業(中国)でIT

マーケッティング。CtoJ(中国のアプリなどを日本へ展開)、デジタル情報を有機体に。ブロックチェーンは自由・分散・民主。改ざんできない。物流、自動運転、生保(スマートコントラクト)、AI(ビッグデータ、大企業)の脆弱性補完、IOT、ベンチャー向き。

・インターゼミ:岡君の近況。新人の大学院生の自己紹介。

学長講話:

本気でものを考える。FAAGA+Mのアメリカ。アリババとテンセントの中国で時価総額500兆円(日本のGDPと同じ)。食糧を輸入し工業製品の輸出する国。食糧自給率38%という惨状とテレビ・カメラなどの不振というものづくり国家へ。食と農。

多摩学:過去の論文。

 地域:県民幸福度ランキング2018。客観指標。信金金利、、。若者の視点、女性買った苦、、。

AI:新分野。松尾先生の本。(ブロックチェーンレボリューション)

アジア:大英帝国は英語・英国法・スポーツが遺産、大英連邦。とモンゴルは消えた。シンガポール華人・華僑(元・清の異民族支配から)76%。アジア3500万人。

ロンドン出張報告:夢にカネがつく時代。蛙跳び経済。アメリカのブラックロック(運用資産500兆円)。ロンドンのMAN投資顧問(150の市場にブリッジ。24hのAI投資)。ロベコ。

グループワーク:私はAI班

終了後、AI班の懇親会に出席。

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「名言との対話(平成命日編)」5月12日。蜷川幸雄「大きい物語を書くことを恐れるな」

 蜷川 幸雄にながわ ゆきお1935年10月15日 - 2016年5月12日)は、日本演出家映画監督俳優

若い頃から自意識過剰であった蜷川幸雄は、自伝『演劇の力』で自己との絶えざる格闘を行った傷だらけの人生であった。。東京芸大の受験失敗で、生々しい感情を吐き出せるのは演劇だろうと劇団員になる。売れない俳優人生であったが、32歳頃から演出を手がける。50歳の頃に演出の仕事でようやく食べられるようになるのだが、50代は肉体の故障と精神の憂鬱から長いトンネルの時代だった。神経過敏にならなくても演出できるようになったのは60歳の頃。演劇世界での孤立感をバネに演出の仕事に没頭し、60代は仕事の場が広がった。2006年に55歳以上を集めた劇団高齢者劇団ゴールド・シアターもつくっていて、テレビで高齢者集団の演劇の稽古を指導する姿をみたが、迫力があった。「ゴールドシアターの劇団員を見ていると、「高齢者」とひとくくりにするのは本当に危険だとわかるよ。60歳より80歳がふけているかというとそうじゃない。個々でまったく違うからね」。

命を刻みながら書いているオリジナルの才能の劇作家が歳をとって小さな物語に収斂するのをみると裏切られた気持になり違和感を感じた蜷川は、70代にさしかかると「パンクじじいになる」と宣言し時代を疾走する。世界的にみても50歳を過ぎて優れた演出を続けた演出家はいないから、遅咲きの蜷川幸雄は特異な存在である。

仏壇の中で行われる「NINAGAWAマクベス」は1987年にロンドンで上演し絶賛される。この作品は自分でも傑作だと思っている。巨大な仏壇の中で魔女が語り、マクベスが苦悩し、殺人を冒す。私はこの演劇を観たのだが、日本人と共有できる記憶の磁場として巨大な仏壇を配置するアイデアには驚いた。「記憶と、現在起きている出来事が、どれだけ観てる人の心の中に残っていくかの勝負だ」と蜷川が言うように、今でも映像として強い印象で残っている。

「若い人はデジタルの中にアナログの感覚を持ち込んで欲しい。身体的な触覚や生理感覚。表現や人との関係もきっと広げられるよ」

受賞歴は以下。菊田一夫演劇賞文化庁芸術祭演劇部門大賞、テアトロ演劇賞、芸術選奨文部大臣賞、読売演劇大賞(第20回に大賞と最優秀演出家賞)、松尾芸能賞毎日芸術賞朝日賞朝日舞台芸術賞(グランプリ、特別大賞)、紀伊國屋演劇賞個人賞など、多数の受賞がある。2001年に紫綬褒章、2004年秋に文化功労者、2010年秋に文化勲章(75歳)を受章。他に第53回菊池寛賞、埼玉県民栄誉章、川口市市民栄誉賞などを受賞。海外では、1992年に英国エジンバラ大学名誉博士号、2002年に英国名誉大英勲章第三位。2005年にWalpoleメダル、2010年に米国ケネディ・センター国際委員会芸術部門ゴールド・メダルを受章。

「昨日と今日のおまえは違うだろ。昨日からの1日で経験した何かを足さなければ、その演技は過去のもの。常に新しいものを提示する意識を持て!」「自己模倣するようになったらみっともない。人ってハードルを越えていくことで成長するものでしょ」「人と違うことをやることで、なんとか自分の存在証明をしたかったんでしょうね。人と違う、すごいものを作りたいっていう思いだけはありました」というように、蜷川の姿勢は生涯変わらない。それが魅力だ。

小さなつぶやきで成り立つ演劇は現在の社会の姿と同じだからインパクトはない。演劇の場所は大きな物語を語ろうとするところにあるのだ。こういう蜷川幸雄の時代に対する強烈なメッセージは、私には小さな物語ではなく大いなる物語を描こう、矮小な計画ではなく遠大な構想を持て、そして閉塞的な状況を突破せよ、と聞こえる。

 

演劇の力 ―私の履歴書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、授業。昼、収録。午後、会議。夜、懇親会。

9時:授業準備。

10時:橘川先生:近況を聞く。アジア子ども未来研究会。ゲーム研究会。ブース。マッハ新書、コミケアニメイト、、、。

10時40分:ビジネス・コミュニケーションの授業の4回目。本日の実習テーマは「私の大学生活、この1年」。図解、グループ発表、全体発表。

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12時20分:T-Studioでの「トレンドウオッチャー」の収録。

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13時:事務局との定例ミーティング:入試、、、、。

15時:外出

19時:目黒の「胡桃茶家」で田村理事長主催の大学幹部懇親会。田村夫妻、宮地事務局長、清水事務長、杉田学部長、安田学部長、徳岡研究科長と。

22時過ぎ:杉田先生の車で学部運営を相談しながら帰宅。

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「名言との対話(平成命日編)」5月11日。亀倉雄作「人生のなかだるみの第一波は40代後半。問題の第二波は50代半ばにくる」

亀倉 雄策(かめくら ゆうさく、1915年4月6日 - 1997年5月11日)は、日本グラフィックデザイナー

膨大な仕事をこなした亀倉雄策の代表作はフジテレビジョンの旧シンボルマーク(8マーク)や日本電信電話(NTT)のマーク(ダイナミックループ)、1964年東京オリンピックポスターサンケイアトムズニコンFおよびヤクルトスワローズのユニフォームなどである。

デザイナーは芸術家であると同時にビジネスマンでもあるから、今現在の時点で認められなければ意味がない仕事である。亀倉は「デザインというのは不思議なもんでねぇ、毎日毎日やっていないとダメなんです」としてデザインの世界を渡っていく。「賞というものは、その時代のひとつの鏡だ」と述べているとおり、1960年から1990年にかけて、つまり45歳から75歳までの30年間に内外の数々の賞を受賞している。紫綬褒章、朝日賞、毎日芸術賞、勲三等瑞宝章、日本文化デザイン大賞、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞・銀賞、ブルノ・グラフィック・ビエンナーレ銀賞・銅賞、ラハチ・ポスタービエンナーレグランプリ、、など時代のともに疾走したことがわかる。

そして没後に亀倉の業績を讃えるとともにグラフィックデザインのさらなる発展をめざして亀倉雄作賞が遺族の寄付により設けられている。第1回受賞は15歳年下の第二世代の田中一光である。

亀倉雄策の名は宮城大時代に野田一夫学長が学内の長い渡り廊下に「亀倉雄策コーナー」をつくったときに初めて知った。1964年の東京オリンピックの100メートル競争の選手達が一斉にスタートを切る場面を描いたポスターの作者が亀倉だった。

 デザイナーがわくわくと胸をおどらせる瞬間は、作品の校正刷りを見る時だ。興奮と戦慄、自信と不安、、。上出来の場合は「やった!ざまーみろ!」と叫びたくなる。そして「デザイナーでよかった」と心が明るくなる。これは作家・亀倉雄策の叫びである。私にも著書を刊行するときにも同じような感覚に襲われることがある。やはり作品の誕生は心躍るのである。

  人生は人と人とのつながりで成り立っている、これが亀倉の人生観だ。若い時につながった人がひとかどの人物になっていく。草野心平三浦朱門、滝口修造、、、。人生の幸福は人との出会いとつながりにある、これが亀倉の幸福感だ。

文化功労者に選ばれた時期に書いた著書『直言飛行』では、人生を考えるようになる「中だるみ」の第一波は40代の後半にやってくるという専門の医者の説を紹介している。問題の第二波は50代半ば頃にくるという。この説に当てはめると、40代後半で私は大学への転身で中だるみの第一波を乗り切ったということになる。また50代半ばから新しいテーマである「人物記念館の旅」に熱中していったのも説明できそうだ。70代半ばの亀倉雄策のこの説には納得感がある。

亀倉雄策の直言飛行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『渡部昇一一日一言』から。アラン、ヒルティ、野間清治、孔子、スマイルズ、セネカ、エマソン、幸田露伴、、。彼らの書いた本が「愛書」である。

渡部昇一一日一言』から、引用をピックアップ。渡部昇一が影響を受けた人がわかる。アラン。ヒルティ。野間清治孔子スマイルズセネカエマソン幸田露伴。、、、。、何度も出てくる人の書いた書が彼の「愛書」である。これらの愛書によって渡部昇一という人物が出来上がっている。

渡部昇一 一日一言 (知を磨き、運命を高める)

ロックフェラー「うんと稼ぎ、うんと貯め、うんと寄付せよ」

程子「聖人となろうとする志があって、しかるのちに志を同じくする人間と共に学べ」

王陽明「猫の鼠を狙うが如く、鶏が卵を覆うが如く」

ヴィクトル・ユーゴー「人間は力が不足しているのではなく、強い意志に欠けているのだ」

チャールズ・ダーウィン「人間にとって重要なのは、頭のよさよりも心の態度である」

アラン「少し苦労して生きていくことはいいことである。生きていく上で波瀾があることはいいことである」「自分で幸福になろうと強く願わなければ、絶対に幸福にはなれないのである」

野間清治「工夫なき苦労は一文の値打ちもない」「渾然一体、誠実勤勉、縦横考慮」

セネカ「徳というものは強い意志と健全な意志によるものである」

幸田露伴「順に逆らえば仙に入る」「正、大、精、深」「すべてを自分のせいにする」

ヒルティ「一番良い財宝というものは、揺るがない道徳的な確信、良い精神的な教養、愛、誠実、仕事も能力、仕事の楽しみ、精神および肉体の健康、幸せな家庭、少数の友人、そしていささかの財産」

スノーデン「境遇が不満ならば改善するように努力しなければならない。それがどうにも変えられないものだたら、それに甘んじるように腹を決めなければならない」

司馬温公「妄語せざるより始む」

孔子「老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けん」「邦に道なきときに栄えるのは恥であり、邦に道あるときに栄えないのも恥である」

サルトル「貨幣は私の力を表す」

ヒルティ「気が乗るか乗らないかは、仕事を始めれば自然に解決する」「迅速に仕上げられた仕事がもっともよくて、もっとも効果がある」「真面目になって本気で打ち込めば面白くなるのが仕事の本質である」「とにかくやる。すぐに始める・先延ばししない」

ラルフ・ワルド・エマソン「盲従ばかりしては何の説明にもならない。たったひとりで行動すれば、すでにひとりでしたことが、君を正当だと証明してくれる」

スマイルズ「人は誰でも、優れた人格を得ることを人生最大の目的とすべきである。正しい手段でそれを得ようと努力すれば、ますます生きる力がみなぎり、人生観も揺るぎないものとなるだろうう」「真の人格者の条件:模範的性格。道徳的価値。自尊心。名誉を重んじる心」

渋沢栄一「富貴必ずしも幸福ではなく、貧賤必ずしも不幸ではない」

易経「君子は豹変し、小人は革面す」

セネカ「親切を与えた人は黙るべし、受けた人は語るべし」「それを自然、宿命、運と呼べ、これらはすべて同一の神の名である」「少し所有する人が貧乏なのではなく、更に多くを欲する人が貧乏なのである」

程伊川「一夜君と共に語る、十年書を読むに勝る」

伊藤博文「不断にあらず、容易に談ぜざるのみ」

ホラティウス「各各の日を最後の日の夜明けだと信ぜよ」

船井幸雄「必ず成功するコンサルティングとは、成功しそうもない会社のコンサルティングはしないことである」

谷沢永一「学問の道で多少でも事を成した人は必ず良き師に恵まれている」

エマソン「偉大に人びとはいつも、自分が生きる時代の精神に子供のように身をまかせてきた」「精魂こめて自分の仕事に励み、最善を尽くし終えたときに、人間は安堵を感じ、明るい気分にもなる」「羨望は無知であり、模倣は自殺である」

アインシュタイン「長い苦しい努力なしに、ただの思いつきなどというものはないのです」

ベーコン「ある本はその味を試み、ある本は呑み込み、少数のある本はよく噛んで消化すべきである」

桂太郎「上位は常に空席である」

中村天風「寝がけは何も考えない方がいい」

岩崎弥太郎「怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ」

ハマトン「駝鳥みたいな知力と鷲みたいな知力。インテリジェンスとインテレクチュアル」

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「名言との対話(平成命日編)」5月10日。難波康子「やはりエヴェレストは大変である。登った人はどんな形にせよ尊敬する」

難波 康子(なんば やすこ、1949年2月7日 - 1996年5月11日)は日本登山家

 難波康子は1975年の田部井淳子に続き、21年後の日本人女性二人目のエベレスト登頂者であr。47歳での登頂は女性最高齢登頂記録である。

1980年 - モンブラン(4,810m)登頂。1982年1月1日 - キリマンジャロ(5,895m)登頂。1984年1月1日 - アコンカグア(6,960m)登頂。1985年7月1日 - マッキンリー(6,168m)登頂。1992年8月1日 - エルブルス(5,642m)登頂。1993年12月29日 - ヴィンソン・マシフ(4,892m)登頂。1994年11月12日 - カルステンツ・ピラミッド(4,884m)登頂。その集大成として1996年5月10日 にエベレスト(8,848m)登頂に成功した。それで七大大陸最高峰登頂が完成した。女性セブン・サミッタートなった。事前に難波は「6つ登ったから7つ目を登る」と淡々と述べていた。この快挙は日本でも大きく報道されたが、その直後に下山途中の悲報が伝えれた。

多くの著名登山家はスポンサーを獲得することで膨大な資金を調達し、登頂後にメディアへの露出を高めて、さらなるスポンサーを獲得し、次の大きな挑戦に繋げてきた。それに対し難波康子は費用のすべてを自分の収入から支払った。スポンサーをつけなかった難波康子はメディアへの露出が無く、他の登山家と比較するとまったくの無名な登山家であった。

遠征で長期休暇を取得する前には、同僚に負担をかけないように土日まで働いていた。トレーニングのために高層ビルの階段を駆け登ったり、自宅から2時間ほどで行ける丹沢大山を走って登ったり、ときには朝早く家を出て八ヶ岳を登り、その日のうちに帰ってくるなどということもやっていた。キャリアを中断させること無く、自身の収入と休暇だけで七大大陸最高峰登頂を成し遂げたという面では、新しいタイプの登山家であった。

難波は国際宅配のフェデラル・エクスプレスの人事部に所属するOLだったから苦労も多かった。遺品となったノートに女性がヒマラヤに挑戦する困難さを以下のように記している。働いていなければ資金が難しい。働いているとバケーションの問題。周りの理解。男性隊にまじった場合には登らせてやるという感じ。結婚・出産・子供の問題。、、。冒頭の言葉のように難題をクリヤーした女性登山家を尊敬したのだ。女性登山家の抱える難題の山はエヴェレストよりも高かったかもしれないことを想像させる。

 


 

現代の志塾「経営情報学部」2018年度全教授陣ーが集合!

現代の志塾「経営情報学部」2018年度全メンバーが集合。この写真をどう使うか?

 

ラウンジにて。

・久保田先生:インターゼミAI班、ZOOM、、、。

・高野課長:ホームページ

・渡辺さん:戦略会議の締め切り確認

・関客員教授:今年は人数が増加。高校教育、、、。

・荻坂教員教授:「やあ」。

・杉田学部長:オリパラ対応

 

 学科長ミーティング:杉田学部長、小林学科長、趙学科長と:事業構想学科カリキュラム、懇親会費、バイク、、、、、。

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「名言との対話」(平成命日編)」5月9日。安藤太郎「経営の一番のキーポイントは情報処理。情報が不的確だと明確な企業ポリシーはできてこない」

安藤太郎(あんどう たろう、1910年明治43年)1月3日 - 2010年5月9日)は、宮城県出身実業家

安藤太郎は住友銀行常務時代に「都銀懇話会」で活躍した。当時の都市銀行の経営ビジョンは、富士銀行の松沢卓治常務(後の会長)、三菱銀行の黒川久専務(後の副頭取)と安藤の三羽烏だった。

安藤は974年に副頭取から住友不動産社長に就任し、石油ショックで経営難に陥った同社を多角経営で立て直した。「三井や三菱の上になるには、新たにカネをつくる方法を考えなくてはいけないんだよ」という考えだった。「浮利を追わず」という住友グループの方針から他の企業からの批判もあったが、物件ごとに市場から金を集めるというシステムを考案し、東京の都心の千代田、中央、港区の土地を買いまくる積極経営で、三井不動産三菱地所と肩を並べるまでに押し上げた。この時代の財界・経営関係の雑誌では安藤はよく登場していた記憶がある。誕生日は私と同じなので気になる存在ではあった。

2002年に完成した住友不動産の象徴ともいえる泉ガーデンタワーは地上45階、地下2階の高層ビルである。私はある大企業の営業部隊のコンサルタント的な仕事をしたとき、このビルの素晴らしいレストランで担当常務から御馳走になったことがある。このファシリティは安藤の仕事だったのだ。泉ガーデンには泉屋博古館分館があり、2010年に訪問した。住友家の旧蔵品を蒐集した京都の(財)泉屋博古館が、東京に分館を開設して広く鑑賞の機会をつくったのだ。住友コレクションとして世界的に有名な中国古代青銅器、そして明末清初の作品を中心とする中国絵画のコレクションは、住友家第15代の住友吉左右衛門友純(春翠)が30年に亘って集めた蒐集品が根幹でそれらを堪能した。

安藤の積極経営の資源は「情報」だった。確度の高い情報を入手し、吟味し、明確なポリシーをつくりあげて、組織と集団に方向感を与えて戦いに勝利する。それは都銀懇話会でライバル銀行の俊秀との切磋琢磨で磨き上げ身につけたやり方だったのであろう。安藤太郎は、2008年の98歳で健康を害するまで住友不動産の相談役として過ごしている。自宅で老衰で亡くなったのは、100歳だった。